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蓮祖及び門下の曼荼羅について

110ラスカル:2005/12/06(火) 18:54:47
インターネットでは相手を確認する事は困難かもしれません。それでも、憶測で年令如何を判断するのは申し訳無いです。正論の羅列を書かれるとどこからどこまで書けばいいのか迷います。(法華の)仏法理論と(過去現在未来の)成道形式論と(信徒の)成仏内実論と(日蓮亡き後の)後日談議を考えるには真蹟だけでは捉えきれないでしょう。肝要を好むと言っても生活環境の違いで進むルートは違うわけですから。貴方の分析は適切だと思います。高説としては「無始とは遠い過去を指すのでは無く成道により過去現在未来を超克し因果倶時たる事を示す云々(抜粋で済みません)」昔の意見か解りませんが私には考えられないので感銘を受けました。ですが、真蹟を確定する研究なら他の要素は文書写真以外一切斜断してやらなければ話は脇道にそれたりしてしまうでしょう。私も浮かれてしまって意味の無い事を書き過ぎました。真蹟に何が書いてあるのか当てるために書いているわけでは無いので遺文・御書を調べてから出直すしかないでしょう。此の場は失礼します。でないと宗門学会其他の愚痴を書き倒すだけになってしまいますので。

11101:2005/12/06(火) 20:43:51
犀角オジが言ってんのは、知らないならちゃんと聞けってことなんだ、この人は。
聞けば、疑問が出る。そしたら、また、聞け。聞いて聞いて聞きまくれてことなんだな。
自分が思いもつかないことを聞かれたら、一緒の考えるぞ。だがぁ、共通の認識に立ってなきゃ、そんな積み重ねはできねぇぞってことなんだね。
ふぅ、ぼくも通った道だ。

112犀角独歩:2005/12/07(水) 01:45:23


> 宗門学会其他の愚痴を書き倒す

まあ、そんなことはしないほうがいいでしょうね。
わたしはかなり注意深く原文を挙げています。
そこから考えてみては如何でしょうか。

113ラスカル:2005/12/07(水) 11:33:14
■01さん、犀角独歩さん、真蹟データや日蓮、日興、諸々弟子の教学を比較検討し得る質量が無いと書き込み辛いです。此っちだけ質問だけになってしまいますから。■視点・論点・問題点整理、本仏同等論、教師僧論、信心&教義(無作り三身、真蹟研究)、宗祖大聖人漫陀羅では無いのか(下種結縁、漫陀羅図)、師僧書写で無いのか(少欲知足の聖僧)其他を学会へ郵便はがきなどで聞いてみたいと思います。口下手なので質疑応答し辛いですから。

114ラスカル:2005/12/07(水) 12:18:36
無作り三身→無作三身

115彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/07(水) 12:24:19

>113 横レス失礼。
>真蹟データや日蓮、日興、諸々弟子の教学を比較検討し得る質量
 質量? 資料?

116ラスカル:2005/12/07(水) 16:05:56
判断できる内容の質量と言う事。文字変換できない言葉があるので済みません。

117ラキ:2005/12/07(水) 18:15:23
横レス失礼します。
>113.学会へ郵便はがきなどで聞いてみたいと思います。

学会。宗門。顕正会などの組織に直接質問しても回答はないと思います。
質問がある場合、所属組織の幹部に聞いて下さい。と言われますよ。
疑問・質問なら、ここの「素朴な疑問スレッド」で質問すれば、元、現役の組織所属の方がたくさん居ますので、回答を頂けます。
大抵の疑問なら、過去スレッドを見ると議論されていますよ。
質量は膨大ですが、拝見してためになる事ばかりです。
目から鱗ではないですが、新しい発見があり楽しいですよ。^^

118彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/07(水) 19:09:24

>116 ラスカルさん
理系の私には、貴殿の文章はどうもよく解らないですね。「質量(mass)」とは物質の量をあらわすものです。
http://www.iae.or.jp/energyinfo/energydata/data6014.html

『広辞林』によれば、
質量:〔理〕物体の有する実質の量。物体に働く力を、その物体の加速度で割った値として定義し、重量によってこれを比較する。一般には、重さまたは重量ということばでも表されている。
『広辞林<第六版> 』(1985年、三省堂)
となっています。
つまり貴殿の
>判断できる内容の質量
という言葉の使い方は「質量(mass)」の定義からいってありえないのです。
そうではなくて“判断できる内容の質と量”なら解ります。“質と量”ということですか?それであれば訂正されるべきでしょう。

もうひとつ。
>文字変換できない言葉
も意味不明です。概念としてうまく表現できないということですか?それであれば貴殿の表現力の問題です。だからといって第三者に理解できない、日本語として通用しない意味不明の言葉を羅列してもよいということにはなりません。
ここは議論の場です。議論する以上、自分の考えを相手に伝える能力が要求されます。また、ただの思いつきでどんどん質問し、それへの回答には全く応答しないというような自己中心的な態度はとるべきではありません。

私は貴殿のスレッド95のご質問に対してスレッド97で答えているわけです。それに対して貴殿はどう思ったのですか?掲示板で世界に向って質問しておきながら、それへの回答を食い散らかすようにほったらかしにするのですか?まず、回答者に対して何らかのコメントをするのが礼儀ではありませんか?

>済みません
ですませるのですか?“すまない”の丁寧語は“すみません”です。“済みません”ではありません。

貴殿の投稿ロジックを読んでいますと、まともにお答えする相手ではないと思いますので、スレッド97に対してお答えがないのであれば、これ以後、貴殿への回答は差し控えます。ご苦労さまでした。

119ラスカル:2005/12/07(水) 23:27:26
彰往考来さん、判断できる内容の質と量と訂正致したいです。それから、まだ指摘の書き込みを確認していないものですから申し訳ないですが是か非かの返答は差し控えさせていただきます。確かに書籍として発刊されていますが聖教新聞に同じような書き方で企画されていました。全話読みませんでしたので、どこからどこまでとは断言できませんが。不確定な書き込みですみません。御説は最な意見ですので書き込みは控えさせていただきます。

120ラスカル:2005/12/07(水) 23:39:48
ラキさん、それは当然なのですけれど、教学が得意な方がいないのと名誉会長に忠誠or師弟不二を誓う用紙にサインしなかったもので、聞くことが憚られます。それで学会本部もしくは聖教新聞にと思いました。

121ラキ:2005/12/08(木) 02:22:55
ラスカルさん。
私の体験で言うと、先輩に聞いても入門書籍程度の指導しかされません。
それなら、自分で書籍を読み漁ったほうがましでした。
また、自分では理解できない事などは、こちらで質問をさせて頂き、私なりに納得、理解できたと思える事がたくさんありました。
組織で1年学ぶより、ここで半年学ばして頂いた方が、何十倍も身になると思います。
いろんなスレッドを見るだけでも、基礎から専門書を読んだぐらいの情報の多さ。
そして、判りやすい解説で、教学研鑽には適した場所だと私は思っております。
興味あるスレッドや素朴な疑問のスレットを最初から最後まで読んだだけで、とても勉強になりますよ。^^

122彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/08(木) 07:46:51

>119 ラスカルさん

貴投稿、とりあえず了解しました。

>聖教新聞に同じような書き方で企画されていました
これは初耳ですね。私が見落としたのかもしれませんが、どうでしょうか。このようなイイカゲンな内容を“偉大なる”聖教新聞が載せるのですかね。

『日蓮大聖人と最蓮房』はインターネットで公開されていますので、特に購入しなくても読むことはできます。
http://www.houonsha.co.jp/nichisai/index.html

北林氏の妄説など百害あって一理なしで推薦できませんが、どこが間違っているのかチェックしながら読むとよいです。おヒマであれば。

123独学徒:2005/12/08(木) 13:07:32

ラスカルさん、はじめまして。
横レスにて、失礼します。

『戒体即身成仏義』や「不動愛染感見記」に関する、北林氏とほぼ同じ内容の論考として、山中講一郎氏の「日蓮伝再考(一)」があります。

もしかしたらこれらが、今の学会の公式見解に近いのかも知れませんね。
そうだとすれば、ラスカルさん仰せの通り、聖教等に出ていても不思議ではないですね。
私も該当の記事は記憶にないのですが、何分隅々まで目を通していないもので自信がありません。
対話形式といえば、例の座談会記事が思い浮かびますが、どうも思い起こせません。

たとえ公式見解でなかったとしても、北林氏と山中氏が、資料・情報等の共有などで近しい仲であるこは、二人の出版物の内容から明らかだと思います。

124犀角独歩:2005/12/08(木) 18:32:47

> 名誉会長に忠誠or師弟不二を誓う用紙

こんなものがあるのですか。21世紀にもなって、面白いですね。
こんなものを書かせるというのは、いったい、どんな神経なのでしょうか。

S・ミルグラム師は「忠誠」ということについて、『服従の心理』(河出書房新社)で以下のように記しています。

「忠節、義務、規律といった個人的価値は、ヒエラルキーの技術的必要からきている。個人はそれらを高度に人格的な道徳規範のように感じているが、体制の水準では、それらは、大きな組織を維持するための技術的前提条件に過ぎない」(P242)

「兵を新しい役割に強く拘束するため、忠誠誓言が用いられる」(P234)
「われわれが個人においてかくも高く評価している忠節、規律、自己犠牲などの美徳が、戦争の破壊的組織の道具であり、人間を邪悪な権威組織に結びつける特性そのものであるというのは、皮肉なことである」(P244)

また、西田公昭師は『マインド・コントロールとは何か』(紀伊国屋書店)で

「破壊的カルトのメンバーが、どのような心理状態になるのかについて、その代表的なものをまとめてみる。まず集団への帰属感・正義感である。自らの組織への強い忠誠心と、帰属意識やそこでの活動の正当性などを抱き、集団への好感的な評価を下している」(177)

創価学会を破壊的カルトとラベリングをする気はありませんが、忠誠を誓わせるサインなどをメンバーに迫ることは、破壊的カルト、また、軍隊に代表される権威組織における分析と合致してしまうのは、何を意味すのかを、グループはよくよく、社会のなかの自集団という客観的視点から見てみる必要があると思います。

125ラスカル:2005/12/08(木) 20:03:38
彰往考来さん、独学徒さん、気遣いありがとうございます。なるべく多くの議論や書籍を読まさせていただきたいと思います。

126ラスカル:2005/12/08(木) 20:17:59
犀角独歩さん、其れが学会上層部の指示なのか、県の青年部が自発に集めていたのかは定かではないのですが、私は未活だったのでサインは書きませんでした。師弟不二であれ一人立つであれ青年部が一丸と正確無比な目的で活動するなら組織システムは崩れないものでしょう。戸田城聖以来、飛ぶ鳥を落とす勢いの創価学会も先行きに霧がかかったみたいに見辛くなっているのでしょうか。書籍文献を提示されると何か書かなければという気持ちになって書いてしまいます。

127犀角独歩:2005/12/08(木) 20:35:25

ラスカルさん

サインをされなかったという選択は、わたし個人としては賢明であったと思います。
わたしもそんなものには、絶対にサインしません。それがどのような種類のものであってもです。

128ラスカル:2005/12/08(木) 20:39:17
ラキさん、私もここの掲示板に来て驚く事ばかりです。田舎にある創価学会支部なのでノルマ等は無かったのですが、聖教新聞や創価新報で時代の流れ的な事を見ていたと思ったら、本尊論、教義の変遷などありましたから。ここから多くの知識・情報を学べれば嬉しいです。

129ラキ:2005/12/09(金) 04:22:04
ラスカルさん。
地域差はありますが、新聞啓蒙。民音。書籍とノルマはありますよ。
役職を持ってるか担当になるとプレッシャーがかかります。
先輩諸氏の皆さんがいろいろ教えてくださるし、また、抑えておきたい書籍の紹介などしてくらさるので、学ぶ気持ちがあればいくらでも高みを目指せます。
ぜひ、ラスカルさんの求める答えが見つかるといいですね。^^

