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勤行について

119愚鈍凡夫:2004/10/04(月) 07:43

石山では五座三座の勤行の依文として、日寛師が金沢の信徒に送った文を引用するようですね。

「林氏勤行の次第を尋ねられ候。当山行事の次第、初座は十如寿量諸天供養、二座は十如世雄寿量本尊供養、第三座は十如寿量祖師代々、四座は十如寿量祈祷、五座は十如寿量法界回向なり。是れ則ち丑の終わり寅の始めの勤行なり。若し黄昏は初座十如寿量本尊供養、二座十如寿量祖師代々、三座自我偈三巻法界回向なり。若し堪えたらん人は本山の如く相勤むべし。若し爾らずんば十如自我偈題目なりとも五座三座の格式相守るべし。但し仕官の身公用杯の時は乃至題目一遍なりとも右の心むけに相勤むべしと御伝え候可く候。」(報福原式治状)

方便寿量読誦に変わりありませんが、寿量と自我偈を区別していますから、寿量とあるのは長行のことなのでしょうね。それと、この頃は二座は方便長行でなく十如世雄偈だったんですね。

日達師によると、五座の勤行様式は12世日鎮師の頃には既に存在していたそうです。ちなみに、5月1日の夜が御影堂・天壇・本堂の順で、明くる2日の朝が御影堂・天壇・本堂・御影堂・大坊六壺といった順で勤行が行われたとの記録があるそうです。

120犀角独歩:2004/10/04(月) 08:35

愚鈍凡夫さん、院師の頃、本堂には、何が入っていたのでしょうか。
精師以降の言い分では「戒壇本尊」は秘蔵厳護で宝蔵。けれど、達師によれば、御影堂建立当初は、そこに安置。
そもそも有師は「当宗の本尊の事。日蓮聖人に限る」と明言しているわけです。となれば、本堂は御影堂しか有り得ないことになりますが、それとは別に本堂があったというわけですね。
「本門戒壇之大御本尊」は身延已来なんていう伝説は放っておいて、たんたんと事実だけを睥睨するとき、石山の上古の本堂には何が祀られていたのでしょうか。

121一字三礼:2004/10/04(月) 09:07
> 随身一体仏=仏、註法華経=法、蓮師遺骨=僧の三宝になっていることに着目しました。ですから、随師仏のこの場所への安置は、石山が言うような「墓場に捨て置いた」とのとは意味が違い、むしろ、三宝参詣の意義が具わる様式になっ
ていたと考えます。

この着想には目から鱗です。「経は同じく墓所の寺に籠め置き、六人香華当番の時之を披見すべし」(宗祖御遷化記録)この御文も三宝参詣の趣旨から考えればわかり易いですね。

122犀角独歩:2004/10/04(月) 14:44

一字三礼さん、恐縮です。

123愚鈍凡夫:2004/10/04(月) 15:08

日達師は、飽くまでも「戒壇之本尊」は蓮祖図顕、日法彫刻という立場ですから、師には何の疑問もないのではないでしょうか。
本堂に「戒壇之本尊」、御影堂に「蓮祖生御影」が石山12世日鎮師の時代に存在していたのというのが日達師のイメージとして完成していたのではありませんか(現実に存在したかどうかは別として)。石山住職の立場として、歴代住職の著作を否定するわけにもいかないでしょうから。
「弁護になってないなぁ」 ( ̄Д ̄;;。

124愚鈍凡夫:2004/10/04(月) 15:32

誤→本堂に「戒壇之本尊」、御影堂に「蓮祖生御影」が石山12世日鎮師の時代に存在していたのというのが日達師のイメージとして完成していたのではありませんか(現実に存在したかどうかは別として)。

正→本堂に「戒壇之本尊」、御影堂に「蓮祖生御影」が石山12世日鎮師の時代に日達師のイメージの中では存在していたのではありませんか(現実に存在したかどうかは別として)。

です。m(_ _;)m ゴメン!!

125犀角独歩:2004/10/04(月) 17:39

愚鈍凡夫さん、そうですよね。
で、その達師の固定観念からの早計は別として、実際は何が入っていたんでしょうか?

