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現代人が納得できる日蓮教学

88犀角独歩:2005/07/26(火) 09:24:38

―87からつづく―

わたしはこの問題を考えるとき、過去10年の経験から、二つの‘資材’をここで考えに入れざるを得ません。一つは信仰実勢に基づく、体験功徳は、宗教の数だけある、あるからこそ、宗教として成り立っているということ。もう一つは、オウム真理教脱会支援において、もっとも障壁になるのは、信者の神秘体験であり、この‘実体験’から彼等はなかなか卒業できないという問題です。

前者について言えば、日蓮教義が現代の科学的成果から「物語」にすぎないとなると、では、他の体験を得る方法のなかから、何故漫荼羅か・唱題かという特定する根拠も崩れている現実があります。つまり、「物語」と方法は、日蓮が御立てた通り、実は不離の関係にありませんか。

後者で言えば、実体験、神秘体験は「個人的リアリティ」と分析され、宗教病理であれば、感応、妄想を含めて、このような特異体験は、薬物、若しくは脳内分泌物質異常と判断され、「正常」と診断されることはないように思えます。再現性のない因果論を「絶対」「最高」と断言すれば、一般では虚偽に分類されるだけです。さて、どうするか、です。

この二つのハードルを越え、どうやって他者に‘納得’させるのかという問題が残ります。個人的な体験だから、他者は関係がないというのであれば、それはそれです。個人として、実感し、口をつぐんでいればよいわけです。しかし、そうなれば、布教という使命は果たせないことになります。

> 霊山浄土を言い始める蓮祖には、また強い興味…霊山会への没入

この辺りから、日蓮は、自分の死を確実なものとして意識しはじめたのであろうと思います。法華経精神からは逸脱した、極楽往生という若い時代の修学への退行現象のようにも思えますが、林棲・瞑想、弟子の育成のみならば楽でいいかも知れません。

> 仮想現実が仮想であることを認識している…夢の外に立つ人間

では、ずばりお尋ねしますが、それが日蓮が示した教えと同様でしょうか。
この‘立て分け’は実は日蓮の思弁とも行為とも違っていませんか。違っていながら、日蓮の漫荼羅・唱題という方途を使用することに矛盾はないでしょうか。

かつて創価学会のキリスト教批判で使われた言葉ですが、二面分離とは「二重人格」という批判を免れ得ない側面もあることは考慮されなければならないと思います。

もっとも、このような変更がなければ、日蓮は21世紀に生き残りようはないかも知れません。わたしはしかし、このような部分に意義を見出すと言うより、むしろ、「何をしているのか」という公共利益への換言として「納得」させるほうが、先決であり、理解も進むとは思います。

> 境界線を知っている…境界線を設けている…両世界を行き来します。それ以外に宗教が現代社会で、実害なく生き延びる方途が見出せない

これは一種の温存療法と、わたしには映じます。
一つの方途でしょう。しかし、このようなことを、まずインフォームドコンセントして、そのうえで、現実と物語を往来する必要性を感じる人がどれほどいるか、疑問は残ります。「あとから知った者の、自己弁明」としては意味を持つことは事実だと思いますが。

> 日々の曼荼羅に向かって

まあ、これは余談ですが…、
日蓮の漫荼羅図示というのは実に‘オーダーメイド’だと思います。
用途、授与者に合わせて、自在に図しています。
今さらに記してどうなるのかという反詰する向きもあるかも知れませんが、それでも敢えて述べれば、結局のところ、自分用に図示された漫荼羅へ向かうということが、実は日蓮外とした漫荼羅信奉の基本である。それが既に本で師の段階で見失われて700年経ったという一面を、わたしは見逃しません。
乾闥婆さんの漫荼羅はご自身のために記されたオーダーメイドですか。

あと、これまた、蛇足ですが、ご訂正の部分、元のままのほうが、本尊相伝に近い気がします。


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