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現代人が納得できる日蓮教学
97
:
乾闥婆
:2005/07/29(金) 22:45:25
続き
>この‘立て分け’は実は日蓮の思弁とも行為とも違っていませんか。違っていながら、日蓮の漫荼羅・唱題という方途を使用することに矛盾はないでしょうか。
蓮祖の生きた時代は仮想現実として、宗教を捉える側面はありえたのかどうか、が問題となると思われます。中世日本においてたとえば浄土は実態として捉えられていたのではないでしょうか。補陀落渡海などはその現われだと思います。そうしますと、やはり蓮祖の霊山浄土観も実態的に捉えられていたのでしょうか。もとよりそれらを検証する能力は私にはございません。先に記した内容とも重なりますが、もし蓮祖がそれら信仰体験を一種の理念として捉えているのであれば、現実を理念の側へと近づける方向での思弁・行為はあったとしても、現実・仮想現実の二分法はなかったとはいえないのではないでしょうか。「観心本尊抄」に見られる「今、本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり」といった「いま、ここ」を浄土に見立てる思弁もありますが、後生に行くべき霊山浄土、といった思弁もまた持ち合わせています。理念と現実との乖離は現代社会においてますます大きいとは思われますが、それゆえに宗教のあり方やその存在意義が問われるのだと思います。蓮祖の現代的受容とはそのような時代の相違を踏まえながら、なおかつ現代人にとってどのように有効かを考えなければならないのでしょう。
>もっとも、このような変更がなければ、日蓮は21世紀に生き残りようはないかも知れません。わたしはしかし、このような部分に意義を見出すと言うより、むしろ、「何をしているのか」という公共利益への換言として「納得」させるほうが、先決であり、理解も進むとは思います。
それはある意味で宗教者の行う慈善事業などへの理解ではありえても、宗教そのものへの理解ではないことでしょう。もちろんそういった社会貢献という側面や、その行動に対する社会の「納得」は重要なことではありますが、それは「日蓮教学」の現代的受容とは違った側面の話になるのではないでしょうか。宗教のその教義内容へと足を踏み入れて現代的受容がありえるのかを検証するのが、この掲示板の重要な意義であると考えております。
>これは一種の温存療法と、わたしには映じます。
この掲示板に出入りをするようになって、このようにはっとさせられる言葉に何度もめぐり合います。「温存療法」「あとから知った者の、自己弁明」とはまさに、そうであるのだと、改めて自身のありようを確認いたしました。ありがとうございます。「さらに前へ」進まなければならないのでしょう。その行き道をこの掲示板を読みながら考えていきたいと思います。
>乾闥婆さんの漫荼羅はご自身のために記されたオーダーメイドですか。
いえ、レディーメイドです。そういうものがありえるとして…
>ご訂正の部分、元のままのほうが、本尊相伝に近い気がします。
そうなのですか。曼荼羅は虚空会に擬したつくりであると思っていました。二仏並座の姿でもありますし。…
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