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蓮祖及び門下の曼荼羅について

10吉祥仙人:2005/05/13(金) 18:44:52
 彰往考来さんへ

 つたない書き込みにお答えいただき有難うございました。

11犀角独歩:2005/05/13(金) 22:02:32

勝手ながら、彰往考来さんの5、6、9をわたしのブログで紹介させていただきました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/21187099.html

12彰往考来(しょうおうこうらい):2005/05/14(土) 11:27:23

平成10(1998)年7月26日に私は茨城県高萩市にある日蓮宗の願成寺を訪問しました。高萩願成寺は日弁上人の開基で弁師の寂年が記載された「赤濱妙法寺過去帳」を所蔵していることで知られています。「赤濱妙法寺過去帳」は『續群書類從・第三十三輯下雑部』(續群書類從完成會、昭和33年訂正3版)に入集しています。『富士年表』や精師の「家中抄」(『富士宗学要集第五巻』(昭和53年、創価学会、247頁)にある弁師寂年(応長元(1311)年)はこの過去帳の記載が基になっています。当時私は日弁師の事跡を調べていまして、同寺訪問は『赤濱妙法寺過去帳』と日弁師の御本尊を拝観するのが目的でした。同寺では一般公開していないのですが、年1回のお風入れの際に訪問すれば拝観できると聞きカメラ持参で出かけたのでした。このような史料の実地調査は私にとって初めてでした。

びっくりしたのは仙台仏眼寺の“飛び漫荼羅”とよく似た伝承があることでした。高萩願成寺蔵の「日弁聖人筆の四天王之図(曼荼羅)は、上部が焼けて無い。これは文化五年(引用者注:1808年)の火事の時に風にあおられて松の枝にひっかかって助かったという文化財である。」(松本壽夫 編『高萩の歴史散歩』平成10年、高萩郷土史研究会、195頁)とあるように、仙台仏眼寺の“飛び漫荼羅”伝承とそっくりなのです。但し願成寺のものは焼け残りで上部と左部が欠けていて完全な姿ではありません。もちろん松岡藩(常陸國多賀郡)の重宝でもありません。この弁師御本尊は『本化高祖年譜攷異』に「嘉元中常州多賀郡赤濱ニ至リ説法ス因ッテ、一ハ願成ト曰イ一ハ妙法ト曰フ両寺ヲ立テタ時、大漫荼羅、賛曰ク佛滅後二千二百四十余年未曾有本尊也 ヲ書ク」(『本化高祖年譜攷異』(「日蓮聖人傳記集」所収原文は漢文、明治43年、須原屋書店、181頁))とあるように「佛滅度後二千二百四十余年」と記載されているのが大きな特徴です。『本化高祖年譜攷異』では“佛滅後”とありますが実地調査の結果では“佛滅度後”でした。ご住職の許可を得て写真も撮りました。
弁師の御本尊は鷲巣鷲山寺にもあり、山中喜八編『日蓮大聖人御真蹟 御門下御本尊集』(昭和56年改修(初版昭和32年)、立正安国会)の第17番目です。ここでは鷲巣鷲山寺蔵の弁師御本尊を「鷲山寺本」、高萩願成寺蔵の弁師御本尊を「願成寺本」(1998年7月26日撮影写真)と略して比較検討してみます。『本化高祖年譜攷異』は「願成寺本」が嘉元年中(1303〜1306)に書かれたとしていますが、そのころは「佛滅度後二千二百五十余年」のはずです。従って「四十余年」から類推しますと「願成寺本」が書かれたのは正応2(1289)年頃ということになるでしょう。弁師に授与された蓮祖御本尊第63番が弘安2(1279)年で「三十余年」とあるからです。「鷲山寺本」は永仁3(1295)年筆ですから「四十余年」とあってもよいのですが日興門流の御本尊と同様に「三十余年」と記されています。「佛滅度後二千二百四十余年」とある御本尊は蓮祖御本尊を初め日興門流御門下にありませんので「願成寺本」には疑義があると考えます。ただ弁師御本尊は「日蓮在御判」とはなく「日弁(花押)」となっていますので「四十余年」だけで偽筆と言い切れるものではありません。また「願成寺本」には「八幡大菩薩」は焼けたためか見あたらず、向かって左側に「南無日蓮聖人」が配座しています。それに対して「鷲山寺本」では「南無日蓮聖人」が向かって右側にあります。さらに「鷲山寺本」では「経」の字が原本と思われる弁師授与蓮祖御本尊第63番を彷彿とさせる筆運びであるのに対して「願成寺本」では文永期の「経」の字に近い筆運びであるという差もあります。ただ「鷲山寺本」の「経」字の旁(つくり)の“又”は“ツ”となっていて、必ずしも「願成寺本」と異なるとは言い切れない面もあります。花押にも差があり、特に蕨手の部分が「鷲山寺本」では蛇の鎌首のように立っているのに対して「願成寺本」では少し斜めになっているなど同一人物の筆であるか疑問の向きもありますが、「鷲山寺本」は1紙であるのに対して「願成寺本」は3紙(3枚継)であるという大きさの差もあるのでいちがいには言えません。「転輪聖玉」が蓮祖御本尊第63番では向かって右に対し、弁師御本尊では左にあるという最も大きな特徴は「鷲山寺本」と「願成寺本」で一致します。相対比較できる弁師の史料が少ないので断定はできませんが、「願成寺本」は弁師の真筆ではなく模写の類である可能性もあると考えます。

by 彰往考来 (平成17年5月3日のオフ会でのレジュメ内容の一部を加筆修正したものです)

13彰往考来(しょうおうこうらい):2005/05/22(日) 09:12:23

富士門流御門下の御本尊を調査・研究しようとするとひとつの壁にぶつかります。資料があまり公開されていないのです。特に石山(富士大石寺)所蔵のものは皆無といってもよい状態です。ここに日蓮正宗の秘密主義が邪魔をしているのですが、「無理に隠そうとするのは、底が浅いことを露呈しているようなもの」(鳴海風『円周率を計算した男』新人物往来社、1998年、160頁)ですから、気にする必要はないのかもしれません。秘密主義は僧侶(といっても妻子がいるのですから聖職者ではなく自営業のような立場ですよね?)が食べていくために、日蓮正宗という宗教商売を成り立たせる必要があるという営業戦略なのでしょう。会員制のようなものと考えれば理解できるかもしれません。しかし「学問の進歩は秘密主義の下ではありえ(ない)」(同書、170頁)ということです。それでも最近は、興風談所など徐々に石山の周りから公開されるようになってきているのはうれしいことです。それに伴い、『戒壇本尊』や『相伝』などが実にいいかげんなものであったかが解明されつつあるように思います。

14犀角独歩:2005/05/22(日) 09:56:04

彰往考来さん:

13のご投稿、ほぼ賛同ですが、

> 『戒壇本尊』や『相伝』などが実にいいかげんなものであったかが解明されつつある

なんていうのは、50年ずれた発言ではないでしょうか。
創価学会の勃興、小樽問答後の日蓮宗では、彫刻本尊、石山相伝、日蓮本仏などは悉く解答済みです。

ただ、それが流布しないのは馬耳東風、馬の耳に念仏ならぬ、三学無縁さんから頂戴し、先のオフ会でも配布し、わたしのブログで紹介した『みのぶ』第46巻第4号の言「此の種の青年たちは本格的な筋の通つた教義など勿論知らない。折伏教典を唯一の教科書にして、戦術的な問答の要領を仕込まれている程度」の分析の『折伏教典』の所を「組織と指導者の言うこと以外」と書き換えて読めば、その理由がわかります。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/22540737.html

しつこく繰り返しますが、彫刻本尊ほかインチキをもっとも解明できる資料を有しているであろう興風談所ほか正信会僧が、この問題を取り上げない態度は、批判されて然るべきでしょう。その他の学問的成果に関しては、勿論、評価しても、です。

15犀角独歩:2005/05/22(日) 10:14:42

補足します。『みのぶ』の記述を書き換え、やや長く引用すれば、以下のとおりです。まったく、当を得た観察です。

― 此の種の青年たちは本格的な筋の通つた教義など勿論知らない。‘組織と指導者’を唯一の教科書にして、戦術的な問答の要領を仕込まれている程度である。従つて、本格的な教義でいくら叩かれて、いわゆる『無学者理に詰まらず』で一向に驚かない ―

16彰往考来(しょうおうこうらい):2005/05/23(月) 08:00:23

>14,15 犀角独歩さん

あいかわらず本件では手厳しいですね。
貴殿の考えはそのとおりと思いますが、現実問題として考えると50年前には解らなかった事実を踏まえ再度検証し明らかにしていくのは必要なことと考えます。であるからこそ貴殿も彫刻本尊の鑑別研究をされているはずです。

なお、本件は貴殿のいうとおりで批判されるべき人たちがたくさんいますね。

日蓮正宗・創価学会の戦術上の勝利であったとするなら、その戦術を研究することにより、ビジネスの世界でも応用できるのではなどつらつら考えている今日このごろであります。

17犀角独歩:2005/05/23(月) 08:27:09

彰往考来さん

> 本件では手厳しい

ええ、もちろんです。
わたしは正信会僧侶が破門になって、石山と袂を分かったといっても、それ以前、偽物を本物と行ってきた自己批判をしない限り、与同罪は免れないという立場です。
それが、学術に邁進するのはけっこうなことであるにせよ、そうした反省・謝罪もせずにいるということを許してはいけないと言っているのです。

> 50年前には解らなかった事実

では、お尋ねしますが、日蓮本仏論、相伝、彫刻本尊について、50年間わからなかったこととはなんでしょうか。
わたしにとってそれは、その一つが彫刻本尊の原図は何かということでした。
ですから、その点を明確にしたわけです。
その他に宮崎英修師、執行海秀師ほか、諸師が闡明にした点以外で、上記、石山‘偽’を正信会が暴く役割をしたことにどのようなことがあるのでしょうか。

> 再度検証し明らかにしていくのは必要

それは、当然です。そのために、わたしもやっています。
我々にように昭和30年代から「日蓮正宗・創価学会」を見てきてきたものが、生きているうちにやっておかなければ、永遠に埋もれてしまう事実をしっかりと、このような人類共通のデータ(書籍・ネット)として残しておく必要があると思うからこそ、僅かな私財と、いつ朽ちるとも知れぬ心身に鞭打ってやっているわけです。

> 日蓮正宗・創価学会の戦術上…ビジネスの世界でも応用

それがここ50年の創価学会の歩みでしょう。
昨日、本屋に立ち寄ったら、『カルトになれ』というビジネス書がありました。
わたしは吐き気がしましたが、お読みになりますか?

『カルトになれ!』顧客を信者にする7つのルール
 マシュー・W・ ラガス 著 ボリバー・J・ ブエノ 著
 安田 拡 訳

http://www.forestpub.co.jp/cgi/book_detail.cfm?ItemCode=B-1233

18パンナコッタ:2005/05/23(月) 14:44:24
彰往考来さん、
やはり経営学的にきっちりと分析をし、善悪の判断をした上での流用でなければ
ならないと思います。かなり危険な要素(毒)を含むものですからね。
組織の形態を丸ごとパクッていた八葉物流の経営破綻は、未だ記憶に新しいところです。

19彰往考来(しょうおうこうらい):2005/05/23(月) 18:31:15

犀角独歩さん
>17
>正信会僧侶が破門・・・それ以前、偽物を本物と行ってきた自己批判をしない限り、与同罪は免れない

そのとおりですね。私もそう思います。

>そうした反省・謝罪もせずにいるということを許してはいけない

当事者である正信会の人たちはどうお考えなのでしょうかね。私は正信会とは無関係ですので詳細は解らないのですが、現状では正信会や興風談所は別の形の宗教ビジネスになりつつあるのではないでしょうか。
それ(偽物を本物と言ってきた)を認めれば自分たちの立場がない⇒食っていけなくなる といった図式でしょうか。それでは、魂の救済などとは程遠い姿ですね。また、個人の学術的興味を満たすだけであれば、どうぞご自由にというほかありません。

> 50年前には解らなかった事実
>>わたしにとってそれは、その一つが彫刻本尊の原図‥石山‘偽’を正信会が暴く役割をしたことにどのようなことがあるのでしょうか。

もちろん犀角独歩さんがご指摘の禅師授与漫荼羅との関係です。ま、しかし、原本がどれであれ、模刻との内容が変わるわけではありませんが。犀角独歩さんのご指摘の点が私にとっても大きなフラストレーションをいだくところです。彫刻本尊を本物と考えるなら、少なくともそういう態度をとるなら、日顕さんに土下座してでも正信会も創価学会も石山に戻るべきと思います。なぜなら彫刻本尊は石山にあるのです。自分たちが拝めない、彫刻本尊は対立している向こう側にある、そして向こう側を攻撃している立場のものがよく言うよということです。偽物と考えるなら堂々と論戦をはればよいのです。本物と考えるなら謝ってでも石山に戻ればよいのに彫刻本尊は本物だが日顕さんが間違いという態度をとるのは偽善以外にありません。彫刻本尊が本物という立場で石山という組織を運営すれば誰がやっても似たようなものではと思います。しかしまあ、島田先生の分析のパクリではありませんが、私は正信会と創価学会の論理がそっくりだなと思っているのです。やはり正信会は戻る準備というか用意がなされているのではと感じます。正信会のF師も最近、石山に戻られましたしね。
犀角独歩さんは、正信会に対して憤りを感じておられるようですが、同じ思いを私は創価学会に感じています。ちょっと調べれば彫刻本尊に疑問符がつくことは解るのです。なのに秋谷会長を初め創価学会のトップ、憂宗護法同盟などは“本物”という立場をとり続けているからです。創価学会では50年前には解らなかった事実であったかどうか不明ですが、少なくとも今日に至る歴史の中で封印をしたわけです。もし事実を認めたら?何が起こるのか、恐らくは何も起こらないという結果になりそうです。創価学会は独自路線をいくでしょう。なぜなら世代交代が進み、彫刻本尊など見たこともない、お山に登山したこともない会員が増えているからです。しかし彫刻本尊を本物として自分が信じていた事実は厳然としてあります。だからこそ、私も私財を投入して疑問点を研究しているわけです。

>『カルトになれ!』顧客を信者にする7つのルール
>マシュー・W・ ラガス 著 ボリバー・J・ ブエノ 著
>安田 拡 訳

まずは、ご紹介ありがとうございます。う〜ん、どうしようかな。催眠商法の手口ですかね。読んで実りがあるかどうか。とりあえず図書館で探してみます。

※ 犀角独歩さん、バンナコッタさん
本内容はこのスレッドのテーマとは違っていますので、続けるのであれば別の場所に移動しましょう。

※ >18バンナコッタさん
レスありがとうございます。そうすると創価学会は組織運営上相当うまくやっているということですね。

20彰往考来(しょうおうこうらい):2005/06/23(木) 21:11:28

>1289 (スレッド:本門戒壇の大御本尊様の偽作説について)大勇者さん

>もう一つ気に掛かる事があります。・・・此の曼荼羅の愛染についてなのですが、L字型に筆が運ばれ、その下に隙間が開いている様に見えます。
>紙の凹凸に依るものなのでしょうか、御意見を御聞かせ頂ければと思います。

