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現代人が納得できる日蓮教学

191犀角独歩:2005/09/28(水) 23:42:32

> 188 古池さん

わたしの投稿をお読みくださり、まことに有り難うございます。
このように真摯なご質問に接しますと、投稿の甲斐を感じます。

ご質問については、180に記した通りなのです。妙法蓮華經は経題である、なんでそれが法なのだという当たり前の疑問です。もちろん、このような当たり前の疑問は古来からいわれていたことのようで、台釈にしても、日蓮教説にしても、その弁明に終始していると強く感じます。

これはまたいままさに現代進行形の話ですが、松山俊太郎師が、この経題について、鋭利な翻訳分析を試みています。つい最近も、その聴講をしたのですが、武者震いというか、聞きながら、久方にゾクゾクしたものでした。あまりの内容に、いつもすぐにブログに覚え書きを記すのですが、殊、松山師の法華経講義にはここ2月、そのノートを睨みながら、感想も出ないショック状態にあります。筆舌に尽くしがたいという感情に揺さぶられています。

しかし、経題は経題です。その前提で、では、そこでいうagradharma、saddharma とは一体、何かいえば、これはかつて顕正居士さんもご指摘くださったことがありましたが、いうところの法は理法ではなく、間違いなく教法、もしくは行法であるわけです。では、教え、行とはいえば、教(菩薩)法、もしくは菩薩行(六波羅密)でしょう。

これはしかし、実際の実践の行を教えることです。それにも拘わらず、その教えを書いた本の名前を法と捉え違いするとき、実践行をそこで廃れてしまいます。まさに「お題目だけ」ということになります。

例になるかどうかわかりませんが、『六法全書』という四文字をいくら唱えたところで、法律を遵守することにはならないという理屈と同じであるという常識は、わたしにはあります。では、唱題が駄目なのかということを言っているのかという反詰はあるでしょうが、わたしが言いたいことは、要は法華経に書かれていることと、天台が言っていること、まして日蓮が言っていることは「違う」ということです。その違いをしっかりと認識したうえで、自分は六度万行なんか嫌だ、唱題で体験を得たというのは、それは個人的リアリティであって、そこに意義が見出せるのであれば、日蓮の唱題行は成功であったということでしょう。また、実際に成功したとも思います。ただし、行法としては、わたしは六度、また八正道といった実践行を忘却したところに後退があったという主張を取り下げるつもりはありません。

このように記しているうちに、問答さんが pundarika をご紹介くださいました。
わたしもかつて記したことで失念しているところも多くあるので、読み直してみようと思います。


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