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敢えて問う「マリア崇敬」

38名無しの神学くん:2004/03/11(木) 11:31
>36
なるほろ。カトリックのマリア崇敬にはお見それしました、、((@@))、、

39共贖者マリア:2004/03/11(木) 11:36

   主イエス キリスト 御父の御子よ
 あなたの霊を今 全地の上に遣わして下さい。
すべての民が堕落、災害、戦争から守られるよう
  すべての民の心に聖霊を住まわせて下さい。
 かつてマリアであられたすべての民の御母が
私たちの執りなし手でありますように。アーメン

40あれるや:2004/03/11(木) 11:54
共贖者って イエスさまと共同の贖い主ってことですね
イエスさまと同等になられたのね(((( ;゚Д゚))))ブルブル

41chiara:2004/03/11(木) 13:40
>>36の内容はカトリックの一部の人々が主張しているものですね。
あくまでも「贖い主」ではなく、「贖い者」、つまり信徒側の問題なわけですが、
勘違いされやすい考えゆえに危険視され、カトリックでも批判している人が沢山いて公式の教義と
してあるわけではないことで、議論の余地のある命題です。
(寧ろ批判者の方が多い為に、公式に至っていない過激な主張であると見做されています)
「私のくびきは負いやすい」というイエスの呼びかけにおいて、くびきを共にになうことに招かれた
我々信徒の「共同贖い」についての教義なわけですが、>>40さんのような勘違いをする人が多いのです。

ですが上記のように出現にからめて、運動を行う方法自体にわたくし個人は非常に疑念を感じざるを得ません。
現代から近代にかけて性急に事を進めたがり、公式化に異常にこだわる人々の頑迷さには
嫌気がさす時がありますね。これは長い年月の議論が必要な事柄でしょう。
性急さが、非常に論理的に行わねばならない事柄を、出現や啓示といったことで、論議の余地を与えない
そういうやり方は、まさに>>36に書かれた、分裂を招く行為を産むわけですし、>>36の文書は
それを指摘するということで自分でその行為がどういうことかを分かっていてやってる確信犯的なものを感じますね。

42タチバナ@灰羽連盟:2004/03/11(木) 13:50
chiaraさまはおとなだな(ひつこい)。あれはよくあるマルチポストで、投稿者本人の意見はなにひとつ書かれてないから無視してもいいんですが(といっても、あれこれ言うのはなんなので私もマルチポストを指摘するにとどめた)。

私は部外者だから、「共同贖罪者」が公式教義となっても驚かないですけどね。
「聖母マリアは神の第4の位格です」と宣言したらさすがに驚くけど、それ以外はキリスト教の根本に特に抵触するとは思いません。

43chiara:2004/03/11(木) 14:09
共贖者とはなにか?
ということについては先程簡単に説明しましたが、イエス・キリストが贖いの為に十字架に付けられた時、
マリアを含めた信徒、弟子達はイエスご自身がマタイ福音書に記された有名な言葉、
「重荷をになってあげよう、私のくびきは負いやすい」という言葉の解釈によって導かれているものです。
つまりイエス様は我々の苦しみという重荷をになってくださる代わりに我々も、イエスの「くびき」
の一部をになうことになるということになります。イエスのくびきとは、十字架の贖いですから
我々はイエスの十字架の一部を担っているわけです。我々が出会う苦しみはイエス様に繋がる
くびき故のことでもあるわけなのです。そのことを「共に贖う行為」として考えた神学者がいたわけです。
これらの思想は、公式なものではなく、「一つの考えとして考えられる」という議論の余地ある
もので、例えばカトリック大辞典などにも「共贖者」という言葉は載っていないように、
かなり新しい考え方でしょう。

マリアにそれを絡めて表現されるのは、それが信徒すべてをあらわす象徴でもあり、マリアが筆頭の
十字架のイエスの苦しみの現場に居合わせ、母という立場でもっとも苦しんだであろうから、
という状況ですし。マリアに附加されるこうした事柄は我々信者が聖化されるということに通じると
共に、十字架の現場をマリアの視点を通じてリアルに感じるという事象をもってマリアが「仲介」
となるという光景でしょう。

こうした神学的な意味性をなんら説明せず事柄を自明のように「マリアの啓示」として語る
方法論はかなり幼稚な手法ですし、いたずらに分裂を招く行為でしょう。
啓示はそのまま啓示として扱うのではなく、論理的に推敲して出すべきものであり、
どーも出現が絡めた神学的立場表明には、怠惰や幼稚性を感じざるを得ないですね。
過去の教父や神学者達も当然、啓示があって聖霊に導かれて出した結論なのは同様なはずです。
しかし、きちんと言論で説明をするという責任を負って行っています。
「啓示されたんだから、真理だぞ」というのは最近多いですが、
マリアに甘えすぎというか、こういうのは強烈に批判されても仕方ないとしか思えませんね。

44chiara:2004/03/11(木) 14:18
タチバナ様>
正直、わたくしもはじめて聞いた時「なんじゃそりゃ?馬鹿じゃねーの?」と、思いましたね。
だから批判する人の側にどっちかというといたわけです。
で、神父に聞いたら、苦笑して「困ったものだ」というのもいれば、上記のような説明をしてくれる
のもいましたね。なんか過激すぎる考えなんでこの先どうなるんでしょうね。

応答したのは、あれをはじめて読んだ方へのサービスでもあります。
わたくしにとっては、啓示絡みのやりかたは結局歴史に残ってない場合も多く、
過去にそういうのがあったとしても、結局論理破綻していれば消滅してきたと思うんで
だから、そういう物言いをするものには本来、どーでもいい、放置。という感じでいます。

45名無しの神学くん:2004/03/11(木) 14:19
マリア崇敬ってマルチポストだったのね
カトリックしっかりしてやぁーー w

46chiara:2004/03/11(木) 14:24
>>45
色々な場所にマルチポストして、なんか運動でもしてるのかな?
うざいですよね。反発を招くだけで逆効果としか思えませんが。

47名無しの神学くん:2004/03/11(木) 14:27
>>46
マリア崇敬運動なんてのもあるんでつか?? 
どうして。そこまでマリア崇敬に拘るのかしら

48タチバナ@灰羽連盟:2004/03/11(木) 14:31
いや、マリア崇敬がマルチポストじゃなくてね・・まあいいけど。

いつものDave Armstrongのサイトから拾ってきますた。
http://ic.net/~erasmus/RAZ19.HTM
>8) "Co" in Latin does not mean "equal"; it merely means "with" or "alongside." We see this even in English. If you have a "co-pay" with regard to health insurance, that doesn't mean that you always pay equally with your insurance provider (I sure hope not!). "Co-Pilot" sometimes means "equal" but usually not. Etc. But because the term Co-Redemptrix is so misunderstood, it has fallen out of use in the last 50 years or so. But nevertheless, Pope John Paul II has used it at least five times, as Dr. Miravelle notes.

