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現代人が納得できる日蓮教学

108犀角独歩:2005/08/02(火) 20:37:39

―107からつづく―

> 結局日常の現実の生活のなかで、私は永遠の相に触れる機会を失い、ただただ日常の雑事に流されていってしまう

ここなのです、乾闥婆さん。わたしは、自分が菩薩道に具体的に生きるとき、その瞬間に永遠を感じています。しかし、器物崇拝者は、そのシンボルに永遠を見てしまうために、現実のなかに永遠を見られなくなってしまいます。まさにこれはシンボルの病ではないでしょうか。宗教儀式、勤行のなかに菩薩道があるのではありません。道に倒れた人があれば抱き起こし、飢えた人に食を与え、寒熱に衣を与え、共に泣き、共に喜ぶところに永遠の菩薩道はあります。それを宗教儀式のなかで見て終わりにすれば、それでは理念、観念の域でしょう。実態とは自分が心の実感であり、心身を尽くす人との関わりのなかにしかありません。

漫荼羅も、唱題も、そして、日蓮の教えも、その菩薩道に至る道標であることがわかります。しかし、道標は目的地ではありません。単に指し示すばかりです。その道標を拝んで、満足しているのが多くの器物崇拝の墜ちた坑ではないでしょうか。

> 「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ」。それに尽きるのだと思います。

まさにそのとおりです。

> 宗教にしろ文学にしろ、その重要な役割は世界観の提示

このお考えには賛同します。

> 初期仏教は宗教であるよりも、むしろ哲学であるように思います

これは主客逆転です。初期仏教こそ仏教であり、いまわたしたちが思っているほうが仏教ではなく、宗教ではないのです。いまようやくと、科学的成果と思弁で、幾重にたまった澱と、垢が洗い流され、宗教と、仏教が見えてきたのではないでしょうか。

> 曼荼羅は道具

そうですね。結局のところ、人々が感じる神仏、菩薩、さらに宗教というものは、その人自身の願望、思念にほかならず、実は一歩も自分の心から出ていないという事実を正視しないと前に進みません。

> 「人間革命」第一巻…不思議な虚空会の儀式がそのままの姿で御本尊に厳然として認められている

漫荼羅図示の有様は虚空会というより、先の日蓮の言説の通り「霊山虚空会」であるというのが正確でしょう。ただ、戸田さんの個人的体験がどんなものであったのか、これを追体験するような漫荼羅唱題を繰り返すことは、無意味であるとわたしは思います。仏壇の前に人生があるのではなく、永遠も神秘も奇跡も、一切は、いま生きているこの瞬間の現実のなかで見いだせることだからです。これはさらに拡げて言えば、宗教団体という狭い場所が提供する世界観は、実に小さく、仏教徒は言い難いものです。その出口を出れば、そこは入り口であり、広漠な世界観が、文字通り、広がっています。それは宗教団体や、その指導者が提供する退屈なご都合世界とは違い、漫荼羅唱題で見られる世界より、さらに広く、大きく、そして、永遠の世界であると、わたしは感じてきました。

> 創価学会自体が富士門流と違って受け止めている

もちろん、そのとおりであろうと思います。創価学会の教学は、まるで石山と違い、石山はまた冨士門全般と違い、その富士門は日興と違い、日興はまた日蓮と違います。この現実から目をそらさない人だけが、「納得」を考えることができる人たちでしょう。


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