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現代人が納得できる日蓮教学
520
:
顕正居士
:2006/03/09(木) 05:12:14
>>519
れんさんがあげられた一の議論では「執実謗権」の批判に対し、それは華厳一乗や真言一乗
のことだという。日蓮は執実謗権を批判しているのだから、自らはその失に当たらないという
論理である。これは天台の教義からはずれていないという弁明だが、三の議論では「日蓮が
法門は第三の法門也」といって、このことは先師が十分に詳しくしはしていないと述べる。
末法の始めは久遠下種を忘れた人々が本機であるというのは日蓮の独創で、いわゆる本化
別頭の法門である。しかし三益の教義は教相のことで、聖道門は浄土宗、真宗のように教相
だけでやっていくことはできない。日蓮自身、「教相の本尊抄」ではなく、「観心の本尊抄」と
題したのだから、かならず哲学的解釈においても本化別頭の何ものかがなければならない。
しかし後世、その別頭の教義の内容と称するものは日本天台、四明天台か、あるいは華厳、
真言から輸入したものである。それが日蓮宗学の悩ましいところであるが、では全く、第三の
教相の観心釈が発明されなかったのかといえば、そうではない。それはあまりにもおおきな
思潮であったために意識にあがり難かった。日蓮宗に限ったことではなく、中国と日本の仏教
を一貫する流行であり、仏教の厭世思想と輪廻思想を克服しようとする思潮である。わが国
ではそれは本迹論として盛り上がった。「迹高本下」とは原始天台からある概念だが、この
迹高本下の成道こそ日本仏教のオリジナリティで、偽経の頌、切紙、和歌、絶句などの形式
で伝授された。維新後は自由言論の社会になって、神本仏迹、反本地垂迹などの概念化が
なされた。仏教内部からする仏教克服、それこそ中日仏教を一貫する思潮であって、日蓮宗
の悩ましい宗学は、比較的にその大波の中心にあるから、日蓮宗学を考察することの意義は
そこにある。
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