つまり「共同」つうのは「同等」を意味するとは限らんということ。ただし、そう誤解されやすいので、20世紀後半あたりでは使わない配慮はされていたようですな。

chiaraさまが説明されているように、「共同贖罪者」てのは、ほんまは信者みんながそうなのですね。マリア様は信者の中の信者、信者の代表だから、そこんところをしっかり教義にしてはどうかという提案があると。
ただchiaraさまが警告している通り、マリア共同贖罪者の公式教義化の運動は各地聖母出現がらみのことが多くて、感情的というか理論的に煮詰めてないものがあって、そこんとこが危険ということですよね。

49タチバナ@灰羽連盟:2004/03/11(木) 14:33
>>46
chiaraさま、
いやマリア崇敬運動によるものかも知れませんが、反マリア崇敬を煽るものである可能性も高い。私は後者と見ましたけどね。

50マリアの御名:2004/03/11(木) 15:36

「あなたがもし罪人なら、マリアの御名を呼びなさい。この御名だけで
 救われ得るからです。どんなに悪性の病気でもマリアの御名によって
 すぐ退散させられるのです。  」リシャール・ド・サン・ローラン

「悪魔は 天の元后を恐れること はなはだしく その崇高な御名を聞いた
 だけで、ちょうど、烈火を避けるように逃げ出すのである。      」
                        トマス・ア・ケンピス

「呼吸の有無によって、肉体が生きているかどうかを知ることができる。
 これと同じように マリアの御名をたびたび唱えるかどうかによって、
 霊魂が生きているかどうか、もしくは、間もなく神的恩恵の生命を回復
 するかどうかを、知ることができるのである。            」
                     聖アルフォンソ・リゴリオ

「こんなにも甘美な御名をお呼び申しあげるならば、この世では、豊かな
 恩恵を頂くことができ、永遠界では高度の栄光を獲得することができる
 からである。  」       リシャール・ド・サン・ローラン

「マリアの御名は、天の門をひらく鍵である。」聖エフレム

「これに祈るものの救い。」聖ボナヴェンツーラ

51chiara:2004/03/11(木) 21:00
タチバナ様>
そうです。感情論だけでは、何も説得力は無いのです。ただの電波に堕してしまいます。
神に関わる事柄は、神自身の姿にしても、恩寵の神秘にしても、「啓示」というまさに神の
恩寵なしにはもたらされないわけですが、それを真理かそうでないか見極める為に、多くの
議論、批判と肯定との行き来という形の客観的考察が為され、最終的に真理はなにか?とい
うエッセンスとして、例えば三位一体の教義なども成立していったわけです。

マリア崇敬に関することは、救済論の非常に論理的な経緯があって為されたもの
ですから、そのところをきちんとふまえて理解するべきことです。
例えば>>50のマリアの御名さんが挙げられている神学者達の言葉も、そのような理解があって
はじめて出てくる言葉ですね。自分自身が聖化されるということの黙想の為に、マリアという存
在が注目されるのです。それゆえに、マリアを頭ごなしに否定してしまう光景は、自分自身が受
けるべき神の恩寵を見ないということになりますし、逆に一方的に「マリアの名をとなえていれ
ばいい」などというだけでは、それは甚だ説明放棄である。ということになるでしょう。

52chiara:2004/03/11(木) 21:08
>>49
>いやマリア崇敬運動によるものかも知れませんが、反マリア崇敬を煽るものである可能性も高い。
私は後者と見ましたけどね。

煽りだとしても、カトリックにあのような主張をする人々がいるのは事実ですからね。
批判者が疑問に思うのは無理もない主張を繰り返しているのも事実です。
そのなかでは多くの場合「難しいことは考えたくないから」という神学的態度の否定なども
見られ、私的啓示を普遍的なものとして語る人々がいるわけです。

たとえ啓示された真理として主張するものが正しくてもそれでは何も伝わらないでしょうし、
反発を招くだけですね。啓示に頼りすぎ、それ以上の説明を放棄しているのは怠惰
にしか過ぎません。三位一体が形成されていった当初に、あのようなやり方をしていたなら
おそらく三位一体という理論そのものが形成されることはなかったでしょうね。
その光景はマリアに全ての責任を負わすという、無責任な光景があるだけです。

53フランシス・ヒデ:2004/03/11(木) 21:18
「へっぽこ」さま、chiaraさま、タチバナさま、

この「聖母問題」を始めると、たいていは一方的な「言いっぱなし」の応酬が
続いてしまい、何の建設姓もない場になってしまうものです。しかし、皆様は
大変建設的な話し合いを展開してくださっています。「運営側」のひとりとし
て、皆様に心より感謝申し上げます。
願わくは、こうした建設的な話し合いが本掲示板に咲き誇りますように!

54chiara:2004/03/11(木) 21:51
フランシス様>
いやはや、マルチポストというのは、いったいどこにポストされているんだか。
聖母絡みで、謎な言葉をあちこちの掲示板に貼り付けまくる人がいるみたいです。
このコピペは初めてみたけど。

ただ、それを素材に云々するのも大切かもしれません。
やはり貼られた主張に対し疑念に思っている人はカトリックにも多いですし、
考察が為されるべき事柄ではあるでしょうね。

55へっぽこ@感謝!:2004/03/11(木) 23:08
フランシス・ヒデさま、タチバナ師匠、chiaraさま、アイさま

感謝!感謝!感謝!です
フランシスさまのおっしゃる通り、本当に建設的なスレになりました。
みなさまのおかげです。

本日へっぽこの母が、カトリックの病院に
入院しました。(軽い処置で2泊3日なのでご心配なく)
キリスト教に対し何か”怖れ”を持っている母が、
カトリックの病院に入院することになるとは...”導き”かな?

病院のエレベータで会った、子供を抱いた女性の姿に思わず
聖母子のイコンを重ね合わせました。甘えるように顔を母親に
すりよせる子供...主イエスもこうであったのですね。

家族の温もりを感じられる正教会に導かれ、そこで「生神女マリア」
のマニフィカートを教わり、「自立した信仰」とともに
「血の通った信仰」を手に入れたいと願っている欲張りな
へっぽこです。

あと、「マルチン・ルターもマリア崇敬をしていたか?」を
バリバリのルター派信徒=ホスチア先生に調べて頂いているので、
それも楽しみにしています。

56タチバナ@灰羽連盟:2004/03/12(金) 09:14
chiaraさまの>>52>>54の投稿にはただただ平伏。ご本人がカトだけに重みが違うなあ。

へっぽこさま、御母堂のはやいご快復をお祈り申し上げます。やはりマリア崇敬は実母への尊敬の延長にあるものなのですね。実体験からくる言葉も重い。
ちなみに私の友人のジルさんが次のようなエッセイを書いてはるので、ご紹介しときます。
『澤田昭夫「ルターはマリアを崇敬していたか?」を読んで』
http://biblebach0.infoseek.livedoor.net/es4.htm

ヒデさまにほめられると照れるね。
マリア崇敬問題はクリ系サイトに私がコミットしようと思ったきっかけなので愛着があります。

個人的には「無原罪の御宿り」は美しい教義だと思ってます。
「共同贖罪者」はよくわからんので、これから勉強します。

57chiara:2004/03/12(金) 09:24
タチバナ様
「共同贖罪者」の理論は新しいもののようですので、まだあまり熟成されていない理論かも。
今度うちにその理論を説明してくれた神父が来るので、言い出しっぺは誰なのかとか、
それを巡る神学的論争の状況とか詳しく聞いてみようかな。

58chiara:2004/03/12(金) 09:36
尚、タチバナさんが挙げられた、ジルさんの紹介する著者澤田昭夫氏はカトリックでも
かなり保守的な立場なのでそれを考慮して読むのがよろしいかと。
ただし、ルターがマリア崇敬をしていたのはマジです。
ジルさんがそこで書かれているように、形骸化し、わたくしがここでも言っている
マリアのなんたるかを理解しないで御名をとなえていればいい的な有様を批判していたのは
確かだと思います。

マリアを通じた黙想は、修道者の生活の一部で、アウグスチノ会の修道士であったルターも
それが日課になっていたはずです。(「マリアを黙想する」とはマリアの視点を通じてイエスの
生涯を見る祈りです)それゆえにいいかげんなあり方が我慢ならなかったんでしょう。
それにおいてルターはまさに当時のカトリックにおいて非常に保守的な、王道のカトリックで
あったと私は思ってはいます。
ただ、修道士の生活と一般人の生活とは違うっちゃぁ違うし、神学的素養をおさめた人間と
なんちゃって信者な一般人とは理解の深さも違うでしょうから、仕方ないといえば仕方ないわけです。
ルターは一般市民に修道者的生活をしなさい。神学をきちんと学びなさいと要求していたとも
言えるわけで(^^;

