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【ザ】+☆+KKⅦ+☆
540
:
青の青
:2005/11/15(火) 21:01:36 ID:8IVHRxY6
>>539
エートス氏
>つまり、客観的に判断が下せる根拠はない、ということですね。だとすれば、いくらでも後付の理由は付けられるわけで、どうやってその宗教の教えへの信頼を確保するのでしょうか。
欺瞞か否かを判断するには、その掲げている所の理想を、実現する為の努力が継続されているか否か、でしょうね。
理想実現を真に願っているならば、その為の行動が継続して有る筈ですから。
教えの信頼は、結局はその救済力を観るしかないでしょう。
救済力が有れば、高い所から来ている教えだということだし、堕落させるものであれば、低い所から来ているということですから。
>えー? これは暴論だと思いますが。
「理解が難しい」ぐらいにするべきでしたね。
>悲しみの程度が数値で分かりますか?
感情を数値化するとしたら、脳内物質の量を測定するとかになるでしょうね。
合理性に偏れば、心も脳の作用のように見えてくるでしょう。
数値でなくとも、涙や言葉や行動という表現を見なければ、理解は出来ないものですが、しかし、表現だけであれば芝居と見ることも出来る訳ですよ、ですから、合理的なものには「証明」というものが付いていますよね。
合理的に捉えようとする試みは、神秘の証明をしようという試みと言えると思います。
理解から証明に話が移ってしまいましたね。
>辞書はいいのですが、あなたの理解は何かをまとめてみてください。
>>形而下的、つまり経験的。形而上的、つまり合理的。
体験者と主義者で別けるという部分が腑に落ちていないので、引っかかるみたいです。
形而下、形而上を簡単に言えば、形の有るもの、無いものですから、形の無いもの、精神的なものを合理的と言われるのは引っかかります。違う感じとはここの事です。
体験者にとっては神秘は現実なのだろうから、主義などというものとは違うのかもしれない。しかし、客観的には体験者も主義者も変わらない様にも思える。
この辺り、よくわからないというのが実際の所です。
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