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戦争を考える
10
:
犀角独歩
:2005/11/14(月) 09:56:32
―9からつづく―
> 国家に対しての仏教からの反戦の訴えには、限界がある
では、反詰しますが、以上のように日本国民でもある仏教徒が、その国民という立場から、反戦の訴えをすることに限界があるとすれば、‘限界なく反戦の訴えが出来る’国民とは、どのような種類の国民であるというわけでしょうか。
> 国家から抜け出たときに、その限界を超えられるものなのではないでしょうか。
これは全く逆です。国家を抜け出た真の出家が超える限界は、社会そのものであり、その点で、社会を相手取ることはありません。いわゆる「浮世離れ」と言うことです。しかし、上述したとおり、このような立場を国は認めていません。
> 仏教徒にとって、戦争こそ、自らの不殺生戒の妨げになるものでしょうから。
ですから、反対するのです。
しかし、あなたの言動で、ここでも一つ勘違いしているのは、不殺生界は自戒であるから個人の限界を超えない・故に社会を変える力とはならないとする点です。
先に、例に示したとおり、不殺生、無抵抗、非暴力、不服従によってガンジーを中心とするインド国民は独立を克ち取っています。
祭政一致であった時代、生け贄の儀式をなくしていったのも仏教の不殺生ということであったでしょう。日本では肉食は明治までその習慣を失い、現在も日本で人々が護身のために武器を持たずとも安全に生活できるのは、不殺生という考えが少なくとも人間相互で暗黙の了解となっているからでしょう。このような殺人への罪悪視は仏教の不殺生の教えを通じて日本社会に根付いてきたよき習慣でした。
上述の話と関連することですが、仏教徒は信条信念信仰の面で不殺生の自戒をもち、何より前提として、一国民として、思想信教の自由を訴える権利を有します。故に人類の到達すべき目標とする、不殺生、非暴力、不戦を理想とし、その実現を仏教徒として、そして、国民として訴えるということです。別段、ここに限界はありません。
仏教徒から見る戦争とは大量殺戮であり、たとえば国家命令により兵士となって攻撃をし、相手が死ねば、それを殺人と見なします。また、死刑執行も殺人に他なりません。故にそれら自戒という範囲に留めず、不殺生という見地から反対を述べるとき、その自戒の限界を超えていきます。不殺生は自戒する理由は、その行いが最大の過ちであるからです。ですから、その過ちを自ら犯さないことと共に人に為させない、それはシャキャムニ在世の時代から現代に至る仏教徒の不変の信念と行動です。
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