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現代人が納得できる日蓮教学

218Poh:2005/10/03(月) 10:02:33
3)
まずは法華経について――
ご承知の通り、西北インド・インダス川中上流域ガンダーラ地方というのは、古代より民族・文化・貿易・経済の十字路といってよい場所であります。インドのアーリヤ系マウリヤ朝(BC317年頃〜BC180年頃)以降は、ギリシア系支配者層によるバクトリア王国(BC255年頃〜BC139年)、その後西からはイラン系パルティア(アルサケス朝、BC248年〜AD226年)、中央アジア系遊牧民であるサカ族(イラン系・インド=スキタイ族)が南下してそれぞれ侵入、最終的にスキタイ系トハラ人にバクトリアが滅ぼされ大夏(トハラ)が立ったものの、民族系統不明ながら元々はモンゴル高原西・南部にいた大月氏(族)に追われ(BC1世紀)、その後大月氏やサカ族などによるバクトリア地方5翕侯(小王)による小国分立状態がしばらく続いておりました(ただし大月氏の動きと5翕侯の民族構成に関しては諸説あり)。またその間も、西からの巨大王国パルティアによる浸食の脅威は絶え間なく続いたようです。
で、その5翕侯の1つ、大月氏支配下で中央アジア・アム川流域にあったイラン系貴霜翕侯(小王)が、AD1世紀後半以降、他の4翕侯を倒しつつ南下、バクトリア地方・西北インドを征服していったというのが、かの巨大帝国クシャーナ朝(AD1世紀〜3世紀)です。AD2世紀カニシカ王(位130〜155頃、別説78〜103頃)の最盛期には、パミール高原(かつて大月氏国)を含む西トルキスタンから、中央アジアでは後漢と接し、南はインドガンジス川中流域にまで版図を広げておりました(首都はガンダーラの地方の中心プルシャプラ、現ペシャワール)。ちなみにインドのその他の地域、すなわち中部デカン高原・南部・東部はほとんど分裂状態といってよく、大きな所では中部にサータヴァーハナ朝(=アーンドラ朝、BC2世紀〜AD3世紀初頭)があったくらいです。
ついうっかりすると、私たち日本人はインド史や仏教といった『窓』からガンダーラ地方やクシャーナ朝、カニシカ王などを見てしまいがちですが、こうして改めて眺め渡してみますと、このあたりには、たしかにBC1500年頃以降はインド=ヨーロッパ語族アーリヤ系インド人が多く住むとはいえ、歴史的・文化的に果たしてこれが『インド(の一部)』といってよいものやら……むしろインドから見れば、異文化・異民族の地であり人々だったと言った方がふさわしいのではないかという思いが、私にはどうしてもぬぐえません。

ところで近年の考古学的成果によって、この地方の古代都市の様子が、徐々に明らかにされはじめているようですね。そしてどうやらその都市復元図は、ギリシャ、ローマ、中央アジア、インドなど、さまざまな建築様式が混在していることを教えてくれているらしい。仏像の顔にギリシャの神々が投影されているのは、おそらく皆様もご存じでしょう。
話を少しだけ先取りすれば、法華経が説く、たとえば開三顕一といった人間的かつ普遍的思想は、きっとこの時代この地の異文化・文明同士のぶつかり合いや異人種・異民族の交流や摩擦、国家の興亡や戦乱といった歴史のダイナミズムの中から生まれたのだろうし、そういう世界的思想(宗教)が育む『心の土壌』が、きっとこの地にはあったのでしょうね。


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