126愚鈍凡夫:2004/10/04(月) 19:48

犀角独歩さん、どうも。
もし、日達師の言うようにあの時代に本堂があったとすれば、例の日有師の「板漫荼羅」が安置されていて欲しいと個人的には思います(このほうがリアリティがありますから)。

127一字三礼:2004/10/04(月) 20:17
> 119

日有師の頃にはあった方便品長行の勤行が日寛師の時代には無くなってしまったようですね。なぜなのでしょうか、理由が気になるところです。

方便品長行の意義は、一大事因縁、開示悟入等に拠って二乗作仏を明かす事。

三転読(十如是)の意義は、十如に約して空・仮・中の三諦を知る事。

こう考えますと十如是の勤行は、一心三観の延長線上にある教相観心の行法で著しく天台ばりの様に思えてしまいます。

128空き缶:2004/10/04(月) 20:21

お久しぶりです。

鎮師のころは御堂=本堂なんではないでしょうか?越前法橋快惠作の等身大御影尊が安置されていたのではないでしょうか。

この御堂が後に精師の代に「本門戒壇本堂」となったのではありませんでしたっけ?

129一字三礼:2004/10/04(月) 20:39
平和創価さん、はじめました。

> 私は蓮祖の大曼陀羅の原型は虚空蔵菩薩像等の仏画であったと思います。

蓮祖ご自身は御本尊(大曼荼羅)について
「人疑って云はく、経論になきか、なければこそそこばくの賢者等は画像にかき奉り、木像にもつくりたてまつらざるらめと云々。しかれども経文は眼前なり。御不審の人々は経文の有無をこそ尋ぬべけれ。」(新尼御前御返事)
と根拠は法華経であると主張されております。
しかし、平和創価さんがご主張の様に構成上の参考にされたものはあったのではないか、と私も想像しております。
長谷寺の法華説相図など蓮祖が参考にされたのではないか、と思います。

130一字三礼:2004/10/04(月) 20:44
平和創価さん失礼いたしました。

はじめまして、でした。(冷やし中華かっつーの!)

131平和創価:2004/10/05(火) 13:15
一字三例礼さん。有り難う御座いました。
やはりお気づきになりましたか、私は以前東京国立博物館で鎌倉時代前後の絵曼陀羅
を見ました時、驚くほど御本尊によく似た絵曼陀羅が有ったため、もしかしたら蓮祖
はこのような絵曼陀羅を御本尊の構成上の参考にしたのではないかと思い、一幅の絵
曼陀羅をコピーして保存したのです。

私が見た絵曼陀羅は中央に菩薩像か観音像があり、四隅に四天王が配置され更に日天、
月天、明星天まで御本尊とほぼ同じ位置に配置されていたと思います。それはあの准
胝観音像ではなく、別の絵曼陀羅でした。恐らくどこかの寺院所蔵の絵曼陀羅である
と思います。これは「素朴な疑問」のスレに書くべきことなのですが、一字三礼さん
に初めてお会いした機会に申し上げます。御本尊の題目が髭題目と言われるように跳
ねているのは、絵曼陀羅の菩薩の多数ある腕と関係があるのではないかと私は思いま
す。このことは「素朴な疑問」の所で一字三礼さんその他識者の方からご意見を頂け
れば私の疑問は氷解するものと思っております。

132平和創価:2004/10/05(火) 13:29
一字三礼さん。失礼しました。「例」を消し忘れていました。

133愚鈍凡夫:2004/10/05(火) 18:12

方便品読誦が長行から十如是に簡略化されていったのは、日蓮本仏論の論理的完成が関わっているのかも知れないと思っています。

蓮祖の仏教は本因妙であり菩薩道である。そして、台家に相対すれば「事の一念三千」である。従って方便品で重要なのは一念三千を支える十如実相なのである。

ってことになって、最終的に十如実相までになっていったのではないでしょうか。

>>131:
蓮祖漫荼羅の件ですが、小生は現在以前とは少し違う仮説をも視野に入れています。まだアイデアの段階なので裏付けはありませんが・・・・・。
傍証などが見つかって、カキコ出来る状態になれば投稿してみようかと思っています。

134平和創価:2004/10/05(火) 18:55
愚鈍凡夫さん。
まあそうですね。この問題は次回は「素朴な疑問」スレでお話しましょう。何故蓮祖
の曼陀羅が南無妙法蓮華経の七文字だけが跳ね文字になっていて、他の文字はそうで
はないのか。また北山本門寺の日興上人の御本尊の題目は跳ね文字ではないが、京都
妙顕寺の日像の曼陀羅の題目は跳ね文字になっています。蓮祖の御本尊と言われる曼
陀羅を拝見したところ、題目は跳ね文字になっていました。この謎は深まるばかりで
す。あまり深入りすると支障が出ますので、この問題は愚鈍凡夫さん他、識者の方の
確定的な結論が出るまで待っております。では私自身の勉強がありますので、お世話
になった方々に御礼を申し上げて、ここでの投稿は終わらせて頂きます。

