[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
現代人が納得できる日蓮教学
264
:
犀角独歩
:2005/10/09(日) 09:05:38
乾闥婆さん
読む限り、平川師の説は説得性があります。
西暦前後、仏教の教理は如何に生まれ、また、如何に伝承されたのでしょうか。
メディアがあるわけではありませんから、生み出す集団があり、そこに所属し学ぶという形であったろうと思われます。空の思想を生み出した集団、もしくは地域があり、そこから、般若経は生じたということになるのでしょうか。
この集団と、法華経を生み出した集団は別のものである。般若経創作集団から、独立した、もしくは別の集団である法華経創作集団が、空を肯定的に捉えながら、自分達の教理を作り上げた、しかし、その元来の在り方は「有」であった…。
以上のような仮定は成り立つのでしょうか。
平川説で興味深いのは「信は有に拠る」という件でした。
空観というのは無限の追究連鎖のようなところがあります。最終的には「空」が教理として実体化すれば、それ自体がまた空である…、と延々と続くわけです。信も何もあったものではありません。あるとすれば、空であるという論証を信じることですが、これ自身もまた空であるとなっていくわけです。教理上の空は四句分別止まりでいちおう、その辺でうち切られますが、その気になれば、この己心観察は無限の追究連鎖となりますね。
たしかに法華経寿量品にいう、漢訳仏典に依拠する教理でいう久遠本仏を「空」と見れば、もはや、信仰は成り立たないわけです。平川師が指し示していることとは、別意でしょうが、ここ数年のわたし自身の信仰に対するメランコリックの正体を見た思いがあります。まあ、この正体もまた、空ならば…となりますか。一つの法華経を見る客観的な視点を提供したものと評価できると思えました。
資料のご呈示、有り難うございます。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板