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群馬県民スレPart2
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感じるブラジル@TOKYO(4)移動販売車 都内を駆ける 懐かしい味ぎっしり【東京】
2016年1月5日東京中日
移動販売車の中で、接客するアントニオ・志小田さん(右)=港区で
木曜の午後、港区北青山のブラジル大使館前に大型トラックがやってくる。荷台のコンテナには、カラフルなアイスクリームやチーズの写真が並ぶ派手な広告が掲げられている。ブラジルの食品や日用雑貨の移動販売車だ。
車の主は日系ブラジル人のアントニオ・志小田(シコタ)さん(53)。サンパウロ州カンピーナス市出身で来日二十七年目。群馬県大泉町の自宅から週一回訪れる。コンテナの後部扉を開けると、狭い通路の両側に商品がぎっしり。肉、野菜、菓子類、酒、化粧品…。大型の冷凍庫や冷蔵庫も備える。
およそ八割がブラジルからの輸入品。中でも、ブラジルのコロッケ「コシーニャ」や鶏肉入り一口パイの「エンパーダ」など、総菜類は大人気だという。
準備ができると、すぐ買い物客が入ってくる。ほとんど大使館の職員たち。客は志小田さんに話し掛け、会話が弾む。だから、なかなかレジが終わらない。それでも、とがめる人もなく、行列が続く。「ボンセルヴィーソ」(仕事頑張って)、「オブリガード」(ありがとう)とポルトガル語が行き交う。
毎回買いに来るという大使館職員のネルソン・ソノダさん(50)は「この店完璧、文句のつけようがないね」と笑う。大使館の女性職員(43)は「懐かしい物がたくさんあって大好き」と、ブラジルのお菓子作りに使う食材を買い込んだ。
「ここでの移動販売は大使館から頼まれて。もう十四、五年になるかな。みんな待っててくれるから、やりがいがある」と志小田さん。二十代半ばで来日した時は一年で帰るつもりだった。しかし、食品販売の会社で働くうち、日本で暮らす道を選んだ。十六年ほど前に会社が倒産し、それを機に独立。今は大泉町などに店を構え、ネット通販も手掛ける。
二時間ほど大使館前で商売した後、五反田のブラジル銀行前へ移動。さらに東京駅、北赤羽などをトラックで回り、深夜まで営業する。「東京でも日系ブラジル人がたくさん働いている。企業の寮に横付けすると、みんな故郷の味が恋しくて買いに来てくれる。だから頑張らないとね」
日系ブラジル人は、一九九〇年に入管難民法が改正され、日系三世までとその家族は職業の制限なしで日本での就労が可能になり、急増した。志小田さんが来日したのもそのころだ。日系ブラジル人女性と結婚。子どもが二人できたが離婚し、今は一人で暮らす。「子どもたちとはたまに会う。仲はとてもいいよ」
志小田さんによると、ブラジル人の集まる大泉町では、リーマン・ショックで失業したり、大震災や原発事故が起きたりして、ブラジルに帰った人がかなりいたという。ただ「最近また戻ってきている。ブラジルも大変で、景気は悪いし、治安もよくないから、日本の方が生活しやすいと思うよ」。これまで帰国したのは一度だけ。「これからもこの仕事を続ける。仕事が恋人かな」とほほ笑んだ。 (鈴木貴彦)
<日系ブラジル人> 1908(明治41)年に始まった移民事業でブラジルに渡った日本人とその子孫。80年代後半以降、ブラジル経済の破綻と日本のバブル景気を背景に、移民とは逆に日本へ出稼ぎに来るようになり、特に90年の入管難民法改正で急増した。多くが群馬県太田市や大泉町、浜松市や愛知県豊田市など、自動車関連の工場のある都市やその周辺に住む。最盛期は31万人(2007年)を超えたが、リーマン・ショック(08年)を境に減り、現在は17万3000人。
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