59タチバナ@灰羽連盟:2004/03/12(金) 10:01
Dave Armstrongにも
Martin Luther's Devotion to Mary
http://ic.net/~erasmus/RAZ95.HTM
という論考があります。
日本語訳は
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Christie/6403/luther.mary.htm
ただし高卒レベルの英語力である私の訳なので当てにはなりません(笑 
原文を読んでください。

60へっぽこ@重ね重ね感謝!:2004/03/12(金) 17:23
タチバナ師匠、chiaraさま
重ね重ねありがとうございます。

「根本の事柄」は、非常にシンプルだったのですね。
しかし民衆は、へっぽこも含めて、誤解しやすいので
「教理・教義」として公にするのに、先人たちが実に
「薄氷を踏む」思いでやっていたように感じます。

プロテスタントの教会(いわゆる福音派?)の牧師さんや信徒さんたちにも、
ルカ伝の「マリアの讃歌」を読み返してもらいたいですね...

61アイ:2004/03/12(金) 18:49
へっぽこさま
ちょうど昨日のカトリックの講座でマリア様についてのお話がありました。

「マリア様への気持ちは母なるものへの憧れであり、キリスト教信仰に優しさと暖かさを与えている。キリストへの信仰を深めるものである。」
神父様よりそんな言葉がありました。

私もやっぱり神学的なことよりも、そのような心情で受け止めています。
私も今はマリア様に支えられていると感じています。
というか、マリア様に頼ってもいいんだ、という嬉しい気持ち。
実は眠れない日が続いて(こののんきな私が!)祈れないし、聖書も読む気力がなくて、そんな時、優しいまなざしでイエス様を抱く聖母子像に慰められて。
意を決して、部屋に小さな聖母子像を置きました。そしたら、随分落ち着けるようになりました。
今までこういうことは偶像崇拝として切り捨ててきたことなのですが。。。
ルターさんには怒られるかもしれないけど(?)

62へっぽこ@ご心配なく:2004/03/12(金) 19:42
>>ルターさんには怒られるかもしれないけど(?)
アイさま
ご心配なく。タチバナ師匠が解説下さった通り、
ルター先生はむしろ情熱的にマリア崇敬をしていたようですよ。
それが、「イエスさまほっといてマリアさま、マリアさま」に
なっちゃう傾向があったので、ルター先生はこれを戒めたのですね。

ルター作曲のマニフィカート、J.S.バッハ作曲のマニフィカート
は、教会音楽史上に燦然と輝いているのであります。

63名無しの神学さん:2004/03/12(金) 19:50
わたしもカトリックじゃありまへんが、聖母子像ありまつよ。
あと聖画や十字架も飾ってます。ロザリオも持ってたりして..
お祈りのときに、アレンジして使用したりしてまつ。 w

64chiara:2004/03/12(金) 20:01
私が超教派の交流をしていて、いつも違和感を感じるのは、
マリアに関することを、意識させられるのはそういう場だけなんですね。
カトリックというとマリアの話しかぶつけてこないというか。
そういうのは普段あまり考えないし、ミサでは大抵イエスの事しか考えておりませんから、
マリアのことに関しては、超教派の場ではじめてまじめに相対する羽目になるので、
お陰で知識や理解が増えましたね。カトリック教会内で学ぶことより多くの事をしりました。
(それ以前に、マリア崇敬に関して教会ではきちんと教えてもらえなかったというか、
聞かないと答えてくれないんで。)
かえって批判する人とか外部の方が、カトリックのマリア崇敬を促進する手助けをしてるん
じゃないかなぁと思えるのですよ。

65名無しの神学さん:2004/03/12(金) 20:10
マリア崇敬したい方も マリア崇敬したくない方もおられますからね。
どちらも信仰の自由だものね。個人の判断でなされたら良ろしいやね。

66へっぽこ@まあそういうこと:2004/03/12(金) 20:29
まあ、そういうことなんだけど、
「マリア崇敬」の本質が解ってから、
するかしないか決めても遅くはないと思う訳で
ありますよ。

誤解や曲解によって批判・非難し合うのもつまらない。
教派間による無理解や誤解がかなりあると思うので
教会ジプシーやってたへっぽことしても頭の痛い
とこでありました。クリスチャン同志、キリストに
繋がっていたいしね。

67名無しの神学さん:2004/03/12(金) 20:57
東方教会のマリア崇敬なら まだ受け入れられやすいのでは?
マリアの無原罪の教義などは、ちょっと抵抗あると思います。
あとマリアを通して祈るとかそうゆうのもね.. マリアさまを
イエスの母として尊敬の思いは、プロにもあると思うけどね。

68アイ:2004/03/12(金) 21:06
chiaraさま
>それ以前に、マリア崇敬に関して教会ではきちんと教えてもらえなかったというか、
>聞かないと答えてくれないんで

そうなんですかー。やっぱり教会によって、神父様によっても違いがあるのですね。
私はきっちり説明がありましたよ。無原罪の宿り、被昇天についても。それから、マリア様は女神というものではないという注意も。
プロテスタントからの批判には誤解があるということも。

ある信徒さんが、「マザー・テレサに祈っちゃう」と言われていました。そういうのはおかしいと言われたとしても、結局親しみを感じられる人にどうしても気持ちが行ってしまうのでしょうね。そうじゃなくちゃ、祈れないというのもあるかもしれない。
で、その向こうにイエス様がおられるのだということがわかっていればいいのかな、とも思いますね。こうすべきと言われてやれるほど強かったら信仰はいらんし。

69名無しの神学さん:2004/03/12(金) 21:12
無原罪を強要されるのは勘弁やわ かってに崇敬されてくらさいませ。

70アイ:2004/03/12(金) 21:43
ふむ、やっぱり拒否反応が出ますねぇ・・
カトリック信者になるということは、これを覚悟しなくちゃいけないのかぁ・・。
なんだか、逆に気の毒になってくる。

710990:2004/03/12(金) 21:50
マリア様への敬意との点は、実は一部の牧師意見としてある。つまりイエスの雛型という。
私個人としては、創世記のヨセフも敬意をもつ。どんなことでもへこたれないのは、男の鏡。

72名無しの神学さん:2004/03/12(金) 21:52
カトリックは好きでマリア崇敬されてるんだし。
プロはイエスさまで十分だから必要ないのよん。
どちらも気の毒がることないわな。 主に栄光 ♪

73へっぽこ:2004/03/12(金) 22:24
>>70 【アイさま】
>>カトリック信者になるということは、これを覚悟しなくちゃいけないのかぁ・・。
>>なんだか、逆に気の毒になってくる。
どーゆーわけか、オーソは直撃食らわないみたいですね。
少数派だから無視されてるのかしら?というよりも知られていない?
まあその分気楽ですけどね。

74アイ:2004/03/12(金) 22:31
へっぽこさま
問題にされるのはマリアの無原罪の宿りを教義化したからなんです。1854年です。
東方はわからないことについては沈黙を守るでしょう?だから攻撃対象にならないのです。