135一字三礼:2004/10/05(火) 20:30
これは以前、犀角独歩さんもご指摘されていたことですが、十如是三転読の正しい読み方は、

① 是相如、是性如、乃至是報如(空の義)
② 如是相、如是性、乃至如是報(仮の義)
③ 相如是、性如是、乃至報如是(中道の義)

ところが、現在では②を続けて3回読むので、「空・仮・中」ではなく「仮・仮・仮」となってしまい、「法華玄義」に説かれる意義さえ失った行法となっております。

> 蓮祖の仏教は本因妙であり菩薩道である。そして、台家に相対すれば「事の一念三千」である。従って方便品で重要なのは一念三千を支える十如実相なのである。
このお考えには賛同いたします。
しかし、日蓮本仏論の影響はどうでしょう。単純な形での十如是三転読は石山のみならず、日蓮本仏を主張しない日蓮宗でも行うところです。単純に考えますと、かつて日蓮宗の僧侶が天台の仙波等の学林で学んでいた影響、いわば中古天台本覚法門の余波というのはどうでしょう。

136犀角独歩:2004/10/05(火) 20:44

> 一字三礼さん:

> 十如是三転読の正しい読み方

まったく以てしかりだと思います。わたしは一人で勤行をするときは、必ずご指摘のように三転して読んでいました。

> 日蓮宗の僧侶が天台の仙波等の学林で学んでいた影響

なるほどと思った次第です。
いまは石山は富士学林ばかりで閉鎖教育を行っていますが、それ以前、ことに戦前までは、日蓮門下は檀林で寄り集まって学び合っていたわけですね。ここでは、皆そろって勤行をし、同じ開版御書を用い、その他資料も共用していたという想像は外れていないと思います。
訓読にしても、石山と他山でも特に大きな差異があるわけでもなく、この点は、戒名の付け方、寺院荘厳などにしても大差はありません。
ですから、この三転の様も然るべきで、日蓮門下で共通しているのだろうとわたしは思っておりました。

137愚鈍凡夫:2004/10/05(火) 21:41

一礼三字さん、御指摘頂き有り難うございます。

「若し堪えたらん人は本山の如く相勤むべし。若し爾らずんば十如自我偈題目なりとも五座三座の格式相守るべし。」(報福原式治状)

やはり単純に、信徒が毎日、勤行をやりやすいようにとの配慮からでしょうか。

138犀角独歩:2004/10/05(火) 21:51

128 空き缶さん:

> 鎮師のころは御堂=本堂

愚鈍凡夫さんのご呈示に「御影堂・天壇・本堂」とあります。ここでは御影堂と本堂が別になっていますね。

139愚鈍凡夫:2004/10/05(火) 21:58

> 一礼三字さん、御指摘頂き有り難うございます。

一字三礼さん、ボ〜ッとしててHNを間違ってしまいました。
ごめんなさい。 m(_ _;)m ゴメン!!

140愚鈍凡夫:2004/10/05(火) 22:10

空き缶さん、犀角独歩さんに指摘されるまで気づきませんでした。m(_ _;)m ゴメン!!

日達師は、石山12世日鎮師の頃の勤行の様子を次のように指南されています。

「また2日の朝も、同じく御堂において御経をあげるのは三師の供養、天御経は天拝、それから大堂で御経をあげたのは本尊供養、最後に再び御堂に参って広宣流布の御経である。そうすると、一般の回向は、大坊に帰ってから六壼においてした、と考えられますから、五座の御経というのはこの時代にあったのだ、ということが明らかに分かります。各堂について、それぞれ御経をあげて廻ったのであります。また、天拝というのは天壇を設けて御経をあげたことが分かります。」(総本山大石寺諸堂建立と丑寅勤行について)

これは、御堂=御影堂、大堂=本堂という認識でいいのではありませんか。

141空き缶:2004/10/05(火) 22:31

御堂を御影堂としたのは精師であったと思うのですが、私の記憶違いでしょうか。

この時代は御堂=本堂であると思います。

142愚鈍凡夫:2004/10/05(火) 22:45

空き缶さん、
では、日達師が「同じく御堂において御経をあげるのは三師の供養、」、「それから大堂で御経をあげたのは本尊供養、」、「最後に再び御堂に参って広宣流布の御経である。」
と発言されていることをどのように解釈されますか。
小生は先にも記しましたが、日鎮師の時代に「御影堂」や「本堂」が存在したかどうかを問題にしているのではありません。日達師は、この時代に、各堂を巡りながら五座三座の勤行を励行する型式が出来上がっていたと、発言されていることを紹介したまでです。

