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科学と疑似科学とを判別する

71diamonds8888x:2018/06/16(土) 13:03:50 ID:YTgYp/xY
>>70  ご質問の例のように、具体的な話になると「反証可能性」に当てはまるのかむどうかの解釈が難しくなるものも出てきます。だから「反証可能性のないもの」という基準では曖昧、とは言えないのないのでしょうが、適用をめぐって議論も起きようというものです。なので基準01では「へそ理論のような」と具体的に挙げてみました。

 「反証可能性」に限らず科学哲学に関しては、私が勝手に独自解釈を繰り広げても拙いので、以下の2文献を主に参照します。今後、戸田山がと言えばRef-1の記述、内井がと言えばRef-2の記述と考えてください。

  Ref-1)戸田山和久『科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス) 』(2005/01)
  Ref-2)内井惣七『科学哲学入門―科学の方法・科学の目的』世界思想社 (1995/04)


 まず、その1については、少々別の問題(仮説の種類の違いの問題)が絡みますので、後ほどにします。


 「反証可能性」全般についてですが、まずカール・ポパーの主張自体には数々の難点も指摘されていて、全面的に正当なものと考える人は科学哲学者の中ではいないようだということを指摘しておきます。例えば内井惣七「3.11 反証主義の難点」や戸田山「3章2.科学から帰納を追い出してしまえ!、3.科学とトンデモはどこが違うのか? 」です。特に前者では6つの難点がまとめられています。

 とはいえ反証可能性の有無が多くの理論のフィルターとして妥当であることは多くの人が認めています。ここで2つ目の疑問である「検証可能性」ではだめな理由は、100%完全な検証は不可能であるからです。wikipediaにも「科学とは、絶対的真実を認めず、常に誤りを修正し続ける活動だ」という言葉がありましたよね。このことを「科学的事実や科学的真実とは暫定的なものである」という人もいます。また第1掲示板でも色々な人が同じ趣旨のことをたびたび発言していたことにはお気づきでしょうか?

 というのが標準的説明、と言えるかどうか知りませんが、多くの場合に示される説明です。しかし〜。

 ここで賢明なKenさんは既にお気づきかも知れません。「反証可能性」が使える仮説、というよりはむしろ原理的に「検証可能性」がないために「反証可能性」を使うしかない仮説というのは、無限の対象に関する全称命題なのです。そしてほとんどの「理論」は無限の対象に関する全称命題なので、「検証可能性」ではなく「反証可能性」を使うのです。

 少し別の視点からの話で、論理式で考えれば "∀xP(x)" は有限な時間では検証不可能なので反証しようとするのですが、それは実は "∃x¬P(x)" という仮説を検証しようとするわけです。もちろん、もし"∀xP(x)"が正しければ、つまり "∃x¬P(x)"が間違っていれば、いつまでも"∃x¬P(x)"の検証はできません。しかし永久に検証できないか否かは永久にわかりません。ただ"∃x¬P(x)"が間違っているという「蓋然性」が高くなるだけであり、カール・ポパーが述べた本質は変わりません。
 この視点から言えば、「検証」と「反証」は同じことを別の言い方で言っているだけであり、どちらの言葉でも構わないとは言えます。ただ、多くの「理論」は "∃x¬P(x)" という形ではなくて "∀xP(x)" という形で述べられますから、「反証可能性」という方がわかりやすいのだろうと私は思います。


 ここで3番目の疑問である素粒子の「発見」の問題ですが、これは "∃xQ(x)"という形であることがおもしろいですね。Qは例えば「これこれの性質を持つ素粒子Xが存在する」という命題になるでしょう。長くなりましたので別コメントにしますが、どうやら疑問その1にも絡む、仮説の種類の違いがかかわりそうです。

 今回のコメントだけでも疑問は出てくると思いますから、どうぞ出してください。


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