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敢えて問う「マリア崇敬」
1
:
へっぽこ
:2004/03/08(月) 00:45
へっぽこは、ご報告した通り「ひつじ」と正教会HPとのリンクに
用いられ、自身も正教会に導かれました。
そこで、意外だったことが、正教会では...
①一部のプロテスタントから偶像礼拝のそしりを受けかねない
「イコン」を崇敬していること。
②一部のプロテスタント(なのかな?)がカトリックの
批判の対象としているマリア崇敬を堂々としていること、
などでした。
カトリックの「聖母」に対し、「生神女(神を生んだ女)」
カトリックの「マリア無原罪説」は取らず、ありふれた女性
の一人として神はマリアを選んだ、というもの。
マルチン・ルターも少なくも
マニフィカート(マリアの讃歌)の作曲をしており、
「マリア崇敬」をしていたのではないか?
現代のルーテル教会は如何でしょうか?
プロテスタント諸派でも、ルカ伝の「マリアの讃歌」は
否定する事はできず、クリスチャンの信仰の原型と
捉えることができるのではないか?
また「神の母」「聖母」「生神女(テオトコス)」と呼んだ
としても、マリアに「神格」を認めるわけではない。
「マリア崇拝」ではなく「マリア崇敬」
オーソ/カト/プロの歩み寄りのために、考えてみたいと
思います。
89
:
名無しの神学さん
:2004/03/13(土) 11:38
プロテスタントのマリア崇敬と、カトリックのマリア崇敬では
根本的に質が違うようやね。一致はイエス様しかありまへんね
90
:
chiara
:2004/03/13(土) 11:39
他のスレにも書きましたが、カトリックの神父でも「マリア崇敬は興味ない」というのまでいますから
マリアを第一義の必須条件と考えるということはないわけです。信徒がそれぞれにマリアを通じた信心行を採択する自由が
あるわけです。ですから「イエス様のみ」という方もカトリックには沢山います。
大切なのは教会共同体の兄弟姉妹達の自由を阻害しないことで、マリア崇敬を大切にする人を否定しない、
マリア崇敬を他人に押し付けないという態度が要求されるのです。
カトリック教会内でそうですから、ましてや他教派の方に一方的に押し付けるなどという人が
いたらそれは間違った行為ですね。批判されてしかるべきでしょう。
マリアや無原罪にこだわり、イエスの話が出来ない対話こそつまらない交流ですね。
教義は律法ではありません。あくまでもガイドラインに過ぎず、大切なのはイエス・キリストの
十字架であり、残されたみ言葉であり、イエスの生涯なのです。それはどの教派も同様でしょう。
91
:
名無しの神学さん
:2004/03/13(土) 11:49
マリアの無原罪に拘ってるのは カトリックなんですが? w
もっと柔軟に幅をもたせられると良いですね。 主の平和
92
:
0990
:2004/03/13(土) 11:56
chiara様
教会内で秩序と礼儀が大切との意見は、私の経験則・・・それだけ、きままでした。
私の教派は、保守系でしたのでカトリックの伝統を引き継いでいる点も多いです。
93
:
名無しの神学さん
:2004/03/13(土) 13:20
「カトリックの信仰」から聖母崇敬関連の岩下壮一師の言葉を引いておきましょう。
日本を代表する哲学者和辻哲郎の浅薄な聖母崇敬理解をたしなめたうえで、次のように書かれている。
「カトリック信者の間には、マリアが神様だなぞと思っている者は一人もない。神様では聖母としての有難さはなくなってしまう。イエズスは人間であっても、ただの人間ではない。そこにどこかへだたりを感じさせる。マリアに至っては徹頭徹尾人間である。しかもやさしい母である。神としてのキリストにはなくてはならぬ正義からは全然はなれて、唯々慈悲の眼で我等のすべての弱点に同情して下さる母の心ゆえに、かくも有難いのである。」p363
94
:
タチバナ@灰羽連盟
:2004/03/13(土) 13:21
>>93
は私です。また入れ忘れた。
95
:
chiara
:2004/03/13(土) 13:54
>>91
さんはおそらく主の平和さんと同一人物のようですが、
よほど「無原罪」の話題がお好きなようですね。かなりのこだわりを感じます。