143犀角独歩:2004/10/05(火) 22:52

空き缶さん:

れんさんが引用された鎮師の「本堂…天御経…御影堂…大堂」とあります。
この文では、明らかに本堂と御影堂は別になっていますね。

144犀角独歩:2004/10/05(火) 22:55

愚鈍凡夫さん、勤行はまあ、略式でもやらないよりはやったほうがいい、そんな感覚があったのでしょうね。

ところで、これまた、三学無縁さんと話していたことなのですが、石山では正行唱題・助行勤行ということを言うわけですが、これは寛師あたりがいいまとめたところで、蓮師にそんな考えはあったのでしょうか。唱題行と勤行、実はこれはまるで意義が別のものであり、正助などという分類するものではないと思えるわけです。

唱題行は妙法蓮華経への帰命で自行、しかし、勤行は報恩・祈念・回向他行という違いがそもそもあります。堂宇ごとに別々になされていた勤行がひとまとめになった五座を漫荼羅の前でするようになるにはそれなりの道程があったわけですが、蓮師の時代、唱題と勤行(所作)もまた、別に成されていた可能性があるように思えます。


一字三礼さん、蓮師は少なくとも漫荼羅に向かって勤行はしなかったと思うのですが、釈迦一体仏へは何らかの所作を行っておられたと思うのです。けれど、本尊供養(釈迦像への勤行)は釈迦像のないところ、所持していない人は行わなかったでしょうね。

それはともかくとして、(註)法華経を安置し、そこに向かって読経をする、このような所作はあったのでしょうか。いまはその名残をどこに見られるのか…。ROM信徒さんが宝前の法華経安置を仰っていましたが、これはいまに残ります。(石山宝前の箱は体としても)

法華経典への勤行は、やがて、妙法蓮華経の五字に収斂され、やがて、漫荼羅に取って代わっていったなどという変遷をわたしは想像するのですが、この点、どのようにお考えになりますか。

145犀角独歩:2004/10/05(火) 22:59

また、打ち間違えました。

誤)石山宝前の箱は体としても
正)石山宝前の箱は空だとしても

146空き缶:2004/10/05(火) 23:29

私は御堂=本堂だと思います。鎮師の「本堂」と「御影堂」は同じものを指して別称しているだけだと思います。

①また2日の朝も、同じく御堂において御経をあげるのは三師の供養、

②天御経は天拝、

③それから大堂で御経をあげたのは本尊供養、

④最後に再び御堂に参って広宣流布の御経である。

⑤そうすると、一般の回向は、大坊に帰ってから六壼においてした、と考えられますから、

この①と④が同一個所で行われているわけですが、それが鎮師遺文には「本堂」と「御影堂」と書かれておりますが、実際にはどちらも御影を安置した「御堂」の事だと思います。

富士門流では大石寺にかぎらず、御堂のことを時に御影堂、時に本堂、時に祖師堂などと呼び名が変わっています。その時の勤行次第の内容によって、同一の堂であっても違った意味合いで使用することから呼び名を変えていたとも考えられます。

勤行次第の詳細は正直門外漢ですが、石山十二世鎮師とほぼ同世代を生きられた、保田中興の我師「化儀秘訣」では六座の勤行次第が伝えられていますので、この時代に石山でも五座の勤行次第があっても不思議ではないと考えます。

147犀角独歩:2004/10/06(水) 00:30

いやあ、空き缶さん、何か執着されている部分はあるのかも知れませんが、146に記されるところはまるで説得性がありませんよ。

148愚鈍凡夫:2004/10/06(水) 00:44
空き缶さん、
日我師がこういう文を残されているそうです(但し、日亨師は日我師の正筆を見ていないそうですが)。

「求めて云はく廻向の次第如何、答へて云はく三堂各別の時は先づ御堂にて両品、其次き本尊堂にて寿量品一座、鎮守堂にて同く一座なり、両堂の時は御影堂にて両品一座、本尊堂にて二座なり、一堂の時は三座とも同座なり、客殿之れに同じ、但た堂と客殿との行事次第相替るなり、両義有り能く々之れを習ふべし、正月朔日、二日、六日、十四日の晩、何れも明日の対夜なる間三座なり、節分の夜も三座なり、何れも年の夜と云ふいはれなり、夜に入り上人御堂へ歳末然して年中諸願皆令満足なり。」(年中行事)