130ラスカル:2005/12/09(金) 18:27:35
ラキさん、ありがとうございます。

131独学徒:2005/12/14(水) 20:48:00

曼荼羅ではありませんが、「興風叢書9」に紹介された、宮城県の題目板碑についての感想です。
本当は「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」に投稿するべきでしょうが、該当スレッドに投稿画面が出ないようです。

目に止まった板碑は、康永年間の妙教寺の板碑です。
康永元年一体と二年二体の三体が紹介されていますが、年月日の刻み方が、「本門戒壇之大御本尊」とよく似ていると思いました。
あくまでも、柳沢宏道師「石山本尊の研究」に紹介される、座配図が正確なものと仮定することが条件ですが。

中央に年、向って右に月、左に日、となっています。

康永二年七月九日板碑の例を、横書きにして書いてみます。

        右為柳[       ]
   我亦為世父   七月
南無妙法蓮華経 康永二年
   □□□患者   九日
        現當二世□□如件 白

132犀角独歩:2005/12/14(水) 23:00:30

独学徒さん。一つ質問させてください。

この文章の字と、漫荼羅の字は同一ですか、他筆ですか。
ご教示いただければ参考になります。

133独学徒:2005/12/14(水) 23:55:22

犀角独歩さん、私の目で比較したものでは正直自信がありませんが、板碑の題目の字は、最後の「経」の字最終画「土」の下の「−」が、ひらがなの「へ」の字のようになっており、御本尊集「奉蔵於奥法寶」から奥州の大石寺歴代曼荼羅と比べたとき、日興上人の御本尊の主題をまねているように思われました。

年月日の書き方も含め、興師曼荼羅を定本にしているような感じを受けます。
時代的には日行師の代ですが、行師よりも興師の曼荼羅の主題に似ていると考えます。

是非、れんさん、彰往考来さんの御見解を伺いたく存じます。

134犀角独歩:2005/12/15(木) 09:31:42

独学徒さん、有り難うございました。

135れん:2005/12/15(木) 11:35:55
>133 独学徒さん。私はまだ、興風談所さんの最新刊書籍を購入してないので、残念ながら仰る板碑についてはよくわかりませんが、継命新聞社刊「日目上人」に収録された鎌倉末期〜室町期の奥州富士門流の法華板碑を見ますと、たしかに為書きなどは、完則図ならびに現在の彫刻本尊の腰書きの書式に似通っているのは分かりますね。
となると、完則図ならびに現在の彫刻本尊腰書きの書式自体は、鎌倉末〜室町期の板碑の書式を参考にして作文されたものと言えるかもしれません。
興風の最新刊書籍は明日にも問い合わせて取り寄せようと思います。

136独学徒:2005/12/15(木) 17:38:35

れんさん、
仰られるとおりですね。
私も今しがた自宅に戻ったのですが、興風談所より案内の封書が届いていました。
昨日は、通りがかりの古書店で、仏教書のコーナーを見ていたら、たまたま「興風17号」と「興風叢書9」があったので購入して帰ったのですが、発行日を見ますと両書とも「平成17年12月13日」となっています。
12月13日発行の書籍が、12月14日に古書店に並んでいる方が不思議です。
私はてっきり11月ごろに出版されたのかと思っていましたが、改めてびっくりしています。

いったいどのような経路で、流通したのでしょう。

お手元に届かれましたら、是非ともご意見を伺いたく存じます。

犀角独歩さん、
興師曼荼羅と板碑の類似は、れんさん、彰往考来さんのご教示を待って、もう一度考えを整理したいと思います。
私は康永年間には、奥州富士門寺院には宗祖曼荼羅は存在せず、興師曼荼羅は板碑の原本とする最高の定本であったのではないかと考えます。
もちろん本山には当時も宗祖曼荼羅があり、興師曼荼羅以上に、定本とする価値の高い存在があったものと推考します。

137彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/15(木) 18:16:35
>136独学徒さん

「興風17号」と「興風叢書9」をまだ所蔵いたしておりませんので、
購入後(もちろん読了後)所見を述べさせていただきたいと思い
ます。

 なお流通経路ですが、例えば神田のT堂は確かに古書店ですが、
かかる専門書の常置店でもありますので、そんなに不思議ではあ
りません。

彰往考来

138犀角独歩:2005/12/15(木) 18:48:00

独学徒さん、皆さんのご論考を参考にさせていただく所存です。
有り難うございます。

139れん:2005/12/22(木) 21:19:19
独学徒さん
本日、興風談所様より、興風第十七号・興風叢書が届きました。
ご指摘の板碑ですが、拝見しましたところ、題目等はあきらかに彫刻本尊とは異筆ですが、その年号等の為書きの書式は彫刻本尊の腰書に似てますね。
ということは、現在の彫刻本尊は曼陀羅部分は弘安三年五月九日の日禅授与曼陀羅を原本とし、腰書の部分については、板碑の為書の書式を参考に作文されたということになりそうですね。

140独学徒:2005/12/22(木) 21:39:32

れんさん、
ご教示有難うございます。

板碑の主題については、板碑ごとに異なっており、複数写主の曼荼羅が使われているようですね。
例の、彫刻本尊と類似した為書のある板碑は、興師曼荼羅の主題が使われたと愚考しましたが、この点いかがでしょうか。

重ねてのご教示を賜れれば幸です。

141れん:2005/12/22(木) 21:58:45
独学徒さん
ご指摘の妙教寺の題目板碑の首題の筆跡については、全体的には日目の筆跡の特徴を継承しながらも、独学徒さんの仰るとおり、経字の旁の止筆などは日興書写曼陀羅における首題の経字の止筆〈州終筆を太く止める〉の特徴を模しているようですね。

142れん:2005/12/22(木) 22:08:19
141の訂正
誤 州終筆
正 終筆

なお、奥州富士門の題目板碑の首題については、曼陀羅における髭題目を使用しながらも、直接の底本としては、興風叢書〔9〕の口絵の日目筆題目(板碑の版下として認めたと推定される)が用いられているようですね。

143独学徒:2005/12/22(木) 22:52:10

れんさん、
重ねてのご教示、誠に有難うございます。

妙教寺№8板碑は、康永二年の造立との事ですが、大石寺では行師もしくは郷師といった時代背景ですが、そのころの奥州の中心者は日時師でしょうか。
この点も、ご教示を賜れれば幸です。

144れん:2005/12/23(金) 05:25:39
独学徒さん
妙教寺には、目師書写の元弘三年十月十三日付けで民部日盛師に授与した曼陀羅が所蔵されていますね。その点からみれば、年代的には奥法華衆をまとめていたのは民部日盛師ではないかと推測します。盛師書写の日満抄と御筆集には「日時相伝之」とあり、日時は日盛師との師弟関係も認められます。
とは言え、板碑の筆者は日盛師の物かどうかは、照合できる盛師の筆蹟が無いため、特定はできませんが…。

145彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/23(金) 12:39:44

>141 横レス失礼します。
>妙教寺の題目板碑の首題の筆跡については、全体的には日目の筆跡の特徴を継承しながらも、独学徒さんの仰るとおり、経字の旁の止筆などは日興書写曼陀羅における首題の経字の止筆〈州終筆を太く止める〉の特徴を模している

坂井師は、屋木沢法華堂に安置される無年号の題目板碑を例示して、日目の筆法を模したものと指摘されています(『興風叢書(9)宮城県の題目板碑』平成17年、興風談所、209頁)が、経字の旁などは明らかに興師の特徴であり、坂井師の説は少々強引ではないでしょうか。
いずれにせよ奥州の題目板碑は目師から時師の時代に始まった書き方のようで、興味深いものです。
彫刻本尊と類似した為書については139にれんさんがご指摘されているとおりと思います。目師から時師の時代に始まった書き方を彫刻本尊が受け継いでいるとすれば、そもそも彫刻本尊(初代?)の造られた時期は時師のころ以降ということになります。

146犀角独歩:2005/12/23(金) 13:11:15

彰往考来さん

> 時師の時代に始まった書き方を彫刻本尊が受け継いでいるとすれば、そもそも彫刻本尊(初代?)の造られた時期は時師のころ以降

この断定はやや強引ではないでしょうか。
確認できる腰書の文が時師に遡れない限り、そうは言えないと思えますが。
漫荼羅の書き方が鎌倉時代の日蓮の筆法を真似て、21世紀の現代でも書かれる時代格差は起き得ます。

また、しばしば、わたしは繰り返してきたことですが「本門戒壇願主」というのは戒壇の願主であって、本尊の願主ではありません。戒壇が造られるときに刻まれた本尊であるから「戒壇」と記されているのではないでしょうか。

彰往考来さんがまさか、本門戒壇(建物)=本門戒壇本尊という初歩的な思い違いをなさっているわけはありませんが、もし、時師の時代に遡れるとしたら、それに見合う築壇の事実との突き合わせが必要であると思いますが、この点はどのように考証なさっての結果でしょうか。

147独学徒:2005/12/25(日) 00:25:08

れんさん、
ご教示有難う御座います。

民部日盛師でしたか。
確かに、奥州の法華衆を先導する、指導的立場の方だと拝察いたします。
日盛師は、確か曼荼羅書写はされていないと思いますが、それでも日時師と師弟関係にあったのですね。
また勉強になりました。
有難う御座います。

148彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/28(水) 12:44:25

>146 犀角独歩さん
「うわ!しまった!ライオンの尻尾を踏んでしまった!」(冗談! でも半分は本音。)

>確認できる腰書の文が時師に遡れない限り、そうは言えない・・・
そうですね。これはご指摘のとおりです。彫刻本尊が後世のものである一つの傍証になるのではないかという点が145の主眼でしたが、私の筆力不足でちょっと誤解を招きかねない表現でした。“時師以降”という表現は、時師の時代から後という意味で、時師の時代でも有師の時代でも精師の時代でもよく、逆に時師の時代より前には遡れないのではないかという考えです。時師に限定できるというものではありません。
彫刻本尊に関する初出文献とされる明応2(1493)年の「重須日浄記」も史料という点からは不確かなものです。その意味で彫刻本尊がいつ現れたかは極めて重要なテーマでありながら、確実な文献不在という壁が立ちはだかっています。今回発刊された『興風叢書(9)宮城県の題目板碑』(平成17年、興風談所)は、極めて興味ある内容で私自身読み込みが足りず十分咀嚼できていないのですが、私は非常に示唆深いと考えます。私が興味深いと考える点は2点あります。
まず第一は題目板碑は紙以外の媒体(この場合は石)に彫刻するという点で、彫刻本尊と共通基盤があります。それをもって何がわかるか不明ですが、あるいは面白い研究結果がでるかもしれません。
第二に同書によれば、至徳5(1388)年や嘉慶3(1389)年の題目板碑の存在があり、まさしく時師の時代のものがあるということです。同書には、「相當日時上人第三年忌」とある応永15(1408)年の題目板碑など時師との関連を示すものが紹介されています。しかしながら、よくよく考えてみれば奥州は時師の御本尊を蔵している正宗寺院が多いなどから、題目板碑などで時師の年代のものがあるのは当然といえます。
いわゆる「河辺メモ」には「その他は時師か有師の頃の筆だ」(『法主詐称』2003年、エバラオフィス、94頁)とあります。鮮明な彫刻本尊の写真が未公開のため、この表現が細部の諸尊のことを指しているのか腰書を指しているのかなど不明なのですが、時師とか有師の筆跡や形態との相似性などを検証していく必要があり、その一環として奥州の題目板碑の研究という視点は発掘結果ともいうべき考古学的な新しいアプローチで今後の研究成果が期待できると考えます。もう少し同書内容を解析してみたいと思っています。