75chiara:2004/03/12(金) 22:36
アイ様、へっぽこ様
肝心なのはイエス様であって、それ以外のあらゆることは「神様の道具」なのですから、
マリア崇敬をリトマス試験紙にするのはあまり考えなくてもよいのでは?
カトリック=マリア崇敬というレッテルはプロテスタントの批判者が貼り付けるものです。
決して第一義に考えねばならない重要な要素ではありません。
他教派との対話となると自ずとそのような話題が中心になるために、いいかげんうんざりして
いるというのはあります。つまり体系化しなくてもいいことを体系化せざるを得ない環境を
批判者が作る為に、高橋師が指摘するような状況に陥らざるを得ない歴史があります。
尚、そのような批判ゆえに反動的にマリアに非常に固執する一部の動きが出てきたのは近代から
現代のカトリック教会内にみられる現象です。

あと、カトリック批判の体質が抜けないあまりにカトリックは駄目だけど
正教ならいいや。という意見などもよく散見出来ます。

760990:2004/03/12(金) 22:51
うちの牧師はカトリックは偶像礼拝という。ほか、イスラム、も。聖霊派の内部告発である。体質的に偶像に神経質。
うちの牧師は、そのくせ大の阪神ファンで主日礼拝でも騒ぎすぎ。スポーツ大好きも偶像礼拝という。
裁くの大好きな指導者は気にしないこと。個人的には、マリア様もイエス様の雛型と理解します。

77chiara:2004/03/12(金) 22:59
0990様
偶像崇拝はあらゆる要素にあります。しかし同時に民衆のもつそういうモノに向けるエネルギーの
発露が本当は必要なのかもしれません。昔はディズニー映画の代わりに聖劇が存在したりとか。
そういうかたちで神様に心を向けたりしていたんですよね。
でも、阪神ファンの牧師というのはなかなかいいと思います。説教に法被着てきたらちょっと
萎えるかもしれませんが、熱狂出来るモノがあるのは人としていいですよ。

あと、マリア様はイエス様のひな形ではありません。
私たち信徒の代表格という存在です。筆頭の信者で、神の恩寵を一身に受けた人です。

78へっぽこ@偶像礼拝:2004/03/12(金) 23:00
0990さま

偶像礼拝も度をこすと、こけしも博多人形も
偶像になってしまう。イスラムでも原理主義的なところは
うっかりお土産にもっても行かれないですね。

chiaraさま
>>あと、カトリック批判の体質が抜けないあまりにカトリックは駄目だけど
正教ならいいや。という意見などもよく散見出来ます。
カトリックも正教も本当は理解していない意見なのでしょうね。
「何が何でもカトリック憎し」というのは、なんとかならないですかね?
「正教ならいいや」ってのも、ほんとに解った上で言ってるのか..

790990:2004/03/12(金) 23:23
 阪神ファンの牧師は人として、・・・ただ、若く熱意はいい。ただし品位に欠け、物事の配慮気配り、聖書理解もいまひとつ。
聖書は、重たい扉・・・みたいなんて見ていて情けない。だから、イエス様は0990を使わされたのか?
実際わたしが、羊たちの、相談、聖書説明等やらされる。ほんとは、自分が、質問等したいのに。
 福音派を飛び出し、ありがたさがわかる。前の教会は、兄弟姉妹が、聖書解説、相談相手なんてあたりまえ。わたしは、指導をうけてばかり。
牧師は、年も近く、友達扱いされるのは、理解に苦しむ。福音派は、絶対的権威者。
ひとつ牧師に言いたい。誤解を招く矛盾するような発言はするなと。・・・私が、いろいろ厳しいことを言い過ぎるが、・・・

80へっぽこ:2004/03/12(金) 23:45
0990さん
なるほど...
そういう苦労もあるのね...

81chiara:2004/03/12(金) 23:58
へっぽこ様>
真の教会は攻撃を受けるらしいです。笑)
・・・冗談はさておき、正教会はプロテスタントと対極にあるので、情報不足や、
カルチャーショックはあるかも。つまり無いものがあるので、感動もひとしおではあるとは思います。

0990様>
カトリックでも司牧の現場で神父を教育するのは信徒の役目と言われます。
0990さんのように提言なさる方は共同体として大切だと思います。

820990:2004/03/13(土) 00:04
 私が子供のとき牧師先生とよく激しく論議していた長老がいた。いろいろよくしていただいた。
そうしたことの恩返しと考える。
 子供のとき教会てよく祈るな。よく話合いするなと感じていた。子供の立場では、話をよく聞いてくれる長老は必要。
ところでへっぽこ様いつか飲みにでもいければいいですね。

830990:2004/03/13(土) 00:09
chiara様。基本的に指導者は、神から立てられた権威者でもありますので適性な秩序と礼儀をもって意見するべきと考えます。
実は、これが、カルト化防止の一つと考えます。

84へっぽこ:2004/03/13(土) 00:42
>>ところでへっぽこ様いつか飲みにでもいければいいですね。
0990さま
光栄です!

85パンプキン:2004/03/13(土) 03:03
>アイさま

別スレからの話で恐縮ですが、
スウェーデンボルグの教会のマリアさんの扱いですが、えーと、個人によって
違いがあることを前提とした上で、
スウェーデンボルグは霊界でマリアさんに会ってきたと「霊界日記」に書いています。
(これは出版する意図で書かれたものではないもの)マリアさんは寡黙な女性だった
と書かれていますね。
地上では自分はイエスさまの母だったけれど、イエスさまは天に帰られてからは、
自分もイエスさまを神として礼拝しているということで、「神の母」ということは
否定していたということです。
うちの教会では、カトリックの幻視者マリア・ワルトルタの本を推薦しています。
スウェーデンボルジャンは啓示に対して好意的なことから、ワルトルタとも相性が
よいようです。
「聖母マリアの詩」などに出てくるマリアさまの人徳には、わたし自身もすごく感動
し、涙ぽろぽろでした。私のHPにもちょっと紹介していますので、よろしかったら。
http://sewinger.hp.infoseek.co.jp/story.htm
ちょっと一部引用してみますと、

(引用はじめ)
神は、マリアが処女であるように望まれ、彼女は従いました。次に、神はマリアに妻
となることを望まれました。その結婚で孤独になるか、または結婚しても聖なる不妊
のために人々から軽蔑されることもわかっていましたが、神が彼女に母になることを
望まれたときもそれに従いました。マリアは自分の静かな生活、自由、また夫の尊敬
さえも犠牲にして、彼女自身のためには何一つ取っておくことをしませんでした。罪
を犯した者として見られる妻としての不名誉、また苦しむ運命の子を産まなければな
らないという母の苦しみ、そのようなときに神は助けてくださることを確信して、常
に「はい」と答えてきたのでした。彼女の肉体のすべての声、心のすべての望みは、
絶えずこの「はい」の支配下にあり、彼女の自我はすべてにうち勝って、喜びのとき
も悲しみのときも、まったく神のはしためとなったのでした。

彼女はあらゆるものに対するどん欲にもうち勝ちました。肉体だけでなく、考えも、
心もつつしむ純潔。知りたいという欲望にもうち勝ち、いつも告げられたこと以上に
聞こうとせず、神が自分に知ってほしいと望んでおられたことだけ、知ることで満足
し、何も疑うことなく信じました。
彼女はすべてを神に捧げました。自分の母親としての感情すら捧げ、母である前に神
の娘として、生きたのです。
(中略)

マリアとヨセフは決して人間離れした人々でも欲を感じない人々でもなく、全く一般
の人々と同じような人間でした。彼らは邪欲を知らなかったわけではなく、見聞きす
る目と耳を持っていました。しかし彼らの意志力は全く神に従うものとなるために絶
えず緊張していたので、さまざまな悪の誘惑に対し、その泥のような闇を嫌悪して、
ますます神の光の中に避難したのでした。

