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群馬県民スレPart2
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「上毛かるた」は群馬の象徴である。そのことに凡人はまったく異議はない。ただ凡人は否定的な意味で言っている。凡人はそれが馬鹿の一つ覚えを繰り返す群馬の後進県振りを助長している元凶と解釈している。マスコミや製造元では絶賛する言葉で埋まる上毛かるたであるが、凡人が強調する負の価値がまったく聞こえてこない。昭和22年の上毛かるたの世界が、現在の群馬そのまま。改訂は「力あわせる160万」の数値が人口の変遷に沿って変っただけ。驚くべきこと、ある意味悲しむべきことである。例えば「ねぎとコンニャク下仁田名産」「日本で最初の富岡製糸」「桐生は日本の機どころ」。それらの自治体はどれも人口減が激しい地域。地域活性化の必要性があっても、その施策は上毛かるたに沿っている。そして、凡人にはどれも成功しているとは考えられない。いろいろな手段や方法や工夫があるにもかかわらず、伝統に自らを縛り、マンネリした地域活性化政策で満足し、毎年何度も繰り返して、決して省みない。当然ながら、地域の活力がどんどん削ぎ落されて止まない。それを変えるきっかけさえ思いつかない。なんともお粗末。県民の「固定された頭」は未来がまったく見えないか、または未来を追及することさえしない。そんな態度がいろいろな政治・行政・教育の場で頭をもたげる。群馬のやるべきことは自治体のあるべきすがたを、将来を見据えて真剣に討論し考えることから始まる。上毛カルタに洗脳されたままでは、群馬の将来はない。
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上毛かるた作成の中心、浦野氏長女・西片恭子さんに聞く 群馬
2015.12.25 07:03
■上州人の心の原点 子供に郷土の文化と歴史
戦後復興の途上、昭和22年に誕生した「上毛かるた」。「つる舞う形の群馬県」-と70年近く県民に親しまれ、その心の原点といえる。作成の中心となった故・浦野匡彦元二松学舎大学学長の長女で元群馬文化協会理事長の西片恭子さん(81)にその思い出を聞いた。
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「昼間は引き揚げ者や被災者の援護活動に走り回り、夜は自宅でかるたの選考をやっていました。当時小学生だった私に、『どっちがいい?』と子供の意見にも耳を傾ける人でした」
西片さんは、父との会話を昨日のように思い出す。
かるたの構想を発表後、県民から272件の題材が寄せられ、七五調の44枚を作成。23年から県内各地で上毛かるた競技大会が催されるなど、他地域の郷土かるたとは比較にならないほど浸透した。
浦野は明治43(1910)年、長野原町に生まれた。旧制前橋中学から二松学舎専門学校に進み、卒業後は外務省の給費留学生として北京で学び、満州国官吏として北京大使館一等書記官などを務めた。昭和21年、家族とともに北京から群馬に引き揚げた。戦後は母校の学長のほか、日本遺族会副会長や靖国国家護持活動に打ち込み、61年12月に76歳で死去した。
「誰もが食べることに精いっぱいの時代。郷土の子供たちに誇るべき群馬の文化と歴史を伝えたい、と同じ思いの人たちとかるた作りに取り組みました。復員軍人や東京から疎開してきた人たちなど、いろいろな人が家族的な雰囲気の中でかるたを作っていたのを思い出します」
今年は11月に亡父の三十年祭を終え、西片さんにとっても節目の年となった。
「日本と中国に終生こだわり、郷土と日本に持ち続けた感謝の気持ちを子供たちに植え付けたい、という父でした。上毛かるたを通して、その精神が受け継がれることを祈ります」(谷内誠)
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