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現代人が納得できる日蓮教学
278
:
一字三礼
:2005/10/11(火) 21:27:19
犀角独歩さん
レスありがとうございます。
> 法華経に現れる観音は、「観自在」とするほうが正しく、「観世音」は合成語理解の混同から生じた訳だというのが岩本師の解説
岩本師説は以下の論考について考慮いないように思います。少し長い引用になりますが、
「観自在―原語アヴァローキテーシュヴァラ(Avalokitesvara)を玄奘は「観自在」と訳した。この語は「観」(Avalokita)+「自在」 (isvara)と分解し得るのでそのように訳した。チベット訳語(spyan ras gzigs dban phyug)も同様の解釈に立っている。しかしクマ ラジーヴァ(Kumarajiva 鳩摩羅什、略して羅什という)は『法華経』を漢訳したときにこの語を観世音または観音と訳した。
何故そのように訳したか?第一の見解によると、クマラジーヴァが『観音経』の趣意をとってそのように美しく訳したというのである 。『観音経』すなわち『法華経』の普門品には
『若有無量百千万億衆生、受諸苦悩、聞是観世音菩薩、一心称名、観世音菩薩、即時観其音声、皆得解脱』
とある。(柳博士『梵語学』二四一頁以下)第二の見解によると、観音の原名は古い時代にはAvalokitesvaraではなくて Avalokitasvaraであったと推定され、またそのことは『法華経』西域本によっても確かめられる。(例えば本田義英博士『法華経論』 弘文堂、昭和十九年、一九五頁以下、同氏「観音の古名について」『竜谷大学論』第二九六号、昭和六年二月)その場合には、衆生に 音声を観ぜしめるという仏菩薩の慈悲行を、ついに人格化してここに観音という菩薩を表現したのであると解せられている。」(岩波 文庫 般若心経・金剛般若経)
第二の見解での、いわゆる’観音’は古名であるというのも事実のようです。(中村元説)
> Amitâyus > 羅什翻訳梵本成立 > 羅什訳 > Avalokitesvara(Samantamukha)/Amitabha > Kern/Nanjiou 本
先に挙げた中村師説を考慮に入れれば、
Amitâyus/Avalokitasvara > 羅什翻訳梵本成立 > 羅什訳 > Avalokitesvara(Samantamukha)/Amitabha > Kern/Nanjiou 本
となりますでしょうか。
> この対照表、間違っていると思いませんか。
イージーミスとは言えませんね、完全に誤りですね。
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