以上で146に対する回答とします。

彰往考来

149れん:2005/12/28(水) 18:10:20
横レス失礼します。興風第17号に収録されている菅野憲道師の「武田氏の駿河侵攻と富士門徒」は先号収録の同師の「河東一乱と富士門徒」とともに、戦国期の富士山麓の石山をはじめとする日興門下諸寺の消長を知る上で秀逸な部類の論考と思います。その「武田氏侵攻と富士門徒」の中で、石山十四世日主師の「雑録」について触れられています。
その部分を抜粋します。
『主師「雑録」(仏天深秘之問答抄他)について検討してみよう。この典籍は大石寺絵図など一部分しか公開されてないが、全体は冊子本・三十二丁の形態で、表題等はない。
(1)二箇相承 (2)本門寺額 (3)大石寺図絵 (4)戒壇本尊並譲座本尊授与書・主師示書 (5)日興跡条々事・主師示書 (6)本因百六箇之奥之御示書 (7)宗祖御遷化記録 (8)宗祖本弟子六人・日興弟子本六新六・日目弟子・重須新六 (9)仏天深秘之問答抄(日要作)・主師示書
の順序で類集・書写されたもので、(3)・(4)・(5)・(9)などに主師が若干の註釈を付け加えている。またこの主師「雑録」の書写の年代は、末尾にある花押形より、天正十年頃のものと推定される』(興風第17号、54ページ)
菅野師が紹介した日主の雑録には歴全に収録された大石寺図絵・日興跡条々事示書、興風紀要創刊号に収録された譲座本尊示書が収録されており(影本は大石寺図絵は歴全・譲座本尊示書は興風紀要に掲載)、影本が公開されているものはすべて日主の筆跡ですので、その他の部分も主師筆の可能性は高いと推測されますね。
ここで問題とすべき戒壇本尊(彫刻本尊)授与書は現時点において未公開であり、興風談書の池田令道師が興風紀要第二号に寄稿した「富士の立義と血脈相承についての私見(下)」の註において譲座本尊示書の『上段が「弥四郎国重云々」の戒壇本尊脇書になっている』と念記されていることから、雑録の中の彫刻本尊の腰書は「弥四郎国重云々」と記されている(だろう)ことが類推されるのみですが、このことから、彫刻本尊(初代?)の存在は雑録が記された天正十年頃まで遡れること、当時の彫刻本尊の脇書に「弥四郎国重」云々とあったことだけはどうやら事実のようです。

150れん:2005/12/28(水) 18:16:24
訂正
誤 ここで問題とすべき戒壇本尊(彫刻本尊)の授与書

正 ここで問題とすべき日主師の雑録に記された戒壇本尊(彫刻本尊)の授与書は

151犀角独歩:2005/12/30(金) 13:16:19

○彰往考来さん

ご返信、有り難うございます。

○れんさん

> 影本…日主の筆跡…その他の部分も主師筆の可能性は高いと推測

わたしは、このような考え方は、学的ではないと思います。
他の日主の筆が紹介されているのに、されていない部分があれば、そこだけは信頼できないとするのが、当然の判断の仕方ではないでしょうか。
条々事の石山僧の研究(とはいえないが)にしても、そうですが、他の本物を示して、肝心のものは影本を見せず、本物であるというのは、本物をえさに偽者を本物と狂言しようとしていると疑って掛からなければなりません。このような非学術的な姿勢は批判こそすれ、採用すべきではないと思いますが、如何がでしょうか。
店頭で本物を見せて、持ち帰りに偽者を包むというのは、よくある詐欺の手口です。
もちろん、示書の該当部分を池田氏が発表し、再度考証するのであれば、上記記述をわたしは喜んで取り下げます。しかし、現段階では、詐欺商法となんら変わらないやり口であると批判するほかありません。

そもそも示書で取り上げているものは二箇相承、本門寺額、戒壇本尊、譲座本尊(譲座である日興、日目の証拠はない)、日興跡条々事、本因百六箇、それぞれの蓮興目のあずかり知らない‘まがい物’の列挙です。こんなものを示す書自体が信頼性がないのに、その示書の証憑性とはいかばかりものでしょうか。

石山門下ではたとえば松本佐一郎氏などにしてもそうですが、石山教義の根幹に関わる彫刻、本仏論をまともに解析も出来ないような文書を金科玉条の如く扱うことは、わたしは間違っている考えざるを得ません。
興風談所は優秀な古文書解析グループに違いありませんが、依然として彫刻を肯定し、日興中心から脱却できず、石山教学の影響を脱し得ないとすれば、教学的解釈は、その分を差し引いて見なければなりません。古文書を正確に読めることと、語る教学的態度がイコールの関係であるという即断は実に危険であるとわたしは考えます。
もちろん、古文書研究の成果に対して、敬意を表するという点を取り下げるということではありません。

152犀角独歩:2005/12/30(金) 15:13:49

【151の訂正】

誤)示書で
正)示書と

153れん:2005/12/30(金) 17:22:52
犀角独歩さん
>151
このような考え…学的でない…古文書を正確に読めることと、語る教学的態度がイコールの関係であるという即断は実に危険…


ご批正・ご叱正、誠に有難うございます。確かに、私が今回取り上げた主師の雑記は肝心の部分の影本が公開されておらず、挙証の“証”とするに足らざるものであったことは否めないものですので、今回の考察は取り下げます。
ただ、先に紹介した菅野師の論考を読みまして、石山の“戒壇”安置の曼陀羅の作成・成立には、戦国末期の富士地方の河東一乱や武田氏の駿州侵攻における戦乱による石山の焼失とその後の石山寺家再建の流れが関連している可能性もあると考えておりますので、その点留意しつつ、研究してみようと思います。
しかしながら、この辺になりますと写真や活字資料を並べて見比べる程度の机上の論考・学問だけでは不十分で、実際にこの辺の資料を、自分の足で歩いて発掘しなければならないでしょうね。
今後、時間の合間を見ながら、あらためて富士・伊豆の日興門流寺院を尋ねて、資料の収集をと考えておりますので、富士・伊豆の日興門下諸寺院の諸聖におかれては、私の調査研究にご協力戴ければ幸甚です。

154犀角独歩:2005/12/30(金) 18:42:58

れんさん、153の方向でのご研究期待申し上げます。

155大縫 薫:2006/01/05(木) 21:27:26
新年明けましておめでとうございます。
http://page2.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b63685743
真筆御本尊に見えますが、図顕年月日の位置が左ではなく右に顕されている
のは珍しいと感じますが、皆様は真偽は如何に思われますでしょうか。
ご感想を是非お聞かせ下さいませ。

156れん:2006/01/05(木) 22:00:41
管理人様・皆様、新年明けましてお目出度うございます。
大縫さん、はじめまして、私はケイタイからの閲覧で細部までみれませんが、おそらく、ぱっとみでは真筆ではなかろうと存じます。細部が見られないのでなんとも言えませんが、同時期の蓮祖真筆と見比べて相貌に破綻がなければ、現存・曽存曼陀羅の模写・臨写・形木の類かも知れません。現時点で一番確実なのは、立正大学の学者さん鑑定してもらうことでしょう。ともかくも、私も他の諸賢の方々のご見解をお聞き致したく存じます。

157れん:2006/01/05(木) 22:02:31
訂正です。
誤、学者さん鑑定
正、学者さんに鑑定

158独学徒:2006/01/06(金) 00:50:46

ご参加の皆様、明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

大縫さん、はじめまして。
大縫さん仰いますとおり、図顕年月日の位置が左ではなく右にあるのは安99番曼荼羅ぐらいですね。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/099.html

全体のバランスでは、弘安二年十月〜十一月期の曼荼羅にも似てると思います。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/068A.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/068B.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/069.html

筆勢や運筆からは、御形木(木版刷)や籠抜などの模写よりも、真筆か自信を持って臨写したもののように思えます。

図顕年月日が分からないのと、ガラス越しの写真なので見づらいのが難ですね。
でも真筆の可能性0では無いように思えますので、れんさんのご教示に御座いますとおり、専門家に鑑定を依頼するだけの価値はあるかも知れません。

159彰往考来(しょうおうこうらい):2006/01/07(土) 07:40:08

>155 大縫さん

極めて不鮮明な写真のため断定できないという条件付きですが、私は京都本法寺10世日通師による模写ではないかと思います。

写真では裏書でしょうか、慶長九年甲辰卯月十七日と読め、日通と判読されうる花押が見えます。

日通師による御本尊は『頂妙寺文書・京都十六本山会合用書類一』(昭和61年、大塚工藝社、47頁)に文禄四年二月時正月の御本尊が写真公開されています。
これをみますと今回の写真の御本尊と“華”字の五本ある横棒の一番下が横一文字に大きく書かれている点、“経”字の糸偏の第五角が大きく曲がり下にいくほど太くなっている点など、日通師の筆跡とよく一致いたします。
なお、日通師による文禄四年二月時正月の御本尊は図顕年月日の位置が左ではなく右に顕されています。

日通師は『日蓮宗辞典』(平成11年、日蓮宗新聞社)によれば、「日通(1551-1608)京都本法寺一○世。(その他は略します)」ということです。

by 彰往考来

160彰往考来(しょうおうこうらい):2006/01/07(土) 10:43:21

>159
誤記訂正

誤:これをみますと今回の写真の御本尊と“華”字の
正:これをみますと今回の写真の御本尊と文禄四年二月時正月の日通師の御本尊とは“華”字の

彰往考来 拝

161れん:2006/04/18(火) 20:07:11
現在ネット上に公開されている重須本門寺蔵の日禅授与漫荼羅は、経字旁の左部分は華字の縦線を用いていることが知られていますが、他の蓮祖御筆大漫荼羅でこの様な例はないか、縮刷版の「日蓮大聖人御真蹟 御本尊集」で見てみました。
すると、弘安三年三月日図顕に係る七十九番が、禅師授与漫荼羅と同じく経字旁の左部分を華字の縦線を用いている様にみえます。経字旁の左部分は蓮祖自身により重ね書きで補筆されておりますが、最初は確かに華字の縦線を用いていたことが、写真からわかります。
私は、残念ながら、禅師授与漫荼羅が御真蹟か、後世の模写かを判断する能力はありませんが、禅師授与の経字に見られる特徴が、たった一幅ですが、他の蓮師御筆漫荼羅にも見られたので、たとえ現存の禅師授与漫荼羅が模写本であったとしても、そもそもの原本は、蓮師が弘安三年五月九日に図顕し禅師に授与した大漫荼羅であった可能性は十分あると愚考します。

162犀角独歩:2006/04/18(火) 21:11:12

れんさん、ちょっと、ご投稿の意味を斟酌しかねるのですが、わたしは先にも記したのですが、仰る時期に御筆漫荼羅は実に短期間に「ツ」とするところを「ソ」とする筆法を表します。その一つが、ご指摘の点であろうかと存じます。

これはしかし“華”の“礀”を使用しているというより、件の如き、筆法が実に短期間に存した。そして、日禅授与漫荼羅は、それによったけれど、彫刻造立の段階では、この点を、“礀”を利用して1画に宛てたというのが、わたしの見解です。

この点で、所謂、石山が言う紫宸殿本尊、日禅授与は、同じ俎上で論及されて然るべきであるとわたしは考えています。

しかし、彫刻とに日禅授与の、この相違をよそに、決定打となる相似点は、大広目天玉の筆法です。この点は、かつて独歩の会で論じたところです。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/27018566.html

163れん:2006/04/18(火) 22:50:33
犀角独歩さん。
ご指摘有難うございます。禅師授与の経字の旁が気になり、同じ様式の経字の旁が蓮祖真筆にあるのか見てみまして、79番にあることから短絡してしまい、現存の禅師授与の原本が禅師授与の蓮師真筆の可能性があると考えてあのような投稿をしてしまったのですが…
所謂現在の彫刻そのものは、独歩さんが解明された通り、現在の禅師授与を臨摸作為して製作されたことは動かないのですが、では禅師授与はとチョット考えたのです。現存の禅師授与を底本とした彫刻は別として、禅師授与のみに見られる廣目天王の点の特徴については、現時点では、何ともいえません。
私としては、彫刻のように底本がわかる全くの偽作品はお話になりませんが、日興の本尊目録には日禅に蓮師の直筆漫荼羅を授与されたことは明記されており、それは史実なので、現存の日禅授与漫荼羅は真筆でなくとも、真筆をもとにした摸本(直写本というより、何度か転写を経ている本かもしれません)である可能性は残るので、その扱いはある程度慎重を期すべきものと愚考します。摸本の場合は全くの偽筆・偽作されたものとはまた性格がことなり、とくに原本の真筆が現存しない摸本の場合、曽存分の蓮師漫荼羅を考察する上での貴重な史資料といえるからです。偽作であることがはっきりしている彫刻は別として、それ以外の石山蔵の伝日蓮漫荼羅は、今後もし写真公開されるならば、真筆でなくとも、上記のことを視野にいれて考察を加えることも必要かと存じます。以上ご参考まで。

