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現代人が納得できる日蓮教学
84
:
乾闥婆
:2005/07/25(月) 16:04:43
続き
>このような姿勢は、ご本人、気を悪くされるかも知れませんが、まるで、親鸞の言う信仰観に酷似していますね。
そうなのかもしれません。私はほかの宗祖もそれぞれの物語を模索した偉大な宗教家と考えていますので、気を悪くすることはございません。犀角独歩さんは身延隠棲後の蓮祖を評価しない、といわれていたように覚えていますが、私には身延隠棲にいたり、霊山浄土を言い始める蓮祖には、また強い興味があります。霊山会への没入といった印象があり、もっとそのあたりは勉強しなければならないと考えています。
>一つのものを多面的に観察する見識眼を養うということです。一人の宗祖、一仏、一経、相対的に取捨すれば最高のものが残るというのは幻想に過ぎないでしょう。
同意いたします。さまざまな側面を視野に入れて考えるべきだと思います。
>これは換言すれば、仮想現実の住人、夢の住人、妄想の住人となるという意味になりませんか。自分が納得できるベッドを用意して、現実を放り出して、夢を見ることが宗教ですか。日蓮の考えからもかけ離れているように見えますが。
しかしそのような仮想現実が仮想であることを認識している人間は、夢の住人ではなく夢の外に立つ人間です。妄想の住人ではなく、妄想と現実との境界線を知っている人間です。現実を放棄しているのではなく、現実と仮想現実としての物語のあいだに厳しい境界線を設けている人間です。私は意識してその両世界を行き来します。それ以外に宗教が現代社会で、実害なく生き延びる方途が見出せないのです。蓮祖の考えは現代社会において、対社会的には破綻しています。しかしその精神は生かしうるかもしれません。しかしそのような対社会的に積極的に働きかける根拠として蓮祖を持ち出すことは十分に注意しなければならないのであって、そのような警戒心が、私のありようを「日蓮の考えからもかけ離れている」ように見せるのかもしれません。今後の課題です。
>乾闥婆さん、漫荼羅信仰を卒業して、さらに見る日蓮漫荼羅は、信仰で見る日蓮漫荼羅より遙かに規模が大きいことに、いま、わたし自身、驚いています。漫荼羅唱題・日蓮を‘出口’にすると、世界は広漠と広がっており、その広野は実に絶景です。いつしか、この光景をご覧になってください。
はい。ありがとうございます。以前大日蓮展が上野で行われたとき、いわゆる「臨終滅度の御本尊」曼荼羅を拝見いたしました。そのとき私はまだ曼荼羅信仰の内部でその曼荼羅を見ていたのか、その外部に立って見ていたのか、定かではありませんが、日々の曼荼羅に向かっての唱題を行うのとは、違った感動に捉えられました。それが何であったのか、いまだよく分かりません。この掲示板を通して、多くのことを学んで行きたいと思っています。
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