第五七番本尊の愛染明玉の隙間について私見を述べます。
第五七番本尊の向かって左の愛染明玉は1289で大勇者さんが指摘されているようにTの字の一番下に切れ目があります。便宜上T字の横棒を第一画、縦棒を第二画、第二画の切れ目のあとに続く縦棒を第三画、第三画から続き右上から左下へ流れる曲線を第四画とします。
『日蓮聖人真蹟集成 第十巻 本尊集』(昭和52年、法蔵館)のB4サイズの御本尊写真(公開されている写真では一番大きいものでしょう)で確認しますと、実は第三画は第二画の一番最後(切れ目の箇所)から引き続き書かれたのではなくて、第三画の一番下から上に伸びて第四画に連続して書かれていることが解かります。つまり第三画と第四画は切れ目がないのです。『日蓮聖人真蹟集成 第十巻 本尊集』のB4サイズ御本尊写真では第三画と第四画の隙間はかすれてはいますが筆の流れが微かにみえます。それに対して第二画と第三画の隙間には筆の流れは認められず、むしろ第二画は一番下で止められているようにも感じられます。第三画と第四画の境目の筆跡がかすれているために隙間があるように見えると考えます。
ここで指摘した第三画と第四画の境目の筆跡の流れは、A5サイズの『日蓮大聖人御真蹟 御本尊集』(昭和56年再版(初版昭和49年)発行、立正安国会)やA5サイズの『日蓮聖人真蹟の世界 上』(平成4年、雄山閣出版、217頁)では解かり難く、言われてみればというレベルです。それでも『日蓮聖人真蹟の世界 上』のほうが筆跡の流れの痕跡がよく出てはいます。残念ながらインターネットで公開されている御本尊写真ではこの微妙なかすれは見えません。
この箇所に隙間が有るのは他の蓮祖御本尊に例がなく特徴的です。これはこの第五七番本尊が大小二十八枚継の大判(縦234.9cm、横124.9cm)であることと関係していると考えます。
実際に愛染明玉の長さを第五七番本尊近傍の御本尊写真である第五十四番本尊、第五十六番本尊とともにその縮小率から計算してみますと、
計算式は、写真の縦寸法:第2画 + 第3画の写真寸法=縦寸法実寸:X(第二画+第三画の実寸法)
安54(3紙):31.8:8.2=95.5:X で24.6cm(第二画+第三画)
安56(1紙): 31.8:10.3=50.5:X で16.4cm(第二画+第三画)
安57(28紙):31.8:4.4=234.9:X で32.4cm(第二画のみ)
安57(28紙):31.8:8.2=234.9:X で60.6cm(第二画+第三画)
となります。31.8cmは『日蓮聖人真蹟集成 第十巻 本尊集』の写真縦寸法です。写真上の愛染明玉の指定箇所寸法に『御本尊集目録』に記載された各御本尊の縦寸法をかけ、写真の縦寸法である31.8cmで割ってやると、目的の寸法が求まります。
第五七番本尊と近い時期の1紙及び3紙の御本尊を1例ずつ示しました。1紙及び3紙の御本尊である第五四蕃本尊と第五六番本尊では第二画と第三画は連続しているのですが、この長さが20cm前後であるのに対して第五七番本尊では第二画だけで30cmを越えます。第三画との合計では60cmを越えるのです。よって蓮祖は30cm(尺貫法では1尺)程度の長さのところで筆を止められているのではないかと考えたわけです。一気に書ける長さが30cm程度であったのではないでしょうか。
御本尊写真集では大きさの違う御本尊の縮小率を変えることにより、同じ寸法で印刷されています。ある意味しかたないのですが、それがために相貌研究などでは間違った結果になりはしないかと常々考えています。もちろんその人の持つ癖は反映されるわけですが同一人が同一日に書いたとしても半紙の大きさと2mを越す大判では、筆跡など異なっても当然であろうと思います。大判の御本尊で起こっている今回のケースは原寸を求めて考察する必要があるということです。


by 彰往考来(しょうおうこうらい)

21犀角独歩:2005/06/24(金) 07:03:08

彰往考来さん、この漫荼羅は真筆だと思いますか。

22大勇者:2005/06/24(金) 22:04:34
彰往考来さん 犀角独歩さん。

丁寧な御教示誠に有難う御座います。
第三画が一番下から上に伸びて筆が運ばれているとの事に驚きました。予想外でした。
一尺程度の長さまでが限度と考えられていたのではないか?との御高察に脱帽です。

私はこの掲示板に出入りさせてもらうようになってから、意識的に「自分で考える」を大切にする様にしていますが、基礎知識が追いつかず「出鱈目」な発言も多々あるわけですが、御容赦下さい。先に言い訳をしておきます。(笑)

一尺で止められる、何かしらの理由があり、しかも、第三画は必ず必要であったと考えられると思います。これは、きっと真言としての梵字が理由からではないかと思うのです。
しかし、第107番曼荼羅の右側、私はこれを「愛染」だと思うのですが、これには第三画が見当たらないように見えるのです・・・宜しければ「日蓮聖人真蹟の世界」で御確認お願い出来ますでしょうか。

私は「愛染はポロン、不動はバン、で、実は両方とも「オーム」なのではないか?」との可能性を想像しています。
つまり、花押と合わせて曼荼羅には三つの真言の(オーム)が筆されている。と
それならば第107番曼荼羅のような両方愛染も説明が付くのではないかと。

突拍子もない幼稚な発言だと分かっておりますが、御意見を頂戴出来ればと思います。

23大勇者:2005/06/24(金) 22:14:14
>22
すみません。自分の投稿を読み直して、
「オーム」だと誤解を生じるかも知れません。
「オン」に訂正させて下さい。

24きゃからばあ:2005/06/25(土) 09:07:43

大勇者さん、こんにちは。

>私は「愛染はポロン、不動はバン、で、実は両方とも「オーム」なのではないか?」との可能性を想像しています。

一般的に愛染はウーン、不動はカーン、またボロンは一字金輪仏頂、バンは大日とされています。
また、オームですが、a・u・mと分ければ法・報・応の三身となりますが、

>三つの真言の(オーム)が筆されている。

とは、このことを言っているのでしょうか?
違っていたら教えてください。

25犀角独歩:2005/06/25(土) 10:33:51

22 大勇者さん

ご自身でお考えになる。たいへんに大切なことですね。

日蓮という人は仏教者としてしか理解されていない。しかし、少なくとも五つの顔を考えないと、その実は見えないだろうというのが、三学無縁さんとわたしの議論の主立ったテーマです。昨晩は4時間近く語り合いました。

この四つとは、(1)仏法者 (2)密教者 (3)行者 (4)陰陽師 (5)今で言う法律家。
(1)は、天台沙門。やがて本朝沙門となる沙門。
(2)は、加持・祈祷・呪法その他の現世利益で密教僧。
(3)は、修験行者。
(4)は、陰陽師。
(5)は、ちょっと適切な言葉が思いつかないので、いちおう、法律家とはしました。

日本仏教は顕密一体、儒仏一体、さらに山岳信仰とも習合し、陰陽師の役割まで取って代わっていったというシンクレティズムで、ところが現在の仏教は明治以降の神仏分離令以降の筋で、三学行者も、新興勢力では別物、陰陽道は廃れています。特に創価学会では、集合した要素を出来る限り取り払って単純化して、日蓮を理解してきましたから、実際の実像の2割ほどしか見ていないことになります。


まあ、こんないくつもの側面の中で図された漫荼羅は、そこに顕密一体が看取されることになるわけですね。日蓮というな自体、大‘日’・妙法‘蓮’華経を合体したものではないのかと、わたしは考えます。

大石寺は古来より仏像はなかったというのがいまのアナウンスですが、わたしはこれは嘘だと思っています。漫荼羅正意に転じたあとに処分され、なかったことにされたのではないのかという推理です。
また、日蓮は法華顕教の沙門で密教色はなかったというのも嘘で、真言批判は真言宗批判、真言宗批判と言うより、その特定人物批判、自身は密教修法に拠っていた。しかし、ここいらも処分され、いまに至るのではないのか。実際は大日如来が勧請された漫荼羅は多くあったが、真言亡国の筋から継承者が大切に扱わず、棄却したのではないのかという推理です。

日蓮、殊に日興との関係は山岳信仰の側面が見られます。そもそも「法華経の行者」という言葉はおかしな言葉です。法華経典からいえば、登場するのは「比丘」であり「法師」です。しかし、敢えて日蓮は行者というわけです。

『立正安国論』を、日蓮自身「勘文」というわけですが、中尾師の講説にもありましたが、勘文は陰陽師が呈する文書を言うわけです。では、日蓮は陰陽師をかねていたのか、はたまた、その言葉を使っただけか。ここはよくわかりません。

(5)でいう法律家というのは、実に言葉が不適切なのですが、門注得意であるとか、あるいは田畑争いであると、そのようなことに訴状、申状を呈した様子が窺え、そこで記される内容は僧侶と言うより法律家的な側面が看取できます。これは藤川さんにお尋ねしたほうがよいと思いますが、当時の私営でそんなことをする人々はなんと呼ばれていたのでしょうか。日蓮の主な収入源はそこにあったのではないのか、と見る人もいます。さらに加えれば、小野師も指摘しているとおり、日蓮は日本最先端の情報通で、それを大陸往復し、日本の各港を行き交う船乗り、さらに山に入る人々から得ていたといい、そうなるといまのマスコミのような側面もあったことになります。
もっとも、反面、捕縛・擬刎頭・流罪に遭ったということは世間一般からすれば思想犯、もっと悪い言い方をすれば前科者としてもとらえられるわけでしょうね。
これまた、藤川さんにお尋ねしますが、鎌倉時代には、既に流人に入れ墨をする定めは成立していたのでしょうか。あれは、江戸時代の話ですか。

そんないくつもの側面から日蓮という人となりを見ていかなければ実像に迫れないのでしょう。

なお、日蓮漫荼羅というのは、思う以上に筆継ぎされて図されているというのは、西尾師の指摘でした。何せ、長くのびた髭(光明点)は全部、後から書いたものであるというのには、わたしは正直吃驚しました。妙海寺大漫荼羅には指紋まで遺ると言いますから、これは現物を見ない限りわからないことはたくさんあるようです。わたしは光明点ばかりか、花押は一筆だと信じていたので、それも違ったのに驚いたものでした。
中尾師の宗宝調査書、修理報告書を目を皿のようにしてみたいものです。
何より、真筆漫荼羅を調査名目で手に取り、ルーペで拡大しながら、端から端まで見てみたいものです。

26大勇者:2005/06/25(土) 13:10:36
きゃからばあさん 犀角独歩さん

有難う御座います。

花押のモチーフの変化についてですが、後期の「ボロン」
http://www1.plala.or.jp/eiji/BONJI.htm  の56番にやはり似ていると思います。

前期の「バン」の16番はどうかというと、私としては、はてな?という感じなんですね。
どちらかというと、「オン」に近いのではと考えていたのです。「オン」の梵字は自分が資料を持ってない事もあり、なかなか探せなくてですね。どのような字体が何種類かあるのかも実は知りません。
http://www.asahi-net.or.jp/~HI3H-KJM/bonji.html  
(真言を代表する梵字で、この一字で全てを表し
この梵字を観想すれば彼岸へ到達できる。)の「オン」の方が似ていると思うのです。

そして、「ボロン」をタテに引き伸ばすと、「愛染」に・・・
「オン」を引き伸ばすと「不動」に・・・

そこで、彰往考来さんから第三画が下から上へ書かれていると聞いて、「おぉ、バンやウーンならば第三画は必要ないだろう」きっとこれは聖音オームだ。三身だ。三宝、いや三大秘宝だと妄想を爆発させて床に就いた次第です。恥ずかしながら(汗

冷静に考えてみると、やはり「愛染」は8番の「ウーン」をタテに伸ばしたものなのでしょうね。
失礼しました。

27大勇者:2005/06/25(土) 14:52:19
犀角独歩さん

陰陽師や僧侶しか知りえない秘密の情報技術は当時多々あったのでしょうね。
幕府は暦ひとつ作れなかったのでしょうから。(伊豆地方には三島暦があったらしいですが精度はわかりませんが)
宣明暦を計算する陰陽師を抱えていたからこそ朝廷は生き残れたのではないかとの説もあるようです。
情報や技術は身を守る為の大きな武器として秘密にするのは当然の事だったのだろうと想像します。

28犀角独歩:2005/06/26(日) 00:23:31

大勇者さん

結局のところ、蓮師のことは、まだほとんどわかっていない、これが研究者の共通認識なんですね。

先の松山師に至っては、世界でもこれほど、法華経を正確に訳せる人はいないと絶賛されながら、「わかっていないことがわかった」というのです。

小松師も、そんなことを仰った。高木師の書にしてもそうなんですね。

まあ、ここの掲示板で、一つでも解明できれば素晴らしいことであると思います。

何より、自分自身で発見できると、容易に人の言を鵜呑みにしない、権威構造で鵜呑みにしない習慣が身に付きます。

これからも有意義な議論を致しましょう。

29彰往考来(しょうおうこうらい):2005/06/27(月) 07:17:51

>22大勇者さん

第三画は五七番本尊の愛染に隙間があるため便宜上、設けたもので、通常は第二画と第三画は連続して書かれ区別されるものではありません。
また一尺との指摘は人間工学的な観点からの考えにすぎないものです。自分の位置を動かないで線を引くにはこの程度の長さが限界であるからです。移動すればもちろん書けます。
大判の御本尊を蓮祖はどのようにして書かれていたのでしょうね。平野雅章編『魯山人書論』(1996年、中公文庫)の口絵には魯山人が添え木をあてて揮毫している写真が納められています。
あるいはこのようなスタイルで書かれていたのではないかと思っています。

30彰往考来(しょうおうこうらい):2005/06/27(月) 07:20:04

>21犀角独歩さん

私は本物だと考えているのですが、詳細はオフ会ででも議論しましょう。
ちょっと時間がなくてまとめられなかったものですから。

31三学無縁:2005/06/28(火) 02:05:10
蓮師の曼荼羅の梵字に関しては真言宗でも定説がありませんね。
ましてや日蓮門下で確定した説はこれまでにないと思います。
であるとすれば視点を変えて考える必要があるかもしれません。
私は神道もしくは修験、陰陽道を視野に入れる必要性あるのではないかと考えています。
花押に関しては明確な転換点がありますが、両明王は基本的に変化していません。
問題は、本尊に終始二明王が記されていることではないでしょうか。
日蓮宗でも、このことについて論じられたものは明治以降10編前後、石山では皆無です。
本尊の意味もわからないものが唯受一人などといっても説得力は無く、戯言ではないかと言われても致し方ないのでしょうか。
石山、学会的には小笠原、佐藤、藤本師らの説論をスポイルしている限り、その教説はなんら意味をなさないのではないかと思います。
六老僧門下で神官が弟子にいたのは唯一人でした。
その門下で、その意味がなぜ石山には伝わっていないのでしょうか。
安国論が勘文であるならば、それは仏教僧の著作ではありえません。
私たちは、日蓮を全く理解してこなかったのではないでしょうか。