164犀角独歩:2006/04/19(水) 10:25:25

れんさん、有り難うございます。

「大廣目天玉」の特異な筆法は、ただ日禅授与漫荼羅と石山彫刻のみに見られる特徴ですから、この一事を以てしても、原本は動かないというのが先の投稿の意図でした。

しかしながら、それはそれとして、ご指摘の、出は、日禅授与漫荼羅が有する問題は、別に存します。

堀日亨師の言説を信じれば、日興添え書きがあるわけで、その点からすれば、これを偽筆と斥けることには躊躇いがあります。仰るとおり、この漫荼羅は、実に興味深いところです。現日禅授与漫荼羅に関する163のご洞察は説得性があります。

わたしも以前から安79、80の2体の漫荼羅の經字旁には着目してきました。
ところが山中師は、当漫荼羅を以て備考し「当御本尊より、首題の『經』字が第四期の御書体となる」(『御本尊集目録』117頁)とし、いわば「ツ」様の分類してしまっているわけです。わたしはこの点を奇異に感じていました。

この両漫荼羅は共に弘安3年3月で、となれば、日禅授与と2カ月の相違を有します。
れんさんもご指摘されるとおり、日興の文から日禅に御筆漫荼羅が授与されたことは確実なわけで、となると、この史実に基づいて、弘安3年3月の漫荼羅を原本として、模写制作され、5月8日の日付が記された可能性もあるのかどうか、今のところ、わたしはこの点について述べる用意はありません。ご賢察を承りたいと希望するものです。

165れん:2006/04/20(木) 21:16:58
犀角独歩さん
>164
弘安3年3月の漫荼羅を原本として模写制作…5月8日の日付が記された可能性…
禅師授与漫荼羅の經字の特徴からしますと、その可能性はあると思います。ただ、その場合、なぜ、わざわざ日付を三月日ではなく、五月九日に設定したのか、理解に苦しみます。日禅授与漫荼羅につきましては、ネットで公開されている写真は細かいところが不鮮明なので、結局のところ重須蔵・石山蔵ともに現物を見なければ何ともいえないというのが現状ですね。

166犀角独歩:2006/04/21(金) 01:06:28

れんさん

> 五月九日に設定したのか、理解に苦しみます

その理由は、さほど難しいことでしょうか。

「弘安三年太歳庚辰五月九日、此丘日禅に之を授与す」という日興の添え書きが先行していれば、原本は何を使うにしても、日禅の漫荼羅を策定すれば、この日付以外に設定の仕様はありません。

しかし、700年間、御本尊集があったわけでもなく、御筆漫荼羅に触れられる機会は極限られていた、となれば、限られた実見で、目の当たりにしたもの以外は原本に出来ない。要は「弘安三年五月九日」の日興添え書きを知っており、かつ、弘安三年三月の漫荼羅を実見した人であれば、このような模写となるのではないでしょうか。

やや脱線しますが、わたしに対して、「北山本門寺の日禅授与漫荼羅が大石寺にあったことが証明できるのか。証明できないのに、なぜ、それが原本といえるのか」と問うた人がいました。
しかし、あったことが証明できなくても、その文字は酷似しているのは事実です。となれば、石山はこの漫荼羅を原本にする機会を持っていたことが証明されるというのが考えの筋です。同じことが日禅授与漫荼羅にも言えるのではないでしょうか。

なお、れんさんが、独学徒さんのところで、お書きになっていて御伝土代に現れる弘安二年の日興上人と授与書きされた漫荼羅が石山にあって、ここにおいて、焼失したという意見には、わたしは反対の意見を述べておきたいと思います。
この漫荼羅が所蔵された場所がれば、それは日興が過ごした重須以外には有り得ないと、わたしは思うからです。
ただし、そのような漫荼羅が重須に格護されているという噂を石山は知っていた。故に、それにあやかって伝説を捏造したと言うことはあろうかと思います。
わたしは日目が日興の正当な継承者であるという考えは、どうも納得できません。
故に、日興の什宝が日目に伝わる所以を信頼できないと考えています。

この点を、れんさんはどのようにお考えになりますか。

167れん:2006/04/21(金) 06:48:09
犀角独歩さん
>「弘安三年太才庚辰五月九日比丘日禅に之を授与す」という日興の添え書きが先行していれば…
御本尊集収録の御筆漫荼羅を拝見するに、日蓮御筆漫荼羅において、この日付記入と授与書は日蓮自身が記入するのが通例であり、日興のが添書する場合はその日蓮の授与書の他に「日〇者日興弟子也、仍申与之」等と添え書きするのが日興が守った通例です。「弘安三年太才庚辰五月九日比丘日禅授与之」を日興の添書とすることにはやや腑に落ちないところがあります。この授与書をも日興添書であるとする根拠は何でしょうか?それ以外の日禅授与漫荼羅に関するご見解はなる程と納得しました。学恩に感謝します。
さて日興への上人号授与漫荼羅についてですが、重須にあった可能性はあるかも知れませんが、今のところ上代の富士文献に、その漫荼羅が重須に存在したことを記録または立証するものは、管見に入った資料の範疇ではありません。もし、独歩さんがご存じでしたら、ご教示戴ければ幸甚です。日時の日興上人御伝草案を読むと、日興の重須における事績を意図的に触れていません。引用資料も直接には重須側の文献はなく、自山分のものによっています。これはこの日興伝は日時自身の自山正統意識によって書かれたものであるが故と考えますが、もし、上人号授与の漫荼羅が重須所蔵のものならば、上記の日興伝の性格上、日時はその存在を記録しなかったろうと愚考します。上代に於いて日興への上人号授与漫荼羅が重須にあったならば、それを記録する重須・西山文献がないのは“不自然な文献の沈黙”であり、逆に石山の日時文献にみられるのは、当該漫荼羅が当時石山に流伝されていた可能性を示すものであろうと考えてものです。
>わたしは、日目が日興の正当な継承者であるという考えは、どうも納得できません。故に日興の什宝が日目に伝わる所以を信頼できないと考えています。

条々事も八通遺状も日妙付属状も多分に後世の作成にかかりますから、それらから日興の継承者を推定することは不可ですね。日興真筆史料では正慶元年十一月三日の日目への授与漫荼羅には「一中一弟子也」と記しています。この文言は、日目が日興の継承者的な立場にあることを端的に示したものと言えませんでしょうか?たとえば日朗師の正応四年辛卯九月三日の御筆漫荼羅に「日朗付属之弟子日輪法師授与之」(御筆写真・大田区史所収)とあり、此の日朗師程に直截的な表現ではありませんが、日興の「一中一弟子也」の表現の意図は日朗師のそれに通じるものともいえなくもありません。もし、日代や日妙が日興の継承者ならば日代や日妙にこそ「一中一弟子也」と授与書きした漫荼羅を授与し、それが重須や西山に現存・曽存して然るべきですが、そのような日興自筆漫荼羅が重須や西山にある・または曽存したという文献はなくこれも不自然な文献の沈黙といえるでしょう。故に、日興・正慶元年十一月三日の漫荼羅の授与書により、日目が、いわば日興の継承者的な立場にあったであろうことは、たしかだろうと愚考するものです。日興の什宝は日興自身の判断と意志により、日目に伝えるべきは日目に伝え、日代に伝えるべきは日代に伝えた…とみる方が自然と考えます。

168犀角独歩:2006/04/21(金) 10:48:43

れんさん、昨晩、気になることがありながら、投稿したので、迂闊な間違いをしてしまいました。仰るとおり、日付・授与者は日蓮の直筆であり、日興の添え書きではありませんね。失礼しました。ここに訂正し、お詫び申し上げます。

> 日興への上人号授与漫荼羅…漫荼羅が重須に存在したことを記録または立証

これは仰るとおりですが、この弘安二年漫荼羅こそ、日興が日蓮から上人号を授けら、弟子であることを認められた最大の什宝となります。日興が日蓮の弟子であることを証する允可証でしょう。

しかし、御伝土代の「弘安二年…日興上人」漫荼羅の信憑性は如何ばかりか、この点も慎重にならざるを得ませんが、仮にこの漫荼羅が授与されていた場合、日興は、この“本尊”を手許から離したでしょうか。もし、これを日目、もしくは日道といった石山方に譲ったとしたら、分与帳にその記載を書き残したはずではないでしょうか。このような記載は見られましたか。

また、、日道は北山に坊を構え、日順に学んだ人であったわけで、たしかに日目寂、日郷が富士に戻るも、その後、日動は石山を居としました。しかし、この日道を、直ちに石山の正当な後継者と見なすのは、石山門下の発想で、たとえば宮崎師は、ここに強い疑義を挟んでいました。大石寺は、日興に由来する寺であるというのは石山のアナウンスであって、門下一般として、日目の私寺として出発と見なされるわけですね。日道の発言を石山を代表するものと見なすべきか、重須・日興を中心にした興・澄・順・道の修学系譜の一環と見なすか、興・目・道の血脈で見なすかで景色は違ってきます。

しかしながら、どちらの景色からしても、日興の正当な後継者であることを自負せんとすれば、この漫荼羅は重要な意義を持つことになります。

たしか、れんさんは重須盗難事件に否定的なお立場であったと思いますが、もしこの事件が事実であったとすれば…

> 当該漫荼羅が当時石山に流伝されていた可能性

とは、まさにこの流伝経路を物語るものだろうというのが、三学さんのご意見でした。つまり、盗人は石山方であろうというわけです。

ところが、石山では日興筆・花押をなした書写本尊に、日目が花押を記したものを「譲座本尊」と称して、恰も血脈系譜の証拠のように扱いますが、弘安二年・上人号授与の漫荼羅があれば、むしろ、この漫荼羅を以てするのが自然ではないのかという思いがわたしにはあります。むしろ、その本尊がないからこそ、譲座本尊伝説が紡がれたのではないでしょうか。あるいは、いったんは、盗み取ってきたけれど、また、石山からも喪われた故、という憶測は可能かも知れません。

御伝土代は、その上人号授与の記事を紹介するばかりです。つまり、土代の記載には“距離”があるように読めるわけです。この書が日道筆であったとして(違うと思いますが)、そんな日興上人号授与の物語があったことを書き記しているばかりで、それが手許にあるというニュアンスがこの文章から伝わらないわけです。

もっと、いえば、わたしには、この漫荼羅が本当に存在していたのか・どうか、そのリアリティが伝わらないという思いがあります。
「鶏が先か・卵が先か」という言葉がありますが、弘安二年に係る物語は、どれが最初に生じたのか時系列に基づく整理が先ず必要であると痛感しますが、今のところ、わたしはこの作業を終えていません。

169犀角独歩:2006/04/21(金) 10:49:09

―168からつづく―

また、この漫荼羅には「二千二百三十余年」とあったであろうことは、御伝土台の記載から想像されますが、その後、捏造された彫刻では「二千二百二十余年」となっているわけです。つまり、ここに一連の流れがあるというより、認知の相違が確認されます。殊は、さらに絡み合っているように思えます。

以上のような複数の理由から、弘安二年日興上人号漫荼羅が、石山にあったという考えには疑義があり、また、日興什宝であれば、堅く本人が格護し、しかし、盗難で失したという起承転結は納得のいく面があります。そして、その現場は、やはり、日興の許、重須の出来事であろうと思えます。

