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群馬県民スレPart2
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女工哀史についての御回答の件
ignorancerexさん 2012/10/1100:30:10
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1295464632
学生時代は経済専攻でしたが、明治初年から大正にかけての女性労働者の労働条件に関する科目は取ったことがありませんし自宅に資料や書籍もありません。従ってネットによる検索であることを先にお断りしておきます。
ご存じかと思いますが富岡製糸場は、日本初の近代的官営製糸場として明治5年に操業開始しました。お雇い外国人のフランス人技師ポール・ブリューナの指導により建設されましたが、単に生産設備だけではなく福利厚生施設、病院なども備え就業規則なども作成され、日本のモデル製糸場として開設されました。
工場・機械・設備などは比較的スムースに導入できたものの、富岡製糸場が直面した最大の問題は工女の募集難で、明治政府ははじめ入間・群馬・栃木・埼玉・長野の5県に工女募集の布告を出したが50〜60名が応募しただけだったと言われます。そして「毛唐人に教えてもらうのは汚らわしい」、「石炭の煙が毒になる」、「生血を搾られる、現に赤い血(red wineのこと)を毎日飲んでいる」などの噂が流布され、工女募集に応ずるものがきわめて少なかったそうです。このため政府は1872(明治5)年5月に「製糸告諭書」を全国に布告し、さらに同年9月にも「富岡製糸工場繰糸伝習工女雇入心得」を北海道以下10県(水沢、岩手、宮城、秋田、磐城、山形、若松、福島、置賜、酒田)に発布してデマを打消し、工女の募集に努めたものの依然応募する者がなく、政府はやむなく旧士族階級の娘たちを雇い入れ、ようやく100余名に達したがそれでも予定の4分の1以下でした。このため初代工場長の尾高惇忠ら関係官吏は自分の娘を説得して工場に送り、工女募集の呼び水的役割を演じさせた。その効果があって応募者は次第に増え、開業の翌年1873(明治6)年2月には404名に達することができた、とあります。当初、富岡製糸場の工女は武家や官吏の娘達で、いわば当時のエリート女性や上層の娘達だったのです。このため没落士族の救済措置ではなかったと思います。
これに対し岡谷の製糸場の場合、諏訪郡の製糸工女の供給地は農業地帯であり、とりわけ「地主小作関係が全国水準なしいはそれ以上に展開しているか、さもなければ岐阜県北部=飛騨のように農業生産力がきわめて低い」地方であったこと。特に工女の出身農家の圧倒的な部分は小作農および非常に零細な耕地を所有する小自作農に属していたこと。この意味において、農村社会を支配していた地主制度は労働力の面において製糸業の発展と密接に結びついていた、特に収穫の5〜6割にも達する高率小作料に圧迫されていた小作農は貧困な家計を補う目的で、または高率小作料を支払う手段を得るためにも娘を製糸工場に就労させたのである。そして、地主制度により圧迫された農村の貧しさも、製糸業の劣悪な労働条件の存在及びその引き下げを可能にしたといってよい、とあります。確かに熟練工女は貴重だったかも知れませんが、幾らでも補充のきく消耗品扱いだったのかも知れません。
また雇用契約の面では1895年(明治28)年に結ばれた雇傭契約を例に取ると
第1に、雇傭契約は双務契約(合意契約)ではなく、工女側の一方的な誓(約定)という形式をとっている。特に工場主の義務(賃金の支払いの義務を含めて)については一切言及されていない。そして契約当事者は工女自身ではなく、工女の父兄(戸主)である。
第2に、約定の基礎は工女の労働に対応する賃金の支払いではなく、戸主が受け取った約定金(手付金)である.
第3に、工女の義務は曖昧に規定され、拡大解釈の余地を残していた.
工女は就業するだけではなく、工場主の「家則」さえも「確ク相守」しなければならなかった。そして契約期間中に工女は退職できず、とりわけ工女が就業できなかった場合、その代人を出すことも規定されている.
第4に、約定の違反の際に工女側が適当な損害金を負担することも規定されている。ただし、上記の事例では倍率は不明であるが、甚だしい場合は約定金の20倍の損害金を弁済させるケースすらあった.要約すれば、この契約書にみられる製糸労働者は自由な賃金労働者というよりも、むしろ労働によって前貸金を返済するために工場主に縛られていた労働者であったといってよい、とあります。現代の契約の概念からはほど遠いものでしょう。
一方は頼まれて就労した武家や官吏の子女(当時のエリート女性や上層の女性)、他方は貧しさ故に就労しなければならず、しかも前借金に縛られていた貧農の娘達。待遇に大きな格差があるのは当然だったと思います。
なお富岡製糸場は官営モデル製糸場として開設されたために採算性が悪く、営業成績は赤字だったと言われています。
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