32れん:2005/06/28(火) 13:35:04
横レス失礼します。
私も、三学無縁さんのお言葉に賛同します。当時の比叡は今でいう総合大学ですから、仏典のみならず、陰陽道や修験、神道に関する書物も所蔵されていた筈で、修学の過程で、蓮師もそれを学び、のちに、自らの信仰体系や人生観に取り入れていったものや影響を受けたものも、必ずあるとおもいます。
また、興師の弟子の中に「新富士の神主」(弟子分帖)や、寂日坊日華師や式部房日妙師・大和房日性師・肥後房など神道の神主や修験出身の弟子が居たことも、決して見逃せない事実です。このなかとくに、修験と興師との関わりに考察を加えたものとしては、石山系では池田令道師が「富士門流の信仰と化儀」において、項目を立てて触れられている程度だと思います。
何れにせよ、三学無縁さんが仰る通り、仏教の側面だけから蓮師や興師の実像を描き出すのは不可能で、やはり、蓮師と当時の仏教外の思想や文化との関わりという点からも考察しなければならないと思います。その点皆様のさらなる議論の深化を仰ぐところです。

33きゃからばあ:2005/06/28(火) 19:18:17

『御本尊七箇相承』において、
「御判形の貌・一閻浮提のなりにて御座すなり、梵字は天竺・真は漢土・艸は日本・三国相応の表事なり。」
とありますが、この「御判形の貌」とは、御本尊全体の貌でしょうか?または花押のことでしょうか?
御本尊とすれば「梵字は天竺・真は漢土・艸は日本・三国相応の表事なり。」がわかりますが、もし花押であればどのような意味になるのでしょうか?
あくまでも私個人の推測ですが、私は花押と考えていました。
そして梵字とは薩達磨分陀利伽蘇多攬の薩であり、真は漢字であり、艸は草書体と考えています。
どうしても「ボロン」とは思えなかったのです。
もしろん初期の花押は「妙」の字と考えています。
皆さんの御意見を教えてください。
『御本尊七箇相承』の真偽は別として、古文書として正確な意味が知りたいのです。
よろしくお願いします。

34れん:2005/06/28(火) 19:58:35
きゃからばあさん。御本尊七箇相承のなかの「御判形の貌」とは私も花押のことと思っておりますが、詳細はわかりません。しかし、蓮師の花押や梵字について、保田の切紙の中に「御判之筆法写」(千葉県の歴史資料編中世3・247ページ)「御本尊梵字口決第二写」(同311ページ、但し保田の写本は途中で欠失しているが宮崎県史所収の定善寺文書所収の写本活字本により補えるが宮崎県史のものは全体的に誤読が目立つので注意が必要。また、この御判之筆法や梵字口決と同内容のものが本尊論資料520ページ所収の常門の本尊灌頂秘決に見える)「御本尊口決第三写」(同311ページ)があります。これらの切紙の出自ははっきりしてないので、はっきりいって文献としての価値は低いのですが、一応、富士門における伝承を窺う資料として、参考のためにお読みになることをお薦めします。

35れん:2005/06/28(火) 20:33:26
訂正です。
誤)しかし、蓮師の花押や梵字について、保田の
正)しかし、蓮師の花押や梵字について「御本尊七箇相承」に関連する文献として、保田の

蛇足ながら、すでに上記の文献についてお読みでしたら、出すぎたことを言ってしまい大変失礼しました。

36大勇者:2005/06/29(水) 00:51:01
>33 きゃからばあ さん
こんばんわ

もし花押が漢字だとしたら、後期の花押は「是」「日の下の人」ではないかと・・・
尤も自分のインスピレーションの部分が強いですが。

しかし、日興、日頂、日朗の花押を見て、もし何らかの相伝があったとするならば、漢字には思えないんです。
「3枚の花びら」のような「三つ円を大きい円で囲む」ラウンデルのような共通点あります。
左半分の文字が何なのかよりも、右半の方が何を表すのかが重要かも知れません。

37きゃからばあ:2005/06/29(水) 08:43:00

れんさんへ、貴重なご意見をありがとうございます。

>蓮師の花押や梵字について、保田の切紙の中に「御判之筆法写」(千葉県の歴史資料編中世3・247ページ)「御本尊梵字口決第二写」(同311ページ、…「御本尊口決第三写」(同311ページ)

れんさんが記載された書籍は、拝見したことがありません。もしよろしければ、どのようなことが書いてあるのか少し教えてください。

大勇者さんへ、貴重なご意見をありがとうございます。

>尤も自分のインスピレーションの部分が強いですが。

私も自分のインスピレーションとしてこのスレッドに書き込んでしまいました。何の根拠も無く、皆さんに怒られてしまうかもしれません。

>「3枚の花びら」のような「三つ円を大きい円で囲む」ラウンデルのような共通点あります。

一見すると蓮華座のようにも見えます。

38きゃからばあ:2005/06/29(水) 09:08:24

私が御本尊の花押に興味を持ったのは、初期のものに「日蓮」の名前と左右に分けて書かれているのが不思議だったからです。
それは中央の主題とあわせれば、まるでよくある釈迦三尊のように思え、名前と花押は主題の脇仏のように考えると、花押も単なるサインではなく、特別な意味があるような気がしていました。
後期には主題とまるで一直線のように並んでしまいます。(空白の関係でしょうか?少しずれているのも多少ありますが…)
そこで主題の「南無」が妙法蓮華経、日蓮、花押の三つにかぶさり、「南無妙法蓮華経」「南無日蓮」「南無花押」と思いました。
それは三身なのか、三宝なのか、それはわかりません。
結局、何の根拠もないのですから。
では、花押をなぜ「薩」と思ったのかといえば、開目抄の
『大経に云はく「薩とは具足の義に名づく」等云云。無依無得大乗四論玄義記に云はく「沙(さ)とは訳して六と云ふ。胡法(こほう)には六を以て具足の義と為すなり」等云云。吉蔵の疏に云はく「沙(さ)とは翻(ほん)じて具足と為す」等云云。天台の玄義の八に云はく「薩とは梵語(ぼんご)此(ここ)に妙と翻ずなり」等云云。付法蔵の第十三、真言・華厳・諸宗の元祖、本地は法雲自在王如来、迹に竜猛(りゅうみょう)菩薩、初地の大聖の大智度論千巻の肝心に云はく「薩とは六なり」等云云。妙法蓮華経と申すは漢語なり。月支には薩達磨分陀利伽蘇多攬(さつだるまぶんだりきゃそたらん)と申す。』
を参考にしたからです。
飛躍しすぎでしょうが、御本尊には「南無・薩達磨分陀利伽蘇多攬」という真言としての題目も表していたのではないでしょうか?

39顕正居士:2005/06/29(水) 12:04:03
>>33

花押の簡単な説明があります。

http://www.tabiken.com/history/doc/D/D068R200.HTM

書き判、判形ともいう。鎌倉時代頃からは別に署名し、その下などに書くようになった。
「御判形の貌」は「日蓮判」のことで、花押は梵字を草書、日蓮は漢字(真名)の意味でしょう。

40きゃからばあ:2005/06/29(水) 16:12:22

顕正居士さん、こんにちは。

>花押は梵字を草書、

やはりこの梵字は「バン」とか「ボロン」と思われますか?
それとも他の梵字でしょうか?

41顕正居士:2005/06/29(水) 18:18:12
バンとボロンに比較的はっきりと見える場合はあります。

ボロンだという説は古くからありました。

御判形事(日朝口伝)

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049288&VOL_NUM=00000&KOMA=23&ITYPE=0

42れん:2005/06/29(水) 22:05:06
きゃからばあさん。私が先に挙げた切り紙古文書は「千葉県の歴史」「宮崎県史」に収められており、おそらく市立・県立クラスの図書館で閲覧可能ですので、私は梵字の知識が無いので、お読みになった上で、御賢察をご披瀝戴ければ幸いです。
さて「御判之筆法」では蓮師の花押に使われている梵字について解説しています。御本尊梵字口決では曼陀羅に使われる不動・愛染の意義を解説し、その筆順を示し、次に判形の意義を明かして最後にボロン字についての意義を明かします。
なお、これらの古文書は奥書によるかぎりすべて保田の日要師から伝授がはじまっており、その意味では、日要師が生きた1400年代後半から1500年代初め以前には遡れないもので、所謂、当時の富士ないし保田における解釈を示したものであって、1200年代を生きた蓮師と直接の関係は認められないのは言うまでもないので、あくまで後世の門下による解釈の一例としてご参考にして戴ければ幸甚です。

43きゃからばあ:2005/06/30(木) 08:21:53

顕正居士さんへ。
サイトをご紹介頂き、ありがとうございました。
今後も、このサイトを参考に学んでいきたいと思います。

れんさんへ。
「御判之筆法」は、どこで拝見できるでしょうか?
よろしくお願いします。

44きゃからばあ:2005/06/30(木) 08:27:48

れんさんへ。
「御判之筆法」は、千葉県の歴史資料編中世3・247ページとご紹介されていました。
心からお詫びいたします。

45彰往考来(しょうおうこうらい):2005/07/01(金) 07:26:53


横レス失礼します。
34でれんさんが紹介されている下記資料は所蔵していましたので、該当箇所のコピーを2日のオフ会に持参する所存です。
興味のある方は、オフ会でご覧になってください。

① 千葉県の歴史 資料編中世3(県内文書2)(平成13年、千葉県)
② 宮崎県史 史料編 中世1(平成2年、宮崎県)
③ 本尊論資料(昭和53年新訂複製版(明治42年初版)、臨川書店)

彰往考来

46彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/11(木) 16:14:04

日向師の御本尊について

素朴な疑問のスレッド2588で日向師の御本尊について触れましたのでここで紹介しておきます。
管見に入った日向師の御本尊写真は下記2点です。
①建治2年8月26日 静岡感応寺蔵
②永仁4年6月2日  京都本伝寺蔵
このうち①は身延山短期大学出版部編『身延山久遠寺蔵版『本尊論資料』新訂版』(昭和53年新訂複製版)に、②は宮崎英修監修『日蓮聖人門下歴代 大曼荼羅本尊集成』(昭和61年、大塚工藝社)に入集しています。
①は首題の周りを各諸尊が泳ぐように円を描いて勧請されているという珍しい御本尊です。『本尊論資料』の目次10頁に、「藻原門流祖民部阿闍梨日向上人真筆本尊・・・建治二年八月廿六日 授興之日辨日秀日禅頼圓蓮海等者也」とあり静岡感應寺寶蔵ということです。すでに上記スレッド2588でご指摘申し上げましたがこの御本尊は偽筆でしょう。この御本尊の首題の下に日向花押とあり、常師、朗師など日興門流以外の諸師の御本尊と同じ書き方です。蓮祖在世中に日向師が首題の下にご自身の花押を認めた御本尊を図顕するとは考えられず後世の偽筆と判断しました。日向師の花押は『妙宗先哲本尊鑑 巻之二』(明治17年、村上勘兵衛)の「六老僧御判類聚之部」に日向師の六種類の花押が紹介されていますが、当該御本尊の花押はそのどれとも一致しません。

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049307&VOL_NUM=00002&KOMA=36&ITYPE=0&L=0

この感應寺の御本尊は堀慈琳(堀日亨師が日号を名のる前)師の『熱原法難史』(大正13年、雪山書房、107頁)に「感應寺に日向が熱原の五人即ち日辨日秀日禅頼圓蓮海に受興した本尊を近古入山瀬(いりやませ)辺から発見したと云い伝えておる。これは先方ですら真偽未決のもので到底批評に値せぬ」(引用者注:現代かな使いに改めました)と記述されているものです。
『日蓮宗寺院大鑑』(昭和56年、池上本門寺、511頁)によれば感応寺はかつては感応山竜泉寺と称し、貞観年間に建立された台密系の道場で、建治2年8月に日向師により日蓮宗となったということです。当該御本尊に授興之日辨日秀日禅頼圓蓮海等者也とあることから、どうも熱原法難にかこつけて寺伝とともに偽作されたのではないかと推測しています。

②は首題の下に日蓮聖人 在御判とあり、日興門流の御本尊と同じ書き方で諸尊の配座、賛文なども『日興上人御本尊集』のNo.40やNo.58などと同じです。②には“佛滅度後二千二百三十余年”と書かれています。極めて日興上人の御本尊と近いと言ってよいでしょう。但し、南無天台大師(②)と南無天台智者大師(No.40, 58)など細かい点で表現が異なる箇所はあります。また『日興上人御本尊集』では日蓮聖人と認められたものは初期の3幅(No.4,7,8)だけで、この3幅とは諸尊の配座が異なる上に、この3幅で在御判とあるものはない(No.7のみ御判とある)など詳細にみると完全に一致する日興上人の御本尊は見あたりませんでした。以上のことから、②は初期の日興上人の御本尊(特定できず曾存か)を写したものではないかと考えています。“日蓮聖人”とあることから初期の日興上人御本尊を書写されたのでしょう。日向師は「弘安8年身延山へ登り、日興上人の元に学頭として活躍」(『日興上人身延離山史』(昭和52年4版(初版昭和36年)、富士学林研究科、70頁)していたことから身延時代に日興師から御本尊を授与され、それを基に書写した可能性もあるのではないかと考えます。

by 彰往考来(しょうおうこうらい)

47独学徒:2005/08/13(土) 19:06:17

彰往考来さん

次回お会いできる時には、要山称徳曼荼羅のコピーを再び持参します。
偽筆であることは疑いありませんが、是非とも彰往考来さんには見ていただきたいです。
この偽筆曼荼羅に込められた、当時の思惑に興味があります。

また5月のオフ会後に、私も何時か研究発表をしたいと書かせていただきましたが、実はその研究発表の題材に考えていたのは、このスレッドにて彰往考来さんが取り上げられました向師曼荼羅②についてです。

