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数学は科学か?

1diamonds8888x:2007/01/20(土) 06:06:35 ID:Zz3oJN62
 「神の存在/不在と科学の範囲」のスレッドで「数学は科学か?」という話題が出ましたが、本論とは別ですし、これはこれでおもしろそうなので別スレッドを立ててみました。御興味のある人はこちらで議論しましょう。
 関連する「神の存在/不在と科学の範囲」の記事は[251, 266, 275, 287, 288, 293, 301]です。

 ひとまず275の私の記事について若干の訂正追加をしておきます。

>私はここでいう「直観的な数学的知識」というのは実は「経験的な数学的知識」に他ならないと思います。

 純粋に科学からの判断で考えても、全てが経験的とは断言できませんでした。先天的に脳に組み込まれている思考様式である可能性もあります。ていうか、そういう先天的知識を生物が持つことは今や科学的事実と言っても良いでしょう。例えば論理的判断などにはヒトが先天的に持つものがあるらしく、その一部は数学の基礎となる論理とは異なったものである、ということが種々の心理テストで示されているようです。
 また、ネズミは腹痛の原因は食べ物や飲み物にあり、手足の痛みの原因は外界の何者かにある、という区別を先天的に知っているらしいことが、条件反射の実験で確認されたとのことです。

 むろんこのような先天的知識は経験と矛盾することが少ないからこそ進化してきたものでしょう。さらに脳の発達した生物では、経験によって先天的知識を修正するという離れ業もできるようになってきたのでしょう。

2みずすまし:2007/01/20(土) 09:49:24 ID:TgyKdXjk
>>1
> ていうか、そういう先天的知識を生物が持つことは今や科学的事実と言っても良いでし
> ょう。例えば論理的判断などにはヒトが先天的に持つものがあるらしく、その一部は数
> 学の基礎となる論理とは異なったものである、ということが種々の心理テストで示され
> ているようです。

大変興味深い話です。

人間の脳のシステムが作っている公理や推論規則が,数学の一般的に使っている公理や推論規則のルールと違っていた場合,数学的な「正しさ」の身分はどうなるのでしょう。

・(a)人間の脳の公理や推論規則と食い違っているから,数学の「正しさ」が損なわれることになるのか,(b)数学はそんなこと全然関係なくやはりそれ自体として「正しさ」を持っているのか?
・私は(b)を支持しますが,未来の人々はどう考えるんだろう?
・人間の脳の公理や推論規則が,(数学・論理学的な視点からは)数学の一般的に使っている公理や推論規則よりも,ずっと簡単に矛盾するものであった場合?
・人間の脳の公理や推論規則が,3次元までのユークリッド幾何学に特化されていて,相対性理論をうまく扱えなかった場合は?
・(b)を支持する私の態度は,いってみれば単なる「信仰」では?
・あと,食い違っていても,数学の根幹にベイズ推定みたいな推論規則を組み込むことで,齟齬を回避することができるのだろうか?

SF的な疑問がグルグル回ります。

3ミケ:2007/01/20(土) 14:47:17 ID:???
どもども。
この件に関して、
神の存在/不在と科学の範囲スレの流れが速すぎてチェックしきれず、
件のスレに、他何名かの方ともろにかぶったレスをしてしまったことを
この場を借りてお詫びします。
いやいやお恥ずかしい。ごめんなさい。

4diamonds8888x:2007/01/21(日) 07:53:41 ID:Zz3oJN62
 先に紹介した先天的な論理を示す心理テストで有名なものは、ウェイソン(Wason)式選択作業テスト、またはWason選択課題と呼ばれるもので、これまでに膨大な研究があるようです。簡単には以下の本に紹介があります。
・ロビン・ダンバー「科学が嫌われる理由」青土社(1997) p167
・菊池聡「超常現象をなぜ信じるのか」講談社(1998) p112

