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現代人が納得できる日蓮教学
1
:
管理者
:2005/07/16(土) 10:06:55
新しいスレッドテーマの提案が有りましたので、立ち上げます。提案文は以下の通りです。
1721 名前: 顕正居士 投稿日: 2005/07/16(土) 06:59:06
ここは「つぶやきすれっど」なので1700 1705 1706 1709 1718 1720などの内容について意見を交換するスレッド
を作ってはどうでしょうか?「現代人が納得できる日蓮教学」とか。
わが国の仏教の「現代」はいつ始まるのか?飲光慈雲が悉曇学を復興し、富永謙斎が経典成立史を解明した
18世紀だろうとおもいます。この時点では睡眠中の仏徒は未だ覚醒せず明治の廃仏に至った。ようやく各宗は
欧州へ留学生を送って、現代仏教学が誕生した。以後、わが国の仏学の発達はめざましい。だが各宗の先哲、
さまざまに改革の努力をしたけれども、ついに葬式仏教から脱化しなかった。現代仏教学の知見は薄弱にしか
普及せず、伝統宗学の学習すら衰退した。そこで人民の宗教需要はほとんどが新興宗教に吸収されていった。
結局、わが国の仏教は今は整然、3種類に分かれるに至った。学問仏教、葬式仏教、仏教系新興宗教である。
伝統宗学も学問仏教に属する。いつの時代でも高等な学問は少数学僧のことで、在家信者の多数は基礎的な
宗学も知らなかったといえばそうであろう。問題は間を繋ぐ一般僧侶の教養である。かつて日蓮宗諸派の壇林
では能化に至るのには20年ほどかかった。天台の六大部を隅々まで学習するのにはそれくらい必要であった。
今日では僧侶と在家信者の教養には大差がないから、仏教学者、宗学者たちは直接に在家信者を対象にした
著作をよく出すようになった。葬式仏教、新興宗教に満足しない読者は増加しているようである。読書仏教の
隆盛である。わが国の仏教が結果的に当たり前のところに到着したのだといえる。現代仏教学の見識の上に
立った仏学書を手引きにして、次には自ら仏典を読む、それが在家仏教徒の基本である。中国、台湾の仏教
はまったくこういうあり方である。漢文がわれわれよりも楽に読めるからであるが、仏教学が発達した日本では
サンスクリット語、パーリ語からの現代日本語訳経典も溢れており、仏教を学ぶにはわが国が最高の環境です。
2
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 11:29:50
顕正居士さんの整理は、さすがに的確であると敬服します。
わたしは新興宗教の家庭に生まれて、やがて末寺から本山を在家という立場から、そして、経釈読みに入っていきました。この経験でいちばん、よくわかったことは「ご都合」を背負った人の御説は、それがどんなに人の尊敬を集め、権威と呼ばれるところであってもご都合の垢で汚れていると言うことでした。つまり、清掃しないと役に立たないということです。
この垢はまた、簡単にこちら側に付着します。付着した垢はコピペのようなものですから、付着した本人は自分の頭で考えた自分の言のように語りますが、コピペ元を知っていれば、すぐにわかります。
重要な点は、このような垢まみれの人は、自分が垢まみれであることも、また、コピペしただけであることにも気付けないと言う点です。このスレッドは極めて、重要な意味を持つことになると思います。
この清掃ができる人は、実に数が少ないのです。わたしはこのスレッドによって至るところは、文献考証もさることながら、結局のところ、この清掃のできる自由精神に至れるかどうかということであろうと思います。
投稿される方は、以上の点を、投稿の際に、どうか思い出してみてください。
ご提案の顕正居士さんは、もちろん、この‘清掃’を先駆けてできた希有の逸材であったと、わたしは尊敬しております。
3
:
ラキ
:2005/07/16(土) 13:12:06
1)石山系教団で初歩教学で「三転読授」に付いて。
学会・顕正会では「三転読授」の意味すら知ってる方は少なく感じます。
「三転読授」の意味を知ったのが、役20年前の入信当初、基礎教学の本を読んでいて、
勤行の姿勢の項目で、勤行の速度は喋る速さで読授と書いてあったので、
疑問に思い、当時の地区リーダーに尋ねました。
その時「三転読授」の事を始めて知りました。
十にょうぜいを三回繰り返して読授が「三転読授」と言う、教え方は間違いではないのでしょうか?
2)学生の小僧さんがどうしゅの勤行のとき、高速読授&1分題目て惰性で勤行してるように感じております。
何故このように感じたか。
それは夕方の勤行の時間に、早く行く時と遅くギリギリの時があり、その時の印象なのですが、
早く行って唱題をしていると、10分前には勤行の準備をいつも始めております。
ギリギリの時間に行った時は、準備もしてなくて、唱題をしてると少し遅れて、勤行の準備を始める事が良くあったからです。
5時半と時間が決まっているにもかかわらず、5分ぐらい遅くなる事はしょっちゅうありました。
惰性で勤行と感じたのは、早く行った時の勤行のしたくをしてる姿が、信徒がきてるから仕方がないな、と雰囲気で準備も乱雑な感じが見えたからです。
学会に対して3分勤行と批判してる宗門が、学会に負けない速度の高速勤行はおかしいと感じずにはおれません。
勤行の速度だけ限定すれば、顕正会の勤行の速度が一番理想の速度だと思います。
各教団で一番気になるのは、
1)勤行の意味そして読授の意味を理解していないのではと感じる事。
2)合掌の姿勢と数珠の取り扱いの意味も理解されたないと感じる事。
このような基礎教学的な事を確り教えて行ってない、各教団のあり方は、
変ではないと感じております。
私の周りだけかも知れませんが、ご助言いただければ幸いです。
4
:
顕正居士
:2005/07/16(土) 13:36:50
現代仏教徒は各宗各派の教理の相違をどう考えるべきか?
高遠な考察はしばらく措いて、できる限り単純に実際的にこれを考えてみる。浄土真宗、日蓮宗等と称するのは
仏教の中の宗だからである。また何々派と称するのはある宗の中の派だからである。したがって派祖の見解が
宗祖の見解と相違すれば、宗祖の方をとるべきである。宗祖の見解が仏陀の金口と相違すれば、仏陀の金口
をとるべきである。これ以外にあり得ないから、少なくとも建前では皆が承諾して来た事柄である。
では何をもって仏陀の金口とするのか。顕教では2500年前に閻浮堤に出現された仏陀釈尊が実際に説かれた
教えである。そうでないと云った人はいない。昔から偽経、偽論ということも云った。したがって後世成立の経典
の説の中で著しく仏陀の直説と相違するものは仏陀の金口の延長解釈とすることはできない。
現実に存在する経典は北伝、南伝ともにその大部分は後世の加上である。須弥山宇宙など自然科学未発達の
故の説は仕方がないが、歴史的な事実の記載の誤り、道徳上大いに問題とすべき教えなど、無益有害の部分
が実際には少くない。ディグナーガ(陳那菩薩)は仏教においては外教のように聖教量を立てるのは不可である
と決択している。経典の説は経験と推理に合致するがゆえに採用されるに過ぎないからである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E9%82%A3
ゆえに後世の加上であり、かつ科学、道徳とも合致しない説は仏陀の金口ということはできない。ただしこれを
反対にいえば、仏陀の金口から発達し、かつ科学、道徳と合致する宗祖、派祖、その他の師の説はそれぞれ
の宗や派の伝統教義として尊重されるべきである。
5
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 14:24:21
3のご投稿は問うスレの趣意に必ずしも一致しませんので、素朴な疑問でお応えしました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/2544
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