したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

現代人が納得できる日蓮教学

87犀角独歩:2005/07/26(火) 09:23:54

―86からつづく―

> 曼荼羅へ向かう…法華経の霊山会の再現…参加

このような個人的な体感は否定されるところはありません。
しかし、霊鷲山は法華経序品では「耆闍崛山中。与大比丘衆。万二千人倶」と1万2000人の弟子を釈尊が連れ立っていたと記述されますが、この山は小さく、せいぜい50人も集えばひしめき合うことになるというのが現実だそうです。(わたしはまだ渡印していませんので、旅行記を来たい話を記すことしかできませんが)また、虚空会という記述は物語としてはけっこうですが、そんな史実はあるはずはありません。さらにこの会(え)の時間は、「五十小劫」、しかし、それを「謂如半日」というわけです。五十小劫がどれほどの時間であるか、わたしは理解できませんが、「霊山八年の説法」とは矛盾します。さらに法華経をシャキャムニが説いていないことも明確になったいま、かつて、わたしもかつて懐いたこの‘イメージトレーニング’は、色が褪せてしまいました。

さらに当掲示板でも議論してきましたが、真跡遺文と史実から鑑みるとき、日蓮が漫荼羅を拝んでいた形跡には当たれません。実際のところ、漫荼羅の‘用途’とはなんであったのか? という難問が解けない限り、わたしは、漫荼羅への読経・唱題を布教する蛮勇は俄に生じない気分になりました。

要は、わたしが、このスレッドで問題にするのは、この点です。日蓮門下は法華経から「広宣流布」という布教を、半ば宗教義務としています。となれば、たとえば、信仰者が、…乾闥婆さんがと、特定してもよい訳ですが…、わたしに布教しようとしたとき、以上のような反論を為されるとき、いったい、どう対処するのか? というのが、わたしが投げかける疑問です。これはしかし、学会を含む石山僧俗に止まらず、日蓮門下全般、それどころから、日本仏教界全体の大問題ではないのかと、わたしは問うているわけです。
単に不信謗法だなんだと人格攻撃をしたところで言った本人の良識が疑われるだけの話です。

結局のところ、この問に対して、明確な回答、否、回答がないにせよ、信仰として勧められるべきものを呈示できなければ、死滅することになると、わたしは記しているわけです。これは日蓮と、その教学に対する批判であるとかなんとかというレベルの話ではありません。一般社会の実状・現状から鑑みた‘警鐘’です。

> 蓮祖…体験を通しての大きな飛躍

これもまた事実ですね。たとえば、生身虚空蔵菩薩から智慧宝珠を袂に入れてもらったこと、不動・愛染感見という‘体験’からの飛躍といえば飛躍といえるかも知れません。
また、当時流行しはじめていた「南無阿弥陀仏」に代わり、「南無妙法蓮華経」だというのは、天台教学の法華最為第一からの帰結であるにせよ、飛躍といえば、飛躍です。さらには漫荼羅図示に至っても飛躍といえるかも知れません。その他、教学的立場にもそのような点は散見できるかも知れません。

ただし、ここで、わたしが「納得ずくめ」と記したのは、要は、日蓮が厳格に(当時信じられていた)仏説に忠実であろうとした姿勢を表現したものでした。

> …内部と外部のせめぎあいという構造的な問題はどこまでいっても残り続ける

この点は、よくわかります。
勝手に翻訳すれば、「唱題の実体験」は経験し、実感を得たものしかわからないということでしょう。ところが実際のところ、法華経は非仏説、その他も「物語」に過ぎなかったという、‘パンドラの函’は開いてしまいました。けれど、それでも、唱題によって得た体験は如何ともし難いというのが経験者の偽らざる心境と言うところでしょう。乾闥婆さんが漫荼羅・唱題を終生やめないと仰るのもそんな意味でしょうか。(この気持ちは、中学1年から朝晩の唱題と1時間の唱題を欠かさなかったわたしの経験からも痛い程もわかります。痛い程わかりますが、さらに前へ、わたしは進もうと思いました)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板