否定にせよ肯定にせよ、このスレ住人のなかで一番興味をお持ちなのだとお見受けいたしました。
その命題の是非をお考えならば、是非ともスコトゥスを論破する論考を
モノするのがよろしいかもしれません。
わたくしは「無原罪」という教義自体あまり興味がないので、ドミニコ会とフランシスコ会の
中世の争点すら「なんだかなぁ。勝手にやってろ。」とか思っちゃうだけです。
が、きちんとした決着がついていない教義な気もするので、腰をすえて無原罪を論破する論文が
でたら、それはそれで面白いとは思いますね。神学学会で発表して欲しいものですね。
96
:
からし種
:2004/03/13(土) 16:01
あっという間にレスが増えていますね。(中には聞き慣れた言葉も…)
自然な感情として、将軍・綱吉の生母、秀頼君の母・淀の方等に対しては
敬意が払われていたものだと思います。(例えが悪いですが、時代劇好きなもので )
とすれば、主イエスがこの地上に居られた時に生きていた人々が、その生母
であるマリアに特別な感情が持ったとしても不思議ではないし、特に悪徳が
入り込む余地は無いと思えます。
そして、生まれたばかりの教会においても、主の母上であるマリアが尊ばれたとして
も、これもまた健全なことだと思えます。
旧約聖書にエリヤやエノク(でしたか?)も「死」を味わうことなく「(被)昇天」し
ています。ちなみに、エリヤが礼拝説教で語られた時はかなり英雄的な評価で「被」
昇天という要素は、極めて希薄でした(エリヤの功績への対価として死の経験が免ぜられた
といニュアンス)。しかし、特に批判等の反響は起こりませんでした。
私が耳にした牧師の話では、聖母マリヤや御聖体というものが重んじられると、特に
初心者にとってキリストの十字架がぼやけてしまう危険があるから、こうした習慣は排除
するべきだということでした。
しかし、私にはそれよりも、カルヴァン等の時代にあっては、組織的にローマカトリック
から分離するための手段、現代にあっては大小様々の教派、教団の経済的、組織的独立を維
持するための手段という要素が大きいと思えます。ヴィードロ細工でも、岩石でも、そこを
叩くと割れやすい、という箇所があるのと同じで。
まあ、実際、自分が罪人だという自覚はあっても「ここからここまでは原罪だ」とまでは
自覚出来ないのが通常であり、「無原罪」か否か、というような事は認知可能の領域を越え
ているのではないか、と思えます。だから、私は「聖母マリヤは、神様の恵みによって、キ
リスト・イエスの母となるために選ばれて、原罪を免じて生まれました」と聞いても特に感情
的に違和感はありません。でも、矛盾するようですが「やっぱり、2割くらいの原罪はあり
ました」と訂正されても、ああそうですか、くらいで特に違和感も感じません。
(これは人によって様々だと思えます。)
97
:
名無しの神学さん
:2004/03/13(土) 17:19
>>95
無原罪のマリア崇敬者さんに 応えたまでなんつが?
無原罪のマリア崇敬なんて まっぴら御免被りまつよ
カトの無原罪の思想は普遍的でも なんでもないわな w
98
:
タチバナ@灰羽連盟
:2004/03/13(土) 18:25
>>86
>プロテスタントに、マリア崇敬を売り込んでるカトリック信者にも問題
あるのではーー。無原罪の押しつけは、信教の自由の迫害でつっせーー
chiaraさまも言われてますが、「マリア崇敬を売り込んでいる」とか「無原罪の押しつけ」とかって具体的にどういうことなんでしょうね。
プロテスタント教会の教義にこれを付加しろとか、そういう強制をするてことかしらん。そんな事実ないでしょう。
chiaraさまの説明によれば、おのれの教会の信者に対してさえ、「無原罪の御宿り」を信じないひとに無理に信じさせるようなことはしてないわけですから、他の教派に対してはなおさらしないはずです。
個々の信者なり神父さんなりがプロテスタントの方にカトリックへの改宗を勧めるということはあるんでしょうが、その場合でも別に「無原罪の御宿り」を突出して持ち出すとは思えないんですが。
もちろん中には狂信的な方はいるかも知れませんが、例外はあくまで例外です。
99
:
タチバナ@灰羽連盟
:2004/03/13(土) 18:34
>プロテスタントに、マリア崇敬を売り込んでるカトリック信者にも問題
あるのではーー。無原罪の押しつけは、信教の自由の迫害でつっせーー