マリアもヨセフも、人間的に言えばイエスと共にいたことで、重荷ばかりを背負うこ
とになりました。けれどふたりには超自然的な恵みと幸福がありました。イエスと日々
ふれあうことで、ますます完全さに憧れ、非常な恵みを受け、霊的に成長していったの
です。そしてこの純潔なふたりの清い香りだけをかぎつつイエスは成長したのでした。
(引用終わり)

マリアさまは、私の憧れの人であり、理想の女性です!(*^^*)
こうありたい!月とすっぽんだけど!(爆)

86主の平和:2004/03/13(土) 10:03
>>75 chiaraさま

>肝心なのはイエス様であって、それ以外のあらゆることは「神様の道具」
>なのですから、

 そうそう。肝心なのはイエスさまでつねん。
 わてらみな神の道具だったのねー マリアさまも神の道具なのね。

>マリア崇敬をリトマス試験紙にするのはあまり考えなくてもよいのでは?
>カトリック=マリア崇敬というレッテルはプロテスタントの批判者が
>貼り付けるものです。

 プロテスタントに、マリア崇敬を売り込んでるカトリック信者にも問題
 あるのではーー。無原罪の押しつけは、信教の自由の迫害でつっせーー

>決して第一義に考えねばならない重要な要素ではありません。
>他教派との対話となると自ずとそのような話題が中心になるために、
>いいかげんうんざりして

 ほんまうんざりですわ。カトリックには、付属品が多すぎでつね。
 マリア崇敬なんて、プロテスタントでは話題にもなってないがな。w

>あと、カトリック批判の体質が抜けないあまりにカトリックは駄目だけど
>正教ならいいや。という意見などもよく散見出来ます。

正教さんは、無原罪のお宿りではないらしいので。全然OKですよ
問題は、カトリックの無原罪の教義だよねーー。それぞれの信仰の
スタンスがあるから 個人の判断に任せるしかありまへんわ。主の平和 ♪

87chiara:2004/03/13(土) 11:07
主の平和様>
カトリック内でもマリア崇敬に関してはそれぞれ個人に任されているので、あまり話題にはなりません。
むしろ超教派の場でプロテスタントの方が話題にしたがるので、はじめは戸惑いましたね。
「マリアはどういう存在か」という人が圧倒的に多いのは寧ろプロテスタントの方々です。
また無原罪に関することを指摘するのもそうですね。
カトリック教会内では寧ろ、そういう話題は中心にはならず、イエス様の話が多いです。
個人的信心のなかでマリアを大切にする人はいますが、神父様の講話でもほとんどは
イエス・キリストが中心になります。

ですから・・・

>プロテスタントに、マリア崇敬を売り込んでるカトリック信者にも問題
 あるのではーー。無原罪の押しつけは、信教の自由の迫害でつっせーー

という光景は、すくなくともありえませんね。
目に付く主張を取り上げ過ぎているんではないでしょうか?
それ以前に、売り込むわけがありません。
尋ねた時に「無原罪」を説明することを指しているなら、それは尋ねる側が受け止めたことを
判断するかに任せられることに過ぎません。

88chiara:2004/03/13(土) 11:12
0990様
>chiara様。基本的に指導者は、神から立てられた権威者でもありますので適性な秩序と
礼儀をもって意見するべきと考えます。

面白いですね。寧ろそういう光景を批判して宗教改革が起きたという側面があるわけですから、
プロテスタントである0990さんがそういう意見をお持ちというのも逆転している光景で。

ですが、専門的な職務に携わる人にその専門職ゆえに敬意を払うというのは、
どこの世界でも同じです。ですから0990さんがおっしゃる意味はよく判ります。
威張り散らす権威者はまっぴらゴメンですが、共同体の為に責任を持ち、自ずと威厳をかもしだす
そういう指導者として司牧/牧会をする立場の人間にはあってほしいとは思いますね。

89名無しの神学さん:2004/03/13(土) 11:38

プロテスタントのマリア崇敬と、カトリックのマリア崇敬では
根本的に質が違うようやね。一致はイエス様しかありまへんね

90chiara:2004/03/13(土) 11:39
他のスレにも書きましたが、カトリックの神父でも「マリア崇敬は興味ない」というのまでいますから
マリアを第一義の必須条件と考えるということはないわけです。信徒がそれぞれにマリアを通じた信心行を採択する自由が
あるわけです。ですから「イエス様のみ」という方もカトリックには沢山います。
大切なのは教会共同体の兄弟姉妹達の自由を阻害しないことで、マリア崇敬を大切にする人を否定しない、
マリア崇敬を他人に押し付けないという態度が要求されるのです。
カトリック教会内でそうですから、ましてや他教派の方に一方的に押し付けるなどという人が
いたらそれは間違った行為ですね。批判されてしかるべきでしょう。

マリアや無原罪にこだわり、イエスの話が出来ない対話こそつまらない交流ですね。
教義は律法ではありません。あくまでもガイドラインに過ぎず、大切なのはイエス・キリストの
十字架であり、残されたみ言葉であり、イエスの生涯なのです。それはどの教派も同様でしょう。

91名無しの神学さん:2004/03/13(土) 11:49
マリアの無原罪に拘ってるのは カトリックなんですが? w
もっと柔軟に幅をもたせられると良いですね。 主の平和

920990:2004/03/13(土) 11:56
chiara様
教会内で秩序と礼儀が大切との意見は、私の経験則・・・それだけ、きままでした。
私の教派は、保守系でしたのでカトリックの伝統を引き継いでいる点も多いです。

93名無しの神学さん:2004/03/13(土) 13:20
「カトリックの信仰」から聖母崇敬関連の岩下壮一師の言葉を引いておきましょう。
日本を代表する哲学者和辻哲郎の浅薄な聖母崇敬理解をたしなめたうえで、次のように書かれている。

「カトリック信者の間には、マリアが神様だなぞと思っている者は一人もない。神様では聖母としての有難さはなくなってしまう。イエズスは人間であっても、ただの人間ではない。そこにどこかへだたりを感じさせる。マリアに至っては徹頭徹尾人間である。しかもやさしい母である。神としてのキリストにはなくてはならぬ正義からは全然はなれて、唯々慈悲の眼で我等のすべての弱点に同情して下さる母の心ゆえに、かくも有難いのである。」p363

94タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 13:21
>>93は私です。また入れ忘れた。

95chiara:2004/03/13(土) 13:54
>>91 さんはおそらく主の平和さんと同一人物のようですが、
よほど「無原罪」の話題がお好きなようですね。かなりのこだわりを感じます。
否定にせよ肯定にせよ、このスレ住人のなかで一番興味をお持ちなのだとお見受けいたしました。

その命題の是非をお考えならば、是非ともスコトゥスを論破する論考を
モノするのがよろしいかもしれません。
わたくしは「無原罪」という教義自体あまり興味がないので、ドミニコ会とフランシスコ会の
中世の争点すら「なんだかなぁ。勝手にやってろ。」とか思っちゃうだけです。
が、きちんとした決着がついていない教義な気もするので、腰をすえて無原罪を論破する論文が
でたら、それはそれで面白いとは思いますね。神学学会で発表して欲しいものですね。