これも、同一の堂を「鎮守堂」、「御影堂」、「本尊堂」と呼称していたのでしょうか。

149空き缶:2004/10/06(水) 01:12

愚鈍凡夫さん、「三堂各別の時」は「鎮守堂」、「御影堂」、「本尊堂」と呼称していたということが書かれている部分だと思います。
そのあとの一堂の時の呼称が不明ですね、前後からもそれらしきものが発見できませんので、一堂の時がなんと呼称していたかがわかりませんね。

犀角独歩さん、146の執着は私の拠ってたつところからの発露でしょうね。

150愚鈍凡夫:2004/10/06(水) 01:34

>>148:
この文からいえば、「御堂」とは「御影堂」を指していると思います。
したがって、「御堂」=「本堂」ではないのではないでしょうか。
それに、日我師は、三堂別棟の時と、一堂の時との行事次第の違いを述べているのではありませんか。

空き缶さんの主張で分からないのは、一つの堂を呼び換えるとするならば、理由は何なのかということです。
言い換えなければならないといった、遺戒でもあるのですか?

151空き缶:2004/10/06(水) 01:54

調べてみますと、十四世主師筆の大石寺図絵(富士門流の信仰と化儀に写真掲載)には「本堂」「御影堂」「天経」の三堂がかかれていますね。

ということは十二世の段階で、少なくとも三堂があり「御影堂」と「本堂」が別であった可能性大ですね。早くも執着が崩れてきました、、、

私の想像では、京都から住持が来るまでの大石寺は、貧困寺院で多くの伽藍は無かったのではないかと考えていたのですが。

152一字三礼:2004/10/06(水) 09:13
犀角独歩さん
> 144
> 唱題行と勤行、実はこれはまるで意義が別のものであり、正助などという分類するものではないと思えるわけです。

このお考えは大いに賛同します。唱題と勤行が別意か否かについては、掘り下げて考察したいところです。

> (註)法華経を安置し、そこに向かって読経をする、このような所作はあったのでしょうか。

法華経を安置し、それに向かって読経する、という事は環境の許す限りなさっていたのではないかと思います。その理由の1つとして私が考えるのが(注)法華経の存在です。蓮祖はご生涯の中で幾度かご所持の法華経典を失われている事は「種々御振舞御書」等から想像されます。龍ノ口法難の時には捕り方に踏みつけられて破られてしまったようですし、その他の法難でも燃やされたりする事もあったのではないでしょうか。
そんな中にあってやはり(注)法華経の存在は特殊です。(注)法華経には蓮祖の長年の法華経研鑽が凝縮されております。また、あれほどの覚書きのような書き込みをされているところを見ると、ご所持された期間も相当長かったのではないでしょうか。この(注)法華経のを安置し、別の法華経一部を手にとって読経されていたのではないでしょうか。

153犀角独歩:2004/10/06(水) 10:20

空き缶さんは、たしか妙本寺さんの御影様を信仰なさっていた、そんなお立場でしたね。
そのことからすると、本堂を御影堂とお考えになるお気持ちはわかるのです。
まあ、それはそれとして、ちょっと、石山のおさらいをしたいと思います。

石山では文献から見ると上古は(弘安2年?)二千二百三十余年漫荼羅の信仰があり、有師の辺りでは本尊を日蓮聖人(御影)に限るといい、江戸の頃には弥四郎漫荼羅信仰が定着し現在に至るという流れが窺えます。北山では石山とその点ではあまり大差はなく、それでも中世は(大石寺誑惑顕本書の記述を信じれば)鉄砲漫荼羅、禅師授与漫荼羅信仰があったように見えます。その他はわたしはあまり資料を追っていないので省きます。

まあ、そんな背景で、石山では精師が御影堂を本門戒壇堂と言って実質、本堂に据えた以降、仰るような御影堂=本堂は定着しました。ところが近年、正本堂という名称でもって弥四郎漫荼羅安置の堂宇を建立したわけですね。こうなると、御影堂はどうなるのか。石山の仏語慣習からすれば、正の反対は「邪」なのですが、まさか御影堂を邪本堂というわけではないと思います。では仮本堂に格下げになったのかというとそうでもなかった。要はそれまで数百年、御影を祀る場所を本堂としてきたのを、弥四郎漫荼羅を祀る場所を本堂と言い換えたという変遷に図らずもなったと言うことでしょう。その後、正本堂は解体して、新たに奉安堂と名前を改めた。こうなると、御影堂は本堂でなくなった近代史からして、現石山には実は本堂と言えるものがなくなっていることに気付けます。

