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現代人が納得できる日蓮教学

629犀角独歩:2006/04/23(日) 09:20:06

―628からつづく―

では、このような開き直りが(文殊さんの622のご投稿が「開き直りである」というのではなく、石山の開き直り論法に引っかかっているのでないのかという憶測ですが)何故、起きるのか、それは、それまで、自分が信じてきたことに対する執着があるからではないでしょうか。これは文殊さんのことを申し上げると云うより、わたしの自分史がそうであったから、そう記すわけです。しかし、この掲示板にいたり、議論に徹底してつきあってくださる皆さん、特に問答名人さんの学恩によって、過去半世紀近くも自分が信じていたことを変えられない自分とは、抑もいったい何なのか、信仰に対する強い思いがあるからかなどと自己分析もしたわけです。結局のところ、自分が信じてきたことを批判されることに対する拒絶反応に原因があると考えられるわけです。先にも挙げた今成師の摂折論争の現場で顕本法華宗辺りでもたいへんなものがあったわけですが、ここでも守られようとしているのは、日蓮とその教えであるという見かけがありながら、実のところ、それぞれ、自分が信じていることに対する執着とそれをいじられることに対する憤りがその奈辺で蠢いていると観察できたわけです。

しかしながら、例を日蓮に採れば、権実を云うに、そこで権(かり)を簡んで実を取ると言う、それは正直捨方便ということでも善いのですが、結局のところ、事実、真実を採るというところにその精神があるとわたしは観察します。

日蓮は法華題目の人というのは建長5年以降の話なのであって、子供のときに清澄寺に上った善日麿(薬王麿?)は後に出家して蓮長となっても、そこで修学していたことに信仰があったわけでしょう。それが普賢信仰であったのか、称名念仏であったのか、あるいは真言混交の日本天台の当時の教えであったのか杳としていますが、ともかく、幼少より培った背景の信仰があったのでしょう。しかし、日蓮はそれを捨て、真実を選ぶ道を採ったわけです。法華真実は真実かという今日的な課題はありますが、しかし、日蓮の姿勢は、真実を正直に選ぶという姿勢で一貫されていた。わたしの日蓮観はここにこそあります。日蓮は真実を信仰する実践者であったと考えます。真実・事実の探求と、その信仰です。わたしは、この日蓮の姿勢を信仰します。なぜならば、近代の真理探究という精神との、類型を見るからです。

ところが、現在の石山門下の人々は、真実を信仰しているわけではなく、反って、それどころか真実の探求に眼を瞋らせているわけです。何故か。結局、それは自分信じていることを真実であって欲しいという執着を脱し得ないからでしょう。結局のところ、真実を探求することより、自分が信じきたこと、実践してきたことを信じるという主客転倒に陥っているように見受けます。

日蓮が信じていたものは、現代の科学のもとでは次々と解体され、相対化されました。しかし、わたしは真実の探求者、その実践者であろうとした日蓮の精神は、それでも評価に値するところを大きく残していると考えています。真実の探求、真実の実践こそ、日蓮の魂なのだということを、いわば、21世紀の日蓮の根本に据えるべきところではないのかという思いは、わたしの心中では信念信条となりつつあります。当スレは空即是進化さんのご提案によって開始され、しばらくで1年が経過しようとしていますが、わたしの日蓮観は、そのお陰をもって、一つの方向性を見出すことができた次第です。


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