96からし種:2004/03/13(土) 16:01
 あっという間にレスが増えていますね。(中には聞き慣れた言葉も…)
 自然な感情として、将軍・綱吉の生母、秀頼君の母・淀の方等に対しては
敬意が払われていたものだと思います。(例えが悪いですが、時代劇好きなもので )
とすれば、主イエスがこの地上に居られた時に生きていた人々が、その生母
であるマリアに特別な感情が持ったとしても不思議ではないし、特に悪徳が
入り込む余地は無いと思えます。
そして、生まれたばかりの教会においても、主の母上であるマリアが尊ばれたとして
も、これもまた健全なことだと思えます。
 旧約聖書にエリヤやエノク(でしたか?)も「死」を味わうことなく「(被)昇天」し
ています。ちなみに、エリヤが礼拝説教で語られた時はかなり英雄的な評価で「被」
昇天という要素は、極めて希薄でした(エリヤの功績への対価として死の経験が免ぜられた
といニュアンス)。しかし、特に批判等の反響は起こりませんでした。
 私が耳にした牧師の話では、聖母マリヤや御聖体というものが重んじられると、特に
初心者にとってキリストの十字架がぼやけてしまう危険があるから、こうした習慣は排除
するべきだということでした。
 しかし、私にはそれよりも、カルヴァン等の時代にあっては、組織的にローマカトリック
から分離するための手段、現代にあっては大小様々の教派、教団の経済的、組織的独立を維
持するための手段という要素が大きいと思えます。ヴィードロ細工でも、岩石でも、そこを
叩くと割れやすい、という箇所があるのと同じで。
 まあ、実際、自分が罪人だという自覚はあっても「ここからここまでは原罪だ」とまでは
自覚出来ないのが通常であり、「無原罪」か否か、というような事は認知可能の領域を越え
ているのではないか、と思えます。だから、私は「聖母マリヤは、神様の恵みによって、キ
リスト・イエスの母となるために選ばれて、原罪を免じて生まれました」と聞いても特に感情
的に違和感はありません。でも、矛盾するようですが「やっぱり、2割くらいの原罪はあり
ました」と訂正されても、ああそうですか、くらいで特に違和感も感じません。
(これは人によって様々だと思えます。)

97名無しの神学さん:2004/03/13(土) 17:19
>>95
無原罪のマリア崇敬者さんに 応えたまでなんつが? 
無原罪のマリア崇敬なんて まっぴら御免被りまつよ
カトの無原罪の思想は普遍的でも なんでもないわな w

98タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 18:25
>>86
>プロテスタントに、マリア崇敬を売り込んでるカトリック信者にも問題
 あるのではーー。無原罪の押しつけは、信教の自由の迫害でつっせーー

chiaraさまも言われてますが、「マリア崇敬を売り込んでいる」とか「無原罪の押しつけ」とかって具体的にどういうことなんでしょうね。
プロテスタント教会の教義にこれを付加しろとか、そういう強制をするてことかしらん。そんな事実ないでしょう。
chiaraさまの説明によれば、おのれの教会の信者に対してさえ、「無原罪の御宿り」を信じないひとに無理に信じさせるようなことはしてないわけですから、他の教派に対してはなおさらしないはずです。
個々の信者なり神父さんなりがプロテスタントの方にカトリックへの改宗を勧めるということはあるんでしょうが、その場合でも別に「無原罪の御宿り」を突出して持ち出すとは思えないんですが。
もちろん中には狂信的な方はいるかも知れませんが、例外はあくまで例外です。

99タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 18:34
>プロテスタントに、マリア崇敬を売り込んでるカトリック信者にも問題
 あるのではーー。無原罪の押しつけは、信教の自由の迫害でつっせーー

はたと悟ったのですが、やはりマルチポストとかがあるから、それでこういう反応が出るのかも知れませんね。

100タチバナ@灰羽連盟:2004/03/13(土) 18:46
ほんとはマルチポスト氏がカトリック信者とは限らないので、受け取る側が「はあ、そういう考えもあるのかあ」くらいに軽くとってくれるといいですけどね。
ただ、マルチポストは掲示板が停滞したり荒れたりするもとになるから、そうも言ってられないか。

私が言いたいのは、「無原罪の御宿り」のドグマを受け入れるか受け入れないかは「信仰の自由」だからそれはそれでいいんですが、もし批判するのならば、ともかく中身をきちんと知っていただきたいということです。
私が見る限り、批判する側は「マリア崇敬」は悪という結論ありきで論をすすめることが多いです。結論が決まってますから、実際のカトリック教会による「聖母崇敬」の自己理解について、はなはだ歪んだイメージしか持ってません。
よく理解したうえで根底的な問題提起をするのなら建設的ですが、そうでないことが多い。ヒデさまも言われる通りです。
それと批判する側は批判の仕方がワンパターンなので、読んでいてちっとも面白くないです。
「聖書的根拠」云々「原罪の普遍性との矛盾」云々・・一番多いのがこの手のやつですが、これは当スレですでに片付けたので、再度弁証はしません。
もっとうまい餌おくれ(笑

101名無しの神学さん:2004/03/13(土) 19:11
正教のマリア崇敬のほうが まともですね。

102chiara:2004/03/13(土) 19:43
タチバナ様
このスレのやり取りの後半は、吉本の「ボケと突っ込み」の光景のごとき様相ですね。
突っ込み役は2行ほどの匿名さんで、ボケ役がコテハンである我々で。
まぁ、突っ込みさんは暇つぶしに来てるとしか思えないんで、相手にしている我々もかなりの
ボケでございましょう。
いずれにしても、別スレのタチバナさんと名無し神学さんとのやり取りほどの面白いものには
なってはいないですね。反カトリックのプロパカンダ行為ならもっと上等にやるでしょうし。
マジなら腰据えて批判にはいるでしょうし。

しかしからし種さんとかの感想なども読めてよかったです。
からし種さんの書いていらっしゃることに共感しますね。

103アイ:2004/03/13(土) 22:29
chiaraさま 
私は別のことを考えていました。
ある教会に所属しようと思ったら、そこの教義を全て受け入れなければならないのか?
もしくは、一つでも受け入れられない教義があったら、所属するべきではないのか?

はっきり言って、マリアの無原罪の問題は、私にしたら損にも得にもならんというか、どっちでもいい。そうだと思う人はそれでいいし、違うと思うならそれでいい。
カトリック教会にはそんなことよりももっと大切なものがある。祈りの場がとても多いのだ。御聖堂はいつも開放され、静かで、祈り心を導いてくれるし、諸聖人との祈りによる交わりは、世俗の事に心を奪われて、ご利益的な祈りしか湧いてこない時に、本当に大切なものに心を留めさせてくれます。
それを考えると、原理主義的な「聖書のみ」という教義がどれほど悪い影響をもたらしているか、考えてもらいたい。

1040990:2004/03/13(土) 22:38
 聖書中心の信仰は、プロテスタントではあたりまえ。プロでも祈りは多い。
教派の教義の詳細全てを受け入れているとは限らない。私個人は、私的解釈にうるさい。聖霊の働きと大義名分をかかげ、好き勝手な空想は許さない。
イエス様を救い主と告白する聖霊の働き(第一ヨハネ)は大いに良い。それ以外は、認めない。

105へっぽこ@誤解?:2004/03/13(土) 22:46
>>101 【正教で求道中..】
>>正教のマリア崇敬のほうが まともですね。

こう言ってもらえると、正直ホッとしますが、
カトの無原罪説は必ずしも誤りだとは言いきれないが、
「無原罪=神格化?」という誤解を受けやすいと言う事は
言えるかもしれませんね。

かといって、「無原罪=神格」という考えは、まともなカトリック信者
ならば持っていないんでしょうね。(タチバナ師匠が明解に解き明かして
下さっているように。)

マリアが人間だからこそ、聖霊(聖神)との間に生まれた主イエスが、
神格・人格の二性一身=カルケドン信経が導き出されるのではないか?
ニケア信経でも「おとめマリアから肉体を受け...」
あくまでもふつうの人間の女から肉体を受けた事がミソですね。