> 日目への授与漫荼羅には「一中一弟子也」

この解釈は、れんさんが示されるところが、富士門下の一般的な解釈ですが、わたしは、どうも、この点を直ちに採用する気になれない思いがあります。
その大きな理由は、この「一中」の意が、必ずしも富士門下で言われていることであるとは思えない節があるからです。

やや一般常識に属することになると思いますが、通常、漢字成句で「一中」という場合は、以下のような用法となります。

「いっちゅう 【一中】
(1)禅家で、一座に居合わせる人達に茶菓を出し、もてなすこと。また、その一座。…」(三省堂提供「大辞林 第二版」)

この用法に従えば、日興は、彼の門下という言う一座に居合わせた一人の弟子・日目という意味で、「一中一弟子」と記した可能性もあることになります。

また「一弟子」ということですが、日興が弟子の優位を語るに使う成句は、分与帳では「第一弟子」でありませんでしたか。ところが、ここでは「一弟子」となっています。第一ではなく、一弟子です。この差は大きいと思えます。

さらに記せば、「一弟子」という用法は、言うまでもなく『御遷化記録』の「定一弟子六人事不次第」という一節に見られます。これは「定 一、弟子六人の事不次第」と読まれるわけですが、実はそうではなく「一弟子」であり、「六人は弟子として一つという意味」なのだと意を汲んだ方が居られた、わたしは明晰な慧眼であると配したものでした。

以上の点で、わたしはここに即断しようと思いませんが、「一中」「一弟子」については、「一が中の一が弟子」という読みが本当に適宜であるか、再考してみる必要があるように思うわけです。この読みのままにしても、では、「一が中」とは何を意味するのか、「一が弟子」は第一、最高の弟子という意味なのか、単に一人の弟子という意味なのか、一致団結して弟子として一つという意味なのか、もう少し考えてみる必要を感じるわけです。

170犀角独歩:2006/04/22(土) 07:51:16

―169からつづく―

「一中一弟子」の意味するところは、多分にれんさんがお考えになるようものである可能性のほうが、はるかに高いことになるのは、日道が日行に授与した書写漫荼羅の「暦応二(大才己卯)年六月十五日、日道(在判)日行に之を授与す一が中の一弟子なり」という端書が、たしかに日道のものであれば、ということになろうかと思えます。

上記は、言うまでもなく、家中抄の一節ですが、この日道本尊の影写というのは、出版書籍などに所蔵されているのでしょうか。残念ながら、わたしは見ていません。

もし、この端書きが日道の筆跡であれば、「一中一弟子」という成句を以て、日興から日目、日目から日道へ「第一の中の第一の弟子」と特定した可能性はあることになるかも知れません。

しかしながら、日道はともかくとして、日目もさておいて、日興にこのような意図があったとすれば、『宗祖御遷化記録』の筆者ともあろう方が、随分と日蓮とは違う発想を持っていると改めて感じます。

先に記したとおり、日蓮は「定一弟子六人事不次第」といい、六人の弟子を定めるものの、ここに序列をつけなかったという点で、極めて異彩を放っています。後世、血脈相承が言われることとはまったく相違した日蓮の実像がここにあるわけです。

本六、新六ということが、どれほどの証憑性があるのか、いまはここに記しませんが、しかし、この発想はまだ日蓮の六人弟子を模倣していることがわかります。

しかし、分与帳における「第一弟子」という弟子分類は、既に日蓮の発想からかけ離れたものであったのかも知れません。

171れん:2006/04/23(日) 18:57:53
犀角独歩さん
重厚なる御提示有難うございます。やや雑文ながら、私見を記しておきます。
>この弘安二年漫荼羅…分与帖…
分与帖そのものは日興の弟子分の日蓮漫荼羅の被授者の記録で、日興自身に授与された漫荼羅については一行も記されておりませんのでそのような記載は見られませんでした。実をいえば、御伝土代の“御本尊”はもしかしたら“御書”の誤聞ではないかという思いがあります。実は“聖人等御返事”の存在が伝聞の過程で“御本尊”と誤聞された可能性もあると考えます。ただ、日興書写漫荼羅に迦葉・帝釈の記名が「南無迦葉尊者・釋提桓因大玉」とある漫荼羅が多くあり、現存の日蓮自筆漫荼羅では、南無迦葉尊者は弘安三年三月まで、釋提桓因大玉は弘安二年十一月よりの記名で、日興は日蓮より、上人号授与か否かは別として、この時期の漫荼羅を授与された可能性はあると類推しています。この漫荼羅を日興が手元を離さずに置いたとしても、重須の後継日代が離山時に西山に携帯すべき性質のものですから、重須には残らなかったと思います。
重須盗難は日順血脈に記事が見えるので実際の事件と考えますが、石山が盗人という三学無縁さんの意見には傾聴しつつも、目師門下という特定にはやや慎重です。どの史料か失念してしまいましたが(静岡県史?)、重須盗難品が讃岐本門寺にある旨記した重須歴代の活字文書を読んだ記憶があります。とすれば、日華・日仙門弟の可能性も視野に入れる必要があると感じます。

172れん:2006/04/23(日) 19:42:06
続き
>譲座本尊…
御筆写真を見ますと、“日興花押、日目授与之”は確認できるのですが、日目花押は確認できません。本紙裏にでも日目の花押があるのでしょうか?譲座などというのは言うまでもなく、後世の伝説でしょうが、まぁ、大きさからいっても、日目の私寺である大石寺の安置漫荼羅という性格は有った可能性があります。
>もっと言えば…この漫荼羅が本当に存在していたのか…
私も先に記した通り、日興書写漫荼羅「南無迦葉尊者・釋提桓因大玉」との記名から先に示した時期の漫荼羅を日蓮から日興に授与された可能性は捨てきれないのですが、日時の御伝土代の記述に関しては“御書”を“御本尊”と誤聞したのをそのまま記述した可能性の方が高いかもしれません。日蓮の日興への聖人(上人)号授与は「聖人等御返事」であり、上人号授与漫荼羅そのものは存在しなかった可能性もありますね。独学徒さんの所へのあの投稿は一応の仮説としての可能性の提示ですので、上記の可能性も踏まえもう少し考えてみる所存です。
>彼の門下という一座に居合わせた一人の弟子日目という意味で…
常識的に考えれば、仰ることとも考えられますが、であるならば「最前上奏仁新田卿阿闍梨日目授与之」の授与書で事足りるのではないかと思います。独歩さんの仰る意味ならば、わざわざ念記する必要性が無いような気もします。日道の日行への「一中一之弟子」漫荼羅は影写は公開されていませんが、脇書は富要八巻・漫荼羅脇書等に掲載されてますから、堀日亨師の鑑定は経ているものではあります。この漫荼羅の堀日亨師の鑑別が正しければ、日興から日目、日目から日道へ「第一の中の第一の弟子」と特定した可能性はありえると思います。
日蓮が六老僧を定めた時、ご指摘の通り、六門徒同格が日蓮の意志でしたが、しかし、他の日蓮門下へと目を転じても、日昭にせよ日朗にせよ、それぞれ付属の弟子を定めていることを考えれば、六老僧には、現在の石山の如き血脈観ではないですが、後事を託す門徒の首長を選定するという意味での「付弟一人」に近い考え・思想はあった可能性はあると存じます。

173犀角独歩:2006/04/24(月) 06:05:03

れんさん

> 御伝土代の“御本尊”はもしかしたら“御書”の誤聞ではないか

なるほど。このご指摘は実に興味深く拝読しました。

> 弘安二年十一月…日興は日蓮…この時期の漫荼羅を授与

これまた、説得力の観察と拝読しました。

> この漫荼羅…重須の後継日代が離山時に西山に携帯すべき性質…重須には残らなかった

日興寂まで重須にあったとすれば、そのようなことになりますね。

> 重須盗難は日順血脈…実際の事件

宮崎師は、この根拠を日代置文としていました。
該当は、日宗全所載文献だと思いますが、手元にありません。

> …石山が盗人という三学無縁さんの意見には傾聴…重須盗難品が讃岐本門寺にある…日華・日仙門弟の可能性も視野に入れる必要

三学さんが特定した盗難者が石山方というのは、まさにこの日仙でした。その遠因に仙代問答を考慮したものです。この問答は石山で行われたものであり、日仙開基の百貫坊も石山にあった故にこの時点で日仙を石山方に含めた発言となったのだろうと思われます。

>> 譲座本尊…
> …日目花押は確認できません

これまた、迂闊でした。訂正します。

> 「最前上奏仁新田卿阿闍梨日目授与之」の授与書で事足りる

この文章ですが、富要によれば、

「元亨四年十二月廿九日、最前上奏の仁卿阿闍梨日目、(道師加筆)日
道之を相伝し日郷宰相阿に之を授与す」

> …「付弟一人」に近い考え・思想はあった

日興にでしょうか? となると、重須は日代に、檀所は日順に、石山は日目に、という三様で、日目が「付弟一人」で、その証文が「一中一弟子」ですか。
うーん、これはどうでしょうか。当時の石山が重須の本堂、檀所より、日興の中で比重が大きかったのかという点で、やや納得できないところがあります。
ただ、寺院・檀所ということではなく、弟子としてみるとき、日目を、ということであろうと思いますが、わたしは、やや違う考えを持っています。

「一中一弟子」の成句を記すとき、必ずその対句があるからです。
以下、挙げます。

・正慶元年十一月三日、最初“上奏”の仁、新田阿日目に之を授与す“一が中の一弟子”なり、(道師加筆)日道之を相伝す
・奥州加賀野卿阿闍梨日行に之を授与す、“上奏”代日行は日道の“弟子一が中の一”なり
・最初“上奏”の仁新田卿阿闍梨日目に之を授与す“一が中の一弟子”なり、(道師加筆)日道之を相伝す

このように並べてみると、この対句とは「上奏」で、必ず記されています。
先に挙げたとおり、日道は日郷に授与をしているわけですが、この日郷は、日道より10才年下の日目の弟子で、日目最後天奏のお供でした。ただ、上述の日道の加筆は、やや不審で元亨4年に当たる1324年は、改元され正中元年で、年末の12月29日にこの紀を記していることになります。まあ、それはともかくとして、日郷もまた天奏の一人でした。
以上の点から、わたしは「一中一弟子」は「付弟一人」の特定句ではなく、天奏賛嘆の対句ではないかと考えます。ただし、これは現段階では思索課程です。

174犀角独歩:2006/04/24(月) 06:26:10

―173からつづく―

ただし、日道においては、「一中一弟子」日行を仰るような「付弟一人」と考えた可能性はあろうかと思います。ここから、日興がではなく、日道には 日興・日道・日行 という弟一人観を想定したのかもしれないとは思います。

さらにただし、その場合、日道の、元亨4年(正確には正中元年)日郷授与は、何を意味するのだろうか。この点、興味が惹かれます。

わたしは、派祖の本尊書写は、あまり、真面目に調べていないのですが、日興に日目に書写本尊を授与したのは、まさに、日道が日郷の先の日付です。『富士年表』によれば、

1324 正中 1 12.29 日興本尊を書写し日目に授与

その同日に日道は日郷に授与しています。
日目本尊書写のはじめは、その2年後、嘉暦元年としてよろしいのでしょうか。同年表によれば

1326 嘉暦 1 4.26 日目本尊を書写し日郷に授与

この一連の流れを見ると、恰も日興・日目・日道・日郷という脈絡があるように映じます。勿論、断定ではなく、出来事を並べると、そう映じると言うことです。

177犀角独歩:2006/04/24(月) 10:52:24

【174の訂正】


誤)日道には 日興・日道・日行 という弟一人観を想定
正)日道には 日興・日目・日道・日行 という付弟一人観を想定

178犀角独歩:2006/04/24(月) 12:03:35

朝、寝惚け頭で打ったせいか、いつも以上に間違いを連発してしまいました。
173の引用文がダブっていますね。
もう一度、整理し直して載せます。

1324:元亨四年十二月廿九日、最前上奏の仁卿阿闍梨日目、
   (道師加筆)日道之を相伝し日郷宰相阿に之を授与す

1332:正慶元年十一月三日、最初“上奏”の仁、新田阿日目に之を授与す
  “一が中の一弟子”なり、(道師加筆)日道之を相伝す
1339:暦応二年太才己卯六月十五日、奥州加賀野卿阿闍梨日行に之を授与す
   上奏代日行は日道の弟子一が中の一なり

