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現代人が納得できる日蓮教学

153犀角独歩:2005/08/07(日) 11:19:22

―151からつづく―

> 行為衝動に観念や理念が付加されることで、はじめてそれらの行為は社会化

ここのところは、両意とも可で、択一をするようなことではありません。
ただ、わたしが言いたいのは仏壇の前に逃げ込むな、仏壇の前で納得して終わらせるなという基本姿勢です。これは平和を唱える集団の構成員であるだけであたかも自分が平和活動をしていると錯覚することと似ています。蓋を開ければ、その集団の実際行動は平和のためには何の役に立っていないのにも関わらずです。まさに「お題目だけ」という有様です。

>> バラモン階級に特権化されていたものを下階級との禁婚で生じたものへ解放

この点は、(法華信奉者には頗る評判が悪いのですが)岩本裕著『佛教入門』(中公新書)に詳しく書かれてあります。

「…これらの人々は現実の社会でもバラモン教の教権制度に対する反逆者であったが、それは彼らが主としてバラモン教の支配する社会において蔑視された階層に属する者たちであったことが知られる。すなわち、父母の身分が異なる場合の子で、特に父がバラモンである場合が圧倒的に多い…一般に苦行者と呼ばれ、また沙門と呼ばれた」(P49)

カースト外の婚姻は禁婚ですが、シャキャムニの時代には多くこのような人々が生じていたと言います。バラモン教とは地上のバラモンが天上のバラモンになる思想ですから、そもそもバラモン階級ではない人々は、ただ、バラモンに輪廻できるのを来世に託すしかないわけです。また、その基本は禁婚を埒外に置いて成り立っていますが、しかし、実際にはそのような人々が多く発生していたのがシャキャムニの時代でした。この人たちが、バラモンとは制度的には認められないけれど、バラモンの修行(梵行)をもって道を求め、沙門と言われる一連の潮流が生じ、そのニーズに応えたのシャキャムニであったという見方です。

そもそも仏陀、阿羅漢なども、バラモンの用語なのであって、シャキャムニは新宗派の樹立者ではありませんでした。その功績はバラモンに特権されていたところをバラモンを父に持ちながら、しかし、その身分を認められない人々を中心に道を開いたところにその功績があったという視点です。この視点から


経典によく使用される「善男子」は「良家の息子」という梵語に由来するそうですが、実際のところ、出家はバラモン、そしてあとはバラモンの父異カーストの母を持つ人々であったといいます。つまり、シャキャムニは、出家弟子という範疇においてのみで語れば、両親がバラモンと、父のみがバラモンであるといった階層の人々を対象にしていたことが窺われるようです。

「余の弟子は種姓も同じでなく、生まれも同じでない。しかし、みな同じように余の教えを受けて出家し、修行している。もし人がおまえにおまえの種姓をたずねたならば、おまえは『私は沙門釈種(釈迦族出身の修行者、すなわちブッダ)の子である』と答えよ」(『長阿含経』第六『小縁経』)

「クシャトリア、バラモン、ヴァイシャ、シュードラの四種姓があるが、これらの種姓に属する人々がブッダのもとで出家し、その教えを学び修行するときには、その本来の種姓と名とを失い、ただ沙門釈種の子といわれるのだ」(『増壱阿含経』第二十一)

という経典を読むと味わいはまします。
以上の点を記したものです。

> 宗教という用語

これはたとえば、簡単に見られる資料が現宗研のサイトに置かれています。
開いて「宗教」で検索してみてください。これが本来の宗教の意味です。

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/kyouron/ehyou.htm

なお、現代語の宗教は、religion とは、(いま、手許に資料が見当たりませんが)再結合、つまり、泥から作られた人間が再び神と結合するというのが原義だということでした。これを始めて聞いたとき、即座に「梵我一如」が思い起こされたものでした。このような考えは東西交流の中で共有されていった考えなのでしょう。いまいわれるような宗教の定義付けは、実はそれほど、根拠のあるものとは言えないと言うのがわたしの思いです。
乾闥婆さんの語法は、多分に「世界宗教」と言われるような意味合いを有しているように感じました。


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