はたと悟ったのですが、やはりマルチポストとかがあるから、それでこういう反応が出るのかも知れませんね。
100
:
タチバナ@灰羽連盟
:2004/03/13(土) 18:46
ほんとはマルチポスト氏がカトリック信者とは限らないので、受け取る側が「はあ、そういう考えもあるのかあ」くらいに軽くとってくれるといいですけどね。
ただ、マルチポストは掲示板が停滞したり荒れたりするもとになるから、そうも言ってられないか。
私が言いたいのは、「無原罪の御宿り」のドグマを受け入れるか受け入れないかは「信仰の自由」だからそれはそれでいいんですが、もし批判するのならば、ともかく中身をきちんと知っていただきたいということです。
私が見る限り、批判する側は「マリア崇敬」は悪という結論ありきで論をすすめることが多いです。結論が決まってますから、実際のカトリック教会による「聖母崇敬」の自己理解について、はなはだ歪んだイメージしか持ってません。
よく理解したうえで根底的な問題提起をするのなら建設的ですが、そうでないことが多い。ヒデさまも言われる通りです。
それと批判する側は批判の仕方がワンパターンなので、読んでいてちっとも面白くないです。
「聖書的根拠」云々「原罪の普遍性との矛盾」云々・・一番多いのがこの手のやつですが、これは当スレですでに片付けたので、再度弁証はしません。
もっとうまい餌おくれ(笑
101
:
名無しの神学さん
:2004/03/13(土) 19:11
正教のマリア崇敬のほうが まともですね。
102
:
chiara
:2004/03/13(土) 19:43
タチバナ様
このスレのやり取りの後半は、吉本の「ボケと突っ込み」の光景のごとき様相ですね。
突っ込み役は2行ほどの匿名さんで、ボケ役がコテハンである我々で。
まぁ、突っ込みさんは暇つぶしに来てるとしか思えないんで、相手にしている我々もかなりの
ボケでございましょう。
いずれにしても、別スレのタチバナさんと名無し神学さんとのやり取りほどの面白いものには
なってはいないですね。反カトリックのプロパカンダ行為ならもっと上等にやるでしょうし。
マジなら腰据えて批判にはいるでしょうし。
しかしからし種さんとかの感想なども読めてよかったです。
からし種さんの書いていらっしゃることに共感しますね。
103
:
アイ
:2004/03/13(土) 22:29
chiaraさま
私は別のことを考えていました。
ある教会に所属しようと思ったら、そこの教義を全て受け入れなければならないのか?
もしくは、一つでも受け入れられない教義があったら、所属するべきではないのか?
はっきり言って、マリアの無原罪の問題は、私にしたら損にも得にもならんというか、どっちでもいい。そうだと思う人はそれでいいし、違うと思うならそれでいい。
カトリック教会にはそんなことよりももっと大切なものがある。祈りの場がとても多いのだ。御聖堂はいつも開放され、静かで、祈り心を導いてくれるし、諸聖人との祈りによる交わりは、世俗の事に心を奪われて、ご利益的な祈りしか湧いてこない時に、本当に大切なものに心を留めさせてくれます。
それを考えると、原理主義的な「聖書のみ」という教義がどれほど悪い影響をもたらしているか、考えてもらいたい。
104
:
0990
:2004/03/13(土) 22:38
聖書中心の信仰は、プロテスタントではあたりまえ。プロでも祈りは多い。
教派の教義の詳細全てを受け入れているとは限らない。私個人は、私的解釈にうるさい。聖霊の働きと大義名分をかかげ、好き勝手な空想は許さない。
イエス様を救い主と告白する聖霊の働き(第一ヨハネ)は大いに良い。それ以外は、認めない。
105
:
へっぽこ@誤解?
:2004/03/13(土) 22:46
>>101
【正教で求道中..】
>>正教のマリア崇敬のほうが まともですね。
こう言ってもらえると、正直ホッとしますが、
カトの無原罪説は必ずしも誤りだとは言いきれないが、
「無原罪=神格化?」という誤解を受けやすいと言う事は
言えるかもしれませんね。
かといって、「無原罪=神格」という考えは、まともなカトリック信者
ならば持っていないんでしょうね。(タチバナ師匠が明解に解き明かして
下さっているように。)
マリアが人間だからこそ、聖霊(聖神)との間に生まれた主イエスが、
神格・人格の二性一身=カルケドン信経が導き出されるのではないか?