 確率に関してはこんな例はみなさん良く御存知でしょう。
ttp://www.1ganbo.com/shisan/

 ネズミが腹痛の原因を先天的に推定できる、という話は「味覚嫌悪学習」として知られているようですね。
ttp://www.ipc.hokusei.ac.jp/~z00105/_kamoku/kiso/99/yanagida.html
「消化器系の異常(嘔吐反応)は味覚刺激とは容易に連合されるが、視聴覚刺激とは連合しにくい。また、その逆に、(電撃による)痛みは視聴覚刺激と連合しやすいが、味覚刺激とは連合されにくい。」

 ただこの引用サイトでも「現在では古典的条件づけとは質的に異ならないとする研究者が多いようである。」と書いてあります。また、先のロビン・ダンバーの著書p102にも同様な実験が書いてありますが、ラットは「食べ物や飲み物で気分が悪くなるという経験を広く持っている」ことを理由に挙げていますので、「先天的」というのが学会の定説かどうかは今の私の知識でははっきりしません。

5NAN:2007/01/21(日) 11:52:25 ID:op1ePviI
たとえば巻貝の「らせん」の曲率が黄金分割比にもとづくことをグールド(あるいはその他の多数の文献)が紹介していましたが、同様の幾何学的規則性は多数の生物の体構造に見られます。また、クモの巣が持つ幾何学性は「生き物が作るもの」として、やはり生き物が内在する「幾何学性や規則性、論理性を示唆する能力」を窺わせるのではないか、と思います。
#ハチの巣のハニカム構造とかも同様かな。

これら幾何学的な規則性が示すものは「知性」とか「知能」と呼ぶよりも、生物が生得的に持っている「生存するに足りる能力」を担保するものではないか、と思います。つまり、生存する、あるいは「あるニッチに対して支配的なポジションを獲得する条件」として、幾何学的に安定した体の構造や、生活の場としても狩猟の道具としても利用できる巣などが、最適化の結果、として生じたのではないか、と思います。
#もっと考え出すと「生物には体節構造がある」ことでさえ、幾何学的だし論理集合的でもある。

別の見方をしてみると…たとえば「食べ物が入ってきたら胃酸を分泌させる」などの臓器の働きは、if〜else文などで表現できるプログラム的ですし、プログラム的であるということは論理構造を内在しています。さらに、そうした論理的に(しかも自律的に)働くさまざまな体の働きを統括しているのが脳である以上、私たち生物の脳は生得的に論理演算を行え、その働きは常に「最適化」され続けているのではないだろうか、と考え及びます。

さて、ここからやっと「SF風味」に話を進めたいのですが(笑)、地球上の生物すべてに共通するDNAの情報はデジタル情報にほかなりません。この情報、あるいはプログラムは「体節の構造」そのものを記述しているものがあれば、ある器官の「成長速度」だとか「コピーの数」を制御する部分があったり、究極的には「寿命あるいは細胞分裂回数の上限」を定めている(一意的ではないでしょうが)らしい部分があることも確かめられているようです。

私たちが「知性」と呼ぶものは通常、「大脳に蓄えられた記憶を操り制御する能力」を指す、基本的には「一代限りで経験的に得るもの」として考えられるようです。しかし一方、巻貝のらせんやクモの巣の構造や一部のアリが持つ農場や社会性動物に見られる序列などは、まさに論理的・数学的・幾何学的であり、これらを「DNAが数億年にわたって経験的に獲得してきた知性である」と、呼んではいけない理由が私には分かりません。

見方を変えると、DNAとは、環境と相互作用することにより、突然変異と自然淘汰という名の演算過程を経て「最適解」を探し、世代交代(バージョンアップ)を繰り返す装置、という言い換えができるかも知れません。無論、環境あるいはニッチは無数に存在するので、無数の最適解がそれぞれに於いて現れるのですが、そのように考えるとき、生物が生得的に論理演算を行い、数学的知性を発揮することはなんの不思議もないことに思えるのではないでしょうか。

6diamonds8888x:2007/01/22(月) 05:59:46 ID:HFzGgWdI
>>5
 逆に、脳の中では様々な想念が自然淘汰を繰り返しているのだ、という見方もできるのかも知れません。
 if〜else文などで表現できるプログラムが有効に働くのは、まさに世界が因果関係でできているからでしょうね。

