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現代人が納得できる日蓮教学

239犀角独歩:2005/10/04(火) 17:17:04

―238からつづく―

しかし、わたしなりにこの点を読み解けば、ここで末法と仏の霊山常住と地涌菩薩の娑婆弘教を整合させるのは、何かといえば、肉体が滅びたように見せかけた如来が永遠に住み続ける場所は娑婆は娑婆でも、霊山限定であり、ここばかりは、何が起きても絶対に壊れない限定地域、何故ならば如来がいるから。しかし、他の娑婆は違う、そこで菩薩は法を弘めろという、教えは模倣を通り越して、もはや潰えている、陸続きの神秘の聖地・霊鷲山とは違ういうコンセプトに基づいているのだろうと、考えます。

これは岩本師がよく指摘していたことですが、古来の楽園というのは、それがエデンであっても、桃源郷であっても、いま踏みしめている大地の延長にあったというのです。原形の極楽も同様で、西方極楽十万億土といっても例外ではないということです。「霊山浄土」といったところで、他次元のどこかとか、宇宙の最果てとか、にあるなんて考えていたのではなく、中国を越え、インドにある霊山をイメージしていたのでしょう。しかし、それは、現代のわたしたちが交通機関を使って気軽に行けるイメージではなく、たとえば、『西遊記』に登場する天竺のイメージです。大地が方(四角)でその四つの角・方角が東西南北だと信じられていたとき、その中央に聳える霊鷲山は、五百由旬の宝塔(いったい、どれほど巨大なのか?)が東方に立っても、西方の端に釈尊が結跏趺坐し、その前に1万2000人の弟子が悠々と控えられる立地条件のイメージです。足踏む大地の延長にあっても、そこを「ガンダーラ」(ゴダイゴ)と歌われたようなマジカル・ワールドとして、想像されたのでしょう。いや、それ以上であったでしょう。
(この歌を主題歌にした連続ドラマの西遊記は孫悟空を若き堺正章が演じ、夏目雅子が玄奘三蔵というものでした。Pohさんは、これを記憶している世代でしたか? 議論とは関係ないですが)

いまだ霊鷲山を見たこともなく、イメージを膨らませた創作者が、決して行くことのできない霊山を夢想し、自分の踏みしめるあまりに理想と違った大地=娑婆弘教を考えたという現実が、創作に当たってあったのではないでしょうか。

しかし、地域差、時代差意識は、釈尊の謦咳にかかった弟子が正しく教えを仏自身から拝受(正法)できたのとは違い、滅後伝えられた段階では模倣(像法)に過ぎず、(法華経を作っている段階ですから)経典も存在していない時点で、法滅尽の嘆き(末法)です。それでも、お釈迦様ははるか遠くのマジカルワールド(=仏国土)霊鷲山で法を説いているのだという夢想がパラレルに交叉しているように思えます。

> …如来の滅後、後の五百歳…女人…是の経典を聞いて、説の如く修行…命終…安楽世界…阿弥陀仏…蓮華の中の宝座の上に生ぜん…薬王菩薩本事品第二十三

安楽とは極楽の旧い漢訳語で意味は、もちろん、極楽と同じですね。
この件を説明する日蓮門下教学は苦肉で、「いや、これは浄土宗、念仏宗が言うのとは違うんだ」とかなんとか言いますが、何も違わないでしょう。要は法華経と浄土教は近親関係にあることは動かない事実です。この経典が成立した時点で、法華宗、浄土宗もなかったわけです。いま、これは区別するのは宗派を分かち、争う愚かさの延長以上の意味はありません。


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