ニケア信経でも「おとめマリアから肉体を受け...」
あくまでもふつうの人間の女から肉体を受けた事がミソですね。
「無原罪説をとるから、マリアを神格化している」というのは、
誤解と言うよりも、酷い言いがかりとも取れる。
しかし、ルターがたしなめたように、マリア崇敬がエスカレートして、
主イエスそっちのけじゃ、本末転倒だもんね。
106
:
アイ
:2004/03/13(土) 23:16
>>85
パンプキンさま
ワルトルタさんの「聖母マリアの詩」
なんていうか、すごくつかみやすいです。情景が思い浮かぶようで、とてもしっくりときました。
パンプキンさまのHPの「サンダーシング」というかたのお話も読ませていただいたのですが、何かとても心に響きました。
先日キリスト教書店(サンパウロ)に行ったとき探してみたのですが、置いていなかったのです。
今まで聖書以外の啓示については懐疑的でしたが、その人の生き方を見れば、それが良いものか悪いものかは判断できますね。
それも人に与えられた能力の一つなのかもしれませんし。
107
:
アイ
:2004/03/13(土) 23:19
0990さま
聖書中心の信仰と、原理主義的な「聖書のみ」とは別物なのです。
カトリックでも聖書中心です。聖書は伝承の中の最も大切なものですし。
108
:
chiara
:2004/03/13(土) 23:27
アイ様>
教義というものは本来ガイドラインで、解釈の分野に入るのですね。
ただし多くの人々が議論を繰り返していく中で寝られた結果ですから、そこを中心に据えて、
考えてみるという、喩えて言うならベクトルの座標軸のXとYの交わる点をどこに据えておくか
ということでしょう。そこから外れていても範疇なわけで、外れ過ぎると「異端」などと言われる
こともありますが、かなり幅はあるものと考えていいでしょうね。
無原罪に関してはX軸を定めても、まだY軸が定まっていないというか、そういう曖昧な要素を
残したまま強引に中心点を決めたのではないかと思えるのが19世紀の公会議でしたから、
批判も当然あるとは思います。
そもそも神秘に関わることは中世まではかなり幅を持たせ、現代ほど体系化も為されては
いなかったわけで、例えば典礼などに関しても、今のような中央集権的様相はまったくなく、
幅の広いものでした。教義も同様に、かなり自由に論議されていて、解釈に関して、
決定的な決めつけは近代ほど厳しくなかったわけです。
体系的な印象ですとトマス・アクイナスなどの著作で語られることは多いですが、彼はかなり当時に
してもオタクで、ああいうのが好きだっただけで、晩年、自らの書は空しいと吐露してますし。
やはり、ペンで尽くしても計り知れない神秘の偉大さをしっていたということでしょう。
これらの神学的遺産を全て受け入れないと信仰が保てないなどというのは本末転倒ですよね。
彼等の神学は彼等の信仰告白に他ならないとも言えるのです。
109
:
アイ
:2004/03/13(土) 23:37
0990さま もう一つ
>プロでも祈りは多い。
確かに「祈祷会」は毎週ありました。
でも、その場で自力で祈ることを要求されることは辛かった。
「祈りの模範」がほとんどないのです。
強い人はそれでもいいのでしょう。でも、私みたいに煩悩が強くて弱い人間には神経衰弱を起こさせるだけかもです。
110
:
0990
:2004/03/14(日) 00:04
祈りの模範は、聖書そのもの。私個人は、4大福音書のほか,詩編も参考できる。
インプットは、聖書購読。アウトプットは祈り。
111
:
アイ
:2004/03/14(日) 00:11
0990さま
イエス様は優しかったですよ。
弟子たちがどう祈ったら良いのか教えてくださいと聞いたとき、
「主の祈り」を教えてくださいました。
私が言いたいのはそういうことです
112
:
アイ
:2004/03/14(日) 00:15
chiaraさま ありがとうございます
またしばらく考えてみます
113
:
Paracletus
:2004/03/14(日) 00:48
