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現代人が納得できる日蓮教学

608犀角独歩:2006/04/19(水) 10:02:59

文殊さん

> 私は宗教的実践者の立場があり言えることと言えないことがある

わたしは、このようなお考えには首を傾げざるを得ない。
そもそも、当掲示板で投稿され、かつ富士門信徒を自負され、しかも、わたしの如く、彫刻本尊を批判する者は、では、あなたから見ると、宗教的実践者ではないと映じるのでしょうか。言えることと言えないことを分けて実践を嘯くなど、歯に衣を着せぬとして申し上げれば、まさに似非実践者ではないでしょうか。

今回、奉安堂で「御正骨拝観」が行われたそうですが、こんなものが本物であるわけはありません。後ろに奉安される彫刻も偽物、最初仏も、灰骨も、一切合切偽物でしょう。
こんなところに登山をして、それが偽物であることを知りながら、「言えないことがある」ということが、宗教実践であれば、お化け屋敷の営業と異なりません。
わたしは、ここに正直な信心を見ません。

なお、誤解があるようにお見受けしますので申し上げますが、当掲示板における一連の疑儀書に関する批判は、本覚批判と連動しているわけではありません。大崎学派とも連動していません。
では、何に連動しているのか、確実な資料から見られる事実と連動しているのです。つまり、真跡遺文です。浅井説に拘泥するものではありません。

パンナコッタさんもあなたに問うていますが、総勘文抄が確かな遺文であれば採用します。諸法実相抄も同様です。しかし、大概、これらのものを援用しようとする人々は、真跡主義の批判は盛んに行うことでこれに対抗しようとしますが、実際のところ、これら疑偽書が真筆であることを証明する証拠や理論を提示することがない。一連のあなたの投稿もやはり同様です。学派間の立場の相違、争いに収斂して、話をごまかしています。

あなたは、たいへんな学識を有し、宗教的実践を信条とされるのであれば、日蓮聖人の真実に基づいて語ることこそ、真の実践といえるのではないでしょうか。わたしの彫刻鑑別に同意をいただけるのであれば、もはや、そこに真実がないことは明白ではありませんか。

日蓮聖人は、(たぶん自作の)釈迦立像を持仏とされ、拝んでいらっしゃった。そのお像にお題目を唱えていたのではないでしょうか。この事実は石山門下には受け容れがたい事実であり、また、仏像を拝むことには大きな抵抗があるでしょう。しかし、この抵抗こそ、日蓮その人と、自負する信仰の相違・異轍であることはもはや動かし難い事実です。

彫刻が偽であることを「言えない」こととして、日蓮御立の法門に非ざることを実践するのが、果たして日蓮に名を借りた宗教実践といえるかどうか。当掲示板は役に立ちます。再考されることをお薦めします。


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