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現代人が納得できる日蓮教学
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犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/10/02(日) 11:04:14
この掲示板に来る以前から、わたしには大きな疑問がありました。
それを『つぶやきすれっど』に記しました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/r1705-r1707
上記、「末法」思想の発生と定義が語られますが、それはまあ十分に議論されればよろしいでしょう。しかし、重要な点は法華経制作者も、天台教派も、そして、日蓮も、通じて、自分達の時代が末法であるという自覚に基づいているという点です。これは要するに、日蓮教学の瓦解を意味することです。しかし、それ以前に天台が羅什漢訳に拠ったこと、法華経が後世の創作に過ぎなかったこと、これだけで十分に日蓮教学は瓦解はしています。その意味からすれば末法云々は枝葉と言うことになるのかも知れません。
以上の点は前提ですが、ここから当スレッドのテーマ『現代人が納得できる日蓮教学』を考えようと言うのが、わたしの提案の趣旨です。
見てきたように、日蓮の末法観は、結局のところ、まったく成り立たないことはわかりました。しかし、日本、鎌倉という国と時代の人であった日蓮が、当時の最高の学識であった仏教を通じて、その社会を見たとき、「末法」がリアリティを持って迫るだけの状況があったという観察は、外れたところではないでしょう。
その時に厭世的になり、現実への期待を捨て、死後の夢想世界に思いを馳せるのか、否、この現実を何とか変えることを考え、実践するのかという点で、日蓮は後者を選んだ点は評価に値するでしょう。しかし、わたしが残念に思うのは、身命に及ぶ法難が発生した段階で「霊山浄土」で三仏顔貌を拝すると何故なってしまったのかという点です。わたしはここに日蓮の限界を見ます。
しかし、それはさておき、末法認識とは、やや解釈すれば、現実社会が乱れ、滅亡に向かう様相を呈し、さらに人心が退廃している理由を、正しい教えの滅尽したことに理由を求める構造で古今一貫しているという点です。
このような事態で何をどう為すのかということは、各人の「使命感」に基づくことになるわけです。これはミトラ>救世主>弥勒>菩薩という思想系譜已来の良識と行動の発露であるのか、一部特権階級と集団が自己利益のために、大衆を煽動する基礎理論とするのか、あるいはその折衷かという点で、わたしは分析する必要があると考えます。
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