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現代人が納得できる日蓮教学
508
:
犀角独歩
:2006/02/27(月) 23:55:04
一字三礼さん
> 疑義の挿み方…完全に傍論
いえ、ぜんぜん、問題ありません。よい質問であろうかと思います。
なにせ、島田師の「なんで、そんなに一念三千に拘るの?」という質問で、なかなか沸騰した議論になったりするわけですから、あそこでは、特にタブーはありません。
まあ、日蓮本仏論の押し売りで持論を枉げないなんてことをやれば、「はい、もう少し勉強して、出直しなさい」という話にはなるでしょうが。そんな愚を一字三礼さんがなさるわけはありませんから、安心して窺っていました。
パンナコッタさんが挙げられましたが、『開目抄』をどこまで、真跡としてみるのかというのは、たしかに「悩ましい」問題ですね。れんさんがなさったように、真跡から、曽存の相違を系統的に整理してみる必要はあるように思えます。しかし、今の時点では、わたしはこの点では落着していないので、『開目抄』は「常不軽」を除いては、『平成新修日蓮聖人遺文集』の通りで、暫定的に扱うことといたします。
富士門的な本迹観は勝劣義ですから、本門正意となりますが、一致義からすると、どうなるのでしょうか。けれど、「本迹雖殊不思議一」は、玄・文、記のお定まりの点ですから、一応は勝劣と見えても、不思議一と束ねることが常道と見えます。ただ、開目抄説では、この点は、あたかも久成開顕、三妙合論で真の一念三千と読め、となれば、まったくの本迹相対ではないかと思えます。しかし、ここを通過点とし、不思議一の課程と見ることもできるのかもしれません。
まあ、しかし、三妙合論で、本仏本国土で三千成就は、論としては美しいと思います。
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