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勤行について

63犀角独歩:2004/09/29(水) 17:02

方便品に「童子戯 聚沙為仏塔 如是諸人等 皆已成仏道(童子の戯に 沙を聚めて仏塔と為る 是の如き諸人等 皆已に仏道を成じき)」という有名な一節がありますね。
三吉さんが仰る易行の精神を、わたしこんなところに見ます、「幼稚」というのは稚拙というより、こんな駆け引きのない純粋な一念のことかと。

この法華経に記される子供の話は、わたしはたぶん実話ではないかと思います。法華経を創作した人々が見聞したことをモチーフにしたのではないでしょうか。そんな意味で古代から、実は仏教には、言われるような‘易行’を常に孕んでいたと類推します。
「南無阿弥陀仏」というと当時は真新しかったのかもしれませんが、古来より三帰(南無仏・南無法・南無僧)は仏教のお定まりでしたし、修業ができない在家が食を施すことは出家の修業に対すれば明らかに易行でした。

それに対して、蓮師が示す法華経信仰は、現実社会に叩き出し、法華経のために命を捨てることを迫ります。蓮師自身、刎頭を望み、また為政者・念仏者に迫り、ついには熱原農民は弥四郎男をはじめ三人が斬首に処されました。伝・興師の遺誡では「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事」といい『富士一跡門徒存知事』でも「日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩」と言います。身命を捨てて刃傷を被り、さらに追放されるほどのことが「一分の信心」だと言うのです。

真跡を遺さないながら『如説修業抄』では「一期過ぎなむ事は程無ければ、いかに強敵重なるとも、ゆめゆめ退する心なかれ、恐るヽ心なかれ。縦ひ頚をばのこぎり(鋸)にて引き切り、どう(胴)をばひしほこ(菱鉾)を以てつヽき、足にはほだし(絆)を打ってきり(錐)を以てもむとも、命のかよ(通)はんきは(際)ヽ南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へて、唱へ死にヽしぬる」ことを迫ります。「南無法蓮華経」と唱えることは、結局のところ、身命を喪うほどの覚悟を以て絞り出す一唱と思えます。

沙の仏塔を作る子供の仏道の成就は否定しません。けれど、口先三寸、小学生でもできる勤行なんていうふやけた根性で、命懸けの日蓮への承継など、まさに「お題目」でしょう。南無、妙法蓮華経を成就するために、そのお前の頚を差し出せと迫る蓮師の気迫は、易き行などととてもわたしには思えるものではありません。

もとよりわたしは創価学会の指導で五座三座の勤行を25年し続けたのは揺るがない事実です。それがいまさらになって「江戸時代以降の僧侶の儀式」だなんて口上を聞くに付け、ならば「過去50年間、その僧侶の儀式をやらせてきたのはどこのどいつだ。巫山戯るな!」と一喝したのはそのためです。

ただしかし、唱題易行ではなく、法華易行を『守護国家論』に蓮師が陳べていたことは事実であり、この点は、わたしは素直に受け容れることとして、問答さんとの有意義な今回の議論を畢えさせていただくこととします。有り難うございました。


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