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現代人が納得できる日蓮教学

512犀角独歩:2006/02/28(火) 18:44:35

顕正居士さんには、適切なご教示をいただきまして、誠に有り難うございます。

一字三礼さん、また、わたしが挙げた小松邦彰師の『開目抄』講義のご発言に就き、ややロムの方には、わかりづらいのではないかと思い、少し記します。

小松師は顕正居士さんが仰る二つの一念三千ということを仰っているわけではなく、一念三千の立て方が天台と日蓮では違うということを指摘されたわけです。

この点は、わたしのブログでも触れましたが、天台は方便品で、日蓮は寿量品で立てることで相違があるという意味です。ここで、わたしが「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて」の文を挙げたために、やや誤解を招くことになったかと案じました。

『摩訶止観』5における三千、というより三世間といったほうがよいかもしれませんが、わたし個人の読後感として、ここでは特に寿量顕本における本国土を不可欠の要素とはしていないわけです。

「十種所居通稱國土世間者。地獄依赤鐵住。畜生依地水空住。修羅依海畔海底住。人依地住。天依宮殿住。六度菩薩同人依地住。通教菩薩惑未盡同人天依住。斷惑盡者依方便土住。別圓菩薩惑未盡者。同人天方便等住。斷惑盡者依實報土住。如來依常寂光土住。仁王經云。三賢十聖住果報。唯佛一人居淨土。土土不同故名國土世間也。此三十種世間悉從心造。」

というのが、この原典です。一読すればわかるとおり、「如来は常寂光土に依って住す…唯仏一人浄土に居す」ですから、ここでいう如来・仏は、特に寿量本仏に限ることではないわけです。つまり、ここでは諸法実相の文より事起こり三千を立てたと読むことはできます。

ところが、日蓮の場合、当然、この『摩訶止観』によるわけですが、しかし、一歩立ち入って、本仏の本国土を嘆じて、真の一念三千とする相違があるように思えます。小松師は、この点を述べたであろうと、わたしは考えます。つまり、三世間を「寿量本仏依本国土」というのではないのかというのが、一字三礼さんとわたしの共通の認識であったことは先に述べました。しかし、もちろん、これは、一念三千が二つあるというのではなく、迹門立て:本門立て=天台:日蓮という小松師の講義を基にしたうえでのことです。

本国土妙は、先んずる『法華玄義』に説かれるわけで、その意味から、三千で言う仏を寿量本仏と見なすことは当然できるわけですが、ここで本国土妙を言うに「迹本雖殊不思議一也」ですから、ここで、日蓮が言うような迹門方便品は百界千如、本門寿量品で一念三千ということができるのか、わたしは、やや、疑問が残ります。

しかし、日蓮は、天台を墨守すると言うより、末法適宜に読み直し、妙法五字に一念三千宝珠を裏むという訳ですから、このような相違があることに、それこそ不思議はありません。

小松師の講義を‘サカナ’に議論して、勢い、師が言っていないことを師の言としては、申し訳ないので、やや補足させていただきました。


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