その他、間違いがありましたら、ご判読いただければ有り難く存じます。

179れん:2006/04/25(火) 19:29:45
犀角独歩さん。
再度の重厚なる御提示痛み入ります。
>宮崎師はこの根拠を日代置文としていました…
日代置文は最近の日興上人全集等の文献によれば写本しか現存しないとのことで、執行師も「これら置文については古来より真偽の論があって、その成立には難しい点がある」と言われており、一応注意の必要な文献ですので、私としては重須盗難を伝えるもう一つの文献“日順血脈”を挙げました。

元亨四年の興師書写目師へ授与の漫荼羅の日道添書は、元亨四年の時点ではなく、おそらくこの本尊については、日目生存中に正慶の日興書写日目授与漫荼羅とともに日目より日道に相伝されたものであるが、特に日郷師は目師の天奏に随伴したので、郷師帰山後、その功により、特に元亨四年の漫荼羅を賞与したものと考えますので、当該漫荼羅の日道添書には年代は記されてないのですが、目師滅後・郷師帰山後の記入ではと類推します。
>重須の本堂、檀所より…日興在世の重須の建物ですが、日興直筆の文献には“おもす大坊”“重須談所”は確認出来るのですが、“重須”本堂の存在を述べる日興直筆文献は今のところ確認出来ないです。「富士本堂」は与日満書、「本堂」は日興上人御遺跡事に見えますが、これは重須か大石かはまだ私は保留中です。ただ、石山日時談大石記に「今の重須の本堂は昔シ之レ無く御影堂計リなり、然るに下ノ坊の僧達、重須の僧衆の百文宛寄セ合ハして奏聞無尽を行はる。折節故上人は御在国あり、奏聞申すべき人無くして、当坊の僧衆にも談合せずして卒爾に御堂を立てられしは今の本堂なり」とあり、重須の“本堂”は興師滅後に初めて建立の可能性もあり、与日満書・日興上人御遺跡事の“本堂”については在所の比定につきましては保留しておきます。

180れん:2006/04/25(火) 19:52:51
続き
>わたしは「一中一弟子」は「付弟一人」の特定句ではなく、天奏賛嘆の対句ではないかと考えます…
独歩さんの御提示は傾聴すべきものですが、日興が弟子の奏聞を賛嘆した授与書を付した書写漫荼羅は、日目のみではなく、日仙にも日妙にも授与されているのですが、正慶の日目へ授与の書写漫荼羅にのみに「一中一弟子也」とあるのを考えますと、これを単なる「天奏賛嘆の対句」とのみ限定するのはやや納得出来かねるものがあります。この点は早急に結論せず、もう少し思索してみます。
>ただし日道においては…日行を…「付弟一人」と考えた可能性…日興がではなく、日道には日興・日目・日道・日行という付弟一人観を想定…
この点は、ご指摘の通りと、そのように私も考えます。
>日興・日目・日道・日郷という脈絡…
後世の門流間の係争とそれから派生した門流正統意識を持ち込まずに当時の史料を読みますと、そのように受け取れますね。

181犀角独歩:2006/04/25(火) 21:40:37

れんさん、こちらこそ、いつも正確なご指摘並びに、出典のご提示、まことに有り難うございます。

>> 宮崎師はこの根拠を日代置文としていました…
> …写本しか現存しない

ええ、仰るとおりです。宮崎師自身、この点は十分御承知のうえで挙げていらっしゃいました。50年前の記述ですが、師は、それでも、この置文が示す僧俗の有様はリアリティを感じておられたようで、その意味で、単に捨て去ることはなさらなかったようです。

> 日順血脈”を挙げました。

きわめて適宜な出典であろうかと存じます。

> 当該漫荼羅の日道添書には年代は記されてない…目師滅後・郷師帰山後の記入ではと類推

もし、そうであれば、道郷の関係は日道が明らかにうえと言うことになりますね。しかし、漫荼羅の委譲は、10才年上の日道が、日郷を自分のうえに認めたことなのか・もしくはその逆なのか、れんさんはどちらとお考えになりますか。

れんさんは、道郷争いはなかったというお立場であったと記憶しますが、これまた、宮崎師を引き合いに出せば、「あった」という立場でした。わたしは、どうもこの点はすっきりとわかりません。大石寺は、南条家の私寺で結局、その縁戚が寺の実権を握ったという筋という考えは持っています。ところが、たしか日志であったかは、そのような考え方は「古今の珍説なり」と一笑に付していたごとくでした。しかし、あの当時の寺院相続というのは、結果的にはそうとしかなっていないように思えます。

> …“重須”本堂の存在を述べる日興直筆文献は今のところ確認出来ない

仰るとおりですね。
先にご引用の執行師は『日蓮宗教学史』では

「重須に於ては日興在世中から、大坊派と檀所派の確執があり、日順の大沢蟄居の如きは、一つにはその軋轢を避けたものと伝えられている。蓋し大坊派が日興法脈の正系を以て任じ、檀所派を目して横入の傍系と見做したのに対し、檀所派は学系の正嫡を任じたがためであろう」(P43)

ところがここで執行師がその根拠として挙げられるのは、『五人所破抄』ほか、日興滅後に係るものではないのかと思える文献類です。ただ、わたしは、檀所とは別に本堂に該当するようなものがあったのではないのかと思う第一の理由は、つまり、日代の存在です。ですから、れんさんは保留される「本堂」は、やはり、北山の、現時点では考えています。

> 一中一弟子

この点は、もちろんのこと、たとえば、先より名の上がる宮崎師にしても、当然、れんさんの記される筋で一般化しています。

それにもかかわらず、わたしが拘るのは、「一弟子」の意味するところです。
また、日目の天奏の功は理解できるのですが、結局のところ、この大旅行を30回以上もできたのは、日目の篤い信仰とも言えるのでしょうが、一方、それを支える財力を有していたという側面は看過できないものを感じます。

堀老師は「公家武家共に其目途を成すまでには巨額の資材を以て運動」とその有様を記したわけですが、斯様なことを生涯に亘りできた日目はまた、日興が身延を出たあと、自分の縁戚に案内をつけたりもしました。ある面、日興のパトロン的な側面すら感じます。それに引き替え、日目については教学的な側面は実に浅薄で伝わるところがありません。エピソードとして、御伝草案には見られますが、しかし、それは日蓮在世の話であって、石山住持のものではないわけです。日興を師に立てていたとはいえ、その本尊書写は、同時進行なのであって、ここに、本尊書写の、師弟の矜持も伝わりません。

日興が、六人弟子を継承したのであれば、一人を選んで「第一の中の第一の弟子」などということは全く齟齬を来すことになります。日蓮に比すれば、いわば堕落に等しいことでしょう。本当に日興がそんな人物であったのか? わたしは納得できないわけです。

以上のような前提から、日目に贈った「一中一弟子」とは、一体、何であろうかと考えると、この財力を背景にした天奏の功以外、思い当たらないわけです。さらに加えれば、日興武家に対して、公卿という血筋です。そのようなことからの仮定ですが、この点で、れんさんのご賢察を是非とも窺いたいからのお声かけでした。引き続き、ご教示いただければ有り難く存じます。

182れん:2006/04/29(土) 19:44:36
仕事が忙しく、やや亀レスになりました。
>漫荼羅の委譲…日道が日郷を自分の上に認めたことなのか…その逆なのか…
正文献上、日道師と日郷師の接点を示すものは、当該漫荼羅以外しかないので、現時点では何とも云えませんね。日道添書の文面から云えば、「その逆」という可能性は否定出来ないかもしれません。
>道郷争い…宮崎師「あった」…
道郷争いを直接示す当時の正文献はないので、新しく見る時には道郷争いそのものは無かった可能性があります。日道は暦応4年(1341)の寂で、日郷は文和2年(1353)の寂ですが、日郷の帰寂日に成立した大石寺蓮蔵坊臈次事には「大石寺東方ノ坊地如本安堵之時者…」とあり、文献的には行郷争いといった方が文献から伺える事実に即しているいるのではと愚考します。
>大石寺は、南条家の私寺で結局その縁戚が寺の実験を握ったという筋…あの当時の寺院相続というのは、結果的にはそうとしかなっていない…
多くの場合そうなのですが、石山に於いてはやや複雑で、南条家の血筋からいえば惣領時綱の子息であった日伝やその門弟が実権を握ってもよいのですが、実際は新田小野寺氏一族の日道・日行の流れが石山の実権を握っていった事実は、南条家の南北朝期の上野郷退出と、日目の42度とも言われる数多くの上奏を支えた奥法華衆の有していた財力によるといえるのかもしれません。

183れん:2006/04/29(土) 20:21:01
続き
>日目天奏の功…この大旅行を30回もできたのは…それを支える財力を有していたという側面は看過出来ない…
仰るとおりですね。
>日目…教学的な側面は実に浅薄で伝わるところがありません…
日目の教学的営為は、日興・日澄・日順の流れと比べれば、全然華々しいものはありませんが、日目の日蓮遺文写本には一代聖教大意・法華経題目抄・法華取要抄・四信五品抄が現存しますし、日目が正慶元年に弟子民部日盛に与えた消息に「義科ヨクヨクシタタメテ、二三月下リテ若御房達・児ともと可有談義候。年カヨリテ仏法ノサハクリタク候。今年モ四月ヨリ九月廿日比マテ無闕日御書談シ候了」とあって、今年モ…の記述から、石山においては毎年四月から九月まで、日目が中心となって、日蓮遺文等の講義・学習が集中的に行われていたようです。日目の教学は、身延において日蓮に給仕して学んだ法門が基礎で、あとは重須の日興の教示も当然あったでしょう。日目にはものした著述こそありませんが、“教学的には実に浅薄”とのお言葉には、上述の史料から、やや違うのではと思いました。
>日目に贈った「一中一弟子」…この財力を背景にした天奏の功以外思い当たらない…日興武家に対して、公卿という血筋…
なるほど、そういうことかと、やっと納得いたしました。

184れん:2006/04/29(土) 20:52:16
182の訂正
誤)当該漫荼羅以外しかないので
正)当該漫荼羅以外ないので

185犀角独歩:2006/04/29(土) 21:56:42

れんさん

たとえば、日目の教学を実際に窺わせる資料にはどんなものがあったでしょうか。
日蓮への給仕、写本だけでは、わからないと思いますが、どうでしょうか。
また、日目に特筆すべき教学があるとすれば、どのようなものでしょうか。
具体的にご呈示いただけますか。

186れん:2006/04/29(土) 23:31:04
犀角独歩さん
>185
>たとえば、日目の教学を実際に窺わせる資料にはどんなものがあったのでしょうか…
日目の教学を窺わせる資料は、残念ながら上述の資料以外見当たりません。あえてあげれば、日目申状の記述でしょうか。その他は伊豆実成寺から流出した「聴講見聞録」や石山蔵の日目筆とされる「要文」(典拠・完則宝蔵目録)同じく日目筆「見聞」(典拠・完則目録)が全文公開され、それぞれ日目筆が確定すれば、日目の教学の、また違う景色が窺えると思いますが、現時点では、日目の教学を窺う好資料と思われる、上記文献は非公開ゆえ、残念ながらご期待に添える資料の呈示はできません。
>日蓮への給仕、写本だけではわからない…日目に特筆すべき教学があるとすれば、どのようなもの…
日蓮晩年の日目の日蓮への給仕、日目の日蓮遺文写本や申状・消息文に見える日目のわずかに残る資料からみてみますと、日目には、新たに自身が開発したような教義・教学なるものはなかったように思います。逆にそこが特筆すべき点かもしれません。

