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現代人が納得できる日蓮教学
506
:
犀角独歩
:2006/02/27(月) 14:07:42
> 500 一字三礼さん
> 天台大師の「一念三千」は迹門方便品に拠るとは言えません
同じ講義を聴講した一人として、記します。
天台が方便品に一念三千を立てるというのは、小松師の所説ではありません。これは日蓮の言です。すなわち、
「迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つ脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波上に浮べるにいたり」
実際、小松師の講義では、天台・日蓮の一念三千の相違を述べる段で、上記一文を示して、論じていました。
小松師の講義は、さらに上記の文の続きを字句通り、説明したものでした。
「本門にいたりて、始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぶ。爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶて、本門十界の因果をとき顕す。此れ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」
講義の時、わたしはややこしくなると思いましたので、敢えて質問しましせんでしたが、そもそも天台・章安の段階で、一念三千という成句自体を見ません(坂本幸男師もこの点を指摘しています)その意味において、日蓮の言う一念三千は妙楽解釈に拠るわけですが、取りあえず、ややこしくなるので、この点も置きます。
その意味において、一字三礼さんが立てられた疑問というのは、小松師への疑問と言うより、日蓮の『摩訶止観』解釈に関する疑問、もっと具体的に言えば日蓮の一念三千観への疑問と言うことであろうと思います。
一字三礼さんの疑義の立て方はしかし、あの場で話し合ったと思いますが、わたしと共通の疑問に立脚していると思います。つまり、仏の三世間は寿量品で五百塵点成道における本因・本果・本国土(三妙合論)のこの本国土世間が明確にされない限り、肝心の仏界の三世間は成ぜず、つまりそうなれば、三千を成じないという計算に基づくのであろうと思います。
しかしながら、実際のところ、天台が三千を論じるのは「夫一心具十法界 一法界又具十法界百法界。一界具三十種世間 百法界即具三千種世間。此三千在一念心 若無心而已 介爾有心即具三千」ということであり、天台は特に三妙合論なくして、三千を不成は言っていないわけです。しかし、日蓮は上述の通り、「本門にいたりて…真の十界互具・百界千如・一念三千」というわけですから、たしかに天台と日蓮の一念三千観には相違があるといえると思います。
また、今回の講義を離れ『本尊抄』に拠れば、日蓮の百界千如と一念三千の区別を三妙合論をもって捌くというより、情・非情の相違、難信難解から草木成仏の観点を導入し、ここに末法の仏像を寿量仏と定めるという教学的な態度を示すわけです。
これは過去に議論したことですが、この‘本尊’とは、天台の教学には見られないものであり、たしか顕正居士さんがご指摘くださったことであると記憶しますが、そもそも、日蓮がいう‘本尊’とは、真言密教の延長にあるものです。ただ、日蓮は父母の像、儒家聖人(せいじん)像をも本尊というわけですが、いずれにしても、「本尊」語は天台の教学には全く見られないものですから、寿量本仏像を百界千如と一念三千の相違、難信難解、草木成仏から論じる日蓮の本尊観は天台とは、当然のこととして、相違したものであることも付言しておくべきかもしれません。
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