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群馬県民スレPart2
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戦後70年 群馬の戦争
2015年08月26日 朝日
(1)「軍都」高崎、派兵の歴史
写真:1932年、大手前通りで出征する兵士を見送る市民=高崎市発行『高崎百年』から
写真:かつての営門付近。左奥の建物は群馬音楽センター、右に歩兵15連隊の記念碑が見える=高崎市高松町
高崎駅から高崎市役所に延びる駅西口前通りは、70年前まで「凱旋(がいせん)道路」と呼ばれた。1933年、陸軍歩兵第15連隊が上海事変から帰還する際、道路を広げてこの名がつけられた。
いまも駅前で営業する豊田屋は、軍の指定旅館だった。先々代の娘に生まれた園原敏子さん(93)は、その頃のにぎわいを覚えている。「将校さんたちの宴会が頻繁に開かれ、出征する兵隊さんの家族もよく泊まったものです。朝から晩までご飯を炊き、息つく間もないくらいでした」
部隊が駐屯していた兵営は、現在は市庁舎や群馬音楽センター、公園などがある高崎城跡の広大な区域を占めていた。東の営門を入ると、右手に連隊本部、正面に木造2階建て、全長140メートルの巨大な兵営が3棟並んでいた。大小の倉庫や武器庫、練兵場や陸軍病院もあった。
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15連隊は、日露戦争(1904〜05年)で旅順の「164高地」を激戦の末、落としたことで知られる。乃木希典大将がこれに「高崎山」と名付けたことは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』にも出てくる。群馬、長野、埼玉出身者らで編成され、以後も数々の対外戦に派遣された。
だが、その最期は悲惨だった。太平洋戦争末期の44年、15連隊はパラオ諸島に派遣される。ペリリュー島をめぐる米軍との2カ月半に及ぶ戦いで、15連隊の二つの大隊が水戸の第2連隊とともに全滅した。日本側の死者1万22人のうち、15連隊は1702人にのぼった。
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37年に日中戦争が始まると、高崎では115連隊や215連隊などが相次いで編成された。近年になって資料の発掘が進み、その活動実態が明らかになってきた。
98年、前橋市内で115連隊の中隊長の遺品が入った行李(こうり)の中から『南京城攻略戦 戦闘詳報』という冊子が見つかった。ガリ版刷り約160ページ。元群馬大講師(近現代史)の岩根承成(つぐなり)さん(73)は一読して驚いた。「115連隊第2大隊が、日々の戦闘を記録した軍の公式資料でした。敗戦時にほとんどが焼却処分され、残ったのは奇跡に近い」。しかも37年12月10〜14日の5日間の記録で、まさに南京占領(12日)の戦塵(せんじん)の中で書かれたものだった。
日本軍の各部隊が「南京一番乗り」を競う中、第2大隊の659人は2千人以上の中国兵が守る南京城の雨花門から突入した。詳報は「その大部を殺し、多数の武器・弾薬を遺棄せしめた」などと激しい戦闘の模様を伝えている。日々の捕虜の数のほか、奪った銃や砲弾、食糧の数量も「戦利品」欄に細かく記載している。
食糧確保の「徴発隊」が組織されていたことも分かった。岩根さんは「民間人の虐殺や虐待を裏付ける記述はないが、現地調達がその伏線になったのではないか」とみる。
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