7diamonds8888x:2007/01/22(月) 06:01:02 ID:HFzGgWdI
>>2
 正しいということを現実と一致していると解すれば、先天的知識は正しくないことも多いです。動物はそれを経験の中で現実と突き合わせて訂正してゆきます。ですから、人間の脳の公理や推論規則が数学と一致している必然性もないし、だから数学が間違っているとは全く言えません。現実と一致しているかどうかという意味で正しいのは、やはり数学の方でしょう。人間の脳には錯覚という現象もありますし。

 私は徹底した経験主義を信仰してますので(爆)、これからは主として、「数学の正しさは観測に由来する」という仮説でどこまで行けるかという立場で書いてみます。なぜかというと「経験主義では説明できない」と安易に断定するのは不満だからです。それは経験主義で本当に説明できないかどうか極限まで試みてみた者だけが言えることだと思うからです。

 別の例で言えば「○○は数字だけでは説明できない」と言う人がよくいますが、実のところ「こんなものも数字化できる!」という意外な例の方が多いことは、科学畑よりもむしろ経営畑や会計畑の人ならよく御存知のことでしょう。数字「だけ」では説明できないことがあるのは当たり前です。でも「決して数字化できない」と断定できるのは、極限まで数字化を試みて、それでもどうしても数字化できなかった者のみに許されることではないでしょうか。

8tema:2007/01/22(月) 22:36:25 ID:???
 話の流れをぶった切ってしまいますが、「数学は科学だ」という主張をひとつ。

 数学は、問答無用で認めている「公理」を基に、「論理」を使って結論を導く学問です。

 通常、公理は現実世界に沿った内容となっています。例えば、「任意の2点に対し、その2点を通る直線を引くことができる」というのは、少なくとも身の回りでは当然のことです。
 また、論理は現実世界で通用する経験則でしょう。例えば、三段論法が通用しない現実世界は、想像することすら出来ません。
 現実世界に沿った公理に対し、現実世界で通用する論理を用いた結果、現実世界に沿った結論が導き出されています。

 もちろん、単純にはいかない場合があります。
 例えばユークリッド幾何学を地球儀(の表面)に当てはめると、どこかで矛盾が発生します。 しかし、「故に地球儀は存在しない」ということではありません。地球儀はユークリッド幾何学の範囲外なのです。地球儀を解釈するためには、公理を変更した数学(非ユークリッド幾何学)が必要となります。

 このように、数学は現実世界や物理・化学などの要望に合わせて自らを拡張し続けてきました。だからこそ、数学は科学において役立っているのだ、と考えます。
 そして、便利な道具として物理・化学などに使われる数学は、「科学の奴隷」であっても「科学」とは思い難いです。

 ここで発想を逆転します。

 そもそも、「公理」が宇宙の何処でも通用する保証はありません。
 過去から現在そして未来永劫「論理」が通用する、というのは、仮説に過ぎません。
 現在の公理・論理が身の回りの現実世界で通用している事は、数学を使っている物理・化学などが現実世界に沿った理論を出していることからも明らかです。
 しかし、宇宙の果てまで未来永劫、通用するとは限りません。

 数学はこの仮説を、物理・化学などを道具として、検証しているのです。

 物理・化学などに仕える奴隷としての数学は、単なる道具・言葉であり、自然科学では無いと思えます。
 しかし、数学のもう一つの姿は、物理・化学などを下僕として鞭もて従え、公理・論理が通用する領地を広げていく女王様です。現実世界を理解する方法を科学と言うなら、女王様としての数学は自然科学である、と考えます。

9diamonds8888x:2007/01/25(木) 06:28:47 ID:HFzGgWdI
>>8
 女王であり奴隷でもある、というのは女王アリや女王バチもそのようですね。

