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現代人が納得できる日蓮教学

497犀角独歩:2006/02/20(月) 01:16:58

オフ会スレ662のれんさんの応答として、こちらに移動します。

> 開目抄は蓮師の「忍難弘教の歓喜体験」の論理的裏付け

なるほど、このようなとらえ方はできますか。
今回の小松師講義の聴講は通じて、まだ2回ですが、わたしなりに既にいくつもの発見がありました。五重相対への疑義はブログでも書きましたが、この『開目抄』は仰るような側面と共に、佐渡流罪已前の日蓮が、どのような行動を採っていたのか垣間見られるようにも思えました。

文中展開される折伏論から、やはり、日蓮は武装し、かつ念仏者刎頭の主張をしていたのだろうと推測します。また、現世安穏という経文に違う自身の境遇を積極的に再理論化する試みが、同抄に見られるのだろうと思います。

わたしが着目するのは‘顕密相対’で、純天台的方向性は、真言化した(と日蓮が見る)比叡山からの決別を意味し、また、従来分析される純天台思考とは、しかし、一念三千を旗頭にする妙楽色の強いものである点で、妙楽の天台釈を純天台ととらえるところに日蓮の教学的な特質がある点を注視しています。

また、開目抄に限らず、編年で時系列に読み進めると、日蓮が標榜する法華菩薩は、変遷があり、初期では権教の菩薩を簡んで法華菩薩を言い、佐渡流罪前後より不軽菩薩に対する視点が生じ、さて、では、四菩薩への視点と交錯していくわけですが、この諸菩薩への論究の様は、法華経説の順位に同じ、それを30年程の階梯で垣間見られることは興味深いと思いました。

ややブログでは書き落としましたが、『開目抄』における神仏観には、日本の国神(天照八幡)、また、不動・愛染への論究が全くないことは奇異に感じました。純天台的なアプローチを標榜したと目せる同抄はしかし、漫荼羅図示の始まりとも相前後するのにも拘わらず、この点では、まったく漫荼羅構成の理論化にシンクロしないのは注意を要します。この点を、勉強会で、小松師にわたしはお尋ねしたのですが、答えは‘開会’から考えるとのことでした。

実のところ、開目抄において、五重相対と言って、落ちてしまう顕密相対はしかし、たしかに漫荼羅図示においては開会摂取されるところであり、法華真言未分で『守護国家論』の如く、その後の、真言(律宗)への鋭利な批判とは別に、法華から開会される真言こそ、大曼荼羅図示の主要な意図を為していると考えられます。

この様な点の、正確な分析は、いまだ取り残された日蓮研究のテーマとして、今日的な意義を有すると思います。先にブログで紹介した小林是恭師の如き研究がさらに積み重ねられることを希望するものです。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50200478.html

21世紀の日蓮とは、宗派門派が背負ってきた過去のアナウンスの弁明、護教教学ではなく、冷徹、かつ合理的な分析眼から徹底解明を経ずしては、何ものも得るものはないと考えるところです。

その観点から、ここ一連の顕正居士さん、また、れんさん、ご論攷には敬意を表するものです。


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