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現代人が納得できる日蓮教学

212犀角独歩:2005/10/02(日) 11:04:38

―211からつづく―

社会、個人に対する危機意識が、正しい教え(考え方)・善意を、邪(よこしま)・悪意が凌駕して人と国を滅亡に追いやろうとしているとき、では、どんな方法があるのか。
政治的統治であれば、政治の問題であり、関連して経済の問題であるという仏教的な言葉を使用すれば「王法」の問題である。けれど、王法は一部特権階級のみの利益構造で万民を搾取・隷属させる構造に容易くなるわけです。ここで警鐘が鳴らせるのかに法華仏教者の使命はあります。けれど、本来、仏教は、出世間法=出家ですから、国家という家から出たところの論理であり、初期経典からは(それが釈尊の教説であると直ちに言うわけではありませんが)その点が看取できるわけです。

しかし、法華経は、末法(教説が絶える=法滅)という時代に、釈尊を仰ぎ、「この世をどうするのか、衆生をどうするのかを考えた」経典であったという点は、しかし、わたしは評価できると思います。

より厳密に言えば、いま上記で敢えて「」で括った部分が評価できる点です。いわば末法観から抽出できる利点でしょう。しかしながら、これが単に法華経、その奉持集団のための弘教がと解釈されるとき、その高尚な使命感は潰えてしまうわけです。法を弘めることが至上命題になるのは、本を売れば、内容が読めれなくてもよいというようなものだからです。

要は末法という危機意識から発した各人の使命感が、この世と人にどのような利益をもたらすのかという点で、はじめて一般大衆は、その価値を見いだすわけですが、それが単に集団・指導者・教義の押し売りだけであれば、鬱陶しい教条主義、原理主義以上の意味を持たないからです。

なんら自己利益にもならない集団と指導者、その教えを信じないことが、悪という論法には二つの過ちがあるでしょう。一つは教えを奉持しながら、集団と内部者の自己満足に留まって社会一般には何の役にも立っていないこと、もう一つは、そのような役立たずの存在であるという認識がないまま、信じないことを殊更にあげつらい、他を罪悪視するという点です。何よりここで致命的なのは、法を信じること・弘めることが目的となってしまったために、末法(法の滅尽による退廃)という改善すべき状況にあって、その法が社会的に何も役立てないばかりか、信じない故に罪悪視するという悪循環が生じていることです。

末法‘思想’は、この世をどうするのか、どうか得たかによって意味をなす‘思想’であるという点を再認識し、実際に活かされれば今日的な意義を持つに至るのではないか、その可能性があるのかが、わたしの議論したい点です。


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