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インドの聖典と科学、ヒンドゥー創造論
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:
ヒンドゥー教と科学(4)
:2009/12/02(水) 22:08:58 ID:feiEdvTk
ここに有名なヒンドゥー教聖典、バガヴァッド・ギーターが現代科学を
こう見なすかもしれない、という見本がある。それはギーターの
とある章にあり、その章はサーンキャ・ヨーガ、と題されている。
「サーンキャ」という語は「勘定(数えること)」「列挙」「分析」を意味している。
ギーターには地、水、炎、空気、宇宙、精神、知性、そして自我という8つの
構成要素の分類の、分析の簡素な形がある。これは本質的に周期表であり、
初期の科学、あるいはかつて自然哲学と呼ばれたものの卓越した一例である。
ちょうどギーター以前に、ヒンドゥー教の思想家たちは、この「勘定」の論題を
取り上げ、サーンキャと呼ばれる古代インドの伝統的な六派哲学の一派へと発達させた。
バガヴァッド・ギーターの観点からすると、現代科学とは単に物質などの高度に詳細な分析
であり、この意味でギーターと科学との間に衝突が無いとするのは正当であると言える。
現代科学は、古代インドの思想家たちが1000年にわたって研鑽してきたものよりも、
もっとシンプルであるが、しかしギーターが現代科学と一致するかもしれないことは、
現代科学が現実の分析において不十分であるということにはならない。
ヴェーダ「科学」は事物の単なる分析についてシンプルなものではないが、
しかし、なおかつ魂と神についての分析を含んでいる。
言い換えるなら、それは物質学的現実と同様に形状学的現実を含んでいる。
ギーターのサーンキャはそれ故に、霊的現実と同様に物質学的現実への分析を含む。
現在のところ、現代科学は物質的現実のみを研究の領分とするのみであるが、
ギーターからくる使命は、普通の科学は生命の形而上学的次元を探求し、
サーンキャの完全形になるべき、ということである。しかし哲学や神学がこういった
ものを担っているため、科学は神や魂のような形而上学的事柄を多く含むものではない、
という異議は作られ得るだろう。私はギーターからの答えが、物質的現実と霊的現実が
結局のところ不可分であり、それ故、一方の存在を省いたどんな研究も
誤りを犯すか、知識の不完全体を生むことになる、ということなのだと考える。
したがって、心理学、生物学、医学のような物質的でない科学であっても、
少しでも霊的土台にある現実のハート(精神)の根拠を含まなければならず、
たとえ我々がこのポイントについて見ることを備えていなくても、
それでもなお、説明されたものにならなければならない。
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