上古から中世以前、空き缶さんが問題にされる辺りではどうであったのか。わたしもたいへんに興味があります。たしか「日興持仏堂安置」の漫荼羅というのがあったと記憶します。現石山人の感覚からすれば、ここでいう持仏の仏は御影、もしくは大漫荼羅であると言うでしょう。でも、わたしは違うと思います。興師の持仏像というものが在世には存在し、それを祀った背に懸けていた漫荼羅であろうと思うわけです。もしかしたら、これは仏画であり、並べ懸けていたのかも知れません。(精師文献に興師に係る仏画の記述が見られます)しかし、こんな主張をわたしがすれば漫荼羅正異論者は言下に否定するでしょう。最近では当掲示板は静かなものですが、それは学会を含む石山系信念体系者の感覚の変化ではなく、当掲示板ロムの日蓮本仏・弥四郎漫荼羅信仰者の沈黙に由来するばかりでしょう。これがまた、創価学会となると「生命」に対する極端な執着が窺えるところとなります。

まあ、要するに、これらのことで一括して言えることは、事実的な論究をするときに、自分が拠って立つ信仰対象への思いが事実認知を曲げてとらえさせることが起きているということです。空き缶さんは、しかし、実に冷静に考えようとされてきた。けれど、ご自身でお応えになったように、「拠ってたつところ」からのお考えと、冷静な認知の間を揺れ動かれてお出でなのであろうとお見かけするわけです。まあ、ここでは妙本寺さんのことはともかくとして、石山のことです。いったん、拠って立たれるところから離れて、ご賢察をお聞かせ願えればと思います。

154犀角独歩:2004/10/06(水) 10:21

―153からつづく―

前置きが長くなりましたが、わたしは個人的には有師以前に石山は廃寺同然になっていた、それを何条家という血筋から有師がかなりのところまで復興したのではないかと考えています。板漫荼羅を造立したり、京まで赴いたりした有師は資金力、経営力、また政治力もあったと類推できるからです。そこである程度の規模があったからこそ、天文法難で灰燼に帰した要山が興師の聖地として石山を仰ぐ気風も生じ、その通用から住職もそこからやってくるという一連の経緯も生じたのではないかとも考えます。

そんなところで、先に愚鈍凡夫さんにも問うた当時の石山本堂にはいったい何が安置されていたのか?という点に就き、ご賢察を頂戴できればと思います。もちろん、これは御影堂には御影、では、本堂には?という意味です。同じように石山の天堂には何が祀ってあったのか、わたしは興味が惹かれます。天拝のための露壇が堂に変遷したとすれば、そこに祀られるのは、当然、諸天善神となります。しかし、これを「本尊」の形貌に表すとすれば、どうなるのか。これは現石山からでは想像を絶しています。また、天堂は諸天善神のための堂宇ではなく、その機能は天照大神を祀るもので、垂迹堂と同義ではないのかと思えるわけです。北山であれば、どうやら、垂迹堂(天照大神)と八幡社(八幡大菩薩=神)が漫荼羅図示の日本二神として、建立されていました。石山ではしかし八幡社があったという文献を知りませんが、これはわたしの知識が浅薄であるからかも知れません。もちろん天(王/主)堂≒垂迹堂は近代まで建っていたわけです。明治以前は神仏習合の寺院であり、その事情は廃仏毀釈を経たのちも、先の敗戦まで何ら変わっていなかったわけです。

ここ『勤行について』スレッドにおいて、以上のことを記すのは、漫荼羅正意の信念体系にある人からすれば、勤行は漫荼羅にするものと相場は決まっているけれど、史実からそれを探れば、仏像、あるいは神に対して行っていたものが、単に漫荼羅に向かう形に略式化されたという現実を突きつけることになるからです。

空き缶さん、愚鈍凡夫さんをはじめ、皆さんのご賢察をいただければと願うところです。

155愚鈍凡夫:2004/10/06(水) 11:39

空き缶さん、確認させて下さい。

「一、御堂造の事。
問ふて云はく本尊堂御影堂客殿等の方角如何、答へて云はく委細記するに及ばず先づ当流広布の時・三堂等慥かに建立有るべしと見へたり、然る間但今は不定なるか、然りと雖も一説に能開所開を以て云ふ時、本尊は所開御影は能開、御影は所開、住持は能開等云云、所開は死門能開は生門・之れに依つて多宝は左釈迦は右本尊の示書にも日蓮は左り書写の人は右、去る間本尊堂は左り御影堂は右、御影堂は左り客殿已下は右なり、重須大石等此くの如し云云、」(化儀秘決)

「化儀秘決」が本当に日我師の筆によるものならば、「重須大石等此くの如し」とあります。これは、本文での日我師の説明通りに重須・大石ともに三堂が建立されている、との意味ではないですか。逆の言い方をすれば、日我師の時代には重須・大石ともに三堂が建立されていたのではないでしょうか。