「無原罪説をとるから、マリアを神格化している」というのは、
誤解と言うよりも、酷い言いがかりとも取れる。

しかし、ルターがたしなめたように、マリア崇敬がエスカレートして、
主イエスそっちのけじゃ、本末転倒だもんね。

106アイ:2004/03/13(土) 23:16
>>85パンプキンさま
ワルトルタさんの「聖母マリアの詩」
なんていうか、すごくつかみやすいです。情景が思い浮かぶようで、とてもしっくりときました。
パンプキンさまのHPの「サンダーシング」というかたのお話も読ませていただいたのですが、何かとても心に響きました。
先日キリスト教書店(サンパウロ)に行ったとき探してみたのですが、置いていなかったのです。
今まで聖書以外の啓示については懐疑的でしたが、その人の生き方を見れば、それが良いものか悪いものかは判断できますね。
それも人に与えられた能力の一つなのかもしれませんし。

107アイ:2004/03/13(土) 23:19
0990さま
聖書中心の信仰と、原理主義的な「聖書のみ」とは別物なのです。
カトリックでも聖書中心です。聖書は伝承の中の最も大切なものですし。

108chiara:2004/03/13(土) 23:27
アイ様>
教義というものは本来ガイドラインで、解釈の分野に入るのですね。
ただし多くの人々が議論を繰り返していく中で寝られた結果ですから、そこを中心に据えて、
考えてみるという、喩えて言うならベクトルの座標軸のXとYの交わる点をどこに据えておくか
ということでしょう。そこから外れていても範疇なわけで、外れ過ぎると「異端」などと言われる
こともありますが、かなり幅はあるものと考えていいでしょうね。
無原罪に関してはX軸を定めても、まだY軸が定まっていないというか、そういう曖昧な要素を
残したまま強引に中心点を決めたのではないかと思えるのが19世紀の公会議でしたから、
批判も当然あるとは思います。
そもそも神秘に関わることは中世まではかなり幅を持たせ、現代ほど体系化も為されては
いなかったわけで、例えば典礼などに関しても、今のような中央集権的様相はまったくなく、
幅の広いものでした。教義も同様に、かなり自由に論議されていて、解釈に関して、
決定的な決めつけは近代ほど厳しくなかったわけです。
体系的な印象ですとトマス・アクイナスなどの著作で語られることは多いですが、彼はかなり当時に
してもオタクで、ああいうのが好きだっただけで、晩年、自らの書は空しいと吐露してますし。
やはり、ペンで尽くしても計り知れない神秘の偉大さをしっていたということでしょう。

これらの神学的遺産を全て受け入れないと信仰が保てないなどというのは本末転倒ですよね。
彼等の神学は彼等の信仰告白に他ならないとも言えるのです。

109アイ:2004/03/13(土) 23:37
0990さま もう一つ
>プロでも祈りは多い。
確かに「祈祷会」は毎週ありました。
でも、その場で自力で祈ることを要求されることは辛かった。
「祈りの模範」がほとんどないのです。
強い人はそれでもいいのでしょう。でも、私みたいに煩悩が強くて弱い人間には神経衰弱を起こさせるだけかもです。

1100990:2004/03/14(日) 00:04
祈りの模範は、聖書そのもの。私個人は、4大福音書のほか,詩編も参考できる。
インプットは、聖書購読。アウトプットは祈り。

111アイ:2004/03/14(日) 00:11
0990さま
イエス様は優しかったですよ。
弟子たちがどう祈ったら良いのか教えてくださいと聞いたとき、
「主の祈り」を教えてくださいました。
私が言いたいのはそういうことです

112アイ:2004/03/14(日) 00:15
chiaraさま ありがとうございます
またしばらく考えてみます

113Paracletus:2004/03/14(日) 00:48

聖霊は 地上における主イエスのように、わたしたちの苦しみや恐れを担い
聖霊ご自身が痛み 悲しまれるのです。言葉で表せない切なる呻きをもって
わたしたちのため、聖霊ご自身が取りなして下さるのです。聖霊は主イエス
の贖いをわたしたちの所にもたらし、神の愛を心に注いで下さるのです。

114タチバナ@灰羽連盟:2004/03/14(日) 10:20
>体系的な印象ですとトマス・アクイナスなどの著作で語られることは多いですが、彼はかなり当時に
してもオタクで、ああいうのが好きだっただけで、晩年、自らの書は空しいと吐露してますし。

オタクて・・(笑

「あれに比べたら、私の書いたものなどわらくずにも等しい」
「師匠ー、わらくずもうまく使えば道具になりますよ。よって紐にしたり」
「・・・」
「ところで師匠、あれって何ですか、あれって」
「あれは・・」
「やっぱ、あれですか、あれ。放送で言ってはいけないような」
「あれは・・」
「教えてくださいよー。この際ぶっちゃけましょうよ」
「若槻千夏」
「オタクかよ!!」

115タチバナ@灰羽連盟:2004/03/14(日) 10:30
オチは「小倉優子」の方がよかったな。つい趣味が出てしまった(滝汗

116chiara:2004/03/14(日) 10:32
タチバナ様
トマスはオタクっしょ。神秘を体系化して言語化してみるオタク。
そしてアリストテレス・萌えオタ。
「神学大全」は彼の萌えの結露なので暖かく見守るのがよいのです。

117アイ:2004/03/14(日) 22:55
今日は正教会の礼拝(聖体礼儀)に与らせていただきました。
ほんとに長かったですー。子供も一緒だったので最後までいられなかった。2時間近くの礼拝中、聖歌隊の方々はずっと聖歌を歌い続けておられました。
途中、なんと二年前に伺った時に、案内してくださった信者さんが、子供を教会学校に誘って下さいました。一度お会いしただけなのに、お互いに憶えていて、あれからもう2年なのだな、と感慨深く思いました。(あの頃は私も熱心に教会学校のスタッフをし、教師セミナーにも通っていたなぁ、セミナーの場所がお茶の水だったので、偶然ニコライ堂に立ち寄ったのだ)

ところで、今日仕入れてきた正教会のカリストス・ウエア主教の論集はとても参考になりました。
原罪の理解についても、「正教会は原罪・堕落の事実は疑わないが、しかしその結果への厳密な定義はためらい続けてきた。いったん宣言されてしまえば取り消しや訂正が許されない強い拘束力を持つ「教義」化を避けました。・・・・
原罪についての教えは杓子定規に考えないようにしましょう。さまざまな意見の余地のある「多様性」こそがちょうどよい視野を与えてくれるはずです。」
とあり、
よって、マリアの無原罪については受け入れがたいとしながらも、原罪の結果に対するアウグスティンの考え方を共有しないために、この教義は誤りというより、むしろ不要なものです。とありました。
救いに関しても、個人的なものではなく、社会的なものと捉えています。地獄は一人で、天国はみんなで、という捉え方。
その他にも、自由意志と神の恩寵の関係など、私にとっては勇気付けられる内容が多かったです。
西方キリスト教もカトリックは途中まで神学を共有しているわけですから、同じような温度を感じるところがあります。
たぶん、神学というものは、その神学の生まれた伝統の中で話される時には良いけれど、ひとたび、その神学だけが一人歩きをし、別の伝統の中で用いられようとすると、原理化していくのではないか?と思いました。
とはいえ、いろいろなキリスト教のあり方が存在することは、やはり恵みだろうと思いました。自分に合ったところを選んでいけば良い時代なのだと思いました。

1180990:2004/03/14(日) 23:03
 マリア崇拝は、偶像礼拝という牧師に意見できるのは、ここのおかげ。神学の一人歩き。そこが、聖書の教えより教会の教えが優先と私が指摘する点。
それじゃ・・モーゼ、イザヤ、エレミヤ等どうなるの?

