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現代人が納得できる日蓮教学

227Poh:2005/10/03(月) 10:09:21
12)
でもさらに問題は、この両箇所のサンスクリット語からの訳(実は先ほど本屋に行って、ここだけ岩波を立ち読みし、こっそりメモってきたのですが……笑)。
薬王菩薩本事品第二十三「また、ナクシャトラ=ラージャ=サンクスミタ=アビジュニャよ、ある女性が『イシャジャ=ラージャの前世の因縁』という章を最後の五十年に聴いて、それを学ぶときは、彼女はここから生まれ変わって、スカーヴァティー世界に生まれるであろう」
普賢菩薩勧発品第二十八「世尊よ、わたくしは、最後の時である最後の五百年間が経過している際に〜」
となっており、薬王菩薩本事品第二十三の方は、どうやらサンスクリットでは「五十年」となっているようですね(このあたり、なぜクマーラジーヴァが五十年を五百年と漢訳したのか、考えてみるのもおもしろそうですか、今回はやめておきましょう)。
あとこの『妙法蓮華経』普賢菩薩勧発品第二十八には、他にもう1箇所「五百歳」の言葉がありましたね。それにサンスクリットの方は、他にもう2箇所。いずれも同じ訳がふってありました(でも、なにせ立ち読みなもので、見落とした他の箇所があったかも?)。
でも、この「最後の時である最後の五百年間」とは、いったい何なのでしょうか。漢訳では「世尊。於後五百歳。濁悪世中。」そして「世尊。若後世。後五百歳。濁悪世中。」これを岩波では「世尊よ、後の五百の濁悪な世の中において」としていましたが、あるいはこれは、クマーラジーヴァ漢訳の頃に、すでに後の「五五百歳」の萌芽でもあったのかどうなのか?
*五五百歳(岩波仏教辞典より抜粋)
「大集経月蔵分 では、仏滅後2500年間の仏道修行の衰退ぶりを解脱堅固・禅定堅固・読誦多聞堅固・
多塔寺堅固・闘諍言訟白法隠没[とうじょうごんしょうびゃくほうおんもつ](闘諍堅固)の5箇の500年
に区分する。これを三時説に配当すると、正法千年、像法千年、そして末法万年のはじめとなる。日蓮は
現時を末法に入って二百余年と認識して仏法のあり方を考え、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』を著した」

そしてもう一つ重要なこと。サンスクリットの「最後の時である最後の五百年間」が真に意図するところは?
この箇所、岩波法華経では註をしていまして、「後五百歳=後の世の後の五百歳(の濁悪の世)。正法華(Poh註:竺法護による逐語漢訳本『正法華経』10巻27品・286年のこと)は『最後の余残の末俗の五濁の世の余りの五十歳』と訳している。梵文には『後の時に後の時節に後の五百(歳)において』とある」とありました。
でもそうなると、これを「釈迦入滅後500年」と解釈することができるのでしょうか?
そしてこの「後五百歳」を語っているのが普賢菩薩であるということは、あるいは法華経制作者が自らを、この場合、普賢菩薩あるいはその従者(?)に我が身を重ね合わせたのでしょうか?
――ちなみに、この普賢菩薩勧発品第二十八は、以前読んだ中村元氏の書籍では(うろ覚えの記述ですが)、「未来に向けた教え」(要旨)といったような解釈がされていたように思いますが、仮にそうなると、あるいは法華経制作者が「今こそ正しい教えが滅びる時代」ではなく「(未来の)正しい教えが滅びた時代に向けての教え」だと考えていたということなのでしょうか?
とりあえず、この普賢菩薩勧発品第二十八が未来に向けてのものと解するのか、そうでないとするのかで、この「後五百歳」の意味するところも変わってくるのかもしれません。
……でもまあ、ここから先の推察は私のような素人の出る幕ではなく、独歩さんにご解釈をお願いした方がよさそうですね。


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