10diamonds8888x:2007/01/25(木) 06:29:49 ID:HFzGgWdI
>>7
 まずはユークリッド幾何学です。幾何学の中には直観的に明らかに見える定理があり、ユークリッドが原論をまとめる以前は、それらの根拠は現実との突き合わせであったでしょう。原論により、多くの定理は現実との突き合わせをしなくても論理的推論により証明できることが明らかとなり、正しさを直観とか経験に頼らざるを得ない「公理」の数が絞られました。

 余談ですが、ユークリッドの記述は後の形式主義数学から見ると厳密さに欠けるところもあり、現代的意味できっちりとした幾何学の公理系はヒルベルトの「幾何学基礎論」によるものです。

 平行線の公理を除けばユークリッドの公理は目で見れば明らかなので公理として採用されたものです。また「点」「直線」という形式主義では無定義用語とされているものも、実際には目で見て何であるかが明らかなので特に定義はされていないのです。もちろん「点」「直線」の変わりに別のものを持ってきてもいいのですが、その場合はその別のもので構成されたモデル(数学基礎論でいうモデル)を観察することで正しさを確認するわけです。

 ところで直線て何でしょう? つまり、人は感覚的には直線と曲線をどこで区別していたのでしょうか? 「まっすぐ」てどんな状態? 折れ線となら区別できると思いますが。

11みずすまし:2007/01/26(金) 23:16:54 ID:TgyKdXjk
> ところで直線て何でしょう? つまり、人は感覚的には直線と曲線をどこで区別してい
> たのでしょうか? 「まっすぐ」てどんな状態? 折れ線となら区別できると思います
> が。

標的に隠れて近づいたり,脅威から物陰に隠れたりするために「ここなら隠れているな」「あそこまで移動すれば隠れれるはず」ということが分かることは生存競争(少なくとも人間同士の)に有利で,しかも光は直進するため,直線という概念か,又はその …なんていうか「原概念」? みたいなものは,生得的に脳の中に持っていれば,生存競争に有利だろうとは思います。

ただ,脳の中に地図を展開する能力が人間にあって,その脳の中の地図において直線かどうかは結構有効だとしても,それを図に描き,また図から読み取る能力というのは,一体どうやって発達したのか,ちょっと疑問ではありますが。

12NAN:2007/01/27(土) 00:50:10 ID:0l.UbVPU
我が家の犬たちを観察していると…たとえばチャイムに激しく反応したりします。
これは「チャイムが鳴る=部外者が侵入してくるor家族が帰ってくる」ことが
抽象化されてインプットされたからではないだろうか?と思うことがあります。

暗がりで見たロープを「蛇」と勘違いするニンゲンの能力も然り。
「長くてクネクネしたもの=外敵」と認識している「何か」を、他者に伝達する
過程においてさまざまな抽象化があったのだろう、と想像するのは容易いのだけど
このときに、幾何学的なガイネン、つまり点とか直線とか円とか四角が生まれる「きっかけ」が
存在したのではないでしょうかねぇ。

まぁしかし、空間上に直線は「存在し得ない」という非ユークリッドな真実よりも
紙の上や砂の上に書いた「まっすぐな線=直線」というガイネンのほうが
きっと原始的で生得的なのではないだろうか?と根拠もなく思います(笑。

13ミケ:2007/01/27(土) 15:48:49 ID:???
我々の認識する範囲における「まっすぐ」とは二点間の最短距離なわけで、
それを曲線と区別するのは省エネとかの意義があったんではないでしょうか。

あとは、地球上でよく見かける運動の軌跡は、
おおよそ 直線(落下)、放物線(投げる)、円(振り子)だと思うので、
我々のサイズくらいの動物ならそれらを区別できると危機回避とかで有利かも。

14AH1:2007/01/27(土) 16:59:16 ID:b4lKR3h.
>我々の認識する範囲における「まっすぐ」とは二点間の最短距離なわけで、

ちょっと外れるかもしれませんが、航法(ナビゲーション)の手法としては
「ある目印に向かってまっすぐ」とか「遠距離の目標に対して一定角度を保つ」
といった概念が存在し得るかな、と思われます。