156空き缶:2004/10/06(水) 12:22

愚鈍凡夫さん、確かにそのようです。
この中で、三堂の内訳が明確?なのは重須ですね。御影堂・垂迹堂・本門寺根源。
言い換えれば、この三堂と同様のものが妙本寺にも大石寺にもあったということになりますね。

そうなると
「御影堂」  =「御影堂」  =「御影堂」
「垂迹堂」  =「天経」  =「鎮守堂」
「本門寺根源」=「本堂」  =「本尊堂」
となりますね。

どうやら妙本寺では、「本尊堂」には今は宝蔵にしまいこんでいる「板曼荼羅」を安置していたようです。

157愚鈍凡夫:2004/10/06(水) 13:03

空き缶さん、賛同頂き有り難うございます。
となると、石山・重須・妙本寺ともに座を換えての勤行が同じように行われていたと言うことでしょうか。また、富士門流では五座三座の勤行に方便寿量読誦を用いるのは日興師の遺告ということになるのでしょうかね。

日亨師は、方便寿量読誦は日興師以来の遺告としているようですね。

「まして況んや仏法の中でも最尊至極の法華本門の究竟の極説をば・日興が手許から盗んで・をいて・却て自分が考へ出したやうに・ふれまはる暴逆の人たる天目は何で無間地獄の苦しみを免れやうぞ、仏天の御照覧は冥に在つても明かなことぢや・畏こみ恐るべきことでは・ないか、此は大体の本門に付てぢやが・次に方便品を読むことの疑難に付ては・何たる荒量のことぢや、汝ぢ法門の立破を弁へてゐるなら・口に出せるものぢやない、其のみならず先師聖人は題目の正行に加ふるに・助行の方便・寿量の二品読誦を定めてをかれた、」(五人所破抄訳解)

158犀角独歩:2004/10/06(水) 13:41

一字三礼さん、わたしは個人的には蓮師寓居には、一体仏・その御前に註法華経、華香灯を捧げ、自我偈を読誦された。そこで徐に註法華経を開いて弟子に講義をされた。そんな風景を想像しています。複数、法華経を所持されておられたかどうか。どうもこの辺りはわかりません。けれど、仰るところ、一々に頷かせていただきました。

もう一つ、ご意見を窺いたい点があります。以下、問答さんの議論をしたことがある点です。

『本尊抄』に「宝塔居空 塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩」という一節があります。この「塔中」というのは文字通り、「塔の中」ではないのかとわたしは考えてきました。つまり、空にある宝塔の中に、妙法蓮華経があり、その左右に釈迦・多宝、釈迦が従えた脇士四菩薩もあるという様です。四菩薩のどこに居ますかは、置きます。

所謂、一塔二尊四士の奉安の場合、妙法蓮華経を塔に見立て、その左右に釈迦・多宝、そして、四菩薩という具合になっています。この場合、仏菩薩は「塔外」という作りです。わたしはこの仏像奉安は甚だ不可であると思うわけです。仏菩薩は「塔中」でなければ、『本尊抄』の記述と合致しないと考えます。是一

また、ここで記される妙法蓮華経を門下共通の教学では「妙法蓮華経」の五字と、さらに南無妙法蓮華経の‘五字’としています。しかし、わたしは『本尊抄』にいう妙法蓮華経とは経典そのものを指すのではないのかと考えてきました。つまり、法華経典が安置され、そこに多宝仏が居ます宝塔であり、その座を分かち、法華経典の左右に釈迦・多宝が居並び、四菩薩も納まる形であると考えてきました。是二

法華経を殊に梵本直訳から読むと、そのコンセプトは舎利信仰から舎利奉安仏塔信仰、そこから発展して経典奉安宝塔への信仰が混在した記述になっていることが窺えます。その反映がまさに虚空会、宝塔に係る壮大な物語を構成していると思えるわけです。蓮師が扱ったのはもちろん漢訳のほうですから、梵本の読後感は、直ちに当て嵌まりませんが、天台道場などの有様も含めて、経典を祀り読経供養するという在り方は、以上のような背景から生じてきたのではないのかとわたしは考えてきました。

釈迦多宝、四菩薩は法華経典と共に塔の中、この愚見に叱正を頂戴できれば有り難く存じます。

159空き缶:2004/10/06(水) 15:05

犀角独歩さん、有師の代に大石寺が教学的にも伽藍的にも復興してきたことは確かだと思います。

有師以前の荒廃は、係争費用による困窮化であったと思います。

妙本寺の本尊堂に安置された「板曼荼羅」は弘安二年の椌字曼荼羅本尊ですが、これは以前れんさんが小泉久遠寺に宗祖真筆(伝)があるといわれていたものの模刻本尊だと思います。