聖霊は 地上における主イエスのように、わたしたちの苦しみや恐れを担い
聖霊ご自身が痛み 悲しまれるのです。言葉で表せない切なる呻きをもって
わたしたちのため、聖霊ご自身が取りなして下さるのです。聖霊は主イエス
の贖いをわたしたちの所にもたらし、神の愛を心に注いで下さるのです。
114
:
タチバナ@灰羽連盟
:2004/03/14(日) 10:20
>体系的な印象ですとトマス・アクイナスなどの著作で語られることは多いですが、彼はかなり当時に
してもオタクで、ああいうのが好きだっただけで、晩年、自らの書は空しいと吐露してますし。
オタクて・・(笑
「あれに比べたら、私の書いたものなどわらくずにも等しい」
「師匠ー、わらくずもうまく使えば道具になりますよ。よって紐にしたり」
「・・・」
「ところで師匠、あれって何ですか、あれって」
「あれは・・」
「やっぱ、あれですか、あれ。放送で言ってはいけないような」
「あれは・・」
「教えてくださいよー。この際ぶっちゃけましょうよ」
「若槻千夏」
「オタクかよ!!」
115
:
タチバナ@灰羽連盟
:2004/03/14(日) 10:30
オチは「小倉優子」の方がよかったな。つい趣味が出てしまった(滝汗
116
:
chiara
:2004/03/14(日) 10:32
タチバナ様
トマスはオタクっしょ。神秘を体系化して言語化してみるオタク。
そしてアリストテレス・萌えオタ。
「神学大全」は彼の萌えの結露なので暖かく見守るのがよいのです。
117
:
アイ
:2004/03/14(日) 22:55
今日は正教会の礼拝(聖体礼儀)に与らせていただきました。
ほんとに長かったですー。子供も一緒だったので最後までいられなかった。2時間近くの礼拝中、聖歌隊の方々はずっと聖歌を歌い続けておられました。
途中、なんと二年前に伺った時に、案内してくださった信者さんが、子供を教会学校に誘って下さいました。一度お会いしただけなのに、お互いに憶えていて、あれからもう2年なのだな、と感慨深く思いました。(あの頃は私も熱心に教会学校のスタッフをし、教師セミナーにも通っていたなぁ、セミナーの場所がお茶の水だったので、偶然ニコライ堂に立ち寄ったのだ)
ところで、今日仕入れてきた正教会のカリストス・ウエア主教の論集はとても参考になりました。
原罪の理解についても、「正教会は原罪・堕落の事実は疑わないが、しかしその結果への厳密な定義はためらい続けてきた。いったん宣言されてしまえば取り消しや訂正が許されない強い拘束力を持つ「教義」化を避けました。・・・・
原罪についての教えは杓子定規に考えないようにしましょう。さまざまな意見の余地のある「多様性」こそがちょうどよい視野を与えてくれるはずです。」
とあり、
よって、マリアの無原罪については受け入れがたいとしながらも、原罪の結果に対するアウグスティンの考え方を共有しないために、この教義は誤りというより、むしろ不要なものです。とありました。
救いに関しても、個人的なものではなく、社会的なものと捉えています。地獄は一人で、天国はみんなで、という捉え方。
その他にも、自由意志と神の恩寵の関係など、私にとっては勇気付けられる内容が多かったです。
西方キリスト教もカトリックは途中まで神学を共有しているわけですから、同じような温度を感じるところがあります。
たぶん、神学というものは、その神学の生まれた伝統の中で話される時には良いけれど、ひとたび、その神学だけが一人歩きをし、別の伝統の中で用いられようとすると、原理化していくのではないか?と思いました。
とはいえ、いろいろなキリスト教のあり方が存在することは、やはり恵みだろうと思いました。自分に合ったところを選んでいけば良い時代なのだと思いました。
118
:
0990
:2004/03/14(日) 23:03
マリア崇拝は、偶像礼拝という牧師に意見できるのは、ここのおかげ。神学の一人歩き。そこが、聖書の教えより教会の教えが優先と私が指摘する点。
それじゃ・・モーゼ、イザヤ、エレミヤ等どうなるの?
