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現代人が納得できる日蓮教学

196犀角独歩[TRACKBACK]:2005/09/29(木) 12:15:04

194 古池さん

> 法華経・天台・日蓮の書かれている(言っている)それぞれの違い

ちょっと、簡単に説明できるかどうかわかりませんが、法華経は、記してきたとおり、菩薩を教えるといい、その成仏の結果は寿量(量り知れない寿命)であるといいます。ここで重点となっているのは菩薩行でした。

しかし、羅什は、五何法と言われる箇所を九如是と約して恣意的な方向性を定めてしまった。慧師を通じて天台はこの九如是を十如是として、唯識思想、また老荘思想、華厳思想、涅槃思想等と総合して三千不可思議境という座禅(止観)の方法を論じていきます。妙楽はこれを一念三千とし、妙楽解釈の天台が天台として日本に伝わります。
ここで重点になっているのは止観という禅です。

ところが日蓮は、伝教以降、真言密教の影響を受けた天台学と念仏の影響下で純天台を目指す意識を持ちながら、南無妙法蓮華経の唱題行を立てるという独自な展開をすることになりました。

以上が行における相違として、雑駁ながら、わたしは考えています。
では、教という面ではどうかというのが、ご質問の主旨であろうかと思います。

繰り返し記してきたとおり、梵本法華経は菩薩の戒めから計り知れない寿命を持つ如来になるために、法華経典を弘める菩薩行を督励するもので、この経典は古代の東西を凌駕した聖典信仰の系譜にあるように思えます。経典は誰かが作った者であるというより、神秘な存在として永遠の過去から存在しているというものです。経典は仏が説いたというのが旧来の在り方ですが、法華経ではむしろ経典が仏にしたというコンセプトが散見できます。では、その経典は誰が作ったのかということには言及せず、神秘の存在というコンセプトです。もちろん舎利信仰、仏塔信仰、仏像信仰も肯定はされていますが、しかし、その骨子は経典信仰にあるように読めます。ここでいわれる法は、教法であり、宇宙の真理であるとか、心の有り様であるといったことを問題にはしていません。この法華経が教える菩薩の戒めこそ、唯一の教え(法)である最高のものである、菩薩以下の衆生もやがて菩薩道を行じて仏になるというのです。この菩薩は徹底した無抵抗、非暴力、不怒の菩薩です。

しかし、天台はこの「法」を什訳方便品の「諸法実相」から心から整理していくわけです「説己心所行法門」(己の心に行ずる訪問を説く)という解説はそれを端的に物語っています。天台が法という場合、それは心法であり、その観察を十界、十如、三世間から三千の止観禅として結実していたという点で、梵本法華経コンセプトとは大きく異なります。これは坂本幸男師が指摘したことですが、天台の時点では一念三千という成句化はありませんでした。「言語道・断、心行・処滅」をモットーとした天台が、このように三千分類観察する心法をしかし、三千であるとするわけがなく、三千はまた一心として、非三千にして、しかも非一、亦三千にして、亦一とするのは、実に勝れた観点であるとわたしには思えます。禅とはかくあるべきという思いがあります。

ところが妙楽は、天台の言う一心を一念とし、三千という定数化を天台が簡んだにも拘わらず、一念三千としたわけです。わたしは個人的にこの妙楽解釈は、天台から大きく後退したものであると思えます。(もちろん、天台妙楽の系譜を信じる信仰者には大いに異論があるでしょうが、この点は既に過去に議論をしたことなので、繰り返す時間を弄する気にはなれません)

日蓮に至っては、この妙法蓮華経という経題を末法付属の正体として、法華経典への南無ではなく、この五字への南無として、「南無妙法蓮華経」とし、漫荼羅という独自な境地を展開していったわけです。

やや、言葉足らずかも知れませんが、以上のような大木な差異が見られます。

> …小野文著師…「万年・尽未来際とは別立て」

これは平成13年に開催された日蓮宗東京西部教科センター主催・教師研修会『日蓮聖人の摂折観を巡って』での小野師の説に基づいてのことです。この点については、過去に投稿しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1117079987/r614-r615

以上、ご参考ください。


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