こちらもお会いする機会がございましたら、是非ご教示願いたいと思います。

48彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/15(月) 09:37:51

>47 独学徒さん

そうですか。向師漫荼羅②ですか。
私もちょっとこの漫荼羅には興味があります。
貴殿の研究内容をぜひ次回にでも発表ください。

49独学徒:2005/09/01(木) 13:49:23

>お薦めスレッド 307

彰往考来さん今日は、スレッドをこちらに移させていただきました。

山中師・片岡師が御本尊集目録にて、「・・・日載授与の本尊は、当御本尊を模写したもののようである。」と記したことに興味があり、今回閲覧・複写を行ったのですが、家に戻り82曼荼羅と比較してみて、まず花押の鍵の部分から引っかかってしまい、どうもうなずけませんでした。
籠抜きと違い、模写をもって原図を判断できたということは、なにか諸尊座配などに特徴でもあるのでしょうか。

話は変わりますが、片岡師の「御門下御本尊集」に掲載された、先の向師漫荼羅②の隣に載っています、藻原寺所蔵の向師筆本尊座配図ですが、向師漫荼羅②とは向師の花押が全く異なると思います。
向師漫荼羅②の花押は、日興上人の花押に似ており、通常の日向師の花押とは明らかに異なります。
私は向師漫荼羅②の「日向」と見える自署部分の「向」の字は、「興」の一部分が欠損し「向」と見えているだけで、実際には「向師漫荼羅②」は、日興上人の御筆によるものではないかと思うのですが、この点いかがでしょうか。

50彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/01(木) 15:29:33

>49 独学徒さん

>日載授与の本尊
これは、諸尊を解析してみようと思います。追って要旨を投稿します。詳細はオフ会でお話しすることになるでしょう。

>藻原寺所蔵の向師筆本尊座配図
再度、国会図書館でのコピーを引っ張り出して検討してみます。ちょっと時間をください。

彰往考来

51彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/02(金) 07:27:43

>49 独学徒さん

永仁4年6月の日向師の御本尊(以下、本御本尊と略します)について、とりあえず私見を述べます。本御本尊は興師の御本尊ではないかという貴殿の指摘は傾聴に値するものがありますが小生は違う考えを持ちます。詳細に調査すれば色々出てくるでしょうが、興師の御本尊とするならば例えば下記疑問点があります。

(1)“大”字
大毘沙門天などの大字が異なります。本御本尊は“大”字の第2画(右上から左下に延びる線)が第3画(左上から右下に延びる線)より短いですが、興師御本尊では通常逆です。
(2)不動点
『興風 第11号』(平成9年、興風談所)の348頁に菅原関道師が指摘していますが、本御本尊では向かって右の不動明玉の不動点が「大持国天玉」の右に打たれています。蓮祖、興師とも「大持国天玉」の左です。
(3)愛染明玉
本御本尊は書き方が興師御本尊と異なります。

では、向師に授与された蓮祖の御本尊(第61番本尊)と本御本尊を比較するとどうでしょうか。やはり疑問点があります。主だったものは、
(A)四天玉
本御本尊は“大増長天玉”と“大廣目天玉”であるのに対して、第61番本尊は“大毘楼博叉天玉” と“大毘楼勒叉天玉”になっています。
(B)先師
本御本尊は“南無天親菩薩”と“南無竜樹菩薩”の勧請があるのに対して、第61番本尊はありません。

この(1)〜(3)と(A)及び(B)の疑問は本御本尊が興師御本尊の書写であると考えると氷解します。興師御本尊は“大増長天玉”と“大廣目天玉”であるものが多く、“南無天親菩薩”と“南無竜樹菩薩”の勧請があるものが多いからです。
特に“南無天親菩薩”は決定的ともいえ、蓮祖御本尊では53番と54番しかみられず、諸尊解析から興師御本尊は53番もしくは54番の書写である可能性が高いからです。従って、本御本尊は61番よりは53番もしくは54番の相貌に近いといえます。但し、“提婆達多”は異なります。蓮祖御本尊の53番と54番には“提婆達多”の勧請はみられないのです。53番と54番は弘安元年8月の御図顕であり、“提婆達多”は弘安期では弘安2年2月以後に現れます。61番は弘安2年4月の御図顕ですから“提婆達多”が見られます。
興師御本尊で“南無天親菩薩”が見られる御本尊では、初出の正応3(1290)年から乾元2(1303)年までは“提婆達多”の勧請はみられず、嘉元元(1303)年以後は若干の例外を除き“提婆達多”の勧請が見られます。このことから興師御本尊のうち“南無天親菩薩”が見られる御本尊で永仁4(1296)年のものがあるとするなら、(『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所)には該当御本尊はありません)“提婆達多”の勧請はみられないはずなのです。しかしながら、本御本尊では“提婆達多”の勧請がみられることから、本御本尊を興師の御本尊とするには重大な疑問点があります。

52彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/02(金) 07:28:16

51の続きです。

この点は本御本尊が興師御本尊の向師による書写であると考えても疑問ではあります。永仁4(1296)年以前の興師御本尊が書写対象になるわけですから、嘉元元(1303)年以後の興師御本尊に“提婆達多”の勧請がみられることは、本本尊とは関係ないからです。
本御本尊に“提婆達多”の勧請がみられる理由はわかりませんが、興師御本尊でも、“南無天親菩薩”が見られない型式の御本尊では、永仁4(1296)年以前の御本尊でも“提婆達多”の勧請がみられますし、上記のとおり、第61番本尊には“提婆達多”の勧請がみられますので、向師が書写の際に“提婆達多”を書き加えられたのではないかと推測しています。

もうひとつの重大な点は本御本尊に“日蓮聖人 在御判”とあることです。『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所)では日蓮聖人と認められたものは初期の3幅(No.4,7,8)だけですから、もし、本御本尊が興師御本尊を向師が書写したものであるとするなら、ごく初期の興師御本尊であった可能性が大です。

さて、向師の花押です。向師の花押は『妙宗先哲本尊鑑 巻之二』(明治17年、村上勘兵衛)の「六老僧御判類聚之部」に六種類の花押が紹介されています。

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049307&VOL_NUM=00002&KOMA=36&ITYPE=0&L=0

『妙宗先哲本尊鑑 巻之二』は臨写ですので注意が必要ですが、この資料から解かるように日向師は実に色々な型式の花押を使っていたということと、確実な資料が少ないということから正確な判断は困難ですが、敢えて愚論を述べます。

確かに『御門下御本尊集』(昭和56年改修(初版昭和32年)、立正安国会)に入集している本御本尊の写真(サイズ:12.7x6.4cm)では写真が小さくて不鮮明なために“興”か“向”か判別は苦しいです。また山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林)の198頁にある永仁4年10月の“興”字は他の時期と比べ“向”に似ているのでなおさらです。しかしながら、『日蓮聖人門下歴代 大漫荼羅本尊集成』(昭和61年、大塚工藝社)に入集している同本尊の大判御本尊写真(サイズ:36.4x18.3cm)では、明らかに“向”と読めます。日興上人の“興”字は永仁4年10月の“興”字を含め最初の第1画と第2画が“く”のようになっていて比較的なだらかで角張っていないのに対して、本御本尊では明確に“「”のように角があります。『妙宗先哲本尊鑑 巻之二』の臨写花押で判断する限り第1画と第2画に角があるのは向師の特徴といえるでしょう。花押も日興上人のものとはみえず、上記6種類の向師花押のうちではどちらかといえば右の一番下のものに書き方が近い気がします。同じ形ではないのですが。

以上のことから本御本尊は向師の書写によるもので、初期の興師御本尊がベースになっていると考えています。

by 彰往考来

53独学徒:2005/09/02(金) 12:27:47

彰往考来さん、詳細に有難うございます。

お会いしました際には、種々の資料を付け合せながら、またご教示を賜りたく存じます。

54パンナコッタ:2005/09/04(日) 00:23:48
彰往考来さん、独学徒さん、
議題に上がっている物とは直接関係ないのですが、蓮祖及び門下が間接的に影響をうけたかもしれない
法華曼陀羅や星曼陀羅は、なにか参考になるかと思います。
 http://www.ermjp.com/bukyou/manda/mikyo/mikyo5.html

55独学徒:2005/09/04(日) 19:20:28

>54 パンナコッタさん、

有難う御座います。
未だ密教関連まで研鑽の手が伸びていませんが、私もいずれ密教や大乗非仏説も研鑽していきたいと思っています。
今後ともよろしくお願い致します。

56パンナコッタ:2005/09/04(日) 19:43:16
独学徒さん、こちらこそよろしくおねがいします。

以前、絹本の本尊について独歩さんが指摘していましたが、諸尊配置を含めてこの手の
密教曼陀羅は何らかの影響があると思いましたので参考としてupさせていただきました。

57彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/08(木) 07:45:04

>49 独学徒さん

>日載授与の本尊

まず、この関係資料を整理してみましょう。

山中喜八氏編著の『御本尊集目録』(昭和56年訂補3版(初版は昭和27年、訂補4版は平成2年、訂補5版は平成6年)、立正安国会、121頁)に第82番本尊の記載があり、(備考)(2)に 「「御本尊寫眞鑑」巻之一に収載してある弘安三年三月 沙弥日載授与之本尊は、當御本尊を模寫したもののようである」 との記載があります。

『御本尊集目録』には引用文献の解説はありませんので、「御本尊寫眞鑑」巻之一がどういう資料をさすのか『御本尊集目録』からはわからないのですが、幸いにも同氏の「日蓮聖人曼荼羅図集」(『大崎学報 第102号』(昭和29年、立正大学仏教学会)収録)の97頁序説に「稲田海素先生の謹集せられたる『御本尊写真鑑巻一』(大正元年十二月、須原屋書店刊)」とあることから資料が特定できます。同98頁に「『御本尊写真鑑巻一』は、京洛の諸山に蔵する御真筆御本尊十五幅、正中山旧蔵の御本尊模本一幅と、御直弟等諸聖の御本尊十四幅を収めたもので、その聖筆御本尊の大多数は『御本尊集』に輯録されているから、未輯録の一幅と中山旧蔵の模本のみを本書に拠った次第である」とあります。なお『大崎学報 第102号』に収録された「日蓮聖人曼荼羅図集」と同じ序説が『山中喜八著作選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』(平成4年、雄山閣出版)の5頁に採録されています。

さて、その『御本尊写真鑑巻一』(大正元年十二月、須原屋書店刊)です。国立国会図書館にて閲覧・複写できる同書は、稲田海素編『御本尊寫眞帖 全』(大正元年十二月、須原屋書店刊)で書籍名が異なります。手元にある国会図書館のコピーから内容をみると、京洛の諸山に蔵する御真筆御本尊十五幅、正中山旧蔵の御本尊模本一幅と、御直弟等諸聖の御本尊十三幅であり、御直弟等諸聖の御本尊数に差があります。『御本尊寫眞帖 全』では頂妙寺蔵の「小寶塔」(これは中山法華経寺にあったものの写)が入集していてこれを数えると十四幅ですから一致するといってよいでしょう。編者、発行年、出版社も一致しますから山中氏のいう『御本尊写真鑑巻一』とは『御本尊寫眞帖 全』と判断されます。

この『御本尊寫眞帖 全』に日載授与の本尊が入集しています。諸尊の勧請は第82番本尊と一致します。配置も同じです。ただ、独学徒さんがご指摘されているように花押の書き方が違います。花押が弱い。力がない。逆にこのことから、当該本尊が相剥本ではないことが解かります。諸尊の勧請が第82番本尊と一致し、配置も同じであることから、山中氏は模写と判断されたものと考えます。「模寫したもののようである」という表現は模写と思うが断定はできないという立場をとられたものと推察します。

独学徒さんは、スレッド49で、
>家に戻り82曼荼羅と比較してみて、まず花押の鍵の部分から引っかかってしまい、どうもうなずけませんでした
とされていますが、模写であればこんなものです。むしろよいほうです。実際この掲示板でも投稿されていたと記憶しますが、『妙宗先哲本尊鑑 巻之二』(明治17年、村上勘兵衛)や『御本尊鑑 遠沾院日亨上人』(昭和45年、身延山久遠寺)などに入集している模写御本尊を現存する原本の御本尊と比較すると相当差があります。

58彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/08(木) 07:45:38

57の続きです。

山中喜八氏の御本尊鑑定は松本佐一郎氏によると、「山中氏は専ら墨色筆勢字画等を以てされるから、その点最も信頼がおける。同氏の言によると墨色が無く筆勢のつかみ難い板曼荼羅は責任のある判断はできない」(松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』(昭和54年復刻第一刷(初版昭和43年)、大成出版社、206頁))ということです。すなわち教学視を用いず専ら筆跡にて判断するという方法です。100%ではありませんがこの方法が一番間違い難い方法であると思います。もちろん筆跡は年代により変化しますので、確かな各年代での基準を用いた判断は必要です。

山中氏の資料のうち、第82番本尊のように御本尊の幅尺が不明のものがあります。これは同氏が現物を当たらず写真にて判断したことを示していると考えます。少なくとも実地調査をして現物にあたったなら寸法測定はイロハであるからです。ど素人の私でも寸法は測定いたします。
現物寸法をあたらなかったと考えられる例をあげましょう。82番、111番、116番本尊です。いずれも富士大石寺蔵(目録では所蔵不明)で幅尺は不詳です。もちろん大石寺の秘密主義では当時山中氏に石山所蔵の御本尊を開示したとは考えられず、この写真は正式なルートによるものではないと思われます。山中喜八氏の「片岡随喜居士の御真蹟蒐集について」(『山中喜八著作選集Ⅱ 日蓮聖人真蹟の世界 下』(平成5年、雄山閣出版))には片岡随喜氏の真蹟写真撮影の記録が記載されていますが、富士大石寺へいったという記録はありません。日興門流では昭和四年の項に「二月二十三日〜二十八日 北山本門寺・西山本門寺・妙蓮寺等(一六七枚)」とあり、このときに御本尊写真をみられ写真の写真を撮影されたのか、大石寺へいって無許可ながら(あるいは黙認され)遠くから撮影したのかどちらかでしょう。恐らく写真が持ち込まれ撮影されたのではないかと推測しています。目録で所蔵不明とあるのは情報提供者への配慮であると考えます。昭和52年に法蔵館から発行された『日蓮聖人真蹟集成 第十巻 本尊集』のB4サイズの大判御本尊写真では、ピントが他の御本尊写真と比べ若干ぼけています。これは写真を原本にして再度写真撮影したため、もしくは遠くからの撮影と考えれば合点がいきます。コピーのコピーは原本より画質が落ちるのと同じ原理です。このピントのズレは立正安国会発行のB5サイズの御本尊写真(『日蓮聖人御真蹟 御本尊集』(昭和56年再版、立正安国会など)では写真が小さいために解かりません。大判御本尊写真で判断する必要があります。

59彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/08(木) 07:46:30

58の続きです。

『御本尊寫眞帖 全』に記載された日載授与の本尊の解説は「大聖人御年五十九弘安参年庚辰参月身延山ニ於テ書シテ沙彌日載に授興シ給タル御眞蹟ニシテ京都本宗本山本法寺ノ霊寳ナリ」とあります。それに対して第82番本尊は、『御本尊集目録』によれば御授興、幅尺、所蔵とも不明で、(備考)の(1)に「右隅に授興書の存したのを、載落した形跡がある」とあります。上記(備考)の(2)の記載と併せて考えますと、『御本尊寫眞帖 全』に記載された日載授与の御本尊は授興者も模写された可能性があり、82番本尊は沙弥日載に授与された御本尊ではないかと考えることもできます。山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林、151,154頁)によれば82番本尊は富士大石寺蔵とのことで「紫宸殿御本尊」と通称されている御本尊が該当します。参考までに「紫宸殿御本尊」の寸法は丈95.5センチ、幅50.5センチ(『日蓮正宗大石寺』昭和45年、東西哲学書院、88頁)です。もし82番本尊が沙弥日載に授与された御本尊であったとするなら、個人に与えられた御本尊であって「紫宸殿御本尊」であるとはいい難いということになります。仮に日載授与の御本尊と「紫宸殿御本尊」はそれぞれ別の御本尊で同一日に図顕されたので諸尊の勧請が一致したのにすぎないとするなら、個人に授与された御本尊と同じ相貌の、恐らくは三枚継ぎで寸法も同じ、御本尊を「紫宸殿御本尊」として御図顕されるでしょうか? 私は疑義をもっています。 

沙弥日載とはどういう人なのか、なぜ石山で「紫宸殿御本尊」として珍重されて板本尊まである御本尊の模本が京都本法寺にあるのか、疑問はつきません。

また 「『御本尊写真鑑巻一』は、・・・なお、その聖筆御本尊の大多数は『御本尊集』に輯録されているから、未輯録の一幅」 とある未輯録の一幅は第28番本尊と同型で『御本尊集目録』には入集していません。やはり模本と判断されているのでしょう。これも京都本法寺蔵です。どのような経緯でこれらの本尊が本法寺に流入したのかよく解かりませんが興味深いです。

60彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/08(木) 07:47:06

59の続きです。

『御本尊寫眞帖 全』収録蓮祖御本尊一覧(『御本尊集目録』の本尊番号を併記)を掲げておきます。

(1)文永8年10月10日 京都立本寺蔵 ・・・第1番本尊
(2)建治元年12月    京都妙顕寺蔵 ・・・第28番本尊
(3)年代未詳 建治年代? 京都本法寺蔵 ・・・未収録(28番と同型) 注1)
(4)建治2年卯月     京都本圀寺蔵 ・・・第34番本尊
(5)弘安元年4月21日  京都立本寺蔵 ・・・第48番本尊 注2)
(6)弘安元年7月5日   京都頂妙寺蔵 ・・・第50番本尊
(7)弘安2年6月     京都頂妙寺蔵 ・・・未収録 日等模本 注3)
(8)弘安2年6月     京都本圀寺蔵 ・・・未収録 日顕法師授与 注4)
(9)弘安3年2月     京都妙覚寺蔵 ・・・第73番本尊
(10)弘安3年2月     京都妙覚寺蔵 ・・・第76番本尊
(11)弘安3年3月     京都本法寺蔵 ・・・未収録 沙弥日載授与 注5)
(12)弘安3年卯月     京都妙顕寺蔵 ・・・第89番本尊
(13)弘安3年6月     京都本法寺蔵 ・・・第95番本尊
(14)弘安3年9月     京都妙覚寺蔵 ・・・第55番本尊 注6)
(15)弘安5年卯月     京都本隆寺蔵 ・・・第120番本尊

注1)『山中喜八著作選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』(平成4年、雄山閣出版)268頁記載
注2)『御本尊寫眞帖 全』では京都本法寺蔵
注3)寺尾英智『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』(平成9年、雄山閣出版)84頁記載
注4)『御本尊集目録』の第63番本尊の注記(3):日顕法師授与の御本尊は第63番本尊の摸写と考えられる(要旨)
注5)『御本尊集目録』の第82番本尊の注記(3):日顕法師授与の御本尊は第82番本尊を摸写したもののようである(要旨)
注6)『御本尊集目録』の第55番は御顕示年未詳。
『山中喜八著作選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』202頁:弘安元年9月頃の図顕と拝すべきである

こうしてみると『御本尊集目録』で摸本とされた(8)と(11)以外は『山中喜八著作選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』と『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』で御本尊写真が確認できます。

61独学徒:2005/09/08(木) 20:48:29

彰往考来さん、詳細なご教示を有難う御座います。

本法寺といえば、単純に日親上人を思い浮かべます。
日親上人の時代は、大石寺は日有上人だと思いますが、日有上人といえば紫宸殿御本尊の彫刻が思い浮かびます。

何か関係があったのでしょうか。

62れん:2005/09/09(金) 00:28:04
横レス失礼致します。
私も石山蔵弘安三年三月日蓮師筆大曼陀羅に関する彰徃考来さんのご投稿を興味深く拝読致しました。
興風談所の大黒喜道師編「日興門流上代事典」の日尊師の項の記事によりますと『暦応三年(一三四0)6八月には弘安三年三月の宗祖本尊(通称・紫宸殿本尊)を模刻して脇書(【要】八・二一0)に「上行日尊之を彫刻す」と記し』とあり、この記事が正確ならばという前提での話ですが、大夫日尊師が石蔵の弘安三年三月日の蓮師筆大曼陀羅の籠抜きか臨書による模写本を所持しており、それをもとに板本尊を造立したものと思われます。つまり石蔵の弘安三年三月日の大曼陀羅の模写本が大夫日尊師により京都にもたらされており、本法寺のそれは、何時の時代かは分からないものの尊門から流出したものが施入されたのではないかと推測できます。本法寺蔵本の脇書に見られる「沙弥日載」は彰徃考来さんのご指摘の如く石蔵弘安三年三月日の蓮師筆大曼陀羅の授与者である可能性は高いと思います。一例を挙げれば御本尊集第三九番の蓮師筆曼陀羅の脇書は削損されておりますが、三九番の模写である北山本門寺蔵模本ならびに日向定善寺蔵の模本に「亀弥護也」とあることにより原本から削除された授与書が明らかになります。このように、原本の授与書が削損されていても、模本により復元できる例もありますので、私も本法寺模本にある「沙弥日載」が石蔵の原本・弘安三年三月日蓮師図顕大曼陀羅の本来の授与者である可能性は非常に高いと思います。

63彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/10(土) 19:44:26

>62 れんさん

レスありがとうございます。

>何時の時代かは分からないものの尊門から流出したものが施入されたのではないか

なるほど、尊門からの流出の可能性ありと。確かに可能性ありますね。
非常に参考になりました。今後ともよろしくご教示願います。

64彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/26(月) 12:32:13

「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」でスレッド1398〜1400に山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林)に誤記がかなりある旨のご指摘をいたしました。しかしながら同書は資料として極めて有益と考えますので誤解のないようにお願いいたします。
同書の名誉回復(?)を兼ねて154〜155頁に記載の大石寺及び末寺蔵蓮祖御本尊の記載を引用し、『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』(昭和53年、創価学会)などの記載内容と照らし合わせて考察します。
以下、『日蓮正宗史の基礎的研究』を「基礎的研究」、『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』を「富要集八巻」と略します。

「基礎的研究」154頁には8幅の富士大石寺蔵蓮祖御本尊を記載していますので以下年号脇書等その内容を引用します。なお便宜上、(1)〜(8)の数字を振りました。
************************************
二、大聖人御本尊現存目録 (安国会目録外・要集等)

    年号脇書等                     備考
(1)建治元年太歳乙亥十一月日              要八−一七七
(2)建治二年太歳丙子八月十三日             同
(3)弘安二年太歳己卯十一月日 俗日増授与之 可為   
本門寺重宝(開山筆)   同
(4)弘安三年太歳庚辰二月日               同一七八
(5)弘安三年太歳庚辰三月日(安国八二)         同
(6)弘安三年太歳庚辰卯月日 比丘日禅授与之       同
(7)弘安四年太歳辛巳九月日 俗守常授与之       
                   (安国一一一)   西三
(8)弘安四年太歳辛巳十二月日 優婆塞一妙授与(安国一一六)
遠江サガラノ小尼給本尊也(開山筆)         東四
*************************************
ここで、驚きであったのは、(4)(7)(8)がそれぞれ立正安国会の『御本尊集目録』の第82番、第111番、第116番本尊に該当するということが初めて「基礎的研究」で明かされたことです。
今まで未公開とされていた石山の御本尊が三幅も公開されていました。しかも第82番本尊が“紫宸殿の御本尊”であったことは意外というほかありませんでした。この3幅は『御本尊集目録』によれば所蔵は行方不明でしたし寸法も未詳でした。富士大石寺蔵であったがために所蔵元など明らかにできずこのような記載になっていたのでしょう。立正安国会蔵版の写真は恐らくは現物を撮影したものではなく御本尊写真を再度撮影したものと考えます。なぜなら、『日蓮聖人真蹟集成 第十巻』(昭和52年、法蔵館)にあるB4サイズの大判御本尊写真で確認すると、この3幅は少しピントがボケているのです。このことと寸法が不詳であることと考えあわせると誰かが御本尊写真を立正安国会に開示し、会のほうで御本尊写真を再度撮影したものと推測します。写真の写真(複写)は画質が落ちるというわけです。

65彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/26(月) 12:35:04

64の続きです。

(6)の弘安三年太歳庚辰卯月日が弘安三年太歳庚辰五月九日の誤記であると考えるのは「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」のスレッド1398〜1400に記したとおりです。
また(8)について“優婆塞一妙”とありますが『御本尊集目録』では“優婆夷一妙”となっています。“一妙”は女性の在家信者と考えられますから“優婆夷”が正しいと判断されます。“優婆塞一妙”は“優婆夷一妙”の誤記でしょう。

上記内容から(1)〜(6)が「富要集八巻」から引用されていることが解かります。それに対して(7)、(8)は「富要集八巻」には入集していません。引用資料の“西三”、“東四”はどういう資料の略であるのかよくわかりません。この2幅が「富要集八巻」の編纂後に大石寺へ奉納されたということもないようなので実に不可思議なことなのです。このうち(8)については、堀日亨師の『富士日興上人詳伝』(昭和38年、創価学会、786頁)に「本山にある優婆塞一妙の御本尊(中略)富士宗学要集に脱漏した」とあるので「富要集八巻」に脱漏していることを堀師が認めています。『富士日興上人詳伝』の記載で“優婆夷一妙”ではなく“優婆塞一妙”とあることから、「基礎的研究」の誤記はその基となる資料に誤記がありそのまま転記された可能性があります。あながち山口師だけのミスとは言い切れないわけです。ただ『日蓮正宗 大石寺』(昭和45年、東西哲学書院、91頁)には“優婆夷一妙”と明記されています。つまり昭和45年の段階で集成されてその存在が公開されているわけで『御本尊集目録』の記載と併せると「基礎的研究」では“優婆夷一妙”とすべきであったと思います。まあ校正ミスといえるでしょう。
資料が見あたりませんでしたが(7)も「富要集八巻」に脱漏した可能性があります。

そうすると、なぜ(4)(7)(8)がそれぞれ立正安国会の『御本尊集目録』の第82番、第111番、第116番本尊になったのでしょうか? いいかえれば誰が写真を立正安国会に提供したのでしょうか?もちろんそのものズバリである資料はありません。ただ状況証拠を積み重ねると、堀日亨師が立正安国会に開示したのではないかと思える節があります。
御本尊写真を立正安国会に開示するのであれば下記用件を満足していることが必要でしょう。
(一)管長級の権限があること
(二)御本尊写真を持っているか撮影できること
(三)立正安国会の写真撮影時に接触があること

この3つに条件に堀日亨師は合致するのです。

66彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/26(月) 12:36:35

65の続きです。

いうまでもなく大正15年〜昭和3年まで堀日亨師は日蓮正宗の第59世法主でした。また、立正安国会の片岡随喜氏らによる御本尊写真撮影は「片岡随喜居士の御真蹟蒐集について」(『山中喜八著作選集Ⅱ 日蓮聖人真蹟の世界 下』平成5年、雄山閣出版、150頁)によると、昭和3年〜昭和9年に実施され、昭和4年2月23日〜28日に北山本門寺・西山本門寺・妙蓮寺等で撮影されていますが、堀日亨師の『富士日興上人詳伝』によれば、「先年上総国東金にある祖書鑚仰会の片岡清助氏が大挙撮影の時に北山にて予も参列した」(同書、613頁)とあるように、このときの北山本門寺での撮影に堀日亨師は参加されているのです。さらに堀日亨師が御本尊写真を持っていたことは周知の事実です。堀日亨師の編纂による『富士宗學要集 史料類聚別巻』(昭和17年、雪山書房)には、13幅の御本尊写真が入集していますし、『大白蓮華第66号(昭和31年11月号)』に記載された「堀上人に富士宗門史を聞く(一)」(『堀 日亨上人 富士宗門史 増補版』平成15年、日亨上人崇敬会、99頁)に「わしの紫宸殿の御本尊は立派じや。寫真からとつたんじやから。すつかり、そのままです。寫真からとつて、それを引き延してやつたんですから御正筆と少しも變らないです」(引用者注:“や”と“つ”を小文字(じゃ, とっ)で記さないのは原文のママ)とあるように、少なくとも(4)の紫宸殿の御本尊(=第82番本尊)は写真撮影されています。従って(7)、(8)についても堀日亨師が写真を所有していても不思議はないのです。

では(7)、(8)がなぜ「富要集八巻」に脱漏したのでしょうか。今となっては推理たくましく考えるしかありませんが、私は昭和4年の北山本門寺での撮影の際に堀師が(4)、(7)、(8)の写真を見せたところ立正安国会の撮影するところとなったため、写真が流出した事実を隠匿するために(7)、(8)についてその当時編纂していた『富士宗學要集 第七 史料類聚』(昭和14年、雪山書房)にあえて記載しなかったのではないかと考えています。『御本尊集』出版にあたって堀師は立正安国会に所蔵が大石寺であることを秘匿させたのではないかと思われます。(4)は紫宸殿の御本尊のためあまりにも有名なので『富士宗學要集 第七 史料類聚』に入集させざるを得なかったのではないかと考えます。なお、要集の「漫荼羅脇書等」の記載内容は同じです。但し新版は旧版の旧字を当用漢字に改めてあります

「基礎的研究」には蓮祖の御本尊が8幅記載されています。日蓮正宗の日顕管長が「現在、大聖人様の御真筆御本尊様は、御戒壇様は別にして、大石寺に紙幅の御本尊様が八幅あります」(平成4年9月21日 法観寺寺号公称・落慶入仏法要の砌 御法主日顕上人猊下御説法 日女御前御返事(1):『大日蓮 第645号(平成11年11月号)大日蓮編集室、36頁』と述べているのと同じ数字です。日顕管長のいう“八幅”とは「基礎的研究」に記載されている8幅の御本尊を指すと考えて間違いないでしょう。

67彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/26(月) 12:37:14

66の続きです。

ところが、「富要集八巻」の「漫荼羅脇書等」には総本山(=大石寺)に所蔵される御本尊として戒壇本尊を別にすると上記の(4)と(6)以外に6幅が記載されています。(4)と(6)は当時大石寺の所蔵ではなく昭和45年にそれぞれかつての所蔵者から大石寺に奉納されましたので、脱漏した(7)、(8)を加えると総数10幅となり、上記8幅と合致しません。つまり「富要集八巻」に記載があって、「基礎的研究」に記載のない蓮祖御本尊が2幅あるのです。単純な脱漏でなければ山口師が摸写か偽筆と考えていたために除外したと考えられます。
この2幅とは、(引用者注:便宜上、(9)(10)と数字を打ちました)
(9)弘安二年太才己卯八月十八日、沙門佑盛日合に之を授与す
(10)弘安三年庚辰五月廿六日、沙門民部日向に之を授与す

の2幅です。特に(10)は不信です。太才(歳)がありませんし、日向師に授与された御本尊が大石寺にあるのも不可解ですし、日向師に授与された御本尊は他寺に所蔵されていますので、偽筆の類と考えられます。
ここに興味深い記事があります。正信会の機関紙である『継命』(第31号:昭和55年12月1日付、第4面)に「総本山における御虫払大法要に、大聖人の御本尊として奉掲されるもののうち、二幅は偽筆と鑑定されている。それを知って奉掲して御信者の拝ませるのは、諦法を容認弁護するどころか、自ら諦法を犯していることにはならないのか。日蓮正宗みずから諦法を犯していては、学会の諦法を責められないのも道理である」とあります。この記事は誰の記事か記載がないので不明ですが、正信会の僧侶であることは確実でしょう。山口範道師は当時正信会でした(第3回日蓮正宗全国檀徒総会紀要(昭和54年8月25・26日実施)の参加僧名簿中に、“本山 蓮光坊 山口範道”とあります)ので、この記事の内容を主張する立場にいたはずです。記事ではどの御本尊が偽筆であるのか触れていませんが、上述のように「富要集八巻」と「基礎的研究」の記載内容を照合することで偽筆の疑いのある2幅を浮かび上がらせることができたわけです。

「基礎的研究」に記載の大石寺蔵蓮祖御本尊8幅にはすでに述べているように『御本尊集目録』に入集している3幅((4),(7),(8))が含まれていますので、未公開の紙幅御本尊は5幅です。これは山中氏の指摘と符合します。
山中氏は「大聖人自筆の漫荼羅は全国に128幅現存することが確認されており、この外に未確認のもの4〜5幅が存在する模様である」(「房総に現存する日蓮聖人の自筆文書について」:『日蓮 房総における宗派と文化』1980年、千秋社、214頁)といわれています。さらに「『御本尊集』は、現存御真筆御本尊百二十三幅を収め、石山(静岡県富士宮市大石寺)関係の若干を除けば、殆んどこれを網羅せざるはない(遍注・その後、四幅を追増補し、現行本は百二十七幅を収載している)」(『山中喜八著作選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』平成4年、雄山閣出版、5頁)といわれています。すなわち、未確認のもの4〜5幅とは石山(静岡県富士宮市大石寺)関係の御本尊なのです。但し、「基礎的研究」には大石寺の末寺関連の御本尊について、7幅(保田妙本寺の1幅を含む)を記載しています。うち2幅が『御本尊集』に入集していますので未確認のものは5幅です。末寺関連の御本尊については追って検証します。

by 彰往考来

68彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/26(月) 18:17:10

>65 誤記訂正

誤:昭和45年の段階で集成されてその存在が公開
正:昭和45年の段階で修正されてその存在が公開

69彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/26(月) 18:26:35

>65〜67 誤記訂正

第82番本尊(紫宸殿の御本尊)は65でいう(4)ではなく(5)が該当します。

お詫びかたがた訂正いたします。

70犀角独歩[TRACKBACK]:2005/09/27(火) 12:11:35

彰往考来さん

> しかも第82番本尊が“紫宸殿の御本尊”であったことは意外というほかありませんでした

これは何も山口氏の記述からわかることではないのではないでしょうか。
この件に関してはれんさんと議論で、明確にしたことです。故に自説として拙書に載せたことでした。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/r471-r472

あと、これまた、重箱の隅をつつくようで恐縮ですが、「行方不明」ではなく、『御本尊集目録』の記載は「現在宝蔵 不明」です。また、幅尺も「未詳」ではなく、「不詳」です。

わたしにはこの「不」は‘〜にせず’という意味が隠っているのだろうと思います。
つまり、「現在の宝蔵を明らかにせず」「幅尺を詳らかにせず」ということです。

この石山蔵の3体の漫荼羅を『御本尊集』に山中師を通じて、掲載できる人物は、もちろん、堀日亨師を除いてはいないというのは、みな共通して感じるところです。この亨師が不明、不詳とさせたのだろうと思えます。

その他、考証は実に参考になりました。
有り難うございます。

7101:2005/09/27(火) 22:36:26
彰往考来さんの不屈の投稿ってナイスだね。

72藤川一郎:2005/09/28(水) 11:34:05
>>67
彰往考来さん
誤解があるといけませんので、補足させて頂きます。

>>山口範道師は当時正信会でした(第3回日蓮正宗全国檀徒総会紀要(昭和54年8月25・26日実施)の参加僧名簿中に、“本山 蓮光坊 山口範道”とあります)ので、この記事の内容を主張する立場にいたはずです。

上記についてですが、正信会は昭和55年7月4日発足です。
それまでは、日蓮正宗内の「正信覚醒運動」があっただけです。
正信覚醒運動の僧侶=正信会参加者ではありません。

73犀角独歩:2005/09/28(水) 23:44:12

藤川さんのご指摘を読んで思い出しましたが、本来、正信覚醒運動の創唱者は細井(日達)師であり、飴の大村、鞭の山口の役割分担をしたのも同氏であったわけですね。

その後、お詫び登山、6・30教学訂正・特別学習会、池田氏の正式謝罪と会長、法華講総講頭辞任、以後、復権しないことを約し、それを聖教新聞紙上で発表したことで、細井氏は刀を鞘に収めると共に、正信覚醒運動自体もここに終息することを訓じたわけでした。ところが勢い余って、というか、裏で山崎氏、原島氏などでマッチポンプが続いた結果なのか、正信会参加の坊さん達は収まりがつかないまま、走り続けたという一連の流れがありました。

正信会運動は、興風談所のような成果も挙げる一方、しかし、肝心の彫刻本尊には頬被り。結局のところ、池田創価学会憎しから、さらに阿部(日顕)憎しというような形でしか展開しなかったことは、大乗の名に悖るところで、この点では他の集団と変わらなかったのは、如何にも残念でした。

74彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/29(木) 09:51:55

>70 犀角独歩さん

関西方面へ出張でしたのでレスが遅くなりました。でもそのおかげで色々資料を入手できました。

第82番本尊=紫宸殿の御本尊 というのは1993年に「基礎的研究」が発刊された始めて公式に明らかになったことです。これはれんさんも恐らく1993年の「基礎的研究」発刊以前はご存知ないことであったと思います。
今ではあたりまえのことかもしれませんが、文献初出は1993年の「基礎的研究」であり、当時初めてこの箇所を読んだとき、私には衝撃でした。

“未詳”、“行方不明”の表現は私の記憶違いが多分にありますので、ご指摘の件、整理して再投稿いたします。

75彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/29(木) 09:54:43

>72 藤川一郎さん

本件、ご指摘のとおりでしたね。正確にいうなら“正信覚醒運動の活動僧侶でした”
といったところでした。修正いたします。

76犀角独歩[TRACKBACK]:2005/09/29(木) 10:16:53

> 74 彰往考来さん

いや、そうではなく、第82漫荼羅が「紫宸殿本尊」であるということは山口氏の記述だけではわからないというのが、わたしの発言の趣旨です。
山口氏の記載から、「現在宝蔵不明」3体が石山蔵であることはわかっても、第82漫荼羅が「紫宸殿本尊」であることはわからないでしょう。信行寺板本尊の写真と、それが「紫宸殿本尊」の模刻であるという情報の三つを総合して明らかになったことです。

故にれんさんも

「独歩さんの御教示で信行寺の板曼陀羅が八二番の摸刻であることが分かりましたので、八二番の曼陀羅が石山で紫宸殿御本尊と言われる曼陀羅」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/r472

と記してくださったわけです。

77彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/29(木) 10:26:12

>76 犀角独歩さん

なるほど。そういうロジックですね。よくわかりました。

ただ私は別のロジックで第82漫荼羅が「紫宸殿本尊」であるということを結びつけたと記憶していますので、それはそれで再度検証してみます。

78彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/29(木) 10:27:19

>71 01さん

過分なるお褒めの言葉をいただきありがとうございます。
今後ともがんばります。

79犀角独歩:2005/09/29(木) 10:46:17

彰往考来さん

漫荼羅については、ロジックからというのは考証として必要な側面でしょうが、しかし、結局のところ、「百聞は一見に如かず」です。

漫荼羅の写真を持って論じられない漫荼羅議論は意味を持ちません。
故に石山が彫刻本尊が禅師授与漫荼羅を原本とする臨模・作為ではないと証明するには、鮮明な写真の呈示が必要不可欠であるのも当たり前すぎることでしょう。

第82漫荼羅は『御本尊集』に掲載されたとしても、紫宸殿本尊模刻である写真を得ずして、文献資料から迫っても、結局、最後のところで決定打とはなりません。わたしが言っているのはその点です。

それは真跡資料にしても同様で、石山の『日興跡条々事』の考証にしても、全紙写真を載せずに「真筆だ」「本物だ」と声を枯らしても意味がないのと同じことです。

故に「日顕管長のいう“八幅”とは「基礎的研究」に記載されている8幅の御本尊」といい、あたかも真筆8幅を所蔵している如く印象を与えますが、結局のところ、『御本尊集』に載る3幅以外は、仮に山中師等が真筆とは認められなかったという裏の歴史があるのだろうわたしは想像しています。

その意味において、その真偽を鑑定にかけるわけでもなく、恣に真筆といい、真筆8幅所蔵を事実のように扱う姿勢をわたしは感心しない、故に山口氏のこの根本的な姿勢は古文書の扱いはまったく不誠実であると言わざるを得ません。

80れん:2005/09/29(木) 10:51:13
横レス失礼します。
彰徃考来さん。
石蔵の紫宸殿大曼陀羅については、確かに故山口範道師の「基礎的研究」で御本尊集に収録されている82番であるらしいことを知りました。しかし、従来の正宗系の文献には記されなかった事柄ですので、一抹の疑念があったわけですが、犀角独歩さんがお手持ちの石蔵の紫宸殿大曼陀羅を模刻した信行寺の板曼陀羅の写真を御提示して下さったことによって、石蔵の紫宸殿曼陀羅が御本尊集82番であることが確認できたという経緯がありました。
なお、石蔵の弘安二年太才己卯八月十八日の伝蓮師筆曼陀羅ですが、大黒喜道師編の「日興門流上代事典」の沙門佑盛日合の項目では当曼陀羅を「宗祖真筆」と記述しております。その鮮明な写真が公開され、かつ立正大の中尾師の精密な鑑定がなければ、確実な蓮師筆か否か分かりませんが、佑盛日合授与の曼陀羅については偽筆と断ずるのは、やや早計な気がいたします。
私も彰徃考来さんのご投稿に、いつも学ばせて戴いておりますので、今後とも、御賢察をご披瀝下さりますようお願い申し上げます。

81犀角独歩:2005/09/29(木) 12:26:13

れんさん、ちょっと、よろしいでしょうか。

「弘安二年太才己卯八月十八日」の可能性を、れんさんがお考えになる理由は、やはり、大黒師によるのでしょうか。同師は、どのような根拠で、この漫荼羅を「宗祖真筆」とされたのでしょうか。大黒師の高名は独り富士門に留まらず、日蓮宗、また、他在家集団でも大きくところで、わたしは傾聴することは吝かではありません。ご教示いただければ有り難く存じます(ご承知のとおり、恥ずかしながら同辞典が手許にございません)

82れん:2005/09/29(木) 13:49:35
犀角独歩さん。この件に関しては、興風談所さんや大黒喜道師ご自身に問い合わせたことはないので、当曼陀羅の真偽をどのように判断したのか、真筆として扱う根拠はなにかは残念ながら存じ上げませんが、先に紹介いたしました「日興門流上代事典」の当該項目には
日合(沙門佑盛・宗祖本尊) にちごう(しゃもんすけもり・しゅうそほんぞん) 弘安二年(一二七九)八月十八日の富士大石寺蔵の宗祖本尊脇書([要]八・一七七)に「沙門佑盛日合授与之」とあるが、他の行実は不明である。
とあります。一つ考えられるのは、事典には同じく石山蔵の弘安二年十一月日の蓮師曼陀羅の興師筆添書について「□□九郎次郎時□日興/可為本門寺重宝也」と記載しており、「富士宗学要集」や「日蓮正宗史の基礎的研究」等の所謂る既刊書に記載されてない「□□九郎次郎時□日興」を翻刻していることから、おそらく興風談所か大黒師所属の正信会関係者が両曼陀羅等の写真を架蔵しており、それをもとに真筆と判断し、記事に翻刻したものと推定されます。この私の推定は当たらずとも遠からじだと思います。
私としては、写真が公開されていない以上、真偽その他の判断は出来ませんので、偽筆と断定はしないが、かといって真筆として扱う蛮勇はないというのが、私の偽らざる心境です。

83犀角独歩:2005/09/30(金) 00:35:48

れんさん、有り難うございました。
参考になりました。

> 大黒師所属の正信会関係者が両曼陀羅等の写真を架蔵

なるほど。各写真集、また古文書研究などから考えても、この可能性はあるわけですね。日蓮真筆も写真に撮っているということですね。

余計ながら、正信会は「日蓮大聖人」を「日蓮聖人」と言い換えたり、日興本尊集を出したり、また、全体とは言いませんが、二箇相承を否定したり、いわば石山タブーを超えてきました。さらに彫刻本尊を含むタブーを超えることを願うほかありません。

84彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/30(金) 07:24:40

>74 自己レスです。

第82番本尊の所蔵と寸法について山中喜八氏の各種文献での記載内容を整理しておきます。

【所蔵】(『御本尊集』では“現在寶藏”)
(A)不明(御本尊写真の脇注では「所蔵不詳」)
(B)不明(御本尊写真の脇注では「所蔵不詳」)
(C)所蔵不詳
(D)不明
(E)某家