187れん:2006/04/29(土) 23:45:38
訂正
誤)同じく日目筆「見聞」正)同じく日目筆とされる「見聞」

188犀角独歩:2006/04/30(日) 07:49:25

れんさん

なるほど。日目の教学を知る確実な資料はほとんどなく、日目自身が開発したような教義・教学なるものはなかったということですね。

ということは、日興が、日目第一の弟子であるとするれんさんの根拠は、「一中一弟子」という点だけでしょうか。

189れん:2006/04/30(日) 11:29:51
犀角独歩さん
仰るとおり、日目が日興の第一弟子と理解する場合の根拠は、日興書写の正慶元年の日目授与の漫荼羅の「一中一弟子也」の記述以外にないですね。
しかして、犀角独歩さんが示されたとおり、日興が「一中一弟子也」と記した真の理由は、日目の公卿出身の血筋という家系伝承、日目のパトロンであった新田小野寺氏をはじめとする奥法華衆の有力な財力を背景とした天奏・上奏の功によるものであると言える訳で、日興の「一中一弟子」を額面どおり付属の弟子と理解するのは不可かもしれないと言えるでしょうね。

190犀角独歩:2006/04/30(日) 11:46:05

れんさん

今回のやりとりのロジックとしては、そうなってしまいますが、この件は保留として、もう少し勘案してみようと思います。

191なし:2006/04/30(日) 21:33:41
「卿公問答せよ」

192ワラシナ:2006/04/30(日) 23:38:55
史料紹介「日蓮写真帖」<1><2><3><4>
<1>0 初めに。1,2,3、アルバム外形の紹介
<2>4 写真9枚の紹介(4-10迄)
<3>4 写真9枚の紹介(4-19迄)
<4>5 参考サイトの紹介、6 結語、7 感想

史料紹介「日蓮写真帖」<1>0 初めに。1,2,3、アルバム外形の紹介

0,初めに。
 「日蓮写真帖(図19枚折本 帙入)」と題された著者発行者不明の宗祖関連遺蹟の白黒写真19枚(実際は一枚はがされたものと見えて18枚しかない。)のアルバムが某所にある。このアルバムにある写真の撮影者と撮影時期を求めるのが紹介の目的である。その結論は、断定はできなかったが、このアルバム中の写真の撮影者は堀上人ではないかと推測している。根拠は一つ。参考資料として下に挙げたサイトの写真の一部が当アルバム写真の一部とあまりに似ているから。撮影時期は判らない。

この話題はh11/8/07(土)に取り上げた。今回二度目は、前回紹介の時欠けていた写真の実寸を補った事と、前回より落ち着いて観察した点が違う。

1,アルバム外形の紹介。
 「日蓮写真帖」とはどういうものか。縦24,5cm、横19cm、厚さ4cmの折本に18枚の白黒写真が貼ってあるだけのもので解題がない。被写体が何かを示す手がかりは、唯一、撮影者が被写体に附した長方形付箋紙だけである。「日蓮写真帖」なる語で折本の外題が記されているわけではなく外題欄は空白、無題になっている。アルバム表紙にも、折り本のどのページにも撮影者の文章が残って無い。解説らしきものは写真中の被写体に附された付箋紙中のメモの字句だけである。「日蓮写真帖」なる語も保管者が分類整理の都合上つけたものと思う。

2,以下に、18枚の写真中に映されている被写体それぞれに添えられている付箋紙の文字と18枚の写真のサイズを列記する。アルバム写真中の付箋紙に書かれた字句をそのまま「」に写し、私の備忘的観察と考察は(*、、、)内に書く。

3,まず、目の前にアルバムを置いて眺めてみた。大きさは、大型の弁当箱サイズ、または、底の薄い折り詰め弁当ほどある。二ミリほどの厚紙が蛇腹のように一連になってつながれたものである。写真はその厚紙に貼られている。厚紙同士のつなぎ部分の紙の色は紺だった(と記憶している)。それらが積み重なると折り本の外周部(天、地、背、小口)になっている。薄クリーム色にみえた表紙の下部には屏風絵にあるような金色の文様がみえる。表紙の左上の長方形の外題枠の中に文字はない。
 
 写真を見るために目の前にアルバムを置き表紙を右側にめくる。その左側を一頁目という順番付けで写真の位置を特定してみた。四番目写真までは各ページ左右の間に薄い、写真と同じように黄ばんだパラフィン紙が挿入されていた。(<1>終わり)

193ワラシナ:2006/04/30(日) 23:43:00
史料紹介「日蓮写真帖」<2>4 写真9枚の紹介(4-5迄)

4,18枚の写真の紹介

1頁,2頁には写真は無い。(記憶違いで本当は3頁目,4頁目だったかもしれない。その場合最初の写真が登場するのは3頁目ではなく5頁目からになる。)

4-1 3頁(左)に貼ってある1枚目の写真(縦16cm横11.5cm)、

(*正面から見た宗祖座像。四角形の台座の上に両手で巻物を広げたような宗祖がこちらを見据えて見える。着ている納依が肌着のような、柔道着にそっくりにみえる。本当なら両手で巻物を開いて入る姿になるはずだが巻軸を外した姿になっている為に、座して格闘技の構えをしているようにすら見える。この写真には表示用白紙付箋紙は無かった。
 なお、以下に続く坐像の写真はどれも被写体として選ばれた坐像以外の背景が削除され白抜きされて映っている。)

4-2,上の3頁を右にめくると裏側の右側4頁に2枚目の写真が出てくる。(縦11cm横15.5cm)、「久遠寺宗祖御影」。

(*上の御影を真横から撮影したものにみえた。台座の四角い厚板を左側に立てかけ台座抜きの尊像は左半身をカメラ側に向けた格好なので、尊像は、自分の目の前で四角い座布団を見ているような感じになっている。両者の中間の真下あたりに「久遠寺宗祖御影」の長方形付箋紙(大きさは見当で縦20cm横10cm位)が置かれている。台座の表面には対角線を交えた四角形の文様が彫刻されている。台座の厚さは、尊像の足の太さ程に見えた。)

4-3,4頁の左側,5頁にある、3枚目の写真。(縦14.5cm横10.5cm)
付箋紙は無い。

(*法衣を纏い、正眼の構えで巻物を広げた宗祖の座画像が、文字曼荼羅同様の表装で掛け軸になってつるされているもの。)

4-4,5頁を右にめくった6頁にある4枚目の写真。(縦15.5横11.3cm)
「中山高祖御尊像」

(*,若干大きめの付箋紙が台座の中央部に立てかけられてあった。二枚目の久遠寺宗祖御影と同じく左半身向けの彫刻坐像だが、両腕の突き出しは巻物を広げていた姿であろうと思われる。よく見ていなかったので両者の差異はこれ以上は書けない。ただこの中山のものは、座布団に座していた事、が違っていたと記憶している。)

4-5,6頁の左側にある7頁にある5枚目の写真。(縦15.5cm横11.3cm)
「中山高祖御尊像」

(*,右の6頁の彫刻坐像の正面撮影と思われる。付箋紙は写真の台座の右下辺りに立てかけられていた。)(<2>の終わり)

194ワラシナ:2006/05/01(月) 00:05:03
史料紹介「日蓮写真帖」<3・上> 4 写真6枚目から12枚目の紹介(4-13迄)

4-6,7頁を右にめくった8頁にある6枚目の写真。(縦16.3cm横12cm)
「綱要導師御画像(大きめの字で書かれ) 牛込瑞光寺(小さめの字で書かれている。どの付箋紙の場合も所蔵寺院名は小さめの字で書かれている。)」

(*若干猫背気味の老年僧侶が経典を広げた小机の前に座っている。この人物像が掛け軸の下半分を占め上半分は経典の偈頌が書かれている。若干大きめの付箋紙が掛け軸中央左端に上下二点の画鋲でとめられていた。要するに光沢のある丸型が金属製の画鋲とすぐわかる程の解像度の写真なのだ。)

4-7,8頁の左側9頁にある7枚目の写真。(縦16.5cm横12cm)
「興師御肖像 蘇我福正寺」

(*法衣を纏った老僧が小机に書籍を広げて座している画像が掛け軸の下半分を占めている。画中の老僧の視線が手前の小机より上方を指しているように見えたので聴衆に向かって講義でもしているかのような姿勢に見えた。上部を画鋲一点でとめられた付箋紙は掛け軸右中央部側端に貼られていた。この画像は大石寺教学書籍のどこかで見かけた記憶があった。)

4-8、9頁を右にめくった10頁にある8枚目の写真。(縦16.4cm横12cm)「養珠夫人画像 小石川興善寺」

(*頭巾を被った尼僧姿の女性が両膝を斜めに崩したような姿勢で座している。まるでカトリックの修道女かイスラムの女性のように見える。額を除く顔面と首下の三角形を残した全てが衣で覆われているから、足の組み方などは判らない。顔はふっくらした中年女性の顔。吊るし帯状の縦二本線の有無までは写真に写っていたかどうか記憶があやふやだが掛け軸形式であったと記憶している。付箋紙は写真中央部右側端に貼ってあった。)

4-9,10頁の左側11頁には写真はなかった。はがされた痕も無かった。

4-10,左側11頁を右にめくった12頁にある9枚目の写真。(縦20.4cm横15.2cm)
(*付箋紙は無い。それは、被写体が「諸人御返事(平賀本土寺蔵)」の真蹟御書(或はその印刷物の)であることが一目瞭然だからであろう。

 鎌倉笛田山佛行寺のサイトを見ると外陣の欄間に全文が掲載されているので、照合すると9枚目の写真は、「三月十九日の和」から七行目の最下段の「記」字までが撮影されているようだ。「諸人御返事」の写真は9枚目,10枚目,11枚目まで続いている。この3枚はそれまでの8枚とは違いアルバムを見る角度を縦横を逆にして左90度回転させなければ縦書きの文にみえない、そういう写真の貼り方をしている。)

4-11,12頁の左にある13頁、10枚目の写真。(縦21cm横14.5cm)(*付箋紙は無い。「諸人御返事」の続き、「宛も」から、「皆此之」迄の9行。)

4-12,13頁を右にめくった14頁、11枚目の写真。(縦20,8cm横14cm)(*付箋紙は無い。「諸人御返事」の最後,「法門」から、「御返事」迄の5行分。)

4-13,14頁の左側、15頁12枚目の写真。(縦16.5cm横12cm)「高祖御消息断片 下山抄 浅草善立寺」
(*付箋紙は横長長方形の書簡の中央部上段に両端に画鋲止めされ貼られている。だが写真の向きは上の「諸人御返事」以前の向きに戻っているので、ここでアルバムを右に90度回転させる必要がある。)

(*撮影された下山抄本文の位置は、正確にはわからないが大まかに言えば、両火房の祈雨が叶わず負けた。たとえ雨が降ったとしても雨の形貌を以って祈る者の賢不賢を知る事有り、雨にも色々有り、と、雨の説明を始めている8行部分に見えた。)<3・上の終わり>

195ワラシナ:2006/05/01(月) 00:06:53
史料紹介「日蓮写真帖」<3・下> 4 写真12枚目から18枚目の紹介(4-19迄)

4-14,15頁を右にめくった16頁、13枚目の写真。(縦16.5cm横12cm)「慧明燈師本尊 牛込幸國寺」。
(*付箋紙は縦長長方形の本尊字面の外部表装の中央部の右側端に上下二点で画鋲止めされている。主題の「経」字の下は「日蓮大菩薩」だった。右側は「仏滅度後」だが、「二十余年」か「三十余年」であったかは写し忘れた。慧明燈師については、NB氏の富士年表7に「○深草慧明日燈草山清規を著す(別統)」とある。)

4-15, 16頁の左側、17頁14枚目の写真。(縦16.4cm横12cm)「綱要導師本尊 牛込 瑞光寺」
(*付箋紙は縦長長方形の本尊紙面の中央部の左側端に貼られている。本尊字面の右側に「天明四申辰」の文字が見える。)

