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現代人が納得できる日蓮教学

243犀角独歩:2005/10/05(水) 10:53:06

―242からつづく―

> 白蓮華である釈尊

白蓮=(地上の)太陽=釈尊 という図式は、松山師の講義の基本を為しているように、わたしは感じます。ただし、pundarika は saddharma なので、これを直ちに釈尊としてしまうのはどうなのだろうかという思いがわたしにはあります。

> アグラ・ダルマが「妙法蓮華経」

このご質問に応える前に、やや細かい点なのですが、よく見聞する一つの誤解を記します。妙法蓮華経、もしくは正法華経は、サダルマ・プンダリーカ・スートラを訳したもので、

サダルマ=妙法、正法:プンダリーカ=蓮華:スートラ=経

という考えが流通しています。しかし、『法華経』の岩本師の解説を読めば直ちに了解されることですが、「『法華経』のサンスクリット語原典の題名は Saddharmapundarika」(上『解題』P408)であって、スートラに該当する語はここに見えません。

法と経の同一視は、日蓮教学においても深刻な誤謬であるとわたしは考えています。
法は法に違いありませんが、経は経典以外の何ものでもないからです。

また、「agradharma 、また、saddharma が妙法か」と問われれば、わたしはもちろん「違う」と答えます。
確認していませんが、松山師は「妙法」という漢語は、法華経以前に漢訳された増一阿含に既に使用されており、それを羅什が転用したもの。ただし、増一阿含における「妙法」には agra という「択一された最高の」というような意味合いはない、羅什はこの「妙法」を転用するに当たり、換骨奪胎して、agra の意をはらむ sat に相当する意味を持たせたといいます。

先行して出来上がった詩偈の部分に用いられる agradharma が、では、なぜ、散文を付加した次の制作者は saddharma さらに saddharma-pundarika としたのかという点について、答える能力をわたしは有しません。また、松山師の講義でもその言及は今のところありません。

agradharma の用法は、パーりー語文献の古層に既に見られるといい、agrabodhi という用法も挙げていました。法華経に、この agrabodhi が使用されているのかどうかは、聞き漏らしましたが、当然の対応として、agradharma によってもたらされる悟りは agrabodhi ということになると思うのですが、実際のところ、法華経では annuttara-samyaksambdhi(阿耨多羅三藐三菩提)が使用されているわけです。この点の意味を理解することもわたしの課題となっています。

あと、釈尊は法華経で「正しい教えの白蓮」を説いたというのが、最終的な編集の落着ですが、では、この「正しい教えの白蓮」が、法なのか、経なのかというのは、実に悩ましい問題であるとわたしは考えます。

先に eka-pundarika の例を松山師が挙げたことを引きましたが、これは白象に付けられた名前であったわけです。
では、Saddharmapundarika とは何かと言えば、これはこのお経(経典)に付けられた題名だということです。題名は法でありません、名前です。

法華経の一つの特徴は、舎利信仰、または仏像信仰というものを肯定しながらも、それを超える経典信仰、さらには経典塔(経典を祀る仏塔)信仰を鼓舞している点にあります。つまり、聖典信仰という文字で書かれた書物そのものを崇拝する信仰という特徴をもっているわけです。このことを考慮すると、、本文中、繰り返し言われる Saddharmapundarika は正しい教え(法)というより、経典を指すとも思えるわけです。そして、経典=釈尊というコンセプトによって、それが肯定され、さらに経典塔も仏塔であり釈尊そのものという理論展開がここにあるのではないのかと思えるわけです。こう考えると松山師が saddharma-pundarika は Sakya-muni である、すなわち、経典(塔)=釈尊という図式で、謎が解けます。

まあ、出版書籍の宣伝行為のような話と書けば、不謹慎に響くかも知れませんが、わたしはこの線は考えている一つの側面です。

答えにならず、却って疑問を増すようなレスで恐縮です。


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