【幅尺】
(A)不詳(三枚繼)
(B)不詳(三枚繼)
(D)不詳(三枚継)
※(C)と(E)には幅尺の記載なし

<引用文献>
(A)山中喜八遍『随喜居士謹集 御本尊集』昭和53年訂補3版、立正安国会、121頁
(B)山中喜八遍『日蓮聖人眞蹟集成第十巻 本尊集解説』昭和52年、法蔵館、27頁
(C)『山中喜八著作選集Ⅰ日蓮聖人真蹟の世界 上』「図集」、平成4年、雄山閣出版、222頁
(D)『山中喜八著作選集Ⅰ日蓮聖人真蹟の世界 上』「御本尊集目録」、平成4年、雄山閣出版、384頁
(E)『大崎學報 第102号』「日蓮聖人曼荼羅図集」昭和29年、立正大学仏教学会、75頁

以上のことから山中氏は幅尺については“不詳”のみの使用でした。所蔵(現在宝蔵)については、“不明”、“所蔵不詳”、“某家”の3種類の表現がみられましたが“不詳”という表現は見あたりませんでした。(A)(B)(D)は御本尊集目録ですが、目録ではすべて“不明”、御本尊写真の脇の注ではすべて“所蔵不詳”で(E)の図集のみ“某家”でした。

彰往考来

85彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/30(金) 07:32:08

>79 犀角独歩さん
> 第82漫荼羅は『御本尊集』に掲載されたとしても、紫宸殿本尊模刻である写真を得ずして、文献資料から迫っても、結局、最後のところで決定打とはなりません。

私が第82番本尊が紫宸殿の御本尊であると判断したのは、山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林)の記載によります。
ロジックといえるほどのものではありませんが、同書の154頁の「二、大聖人御本尊現存目録 (安国会目録外・要集等)」の項に「弘安三年太歳庚申三月日(安国八二)  所蔵 大石寺(引用者注:原文のこの箇所は“同”) 備考 要八−一七八(引用者注:原文のこの箇所は“一七八”)」とあることから、第82番本尊が大石寺蔵であることが判断できます。この行、すなわち“弘安三年太歳庚申三月日”の引用文献は“要八−一七八”です。“要八−一七八”は堀日亨編『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』(昭和53年、創価学会、178頁)と判断されます。178頁には“弘安三年太歳庚申三月日   総本山”(但し“太歳”ではなく“太才”となっています)とあるのは1幅だけで、この1幅に“(紫宸殿御本尊と伝称す”と付記されていることから、三段論法のような形で第82番本尊が紫宸殿の御本尊であると確定したわけです。
このロジックを数理的に説明しますと、

“第82番本尊”を a
“弘安三年太歳庚申三月日”を b
“弘安三年太才庚申三月日”を b’
“紫宸殿の御本尊”を c
“『日蓮正宗史の基礎的研究』”を 試料群α
“『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』”を 試料群β
とすると、

試料群αから a=b が成り立ち、
試料群βから b’=c が成り立ちます
α⊆β であることから (試料群αは試料群βに含まれる・・・αはβから引用された)
b=b’ なので
a=c が導かれる (“第82番本尊”=“紫宸殿の御本尊”)

となります。もっと簡単にいうなら、a=bで、b=cだから、a=cということです。
犀角独歩さんが指摘されているように、山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』だけでは第82番本尊が紫宸殿の御本尊であるとは判断できませんが、『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』の記載内容を合わせることにより第82番本尊が紫宸殿の御本尊であると確定できると考えます。

『富士年表』(昭和56年、富士学林)の46頁(弘安3年1月〜4月)の項には本集(御本尊集の略)71〜91までの御本尊が記載されているのですが、76番と82番の記載がありません。『富士年表』では「2月 本尊を優婆塞日安に授与(8-223)」とあり、『富士宗学要集 第八巻』223頁でこの御本尊が京都妙覚寺蔵であることが確認されますので、この記載が76番のものと判断できます。しかしながら82番が見あたりません。『富士年表』では「3月 本尊を顕す〔紫宸殿御本尊〕(8-178・石蔵)」とありますが、第82番本尊は“所蔵不詳”なので所蔵寺院から確定はできません。わたしは当初、『富士年表』になぜ第82番本尊の記載がないのか疑問に思っていましたが、1993(平成5)年に発刊された『日蓮正宗史の基礎的研究』を読んで、“第82番本尊”=“紫宸殿の御本尊”とすることにより、この疑問が氷解したことを記憶しています。つまり重複記載(“第82番本尊”と“紫宸殿の御本尊”を両方とも記載)を避けたものと考えました。『富士年表』の編集後記には14人の編集委員の名前があり、そこに山口範道師の名前を見つけて「ナルホドね」と当時納得したものでした。

86彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/30(金) 08:17:54

れんさん、
いつもながら重厚なご指摘敬服いたしております。
ちょっと質問させてください。

>80 石蔵の弘安二年太才己卯八月十八日の伝蓮師筆曼陀羅ですが、大黒喜道師編の「日興門流上代事典」の沙門佑盛日合の項目では当曼陀羅を「宗祖真筆」と記述・・・佑盛日合授与の曼陀羅については偽筆と断ずるのは、やや早計

とありましたが、御本尊写真にあたらずして偽筆とは断じ得ないとおっしゃていると思います。それはそのとおりで、山口師の『日蓮正宗史の基礎的研究』に記載なきことは傍証あるいは示唆程度であり断定できる証拠にはなり得ません。

ただ大黒喜道編著『日興門流上代事典』(2000年、興風談所)の377頁、「日合(沙門佑盛・宗祖本尊) にちごう(しゃもんすけもり・しゅうそほんぞん)」の項には、
「弘安二年(一二七九)八月十八日の富士大石寺蔵の宗祖本尊脇書([要]八・一七七)に「沙門佑盛日合ニ之授与ス」とあるが、他の行実は不明である。」
とあるだけですから、これをもってして日合授与本尊について“「宗祖真筆」と記述”とはならないのではありませんか?私は真偽未決本尊の紹介程度に受け止めていたのですが。

>82 私としては、写真が公開されていない以上、真偽その他の判断は出来ませんので、偽筆と断定はしないが、かといって真筆として扱う蛮勇はない

わたしもこの立場です。残念ながら日合授与本尊について写真が公開されていない以上偽筆あるいは真筆と断定しうる資料はありません。これは79で犀角独歩さんが言われているように、“文献資料から迫っても、結局、最後のところで決定打とはなりません”ということです。

87れん:2005/09/30(金) 11:55:15
彰徃考来さん、私の80の投稿は全くの勇み足でしたね。私も大黒師が弘安二年八月十八日の伝蓮師筆曼陀羅を蓮師本尊と事典に紹介していることは、ある程度の参考資料にはなるものの、犀角独歩さんがおっしゃっている理由の通り、いくらロジックを追っても、いつまでも真偽を決する決定打にはなりえないものですね。この件は86の彰徃考来さんのご指摘の通りですので、無礼をお詫び申し上げるものです。今後とも私の至らぬ投稿に対する、御批正とご指導ご鞭撻の程お願い申し上げます。
83:犀角独歩さん、正信会のそのような最近の動向にたいし、会の内部から一部批判をする人もいるようですが、彫刻について後世の偽作であることを自らの手で論証して、真実の祖道の恢復の道を歩み出してほしいものと思っております。

88犀角独歩:2005/09/30(金) 12:04:53

彰往考来さん

> “弘安三年太歳庚申三月日”を b
> “弘安三年太才庚申三月日”を b’

まあ、こうした群・分類からのロジックというのは可能でしょうが、たとえば第92、93という彫刻本尊考証に不可欠な大漫荼羅は同一年月日の日付になっていますし、また、Nichiren Shonin Gohonzon Shu のサイトで見れば、 3A・3B、32A・32B、68A・68B といった例があります。

それこそ、日付分類だけでは、お言葉を借りれば「決定打」とはならないでしょう。

89彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/30(金) 12:49:41

>87 れんさん
こちらこそ、投稿段階で大黒喜道編著『日興門流上代事典』「日合(沙門佑盛・宗祖本尊) にちごう(しゃもんすけもり・しゅうそほんぞん)」の項をチェックしておらず赤面のかぎりでした。いや赤ではなく青(真っ青)でした。
今後ともどうかご指導ご鞭撻を賜りますようお願いいたします。

90彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/30(金) 12:53:26

>88 犀角独歩さん

“決定打にならない”というのは犀角独歩さんのお言葉を借りたものです。(笑)

ご指摘のように日付が同じだけでは同一日複数の御本尊図顕例があることから、
b=b’
とはなりません。そこに
α⊆β
であるというもう一つの制限を設けることにより
b=b’
となるというロジックです。

なお、“『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』”を 試料群βとしていますが、“『日蓮正宗史の基礎的研究』は複数の資料を引用していますので
 “『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』”を 試料群β
とし他の資料をまとめて試料群γと定義して
α⊆(β+γ)
としたほうがより正確な表現ということになります。

なお、これらは過去の私の頭の中のロジックでして、現在では信行寺板本尊の写真と、それが「紫宸殿本尊」の模刻であるという情報から
a=c  (“第82番本尊”=“紫宸殿の御本尊”)
となるという貴殿のロジックは正鵠を得ていると思います。まさに“決定打”ですね。

91彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/10(月) 07:32:49

こちらに移動して投稿します。

> 「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」 スレッド1413 れんさん

『日蓮宗の本山めぐり』ですが出版元のニチレン出版さんに問い合わせたところ在庫がありましたので、クロネコメール便で送っていただき本日入手しました。昭和56年発行の5版でした。ありがとうございました。

さて、この本をパラパラめくっていますと、51頁の弘法寺蔵日頂上人の御本尊写真が目に止まりました。やや不鮮明ですが、“日蓮在判”とあり、“弘安五年□(壬か)午年二月十五日”と読めます。ここで“弘”の字は不鮮明ですのであるいは、“正安”かもしれないとも思いましたが、干支が全く違うように見えますし、正安は4年までです。正安4年(乾元元年)に頂師は日興上人に帰依(『富士年表』62頁、富谷日震『日宗年表』(昭和60年復刻版(初版昭和10年)34頁)とされますので、少なくともこれ以後の御本尊書写はないはずです。

弘安五年に頂師の御本尊書写は有り得ず、51頁の弘法寺蔵日頂上人の御本尊写真は後世のものと思いますが、れんさんはどう思われますか?

92れん:2005/10/10(月) 09:40:29
彰徃考来さん
>91 「日蓮宗の本山めぐり」出版元に問い合わせられ、在庫があって、無事入手されたとのこと、微力ながらお役に立てた様で幸いでした。
弘法寺の伝・日頂曼陀羅ですが左右がわずかながらカットされており(中尾師『ご真蹟にふれる』によりますと「表装替えをするときに痛んだところを除去したり、寸法を合わせるために本紙の一部を切り取ったりしたから」と説明されています。日興曼陀羅「日蓮」とあるものに関しては表装替えの際の切断により“(在)御判”がカットされたものと見るのが至当です)、表装替え時の切断が左右の脇書の一部に及んで解読しにくいですが、彰徃考来さんのご判読の如く年号「弘安五□午年二月十五日」と読めます。この曼陀羅は首題・日蓮在判でその左下に「日頂(花押)」(書写之の記入はない)で日興門のごとき曼陀羅様式ですが年号の記入式が鎌倉時代の通格(この例で言えば弘安五年壬午とあるべきもの)に反して“弘安五□午年”とあり、この年号の記入式は戦国時代〜江戸時代のものですから、年代が相応しないものですし、被授者も“南條□之助?”もその呼称が鎌倉期に通用するか疑問です。花押も石山蔵の日頂消息(継命新聞社「日興上人」二百五ページに写真掲載)のものと相違するものであって、この伝・日頂曼陀羅は彰徃考来さんのご指摘・御考察の通り後世のものとするのが至当であると存じます。

93彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/10(月) 11:16:59

>92 れんさん

ご考察誠にありがとうございました。

> 花押も石山蔵の日頂消息・・・
大変参考になりました。

彰往考来

94ラスカル:2005/12/05(月) 16:52:00
■犀角独歩さんが5つ(①仏法者②密教者③行者④陰陽師⑤法律家)視点を述べていましたが、素人から見て①は解脱→下種、成道→成仏、天台→本朝の点・線・面のような事②は密教→顕教への説教化導の筋、不動は迦楼羅の炎を纏い愛染は獅子に乗る事を霊鷲山と獅子吼に引き合いに出した③末法無戒の世に修行して法華経を弘めた者としての様を法華経の行者と表現した。修行と苦難があったと言う事④身分ある人々には其れ相応の書式を選んだのではないでしょうか。⑤識字率其他の問題ではないですか。■きゃからばあさんという人が、南無妙法蓮華経、南無日蓮、南無花押と書いてましたが、私は、南無妙法(本因妙・本果妙)南無蓮華(比喩・当体)南無日蓮(法華経の行者)と我説ですが考えたいです。漫陀羅は修行の道具と考えなければわざわざ図示して一人ひとりに渡さないのではないかと思います。答えを理解するためにはプロセスを知る事も大事ですが、一人ひとりの受け止め方に対応する必要があると思います。其れで無ければ弘教も成仏も化城を越えて砂の城になってしまうでしょう。でも、私が漫陀羅を眺めて浮かんだ事は、北側から南側を見渡した図で大毘沙門天王は佐渡、大増長天王は安房、大持国天王は比叡、大廣目天王は高野、首題は身延を模したのかと言う事。大教教団→善悪二元論、天台→一念三千、伝教→円頓止観、日蓮→妙法蓮華、経(唱)→色心不二、自他→依正不二、立正安国論の語句、南総里見八犬伝は日蓮仏法の善悪二元論ぐらいです。〈神道とか中国の物語とか構成要素がいろいろあるみたいですが〉

95ラスカル:2005/12/05(月) 17:03:46
聖教新聞で掲載した兄弟の教学の話形式での企画物で、不動感見記と愛染感見記が偽書であると書いてありましたが本当でしょうか。字の鑑定で、はっきりしてるのに国の重要文化財になっていると怒ってました。

96ラスカル:2005/12/05(月) 17:15:59
大教教団→大乗教団

97彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/05(月) 19:47:04

>95 ラスカルさん、

それは聖教新聞ではなくて北林芳典氏の『日蓮大聖人と最蓮房』で述べられていることでしょう。
http://www.heianbooks.jp/nichisai/index.html

『日蓮大聖人と最蓮房』については若干、氏の妄説に対して私が意見を述べています。なお当時インターネットでの公開は『日蓮と最蓮房』でした。


「蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について」
のスレッド421
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/?KEYWORD=%CB%CC%CE%D3%CB%A7%C5%B5

スレッド455〜456
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/?KEYWORD=%BD%BD%B0%EC%C4%CC%B8%E6%BD%F1