119アイ:2004/03/14(日) 23:13
0990さま
>聖書の教えより教会の教えが優先と私が指摘する点
え!プロテスタントの教会でそんなことを指摘されているとは、すごいです。
私はつい最近まで、それがわからなかったし、それを感じてからは冷静に対応できなくて教会にいられなくなったしまった。
ほんとにその通りですよね、聖書成立以前の方々はどうなっちゃの?ですものね。

1200990:2004/03/14(日) 23:25
 伝統的プロでは、聖書66巻は、神のゆるぎないことばとします。むしろ、伝統主義の立場の意見です。
最近の教会は、いい意味でうるさい長老がいないのでさみしい。私個人は、イエス様は、もちろん長老からの伝統を守りたい。

121アイ:2004/03/14(日) 23:46
あ、ごめんなさい、私何か勘違いしているかも。。。

1220990:2004/03/15(月) 23:12
 お気になさいませんよう。ところで、アイ様自分を責めすぎ裁きすぎかな?誤解?
聖書成立以前でも、羊の皮等巻物として存在する。そのころの指導者は、責任重大。また、口伝で大切にみ言葉は守られていた。

123名無しの神学さん:2004/04/10(土) 16:50
test

124我 </b><font color=#FF0000>(SSORBSMo)</font><b>:2004/11/11(木) 15:39
マリヤ崇敬が、いかに邪悪な行為であるかを知ってください。
http://www.soutokuhu.com/bbs/test/read.cgi?bbs=psy&amp;key=1087218197&amp;st=22&amp;to=22&amp;nofirst=true
http://jbbs.livedoor.com/bbs/read.cgi/otaku/1737/1084031772/46
ここ↑をクリックすれば誰でも納得がいくはずです。

125名無しの神学さん:2004/11/15(月) 02:10
俺さまか我(カワチ弁か?)さまかしんねんけどよ・・・
マルチポストのワンパターンマリアいじめ
のバカには用は無い。
てめえのビラ配りなんざマッピラゴメンだから
そう思え!

126よく読んどけよな!:2004/11/15(月) 02:12
マリア無原罪の教義を「マリアの神格化」として非難する輩は、
まるでマリア自身の力により無原罪で産まれたかのように考えているようだが、
もちろんローマ・カトリックはそんなことを信仰してなどいない。
あくまで神の自由な恵みによって、あらかじめ救われたのであり、
それはマリアの人間としての神への「完全なる従順」に照応した事柄なのである

127名無しの神学さん:2004/11/24(水) 14:49
諸聖人の中で最も優れている方が聖マリアです それは聖マリアが神の御一人子イエス・キリストの母として選ばれ全の天使や聖人を超えて神の恩恵を受け特別な権能を授かった故です
聖マリアがキリスト教信者の母と言われるのは聖マリアが救い主イエス・キリストを人々の為にお産みになったばかりでなく神の救いの御計画によって十字架のもとで御子イエス・キリストの救いの犠牲に預かり全の信者の心の母となられた故です
聖マリアはキリスト信者の心の母として天国で教会と全の信者の為に神に執り成しをして下さいます
(ヨハネの黙示録12.1-9,ヨハネ19.25-27)
メイン掲示板に疲れましたので此方に寄りました

128名無しの神学さん:2004/11/29(月) 01:31
「神学スレ」も「伝道」も「賛美」も開店休業状態だもんね。
某教団の「神学」も伺ってみたいもんだ。

129ルカ:2004/12/03(金) 00:01
僕は正教で洗礼をうけたいけどマリア崇敬だけは偶像礼拝のような
気がしてどうしてもできません。
僕のような正教の信者はいるでしょうか?

130名無しの神学さん:2004/12/09(木) 15:34
野球のピッチャーをする時を思い出してみよう。やったことのない人も
想像がつくでしょう。
ルールブックに「ストライク・ゾーン」が規定されており(ホームベース上、
打者の膝上からわきの高さの範囲くらいでしょうか)、その空間内を投球が
通とストライクとなります。
それで、ピッチャーがストライクを投げようとするとき、右投手なら自分の
左肩で目標と狙いをつけるのが狙い易いということですが、具体的には、
キャッチャーがかまえるミットを目標にボールを投げるのが通常でしょう。
つまり、ホームベース上の何センチ上かの空間を観念的に意識して狙いを
つけるのではなく、実際に目に見えるチームメイトであるキャッチャーの
ミットを見てそこを狙って投げるのです。
実際に遊びででも野球をやったことのある人なら、あまりにも分かり切った
ことだと思います。
キリスト教会が誕生して以来の「マリア崇敬」は、このようにピッチャーが
ストライクを投げる際にキャッチャーのかまえるミットを狙って投球すること
に酷似しています。
キャッチャーのかまえるミットを狙うと何故、ストライクゾーンを狙ったこと
になるのでしょうか?という問いは机上ではさも意味ありげに見えますが、グ
ラウンド上では愚問の極みだと言えるでしょう。
野球というゲームで同じチームになるピッチャー・キャッチャーの間にしてさえ
そのような同じ目的へ向っての信頼で結ばれるとするなら、ましてやルカ伝の記
述でも明らかなようにマリアの方を見るということは、即ちsの方は神への最短
距離の方向なのです。

131うむぅ:2004/12/10(金) 06:06
わかりやすい譬えだね。
旧約は、キャッチャーは「ヤハウェ」に決まっているのに、
「バアル」をキャッチャーにしたりするのに苦慮し、
「バアル」を捕手にするなんて「偶像崇拝」だぁ。
俺は「嫉妬深い神」なんだぞォと怒って見せたりしたわけですね。
後世のユダヤ教やイスラム教もキャッチャーは「唯一神」なのだが、
キリスト教の特色として、「イエス」をキャッチャーにしたわけですね。

プロテスタントからすると「イエス」はキャッチャーだが、
「マリア」をキャッチャーにするのは、
「バアル」を捕手にしていのと同じく、「偶像崇拝」に見える
わけですね。

132名無しの神学さん:2004/12/10(金) 09:49
>>131
「ストライクゾーン」は三位一体の神です。
三位一体自体、人間の知力を超える(信者は、神を人間の創造(想像)したものとは考えない)
ので、正しく、不足なくイメージしにくい。
プロテスタントが「イエスをキャッチャーに」とは言い切れない。千差万別。
イエス=キリスト=神で、真の人であり、同時に真の神なので(キリスト教は)、唯一神という
ストライクゾーンのためのキャッチャーが「イエス」、というのは三位一体の神観からは違和感
がある。

 ていうか、なんかわからんけどマリア様〜、ってずーっと思ってきたんでしょうw

133名無しの神学さん:2004/12/10(金) 09:53
>>131
イエスをキャッチャーとすると、イエスが神ではないという感覚。
もっとも近年、新旧教問わず「人間イエス」という切り口が流行ではありますが。

134うむぅ:2004/12/11(土) 00:06
132さんに一本取られた汗。

プロテスタントのスタンダードは「トリニティ」だね、確かに。

133さん。
そですね。ノンクリの私からすると、「人間イエス」とかはわかりやすいし
イエス=キリストまでは感覚的に理解できても
ヨハネのイエス=ロゴス論とか、
公同書簡のイエス=真の神は、感覚的にすこし違和感あるかも・・・
正直なところ汗

135うむぅ:2004/12/11(土) 00:10
カトリックについて色々教えて貰っているネットのカトさんからの
アドバイスでは、
私はヨハネ伝とロマ書の深いつながりを理解できてないので、
イエス=神は、わからんのだということになるのだが・・・

ヨハネ福音書は まだ私にはむつかしすぎて 理解できん汗

136名無しの神学さん:2004/12/19(日) 17:35
寛容が大事

137名無しの神学さん:2010/09/07(火) 14:36:36
ですね


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