ハトに風景を見せながらジグザグの道を覚えさせた場合、
最初はランドマークを律儀に辿ってジグザグに飛びますが、
何度か飛ぶうちにショートカットして飛ぶようになるそうですし。

15diamonds8888x:2007/01/28(日) 06:13:36 ID:HFzGgWdI
 右にも左にも折れずにまっすぐ進む軌道が直線だとは誰もが思います。これは運動による定義と見えますが、なんだか我々の体の左右対称性が関係していそうにも思えます。ミケさんの言うように、最短距離が直線なんだとわかるということかも知れません。これは経験するまで待つよりも生得的な方が有利なような。そもそも距離というものが直線距離を意味するということ知ったのはいつなんでしょう。物心ついたころには既に知っていたような気もします。

 糸をピンと張ったものを直線とする方法があります。伝統的な大工道具である墨壺を使ったけがきなどがそうですね。地面に直線を引くのにも良く使われる方法ですね。これは力学の法則からの定義となりましょうか。
ttp://homepage2.nifty.com/s-kawai/sumitubo_hanbai.html

 定規の縁が直線であることを確認するにはどうするか? まず縁に沿って鉛筆などで線を引きます。次に定規を裏返して引いた線に当ててみて、一致すれば直線です。縁が曲がっていれば、それなりのずれが出ます。紙を2つ折りにした折り目が直線だ、というのも同様な原理です。これは裏返して一致した縁が直線だということです。3次元的に言えば、回転しても動かない部分が直線ということになります。例えば棒をぴったりの穴に通し、ひねってみてクルクル回転すれば、この棒は直線だと言えます。線対称や軸対称は普通は直線に対する運動で定義しますが、実は人間は、対称運動から直線というものを認識していたのではないでしょうか?
 このあたりエルランゲン目録に言う「ユークリッド幾何学は合同変換の幾何学だ」ということに一致しているのではないでしょうか。ところで合同変換というのは、図形をそのまま移動しても形が変わらないことを前提としています。移動したらクニャクニャとなってしまうものばかりの世界では合同変換の幾何学は誕生しないでしょう。つまり合同変換の幾何学が成立するのは、この世界に固体というものが存在していたからでしょうね。

16NAN:2007/01/29(月) 11:42:18 ID:k7q5/VNU
あ〜、もしかして…
かなり乱暴な仮説ですが、「二つの目」で「見る」だけでなく、私たちの脳は
「測る」という計算もしているわけですから、「2点間を結ぶ最短距離(最適化された線分)」
についての生得的な認識能力が高いほど適応的だった可能性はあるように思えますねぇ。
#すると「複眼な生き物」はどうなんだろうなぁ?

17diamonds8888x:2007/02/11(日) 12:55:38 ID:QCWCnFRM
 さて平行線の公理です。ここで「平行」の定義は「どこまで行っても交わらない」ということですが、これは有限の時間内では観測不可能です。では近似的にはどうでしょうか? ユークリッドの平行線の公理が正しければ、ある直線に対する平行線は、その直線に対する等距離線でもあります。有限な長さの線分2本を並べて、その間の距離がどの位置でも等しいようにできることは原理的には観測で確かめられます。とすれば、「この線分2本をどこまで延長してもやはりその間の距離は変わらない、つまりゼロにはならない」と推定するのは極めて妥当なことに感じられるでしょう。

 仮に観測の結果、「どうやっても、線分2本の距離がどの位置でも等しいように置くことができない」とわかったとします。具体的には「ある置き方では、両端位置での線分間の距離が中央位置での線分間の距離より小さい」ということが観測されたとしましょう。これはまさに、この空間の曲率が正であることが観測されたことになります。

 ここで、「線分2本の距離が観測範囲内で等しかったから無限まで延長してもやはり等しい」という命題は観測し得ない無限のことまで言及しています。これは「どこまでいっても均質である」という仮想的な世界を作り上げて、その世界の中では真実だ、ということなのではないでしょうか。これこそ数学的世界ということなのかも知れません。

18 ななし:2007/09/13(木) 21:22:41 ID:???
数学は通常科学ではなく、論理学であるという常識は問題にならないのか。

19diamonds8888x:2007/09/29(土) 09:02:10 ID:jF6iTGKQ
論理学の矛盾に鋭く切り込むスレ・・・なんてものを新たに立てるほどの話題でもないので、このスレッドに書き込みます。

1)敵でなければ味方である
2)味方でなければ敵である

 うーん、確かに対偶だ。だから論理的には同値であるはず。なのに、非常に異なる信条を述べているように感じられるのはなぜなのだろうか?

