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現代人が納得できる日蓮教学
240
:
犀角独歩
:2005/10/04(火) 17:17:30
―239からつづく―
> でも「五百歳」……「500」という数字…インド人にしては…具体的かつ短すぎる
ところが原文では
「偉大なる志を持つ求法者(ぐほうしゃ)『サヴァサットヴァ=プリヤダルシャナの前世の因縁』の章(薬王菩薩本事品)が最後の時であり、最後の機会である最後の五十年の経過している間」
と、500年どころか50年となっています。もっと短いわけです。この点は、あとでPohさんも指摘されていますね。わたしがこのことに気付いたのは、もう5年も前のことでした。500年説に拘る人はこの点に猛烈に反発しますが、50年だろうが、500年だろうが、仮に1000年、2000年だろうが、Pohさんが仰るとおりで、寿量品で五百塵点劫已来の結縁をいうスケールからすれば、ほんとにちっぽけな話ということになります。
何故なんでしょうか。この時間のリアリティは?
やはり、わたしには、経典創作者が自分たちの時代を特定するために、斯くなったのだろうと思わざるをえないわけです。
しかし、もう一つ、理由が考えられます。それは、岩本師が指摘するインド人の完全数信仰です。現代でもラッキーセブンといった数への信仰がありますが、法華経のなかで「五百」という数字は何故か乱発されています。ざっと検索で拾うと以下のとおりです。
五百人、五百由旬、其数五百皆当授記、五百万億諸仏世界、五百万億諸国土中、五百万億国土、五百万億諸梵天王、南方五百万億国土、五百弟子受記品、五百阿羅漢、五百比丘、五百自在、五百阿羅漢五百千万億那由他、五百菩薩、五百比丘、五百之衆、後五百歳
なんで「五百」なのでしょうか。現時点では決していません。
…以上、Pohさんの書かれた長文から抽出して出来る限り、短くコメントしましたが、やはり長くなってしまいました(笑)
わたしは法華経の解読というのはPohさんも試みられたように、その文中のキーワードから背景を探り、書き手の心象風景を追体験することからはじめたほうが、天台釈より、よほど正確だと思います。一念三千は止観禅の時のイメージトレーニングに過ぎません。心が3000ばかりカテゴライズできるはずもないことは当たり前のことです。まして、それが生命の実相ではあるわけもありません。だいたい、『sddharma-pundarika』にはそんなことは説かれていないわけです。
この現実から直視しなければ、法華経は現代に生きるわけもありませんし、日蓮の精神も「天動説」の類の非科学性と共に、それこそ隠没してオシャカになってしまいます。
これは日蓮法華を担ぐ集団に対する揶揄ではなく、現実を直視なければ、本当に終わってしまうという警鐘です。
まあ、そんなわけで、時にはビールを酌み交わし議論もするのは大賛成なのですが、言語音声はその場で即座に消え去ってしまいます。ですから、ここに書き留めておくことが必要かと思うのです。共に書き残していただければ、有り難く存じます。
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