4-16,17頁を右にめくった18頁、15枚目の写真は無い。

(*台紙には剥がされた跡の形が残されていた。左19頁(縦16.4cm横12cm)の写真のサイズと同じだったので18頁に15枚目の写真が貼られていたと考える。島のような白っぽい円形のはがれ跡が二三箇所あった。他の写真の糊付けが一面べったり風なのに、この15枚目の写真だけは、接着剤が乾ききって台紙と写真との剥離面が大きかったので剥がれ(剥され)やすかったのかもしれない。或は、ここが剥された事を知った後、防護措置として残りの写真全部をべったりと糊付けし直したのかもしれない。)

4-17,18 頁の左側、19頁16枚目の写真。(縦16.4cm横12cm)「高祖御本尊 本郷 長元寺」

(*弘安三年日眼女授与 四天王無し 不動愛染のみの第71番本尊。付箋紙は縦長長方形の本尊字面の外部表装の中央部の右側端、上下二点で画鋲止めされている。

1,気づき。
 ここまで見てきて、撮影者が被写体を鮮明に大きく写す為に付箋紙の貼り方に苦慮している事が判った。付箋紙を被写体外部に貼るだけでは、肝心の被写体を大きく写すことは出来ない。できるだけ被写体に近接させなければ、極端に言えば内部に埋め込ませなければ無理だと思ったのであろう。
 この写真では左右均等に写っているべき外部表装部分が右の付箋紙側にしか写っていない。左側の表装部分は視野から除かれて、写真の左際一杯まで本尊の字面が迫っている。写真の全面を本尊の字面で使ってしまえば、文字は大きく鮮明になってくるが、それでは被写体が何物なのかを示す付箋紙の貼り場所がなくなってしまう。何の写真なのかを分からせる為のテロップを挿入することは欠かせない。だが、本尊の字面の余白に埋め込むわけには行かない。だから付箋紙の横径10㎝程は写真の横幅が犠牲になる。
 だが、本尊の字面の横幅は犠牲にしたくないので左右どちらかの外部表装を削るしかなくなる。左右の表装のどちらかを犠牲にしないで両方写すと本尊の字面が一回り小さくなって見えると思う。(その例が後に紹介した参考サイトの本尊写真の付箋紙の貼り方だと思う。)

2、気づき。
 主題「南」字の右肩上方に穴のように見える小さな白点があった。立正安国会御本尊集ではどう写っているかは所持していないので比較できない。サイト御本尊集で対応するその位置は、放射状の星の瞬きして見える場所に当たっている。やはり穴のような空白部分に見える。長年巻かれ続けていたものを平面に伸ばす為逆方向に折り曲げてできたような痕が幾重にも水平に走っている。)

4-17,19頁を右にめくった20頁、17枚目の写真。(縦16.3cm横12cm)「日朗上人消息 池上本門寺」

(*付箋紙は縦長長方形の紙面の中央部の右側端、上下二点で画鋲止めされている。書状の末尾。「箱根坂」「恐縮」「人々御中」などの字句が見えた。)

4-18、20 頁の左側、21頁18枚目の写真。(縦16.4cm横12cm)「高祖御消息断片 善無畏抄 鎌倉本覚寺」
(*付箋紙は縦長長方形の書状紙面の中央部の右側端、上下二点で画鋲止めされている。付箋紙の字句は縦書きだが書状の本文の字面の向きは右20頁を見ていた時の位置からアルバムを左へ90度回転する必要がある。写っている本文は15行程であるが末尾の最後の一二行に「大(?)仏」「百万億」の字句が読み取れただけで、全文のどの部分かはわからなかった。)

4-19,21頁を右にめくった21頁、19枚目の写真。(縦16.4cm横12cm)「日昭上人譲状 池上本門寺」

(*付箋紙の字句と写っている書状の字句の向きは同じで横径12cmの右から左方向に縦書きされている。従って、アルバムの向きは前21頁を手前から奥へめくればよい。
 どういうわけかアルバム中この写真だけは付箋紙が被写体の余白部分に埋め込まれて書状の頭に置かれている。写っている本文の字句で読み取れたものは、冒頭の「遺跡事」末尾の年号「文保元年」だけである。中間にも数行あったが読解能力がなく読み取れなかった。(<3・下>の終わり)

196ワラシナ:2006/05/01(月) 00:09:19
史料紹介「日蓮写真帖」<4> 5 参考サイトの紹介、6 結語、7 感想

5-1,「付箋紙」についての参考サイト「堀師、中山法華経寺に現る」。

 このアルバム写真の被写体に付されたインデックス(付箋紙)がどのような感じで写っているかのイメージを伝える為にかなり似ている例としてサイト「堀師 中山法華経寺に現る」を紹介したい。
yahoo でないと出てこない。そこに堀師が撮影したとされる中山法華経寺蔵宗祖御本尊(64番)写真が出ている。その本尊写真の右側端中央部に付されている「高祖御本尊 中山法宣院(ではないか)」と見える付箋紙がそれで、そのような長方形の熨斗紙が当該アルバム写真の右端や左端に写っているもの、と想像して頂ければよい。付箋紙の字体も両者はかなり似ている点、付箋紙の下端に画鋲らしきものが見える点、などから見て「、、のようなもの」としての参考例に出す事は外れていない、と思う。

6 結語 
 このアルバム写真の撮影者が誰であるか、その手がかりをその写真に求めた時には、上の参考サイトの著者の見聞は貴重な情報を提供していると思う。

6-1 同サイトの見聞が正しければ「堀上人がある時期中山法華経寺を訪問された」らしい。当アルバム写真にも中山法華経寺蔵の遺物写真が二枚有る。

6-2 参考サイトの付箋紙の字体と当アルバム写真中に写っている付箋紙の字体が似ていると見える事。この「似ている」とはその程度を控えめに表現したもので実際にアルバム写真を見た人はそのそっくりさに驚くことだろう。

6-3 写真に写っている遺物の所蔵地が東京中心部と隣接する常総地方に集中している事。撮影時期が堀上人の在東京時代と仮定すると行き易い近場の遺物を狙って撮影に行った、と想定すると無理がない。

などを以って撮影者は堀上人ではないかと想像している。だが、断定するには、付箋紙の字形と堀上人の筆跡とを照合する事、付箋紙に記された寺院に撮影者の記録を聞く事、などが必要であると思っている。

7,最後に感想。
 写真一枚ごとにICタグが付いていない現状ではまた抜かれかねないので保管場所迄は紹介したくなかった。だから言葉だけ尽くして描写しようとした。だが、やはり写真の真相は写真を見せることでしか伝えきれないという限界があった。このジレンマ。
 
(h18/4/30)

198雅也:2006/05/03(水) 13:52:24
 日蓮写真帖って昔、佼成図書館で見た事がある。記憶がハッキリしない部分が
あるが確かに日蓮写真帖というモノクロの写真帖ぐらいの記憶しかありません。

199ワラシナ:2006/05/03(水) 20:11:23
雅也様、始めまして。ズバリそれです。

200パンナコッタ:2006/05/05(金) 12:48:08
先月、お薦めの方に記しましたが、池上本門寺の霊宝殿の今月の公開は本尊集に載っていない
建治二年九月の真筆展示ですね。
 http://www.honmonji.or.jp/05topic/06info/reihoden/reihoden.html

”此比丘尼授与法日” 3枚継ぎの物みたいです。 寺尾教授の
「新出の日蓮聖人曼陀羅本尊について」という説明文があるそうですが、
現物を拝観しに、行った方がいいかもしれませんね。

201なし:2006/05/05(金) 22:07:42
これ偽物↓

御遺物配分帳 1幅 鎌倉時代・13世紀 東京・本門寺
(池上)
身延山守番帳 1幅 鎌倉時代・13世紀 東京・本門寺
(池上)

202れん:2006/05/06(土) 19:18:41
パンナコッタさん、蓮祖の池上の建治2年9月の真筆の展示の御教示まことに有難うございます。今月中に一度拝観に行こうと存じます。

203独学徒:2006/05/07(日) 16:34:42

パンナコッタさん、れんさん、池上オフ会なんてできたらいいですね。

丁度1年前ころ、「戸田城聖を聞く会」でパンナコッタさんと初めてお会いしたと記憶しています。
5・3でしたっけ?

と、いいつつも、この先の土日は、運動会シーズンなので日程調整は難しいですかね、、、

いずれにしましても、私も霊宝殿へ行きたいと思います。

204犀角独歩:2006/05/07(日) 19:11:11

パンナコッタさんのご案内に随い、近場ということもあり、散歩がてら、池上本門寺霊宝殿を覗いてきました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1114674169/200

実見。真であれ、偽疑であれ、建治2年であろうかと。
諸尊を書き取ってきたのですが、四大天玉、讃文、日付・授与者などを迂闊にも写してきませんでした。以下、図はですから、四大天玉はうる覚えの記憶です。また、慣習的に王を玉で記してありますが、あるいは王を使っている所もあったかもしれません。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/kenji2nenmandara_honmonji.html

ご紹介のパンナコッタさん、また、彰往考来さん、れんさん、独学徒さん、一字三礼さんをはじめ、皆さんからご批正をいただきたいと思いますが、わたしは、この漫荼羅が真筆?という実見感想でした。

その理由をいくつか挙げると、なにより気になったのが經字糸偏の‘ノ’様画、光明点(髭)と言われる伸ばされる部位ですが、谷に弓なりになっていて、通例のように山に弓なりになっていないこと、日蓮の蓮字しんにゅうの点が4点であること、また、首題と光明点が一筆で記されていること、あと、これまた、記憶が定かではありませんが、安立行菩薩の安の字が、この当時の特徴的な書き方 [小/女] となっていなかった(曖昧な記憶ですが、この点は)こと、全体に派祖以降の本尊のように一筆で首題が描かれ、全体に力が弱い印象を受けました。あと、書き落としがなければ、大日天玉がなかったと思います。

この時期は、千眼天王、(大)十二神王が見らるわけですが、この漫荼羅は「寶光天玉」となっていて、眼が惹かれました。

また、配布の展示目録に拠れば「授与・比丘尼法日(裏書)」となっており、授与者が裏面に記されていることや、この尼の名が「日法」というのなら、引っかからないのですが、「法日」というのは、でも、後代に属するように思えました。

皆さんの実見後、ご感想をお待ちいたそうと思います。

205パンナコッタ:2006/05/07(日) 23:10:16
れんさん、独学徒さん、どうも。 
ミニオフ良いですね。みなさんお忙しいでしょうけど、是非やりたいですね。
おや、独歩さんは抜け駆けですか(◎-◎;) ウソ
何やら、あやしさが漂う漫茶羅のようですね。 伝日蓮の数珠や、>201なしさん指摘の
配分帳も以前展示されていましたので、前提として注意が必要でしょうね。

206犀角独歩:2006/05/08(月) 00:45:22

パンナコッタさん、抜け駆けではないですよ(笑)
あの漫荼羅のために、会するのは、当富士門流信徒の掲示板にしては、勇み足。故に、わたしが暇を惜しんで、皆さんの無駄足にならないように先に偵察?に行ったということです(笑)
だったら、実見後のコメントを求めるなという叱責を受けそうですが、実は、「なんだ」という思いから、まともに観なかった点もあるので、皆さんの方を借りようという(つまり、2回行くのは面倒)という思いからの投稿でした。
悪しからず、ご了承ください。

207彰往考来(しょうおうこうらい):2006/05/08(月) 07:59:39

>204 犀角独歩さん

見てみないとなんともいえないですね。霊宝殿へ足を運びますか。

なお、この曼荼羅は『大田区史 資料編2』では日蓮本尊の部ではなく、伝・日蓮本尊の部で紹介されています。
まあ、後世のものなのでしょう。

彰往考来

208犀角独歩:2006/05/08(月) 08:47:45

彰往考来さん

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1016869045/666
上記にレスしました。

209畠山 櫻:2006/05/20(土) 21:07:45
21日(日) 御霊宝虫払会 午後 1時
明日、妙光寺で虫払会が行われ、宗祖筆御本尊が開帳されるみたいですね。
弘安2年4月8日筆の御本尊は伝宗祖の色が濃いのですか?
行かれる方がいたら、感想をお願い致します。


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