20通行人:2007/10/01(月) 13:13:44 ID:/wU.hzr6
対偶として成り立っている文意どおりの表明と考えるなら同値ですが

「信条」と捉えるのなら その時点で別な意味を付加して読んでいるのではないか と思われます

例えば
1 敵でないならば味方とみなす・扱う
2 味方でないならば敵とみなす・扱う

 のように
 こうなると 対偶関係にはなりませんから
 どちらかが真で どちらかが偽ということもあり得、異なる信条の表明であり得るでしょう。

1 敵でないならば味方とみなす
の対偶は
2 味方と見なさないなら敵である

2を誤解のない形で書けば

 私が味方とみなさない対象ならば それは敵である
 (敵でない対象ならば全て、味方と見なす対象だ というのが1の意味なのだから)

diamonds8888xさんの意図と異なるコメントになっていたらごめんなさい

21diamonds8888x:2007/10/11(木) 06:06:07 ID:GWGHUh3Q
 なるほど、確かに信条ですよね。信条と言うことは行動する上での方針、戦略とも言えますから、単なる観察の上での話とは違いますよね。

 ちょっと論理学として考えてみましたが、そもそもは世の中には敵でも味方でもないものが大多数だという事実がある、という点が大きいと思います。ですので、1も2も事実としては間違いなのです。論理学の言葉で言えば、敵と味方という概念には排中律が成り立たない、ということですね。

 すると、この大多数の敵でも味方でもない集合について、1では味方だと述べており、2では敵だと述べているのですから、両者は同値ではない、ということになると思います。

>diamonds8888xさんの意図と異なるコメントになっていたらごめんなさい

 意図は色々なコメントを引き出すことですから、通行人さんのレスは私の意図にかなっていますよ(^_^)

22AH1:2007/10/11(木) 11:05:23 ID:8sNrdPpc
戦略として考えるとこんな感じかと。
diamonds8888x さんの仰るように「世間には少数の敵と少数の味方と多数のどっちでもない人がいる」のが普通だと考えると、
1)敵でなければ味方である
は「世間の少数を除いた大多数は味方である」という意味になりますが

2)味方でなければ敵である
は「世間の少数を除いた大多数は敵である」という意味ですね。

また
1)は「基本的に世間は味方、敵とわかったらその時対応すれば良い」と読めるのに対し
2)は「味方とわかるまで全て敵扱いせよ、他人に気を許すな!」という信条と読めます。
どちらを常態とするか、が違って感じられる理由ではないかと推測します。

23通行人:2007/10/11(木) 11:42:19 ID:/HHCe4ko
暖かい言葉 ありがとうございます。

中立の存在が、同値にさせない理由 ということは同意の上で
ちょっと考えてみました

敵 中立 味方(1) という区分けを前提とし

1)敵でなければ味方(2)である

の味方(2)は 味方(1)とは意味が異なってますね
敵以外の者全てを「味方」と新たに定義した「味方」ですから。

しかるにその対偶として取ったものを

1)味方(1)でなければ 敵である

の意味に解釈すると 同値にならない

もし
1)味方(2)でなければ 敵である
なら同値になる

そもそも
1)敵でなければ味方(2)である
の対偶は
1)味方(2)でなければ 敵である

のはずだった

で、
味方(1) と味方(2) が混同されない表現を考えると

1)敵対しない者ならば、味方とみなす

この対偶は
1. 味方と見なさないならば、敵対する者
で 同値となる


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