を参照ください。

98犀角独歩:2005/12/06(火) 12:08:00

ラスカルさん

> 漫陀羅は修行の道具と考えなければわざわざ図示して一人ひとりに渡さないのではないかと思います

では、反対にお聞きしますが、なぜ、全員に渡さなかったのでしょうか。
また、日蓮、日興共に漫荼羅の複製(形木印刷)と大量生産を認めていません。選ばれた人間にしか漫荼羅を渡していません。あなたの論法で行くと、漫荼羅を与えた人間以外は修行はできないことになりますが、どうでしょうか。

しかし、いまの時代は写真撮影して印刷し、大量生産し、入会すれば、誰彼構わずばらまいています。この無節操な濫売を基本に考えたのがあなたの言うところであるとわたしには思えます。

日蓮は授与者名を記し、個人を特定して手書きで一幅一幅、図しています。
この点は日興も同様です。さらに形木印刷をし、濫りにばらまくものを非難したことは重須文献に明らかに見えます。いまの無節操な団体の様から考えると日蓮の祖意は見えなくなります。

> 北側から南側を見渡した図

なぜ、北側からなのでしょうか。漫荼羅は見宝塔品の物語によっているわけですから西向きです。

> 大毘沙門天王は佐渡…

この発想は面白いですが、先にも記したとおり、漫荼羅はインドの物語です。その設定は霊鷲山です。

不動愛染感見記に対する創価学会も指示する北林さんの話は問題外です。

99ラスカル:2005/12/06(火) 13:58:41
遺文・御書に依らなくても、一人ひとりの信心の浅深高低があるから全員に渡さないというのはわかりきった事。でもだからこそ、一人ひとりに渡した方が良いはずです。それに全く修行できない事は無いです。末法無戒の世では題目を自分だけでなく他人にも唱えさせないと霊山浄土の世を現出させる事ができないから。一人ひとりの時期を見計らって漫陀羅を授与すればいい。具体的な修行方法は掛軸にした漫陀羅で題目を唱えるしか伝えられないのは皆解り得る事だと思います。花押が仏像から漫陀羅を顕すに連れて変わっていく。という話を読みました。創価学会の場合、上層役員が掛軸は修行方法の道具と割り切って印刷に踏み切ったのだと思います。其れにしても、歴史の波や増上慢の波に呑まれ暴走する事は考えに無かったのでしょう。四分五裂になってます。■漫陀羅の主題・本尊は『南無妙法蓮華経』其の他はヴァリエーションで何度となく変えられてきたはず。法付属の儀式だけで無く幾つかの意義(密教、顕教、三国四師等)を経て大漫陀羅の形になったのだと考えます。其れは説教化導に連れて。

100犀角独歩:2005/12/06(火) 14:26:57

> 一人ひとりの信心の浅深高低があるから全員に渡さないというのはわかりきった事

どのようにわかりきっているのでしょうか。

> でもだからこそ、一人ひとりに渡した方が良いはず

では、どうして日蓮はそうしなかったのでしょうか。

> 末法無戒の世

末法が無戒ならば、なぜ、日蓮は本門‘戒’壇といったのでしょうか。

> 一人ひとりの時期を見計らって漫陀羅を授与すればいい

だれが、どのように決めると日蓮は言っていますか。

> 漫陀羅で題目を唱えるしか伝えられない

なにがどのように伝えられないのでしょうか。

> 花押が仏像から漫陀羅を顕すに連れて変わっていく

花押が仏像をあらわすとはどのような意味でしょうか。
また、どのように変わって言ったというのでしょうか。

> 創価学会の場合、上層役員が掛軸は修行方法の道具と割り切って印刷に踏み切った

会としては修行の道具としてではなく、販売品の一つとして商売に踏み切ったのではないでしょうか。どうみても、100円前後も掛からないような1枚印刷の代物を3000円で販売するなど、笑いが止まらない商売でしょう。携帯本尊にいたっては5000円。これまた濡れ手に粟のようは話です。

修行に使うだけであれば、インターネットダウンロードして各自で作ってもよいわけですが、このような自主性は認められないのはおかしな話です。修行に使うのであれば、日寛書写の、それも授与者名を画像処理で消し去って会員に頒布するより、日蓮オリジナルの曼荼羅のほうがずっとよいでしょう。なぜ、そうしないのでしょうか。

> 歴史の波や増上慢の波に呑まれ暴走

この増上慢とは創価学会のことですか。

> 漫陀羅の主題・本尊は『南無妙法蓮華経』其の他はヴァリエーションで何度となく変えられてきた

首題に筆法の変化はあったにせよ、首題が首題であったことは終始一貫しています。

> 法付属の儀式だけで無く幾つかの意義(密教、顕教、三国四師等)を経て大漫陀羅の形になったのだと考えます。其れは説教化導に連れて。

別段、どのような考えようが、想像は勝手です。
しかし、公開の場で意見を示すのであれば、根拠があげる必要があります。
思い付きを放言するだけならば、議論にはなりません。

101ラスカル:2005/12/06(火) 14:34:59
故事付けといわれるでしょうが、素人の座興と看過してください。天台宗の天台とは紫微宮という北極星を中心とした星座にある天台星宿に応ずる環境と言う事で名付けられたとか。また、天台は天に昇るの意味で山紫水明の仏国土を上天之台と言い、其のような山に天台大師は寺を建てられました。鎌倉時代の僧・日蓮が知らなくても、太陽や月を中心と見るのでは無い北天の星中心思想は知っていたのではないでしょうか。漫陀羅は空を其の儘・天蓋世界地図に見立てたダイナミズムで時間と空間を表現しているのだと思うのです。次元論では無いですが「全ては法華経の五字から」みたいな。でないと、インドの神々が原型だからって密教の梵字を書いたりはしないのでは無いでしょうか。佐渡は漫陀羅の意義をより確かなものとした所、安房は法華経の題目を弘めようと決意を新たにした所、比叡は伝教の一灯を改めて知った所、高野は密教の力とは何なのか学んだ所。法華経の行者・日蓮にとって無くては成らない要素。

102犀角独歩:2005/12/06(火) 15:13:13

まあ、先にも記したとおり、自分の想像、考えでいくのであれば、何を考えてもそれは個人の勝手です。
ただ、ここでは日蓮の確実な資料から、日蓮その人の考えの実際がどのようなものであったのかを考えることに主眼があります。その意味からのわたしも管見を述べています。

> 漫陀羅は空を其の儘・天蓋世界地図に見立てた

日蓮の漫荼羅を考えるうえで、本尊抄の記述は不可欠な要素です。これを見る限り、想像されているような点はまったく見られません。

> 全ては法華経の五字から」みたいな

このような発想は日蓮にあったとは思えません。
日蓮にとって、妙法五字は一念三千の珠を裏んだ付属の正体であるというのが真跡遺文から汲み取れる考えです。

> インドの神々が原型だからって密教の梵字を書いたりはしない

種子で書くところの既に法義があるのでしょう。密教の神仏を感じで書くほうが違和感があるわけですから。理由はそちらと考えるほうが適切です。

> 高野は密教の力とは何なのか学んだ所

日蓮は高野山に行っていないでしょう。

103犀角独歩:2005/12/06(火) 15:15:11

【102の訂正】

誤)感じで
正)漢字で

104ラスカル:2005/12/06(火) 15:37:09
■犀角独歩さんと私では年輪の差があるし、経験値も違うので議論は無理だと思います。互いの知識、情報、意見の相違を交換するくらいでしょう。■身分によって学識の差があるかもしれないし個人によって心構えの差があります。■一人ひとり成長の度合いが違います。■一人ひとりの己心に霊山浄土を現出させ維持する為、昔の高野山、比叡山とは違う国全体を取り扱うような戒壇を立てるのも一つの案だったのではないでしょうか。■具体的には書いてありませんが日蓮と同心する事が書いてありましたから日蓮と教えを受け継ぐ弟子しか居ないでしょう。■念仏、真言で無い題目が仏の教えの核心である事。■花押と仏像とは別々です。大雑把ですが前半は本尊を顕す仏像に連れて修行時代の密号・折伏を行なう不動明王の種子を表現するバン字、後半は本尊の題目の五字に連れて諸仏に優先する一乗の教え(法華経)を表現するポロン字のようなデザイン■内部事情はわかりませんが、いろいろな経費を見積もっての値段でしょう。■本仏の図顕した漫陀羅ではおそれおおいからでは?と思います。■創価学会だけではありませんが、そう断じて差し支えないでしょう。■『南無妙法蓮華経』。です。

105犀角独歩:2005/12/06(火) 15:55:17

■…私では年輪の差がある

あなたはわたしの年齢を知っているのですか。
わたしはあなたがどこの誰であるのか、いくつなのか、男なのか女かもわかりません
しかし、ここではそのようなことは問題ではありません。
指標はただ一つ。確実な資料です。
正直に言えば、わたしは個人がこう思うああ思うという井戸端会議のような話は興味はありません。しかし、質問されれば、答えますし、違っていると思えば異論を述べます。

■身分…学識の差…個人…心構えの差

このような点はわたしにはまったく度外視しています。
必要なのは確実な証拠と、正しい解析です。
仮にわたしより20歳、30歳と若かろうと、わたし以上の知識と正確な解析ができる人があれば、わたしは例を持って教えを乞います。それが仏道です。

■一人ひとり成長の度合いが違います

問題ではありませんが、成長の度合いがあるので在れば、あとから成長するものは、自分の経験不足としっかりと見据え、礼儀を持って質問をし、知らないことを教授されることには例を持って報いるのが日蓮が仏法でしょう。

■一人ひとりの己心に霊山浄土を現出させ維持する為

わたしにはこんな考えはありません。

> 昔の高野山、比叡山とは違う国全体を取り扱うような戒壇を立てるのも一つの案だったのではないでしょうか

何を指していっているのかわかりませんが、日蓮が念頭に置いていたのは、小乗戒壇の東大寺、大乗戒壇の延暦寺ではなかったのではないでしょうか。
高野山の戒壇というのは仰る意味がわかりません。

■具体的には書いてありませんが日蓮と同心する事が書いてありましたから日蓮と教えを受け継ぐ弟子しか居ないでしょう

これは、何を指しているのでしょうか。

■内部事情はわかりませんが、いろいろな経費を見積もっての値段でしょう

そう値段です。しかし、修行の法具であれば、値段を付けて販売されるべきものではないでしょう。

■本仏の図顕した漫陀羅ではおそれおおいからでは?と思います。

なんでですか。わたしは日蓮が本仏であると思いませんが、本仏の教えに従う修行の法具であれば、本仏の漫荼羅を使うなど当然のことでしょう。
別段畏れるに値しません。

■創価学会だけではありませんが、そう断じて差し支えないでしょう

非常に差し支えがあります。
何故ならば、それはあなたの勝手な想像だからです。

■『南無妙法蓮華経』。です。

なにが南無妙法蓮華経なのでしょうか。
先にも記しましたが、わたしはあなたの放言には興味はありません。
また、当掲示板は挙証義務を確実に守る人々の投稿に依ってきたからこそ、成果があったのです。思いつきの自分の考えは、自分勝手におやりになったほうがよろしいでしょう。

106ラスカル:2005/12/06(火) 16:08:36
真蹟遺文を読むなら其れが中心に話があるのでしょうが、諸仏の始まりとか船の帆柱とか書いてあると先達とか基軸の表現であっても空間の広がりを想像してしまいます。■密教の神々を表現する梵字を、という意味です。■済みません。でも、空海の密教を意識していたなら高野山でも理屈では考えられなくもないと言う事です。全ては説教化導をする方便かもしれませんから。

107犀角独歩:2005/12/06(火) 16:33:08

> 諸仏の始まり…船の帆柱…先達とか基軸の表現…空間の広がりを想像

まあ、想像するのは勝手でしょう。ここに投稿しても意味はないでしょう。

> 空海の密教を意識していた

日蓮は台密に学んだのであって、空海を否定しています。
ですから、

> 高野山でも理屈では考えられなくもない

ということはありません。

> 全ては説教化導をする方便かもしれませんから。

うーん、これも意味がわかりません。

わたしが『如説修行抄』を引用するのは何ですが、

「所詮仏法を修行せんには人の言を用ゆべからず、只仰いで仏の金言をまほるべきなり。我等が本師釈迦如来」

といい、真跡遺文で言えば、依法不依人、依義不依語、依智不依識、依了義経不依不了義経といい、仏説に依憑して口伝を信ずること莫れと引きます。

要は、あなたのことも、わたしのことも含めて、日蓮は人の言葉によるなと言っているわけです。あなたの想像ももちろん、この中に入ります。

また、わたしが日蓮漫荼羅を重視する理由は、先にれんさんも引用されていましたが、

「日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持たざらん者をば御用ひあるべからず」

これはまさに日蓮が授与書きを記し、花押(判)を認めた漫荼羅に他なりません。日蓮が弟子の弟子という直系の弟子であれば、その祖が日蓮から授与された当人の漫荼羅があるでしょう。なければ、それは弟子ではありません。日蓮は用いるなと言っております。

以上が日蓮を考える矜持と言うことです。
残念ながら、あなたが一つも当たっていません。

108犀角独歩:2005/12/06(火) 16:43:59

要するに日蓮を考えるということは、一切の私情と、集団のご都合を廃し、日蓮がどう考えていたのかを探ること、その基本は真跡遺文を置いてはありません。しかし、日蓮から正式に弟子と認められた人の言であれば、日蓮の真跡遺文に現れない日蓮の教義を継いでいる可能性は他よりは遙かにあるでしょう。看過できません。参考になります。

ですから、ここでわたしが記すことでも、日蓮の真跡遺文から外れることは、採用の価値はありません。

尚、更に言えば、仮に日蓮の言であるからと言って、日蓮が言うとおりになるかどうかは、この段階では各人の問題でしょう。無謬性を見たい人は見ればよいし、科学的に、その教えを分析しようと思う人はすればよいわけです。わたしは前者に少し手をかけながら、しかし、後者の立場です。

109犀角独歩:2005/12/06(火) 17:00:28

108の文章を少し補足します。

> …わたしが記すことでも、日蓮の真跡遺文から外れることは、採用の価値はありません。

というのは教えについてということではなく、日蓮分析についてです。ちょっと誤解を生じやすい文章でした。

わたしは日蓮の時代に明らかになっていなかった点で、いま明らかになった点は、どんどん、科学的事実によって検証されなければならないと考えています。ですから、漢訳が梵原典と違えば、その点は考え、漢訳でしか成り立たない教義は採用もしません。また、梵典は釈迦滅後の創作である典は、素直に認め、しかし、そこにある精神で採用できるものは採用します。

しかしながらいずれにしても、日蓮の是非の如何、功罪の如何を問わず、正確に日蓮を素描することが、一切の考証の基本になります。まずその素描を正確にし、その資料を共通の議論の題材にしたうえで、次の議論へ進まなければ、いつまでも、証拠もない自分勝手な思い込みの押し売り以上の議論にはなりません。これは時間の無駄です。

前に進むためには、まず日蓮を在る程度、正確に素描できる知識と教養を身につけることが先決ということになります。


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