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現代人が納得できる日蓮教学
500
:
一字三礼
:2006/02/26(日) 14:48:59
小松師は、2月17日のご遺文講義(開目抄)において、天台と日蓮の「一念三千」観の根本的な違いをご指摘されました。
天台大師の「一念三千」は、迹門方便品に拠るがゆえに始成正覚の仏である。
日蓮聖人の「一念三千」は、本門寿量品に拠るがゆえに久遠実成の仏である。
この日の講義後に、私は小松師に質問しました。
「同じ’一念三千’で、なぜ迹門方便品に拠る解釈と本門寿量品に拠る解釈とが成り立つのか」
私の質問の仕方が悪かったのか、理解力不足のせいか、先生のご回答がいまひとつ納得できませんでした。
天台大師の「一念三千」が迹門方便品に拠る始覚の仏であるならば、、その三世間の出典は迹門に拠らなければならないはずが、「摩訶止観」の該当箇所には三世間の出典元は示されていません。
「摩訶止観」が天台の思想を伝えているとは言えませんが、蓮祖のあつかう「一念三千」の論拠が「摩訶止観」なので、巻第五上「一觀心是不可思議境者。」から始まる「一念三千」の解説の中から三世間について調べてみますと、
「攬五陰通稱衆生。衆生不同。攬三途陰罪苦衆生。攬人天陰受樂衆生。攬無漏陰眞聖衆生。攬慈悲陰大士衆生。攬常住陰尊極衆生。大論云。衆生無上者佛是。」
(五陰を攬って通じて衆生と称するも、衆生同じからず。三途の陰を攬るは罪苦の衆生なり、人天の陰を攬るは受樂の衆生なり、無漏の陰を攬るは眞聖の衆生なり、慈悲の陰を攬るは大士の衆生なり、常住の陰を攬るは尊極の衆生なり。大論に云く、[衆生の無上なる者は佛是なり]と。
「常住の陰を攬るは尊極の衆生(佛)なり」と五陰世間から説かれる仏は常住仏です。
「十種所居通稱國土世間者。地獄依赤鐵住。畜生依地水空住。修羅依海畔海底住。人依地住。天依宮殿住。六度菩薩同人依地住。通教菩薩惑未盡同人天依住。斷惑盡者依方便土住。別圓菩薩惑未盡者。同人天方便等住。斷惑盡者依實報土住。如来依常寂光土住。」
(十種の所居を通じて国土世間と称するは、地獄は赤鉄に依って住し、畜生は地水空に依って住し、修羅は海畔海底に依って住し、人は地に依って住し、天は宮殿に依って住し、六度の菩薩は人に同じく地に依って住し、通教の菩薩の惑いまだ尽くさざるものは人天の依住に同じく、惑を断じ尽くせるものは方便土に依って住し、別圓の菩薩の惑いまだ尽くさざるものは人天方便等の住に同じく、惑を断じ尽くせるものは実報土に依って住し、如来は常寂光土に依って住すればなり。)
「如来は常寂光土に依って住すればなり。」と国土世間から説かれる仏も常寂光土に住するのですから、やはり常住仏です。
「摩訶止観」の記述にしたがえば五陰世間、国土世間ともに仏は常住仏で常寂光土に住することになるので、少なくとも天台大師の「一念三千」は迹門方便品に拠るとは言えません。また、「摩訶止観」では法華・涅槃を同等に扱うのが「常寂光土」(涅槃経に説かれる浄土であって法華経には出てこない)からも推測できます。
厳密には、涅槃経の常住仏も一品二半の寿量仏から見れば、なお始覚の仏ではあると考えるのかもしれませんが。
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