119
:
アイ
:2004/03/14(日) 23:13
0990さま
>聖書の教えより教会の教えが優先と私が指摘する点
え!プロテスタントの教会でそんなことを指摘されているとは、すごいです。
私はつい最近まで、それがわからなかったし、それを感じてからは冷静に対応できなくて教会にいられなくなったしまった。
ほんとにその通りですよね、聖書成立以前の方々はどうなっちゃの?ですものね。
120
:
0990
:2004/03/14(日) 23:25
伝統的プロでは、聖書66巻は、神のゆるぎないことばとします。むしろ、伝統主義の立場の意見です。
最近の教会は、いい意味でうるさい長老がいないのでさみしい。私個人は、イエス様は、もちろん長老からの伝統を守りたい。
121
:
アイ
:2004/03/14(日) 23:46
あ、ごめんなさい、私何か勘違いしているかも。。。
122
:
0990
:2004/03/15(月) 23:12
お気になさいませんよう。ところで、アイ様自分を責めすぎ裁きすぎかな?誤解?
聖書成立以前でも、羊の皮等巻物として存在する。そのころの指導者は、責任重大。また、口伝で大切にみ言葉は守られていた。
123
:
名無しの神学さん
:2004/04/10(土) 16:50
test
124
:
我 </b><font color=#FF0000>(SSORBSMo)</font><b>
:2004/11/11(木) 15:39
マリヤ崇敬が、いかに邪悪な行為であるかを知ってください。
http://www.soutokuhu.com/bbs/test/read.cgi?bbs=psy&key=1087218197&st=22&to=22&nofirst=true
http://jbbs.livedoor.com/bbs/read.cgi/otaku/1737/1084031772/46
ここ↑をクリックすれば誰でも納得がいくはずです。
125
:
名無しの神学さん
:2004/11/15(月) 02:10
俺さまか我(カワチ弁か?)さまかしんねんけどよ・・・
マルチポストのワンパターンマリアいじめ
のバカには用は無い。
てめえのビラ配りなんざマッピラゴメンだから
そう思え!
126
:
よく読んどけよな!
:2004/11/15(月) 02:12
マリア無原罪の教義を「マリアの神格化」として非難する輩は、
まるでマリア自身の力により無原罪で産まれたかのように考えているようだが、
もちろんローマ・カトリックはそんなことを信仰してなどいない。
あくまで神の自由な恵みによって、あらかじめ救われたのであり、
それはマリアの人間としての神への「完全なる従順」に照応した事柄なのである
127
:
名無しの神学さん
:2004/11/24(水) 14:49
諸聖人の中で最も優れている方が聖マリアです それは聖マリアが神の御一人子イエス・キリストの母として選ばれ全の天使や聖人を超えて神の恩恵を受け特別な権能を授かった故です
聖マリアがキリスト教信者の母と言われるのは聖マリアが救い主イエス・キリストを人々の為にお産みになったばかりでなく神の救いの御計画によって十字架のもとで御子イエス・キリストの救いの犠牲に預かり全の信者の心の母となられた故です
聖マリアはキリスト信者の心の母として天国で教会と全の信者の為に神に執り成しをして下さいます
(ヨハネの黙示録12.1-9,ヨハネ19.25-27)
メイン掲示板に疲れましたので此方に寄りました
128
:
名無しの神学さん
:2004/11/29(月) 01:31
「神学スレ」も「伝道」も「賛美」も開店休業状態だもんね。
某教団の「神学」も伺ってみたいもんだ。
129
:
ルカ
:2004/12/03(金) 00:01
僕は正教で洗礼をうけたいけどマリア崇敬だけは偶像礼拝のような
気がしてどうしてもできません。
僕のような正教の信者はいるでしょうか?
