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【閲覧注意】信仰問題隔離スレ【強制sage進行】
6
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/11/23(金) 02:07:09
【
>>5
続き】
日蓮宗の宗教学者丸山照雄氏は、真宗大谷派の「同朋の会運動」を指導された宗正元氏の言葉を紹介して、こう述べられていました。
> (宗正元の講義より)「極楽に往生しようという志が起こってまいります場合に、やはり自分でそう割り切ってしまう心というものが
> そこに出てくるわけです。そういうことはどういう場合にも共通していることだと思うのです。
>
> 自分は無宗教なんだと、自分をそういうふうに割り切ってしまう。自分は仏教徒なんだと、いかにも自分は完全無欠な仏教徒であるかのように、
> 自分で自分を割り切ってしまう。また凡夫ということについてもそうです。自分は凡夫なんだと、凡夫という言葉で自分を割り切ってしまう。
> 心理学的に、あるいは生理学的に、また社会学的に実証されればされるほどおろかな人間なんだと割り切っていく心がいよいよ強くなる。
>
> どんな場合にも、そういうことがついて回るわけです。それは割り切ったほうが、すっきりしているけれども、
> そういうふうに割り切ってしまうということが、実は現実に対する傲慢さといいましょうか、精神のおごりなんです。
> よくいわれていることですが、今日の時代は物質文明ばかりが先行して、その点は非常に繁栄したけれども、精神的な文明というものが見落とされていると。
>
> なるほど一面の真理ですね。そうではないとはいえないんですけれども、しかしそういう形で現実というものを割り切ってしまう。はたして現実はそうだろうか。
> むしろ、そのように現実を割り切って見ているもの自身のうちに、実は現実というものを受け取る精神の歩みが欠落しているのではないかと思います。
>
> 今日精神文明がやせ細っていると、こういっているのは、現実を素直に受け取れない、非常に貧しい精神なのではないでしょうか。>
> …(中略)…つまり極楽に向かって往こうとする志そのものが、自分自身のなかにそういう怠慢さと同時にまた現実に対する傲慢さを見出してきたわけです。
>
> われわれは極楽に向って往くんだと、肩を張っている心は、そういう方向に向ってない人を見下してしまいます。
> そうした人のことは、(歎異抄の)第一三章では『後世(ごぜ)者ぶりして』と述べてあります」
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