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戦争を考える

28匿名:2005/11/18(金) 21:54:13
>先の大戦で数百万人の人々が家財産、親族を失った。わたしの一族もそのうちに入ります。何ら保障もなく、ただ、負けたこの馬鹿げた戦争に対して失ったものから大きな憤りを覚えることを記したのが、わたしの投稿です。

読ませて頂きました。その憤りは、理解しております。当時の日本人は皆、あの戦争を通して何らかの被害を受け、それは今日まで代が変わっても、大なり小なり何らかの影を落としてきているでしょう。

余談になりますが、犀角独歩さんは、「無礼」という言葉を、「失礼」よりも先によく書かれていらっしゃるかとお見受けします。「無礼」という言葉は、「立場が上の人」が「立場が下の人」に向けて発せられる語彙だと思うんですね。この語彙が、ごく自然について出るところから、記述されたご出生があらわれているなと拝見しておりました。

先の戦争は、そもそもどの時点から始まったことなのかを、歴史的に紐解いていくと、それはどうしても、1867年の「大政奉還」にあるといえるかと思います。
もっと厳密にいえば、1853年の「ペルー来航」かもしれません。軍事的威嚇をもって開国を要求してきたときから端を発しています。
あのとき、もし開国を拒否していれば、その時点で「開戦」です。
水戸藩をはじめとする尊皇攘夷派は、まさに「応戦」するつもりでいたようですが、しかし、十五代将軍徳川慶喜公は「大政奉還」をして開国する道を選んだわけです。犀角独歩さんのご一族の、いわゆる国家的意味での犠牲は、ここから始まっておられるのだと思います。
しかし、この時点で開国を断り開戦となっていれば、どう考えてみても戦力からして全く勝ち目はないわけです。ここで開戦していれば、他のアジア諸国同様、日本は間違いなく植民地化されている事態となっていたことでしょう。
ですから、犀角独歩さんのご一族にとっては犠牲を強いられたわけですが、日本国家全体のことを考えれば、これは間違った選択だったとはいえません。
しかし、開国するということは、近大国家の仲間入りを余儀なくされ、同時に覇権争いの渦中に入ることを意味します。つまり富国強兵政策を取らざるを得なかった。とりわけ明治政府は、開国のときの日米修好通商条約をはじめとする、不平等条約を撤廃することを悲願として40年以上働き掛け、一応は実現するわけですが、その流れのなかで、日本は大戦に巻き込まれていくわけです。
どの時点で、犀角独歩さんがいう「馬鹿な戦争」に巻き込まれてしまったのかは、一概に確定できるものではないかもしれないでしょう。国内的には、国家総動員法発布のときかもしれませんし、国際的には、日露戦争の勝利のときか、日韓併合の時点なのか、国際連盟脱会のときか、日独伊軍事同盟のときか、どの時点とも確定し難いわけです。
しかし、日本が国際的に追い込まれていく側面は、間違いなくあるわけです。それを回避する方法は、なんとか他になかったのかということになりますが、今を生きる私には、それはとても思いつきません。
ただ、長い歴史のスパンでみると、開国のときに先延ばしにした「決戦」を、ある程度の近代的な力をつけた昭和の時代に持ち込み決着せざるを得なかった、という見方もできるのではないでしょうか。
戦争を回避する方法が他になかったのか、もっと早くに終結する道をなぜ選ばなかったのか、いろいろあります。しかし、もうこれは歴史に刻まれた事実であり、私たちはそれを受け入れざるを得ません。


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