130
:
名無しの神学さん
:2004/12/09(木) 15:34
野球のピッチャーをする時を思い出してみよう。やったことのない人も
想像がつくでしょう。
ルールブックに「ストライク・ゾーン」が規定されており(ホームベース上、
打者の膝上からわきの高さの範囲くらいでしょうか)、その空間内を投球が
通とストライクとなります。
それで、ピッチャーがストライクを投げようとするとき、右投手なら自分の
左肩で目標と狙いをつけるのが狙い易いということですが、具体的には、
キャッチャーがかまえるミットを目標にボールを投げるのが通常でしょう。
つまり、ホームベース上の何センチ上かの空間を観念的に意識して狙いを
つけるのではなく、実際に目に見えるチームメイトであるキャッチャーの
ミットを見てそこを狙って投げるのです。
実際に遊びででも野球をやったことのある人なら、あまりにも分かり切った
ことだと思います。
キリスト教会が誕生して以来の「マリア崇敬」は、このようにピッチャーが
ストライクを投げる際にキャッチャーのかまえるミットを狙って投球すること
に酷似しています。
キャッチャーのかまえるミットを狙うと何故、ストライクゾーンを狙ったこと
になるのでしょうか?という問いは机上ではさも意味ありげに見えますが、グ
ラウンド上では愚問の極みだと言えるでしょう。
野球というゲームで同じチームになるピッチャー・キャッチャーの間にしてさえ
そのような同じ目的へ向っての信頼で結ばれるとするなら、ましてやルカ伝の記
述でも明らかなようにマリアの方を見るということは、即ちsの方は神への最短
距離の方向なのです。
131
:
うむぅ
:2004/12/10(金) 06:06
わかりやすい譬えだね。
旧約は、キャッチャーは「ヤハウェ」に決まっているのに、
「バアル」をキャッチャーにしたりするのに苦慮し、
「バアル」を捕手にするなんて「偶像崇拝」だぁ。
俺は「嫉妬深い神」なんだぞォと怒って見せたりしたわけですね。
後世のユダヤ教やイスラム教もキャッチャーは「唯一神」なのだが、
キリスト教の特色として、「イエス」をキャッチャーにしたわけですね。
プロテスタントからすると「イエス」はキャッチャーだが、
「マリア」をキャッチャーにするのは、
「バアル」を捕手にしていのと同じく、「偶像崇拝」に見える
わけですね。
132
:
名無しの神学さん
:2004/12/10(金) 09:49
>>131
「ストライクゾーン」は三位一体の神です。
三位一体自体、人間の知力を超える(信者は、神を人間の創造(想像)したものとは考えない)
ので、正しく、不足なくイメージしにくい。
プロテスタントが「イエスをキャッチャーに」とは言い切れない。千差万別。
イエス=キリスト=神で、真の人であり、同時に真の神なので(キリスト教は)、唯一神という
ストライクゾーンのためのキャッチャーが「イエス」、というのは三位一体の神観からは違和感
がある。
ていうか、なんかわからんけどマリア様〜、ってずーっと思ってきたんでしょうw
133
:
名無しの神学さん
:2004/12/10(金) 09:53
>>131
イエスをキャッチャーとすると、イエスが神ではないという感覚。
もっとも近年、新旧教問わず「人間イエス」という切り口が流行ではありますが。
134
:
うむぅ
:2004/12/11(土) 00:06
132さんに一本取られた汗。
プロテスタントのスタンダードは「トリニティ」だね、確かに。
133さん。
そですね。ノンクリの私からすると、「人間イエス」とかはわかりやすいし
イエス=キリストまでは感覚的に理解できても
ヨハネのイエス=ロゴス論とか、
公同書簡のイエス=真の神は、感覚的にすこし違和感あるかも・・・
正直なところ汗
135
:
うむぅ
:2004/12/11(土) 00:10
カトリックについて色々教えて貰っているネットのカトさんからの
アドバイスでは、
私はヨハネ伝とロマ書の深いつながりを理解できてないので、
イエス=神は、わからんのだということになるのだが・・・
ヨハネ福音書は まだ私にはむつかしすぎて 理解できん汗
136
:
名無しの神学さん
:2004/12/19(日) 17:35
寛容が大事
137
:
名無しの神学さん
:2010/09/07(火) 14:36:36
ですね
138
:
名無しの神学さん
:2018/02/24(土) 15:06:58
作詞:聖イエス会教祖様
1
時の流れははやく 終末は迫り
しののめが近いと みな告げしめす
神の期待に われらは こたえん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
2
十字架の旗のもと 決意も新たに
いのちにはいのちを 愛には愛を
心燃えたち われらは こたえん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
3
新しいエルサレム ゴールをめざして
ハシッドの召命 神化の道を
ただひとすじに われらは こたえん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
4
神のビジョンを見つめ 聖霊に燃えて
新しい歴史と 輝く未来
メシヤの世紀 われらは 開かん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
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