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群馬県民スレPart2
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戦後70年 群馬の戦争
2015年08月26日 朝日
(3)鉄鉱石調達で鉄道敷設
写真:1955年ごろの太子駅。C11機関車の横にホッパーが見える=安原義治さん撮影
写真:太子駅跡に立つ安原さん。中之条町は土砂に埋もれていたホッパーの基部やホームを掘り出し、公園整備を進めている=中之条町太子
緑のコケに覆われた岩の間を渓流が駆け下る。中之条町西部にある「チャツボミゴケ公園」。5月にラムサール条約に登録された芳ケ平湿地群の中にあり、休日には涼を求める観光客でにぎわう。
戦時中、旧六合(くに)村の山深いこの岩場が、にわかに脚光を浴びる。鉄鉱石の巨大な鉱脈が見つかったためだ。戦局の悪化で鉄鉱石の輸入が滞り、国から「群馬鉄山」の開発を急ぐよう厳命が下った。鉄鉱石運搬鉄道として2年余りの「突貫工事」で敷かれたのが、長野原線、現在のJR吾妻線だ。
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『六合村史』(1973年)が、急ピッチで進められた鉄山開発の模様を伝えている。
43(昭和18)年6月、鉱業権を取得した日本鋼管に国から「昭和19年9月までに開発を完成し、年産30万トンを輸送すべし」と命令が下る。軍需省の役人が常駐して監督する中、千数百人の作業員が昼夜3交代で山を切り開き、工事用道路や運搬用のケーブルを取りつけた。村史には「特攻隊の名のもと、400人が囚人服に日の丸鉢巻きを締めて乗り込んできた」と、前橋刑務所の囚人まで動員されたことが記されている。
だが、零下20度の冬の寒さが作業を阻んだ。採掘を担った軍需会社・日本鋼管鉱業の関係者は「セメントと砂利と水が凍り、練ることができない。熱湯をかけたが、2、3度シャベルを突っ込むうちに凍ってしまう」。作業員に配る食糧事情も悪化し、当時の労務担当者は手記で「米が麦、麦が大豆となり、コーリャン、ついにはドングリ団子にまで下った」と振り返っている。
長野原線の敷設工事は42年から始まった。渋川―長野原(現長野原草津口)間42・3キロを八つの工区に分け、延べ数十万人が競い合うように働いた。住民や学生の勤労奉仕のほか、多数の朝鮮人も動員された。
元六合村助役の安原義治さん(87)は当時、中之条農業学校(現中之条高校)の生徒だった。「授業はなく、畑の開墾か鉄道工事に行くかの毎日だった。汽車を見たことのない住民がほとんどで、線路が通るというので喜んで工事に協力したものです」
鉄道関連の資料は、終戦時に焼却されたのかほとんど残っていない。作業員らの手記を読むと、吾妻渓谷など難所が多いうえに、資材不足、時間不足で無理な作業の連続だったらしい。
「セメントが払底していたので、橋台、橋脚には雑石30%を混入し、雑石コンと呼んでいた」「バラス(砂利)を敷いていない裸線だったから、カーブで脱線するのが当たり前という感じだった」「昼夜を問わない線路の中の作業で、車両に押し潰された仲間もいる」
鉄山で露天掘りされた鉄鉱石はケーブルで約8キロ離れた太子(おおし)に運ばれ、貨車に積み込まれる。太子―長野原間(5・8キロ)の専用線もでき、45年1月、長野原線は開通した。すでに日本の敗色は濃厚になっていた。
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終戦で休業になった群馬鉄山だが、ほどなく操業を再開する。外貨不足から鉄鉱石の国内調達が求められるようになったためだ。復興需要の高まりの中、増産に次ぐ増産で一時は月産2万トン、釜石鉱山(岩手県)に次ぐ国内2位の産出量を誇った。
その頃、安原さんは鋼管鉱業に入社し、太子駅で鉄鉱石の積み出し管理の仕事をしていた。「太子駅にあったホッパー(鉄鉱石を貨車に積み込む施設)には鉄鉱石が山のように積み上がり、機関車に引かれた貨車がひっきりなしに出入りしていた。群馬鉄山は戦争には役立たなかったが、戦後復興には大いに貢献した。そう自負しています」
高度成長さなかの65年、群馬鉄山は役目を終えて閉山する。それを前に、鉱山開発当時の六合村長、湯本貞司氏が鋼管鉱業の社報にこんな一文を寄せている。「貴社は戦争で生まれた鬼子であったかもしれませんが、戦後、民主的に再生されて、立派な業績を積まれ……」
戦後、地域の足となっていた長野原線は71年に嬬恋村の大前駅まで延伸され、吾妻線と改称した。同時に太子―長野原間は廃止された。
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