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現代人が納得できる日蓮教学

233犀角独歩:2005/10/04(火) 10:20:14

―232からつづく―

古層の agradharma の agra は下部から連続して頂点して最高(たとえば、山の麓から頂上という連続で頂上が最高というように)という意味を有する原語で、通じて択一して最高の法という意味を有する。故に、これに代わって使用される saddharma 単に正しくあり続ける法というに限らず、agradharma の意味もはらみ使用されているというのが師の説です。つまり、正しくあり続ける択一された唯一の法といった意味を有するというのです。故に saddharma-punndarika を英語的に記せば The saddharma-punndarika となるというのが師の言でした。

では、この saddharma が pundarika と合成されて用いられるとどのように訳されるべきかというのが、前回に続く昨日の講義内容でした。

岩本師の『法華経』上(岩波文庫)をお持ちの方はP408〜411の「『法華経』の題名について」をご覧ください。該当部分の文献的批判です。
(いままで、当掲示板でも岩本師の非を論う人はいましたが、実際的にその「説明ができた」人は一人としていませんでした。わたしは松山師の該当部分を使用した批判講義は実に説得性を感じます。豊富に引用したいところですが、この著作権は福神研究室が有しますので、わたしはメモ程度に留めることにし、議論に必要な最低限のことは記させていただこうと思います。また、メモであり、さらにわたし自身が梵語の知識がありませんので、間違いがあれば、それはわたしに属することで、批正その他をいただければ、次回、松山師にお会いした段階で答をいただいてくるようにしようと思います)

岩本師は saddharma-pundarika を「『白蓮のごとき正しい教え』と和訳されるべき」(P410)と言い、その根拠に Kasika を挙げています。しかし、松山師はこの点に鋭い批判を加えます。Kasika は、西暦にして650年頃の編纂であるのに対して、法華経の成立は西暦前後のことである。法華経成立後、500年も経たあとの文献を使って法華経を論じることは文献学的に非であるというのが松山師の主張です。また、岩波書店ともあろうものが誤植?をそのままにし続けるというのは一体、どういうことかとメスを入れます。文庫の該当部分、

「sabha-『牝牛』…vrsa-『牝、男』…」(P410)

となっているが、前者は「牡牛」であり、vrsa の説明に至っては牝が男とは何のことだ?と指摘し、これは「牡」であると言います。このような誤植というか、岩本師自身の過ちを改訂後もそのままというのは考えられないと溜息をつきます。

岩本師は saddharma-pundarika という合成語を和訳するに参考にしたのは、Kasika に拠る「purusavyaghrah『この男(purusa-)は虎(vyaghrah)のごとし』という場合に purusa-vyaghrah と記される」(P410)という用法を、そのままに saddharma-pundarika に当てはめ、「『白蓮のごとき正しい教え』と解せられることは疑問の余地がない」といいます。

まず、松山師の講義を写す前にわたし個人の疑問を記せば、Kasika に例して訳せば、「正しい教えは白蓮のごとし」ではないのか、しかし、岩本師の説明では逆転し「白蓮の如き正しい教え」となっている点で、その整合性を見ません。首を傾げたくなります。また、このような「疑問の余地がない」とまで言い切るのにも拘わらず、題名に「正しい教えの白蓮」を使うのは、一体、どういうことか、しかも、この題名ならば、purusavyaghrah の訳出に準じるという点も、まったく不思議に思う点です。


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