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現代人が納得できる日蓮教学
192
:
乾闥婆
:2005/09/29(木) 00:37:00
犀角独歩さん。
お久しぶりです。
>天台・妙楽・伝教が、自分達は「末法」を生きていたかどうかという認識は必要であると思うわけです。
中国と日本での末法の時間のずれは私も気になっていました。以前、塚本善隆・梅原猛著『仏教の思想 第8巻不安と欣求<中国浄土>』(角川書店)において色濃く末法思想が語られているのを読み、さながら500年後の日本を見るように思いました。
『岩波仏教辞典』を読むと、末法は慧思(515-577)「立誓願文」による正法500年・像法1000年説と、吉蔵(549-623)「法華玄論」に基づく正法1000年・像法1000年説の二つがあるようです。天台(538-597)はもちろん慧思によるのでしょうが、この二つの説は同時に同じような影響力を持って存在しえたのでしょうか。
上記、中国浄土の本を読んでいて、末法思想として強く語られているのは、浄土教であり、また、信行(540-594)の三階教です。特に三階教は不軽菩薩の礼拝行を実践する信仰ということで、またその既成教団への批判や逆に既成教団からの異端視など、蓮祖といいますか、創価学会をも思わせるようなものを感じました。ほかの掲示板でもそのことは議題に上がったことがあり、三階教には地涌の菩薩の自覚の点でその後の日蓮系宗教とは違う、といった主張もありましたが、末法を生きる自覚と、その自覚から生じる既成宗教への批判、その行法以外にないのだ、といった収斂の度合いから見て、やはり似ていると感じ、地涌の菩薩の自覚云々は苦しい弁明のように感じました(菅野博史氏は『法華経思想史から学ぶ仏教』(大蔵出版)で同じような主張をされていました)。
天台自身による末法への言及があれば、その末法を生きる自覚のほどがうかがえるのですが、そのような文献はないのでしょうか。たとえば蓮祖の生涯を振り返るに、天台よりも、信行への近似を感じるのであれば、末法を生きる自覚とは、蓮祖ほどには天台にはなかったのではないか、とも思えてしまうのです。しかしそれを語るほど私は天台教学や三階教についての研鑽を積んでいるわけではないので、危なっかしい発言ではあります。(そういえば、せっかく購入した天台小止観にまだ取り組んでいませんでした)。
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