これを例に考えますと、大石寺の「本堂」には何らかの「板曼荼羅」があったと考えられますね。

160犀角独歩:2004/10/06(水) 15:22

空き缶さん:

> 大石寺の「本堂」には何らかの「板曼荼羅」

やはり、そのようにお考えですか。
たしかに道師辺りで既に漫荼羅正意は喧しかったと言いますから、まあ、本堂安置の‘本尊’は漫荼羅、ここまでは、そうであろうと思います。実際のところ、有師板漫荼羅が残りますが、それ以前、石山で板漫荼羅というのは何か残っているのでしょうか。なかったからこそ、有師は造立したと考えることは出来ませんでしょうか。

161ROM信徒:2004/10/06(水) 17:58
次第に「勤行の原点」というふうな話しになって来ましたね。
余談ですが、僕は『日蓮本仏・弥四郎漫荼羅信仰者の石山系信念体系者の感覚』に拠って立っている所から、
いったん離れて、参加させていただけるのがこの掲示板の醍醐味であろうかと、いつも思ってROMしています。

さて、「勤行精進」という語もあり、皆さんもそうでしょうが、小さい時から躾られた我が身としてはそもそも
「おがみいのる」という感覚はありませんでした。「おがめばかなう」式の話しには、「おたのみねがう」があるようで
かなり大きな違和感があり、やはり「勤行精進」の中途や果てについてまわる出来事が自分にとっての
それなりの「功徳(善き事)と難(悪しき事転じて善き事)」に配当されているような気がしているからです。

かく申した上で宗祖は何を拝んでいたか、となれば、意義としてある特定の対象に
「おたのみのおがみこみ」はしていなかったと思います。
方角としては宗旨建立の際の東方日の出に向かう話しやその他からも一人の時は「日月」を拝されていたのではないでしょうか。また私見ですが生まれ故郷の安房小湊方向にも向かわれていたような気もします。

ここで「五人所破抄」を用いてもよいのであるならば、興尊の
「次に随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛・月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せ ば須(すべか)らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云。」
というのは、「何ぞ輙(たやす)く言うに及ばんや」との問いに対してのものでありますが、弟子はいうにおよばず門下の方々も聖人が伊豆流罪の大難を克服された際の記念のものでありそれ故、
相当に尊く思われていたのは「尊容を拝するに歓喜身に余り、心の苦しみ忽ちに息む」との常忍殿の心情に、充分首肯するものです。(つづきます)

162ROM信徒:2004/10/06(水) 17:59
(つづきです)
またそれは興尊も同じであろうし、現在、比企妙本寺にあるかないかは、知りませんが僕も是非
拝したい思いはあります。ただ「執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば」からは「四菩薩を加う」事、つまり宗祖ほどの事をして惹起させたる大難にまつわって各々方にも「四菩薩の像」が出現すれば、かまわない、
つまり、ありえない事を「須らくいたせ」といって破されたと思うのです。(独歩さんからは怒られるかな)

延暦寺からの「遁世僧」である鎌倉新仏教の祖師たちは、その新教団創立時は極めて多忙であり、宗団を構成せんとする当の本人は強烈な吸引力をもって弟子の訓育に励まれたであろうし、受ける側の弟子たちも、とりわけ日蓮門下では、生身でさまざまに行動されている宗祖への思いは、学問を習う程度の師ではなく、時にはついていかれないようなお師匠様だったとも思いますが、それでも庵室を転々とされる師に付き従いながら、師の言葉を渇仰して聴聞し、「生みの苦しみ」ではないですが、問答や教示にも濃密な時を過ごされていたと思います。

ある意味、すべてに渡って新しい試みがされていた草創においては、追う方の旧態はさておき、追われて尚、
弘めんとする側においては、ともどもに「法華読誦・唱揚題目」そして「折伏、破権門理」をもっぱらにされていたと思います。身延の沢に至られて、落ち着かれたような感じもしますが、和泉公日法師に早々に造仏を
命じられたという話しも聞かないので、宗祖はただ一人独自の趣(おもむき)で、精進行たる「勤行唱題」を
されながら、祖師として、法義研鑚、訓育教示されていたのではないでしょうか。

古い往時を偲ばせる鎌倉妙法寺円明日澄師の「日蓮聖人註画讃」にも、弟子に背を見せて一緒になにかを拝んでいる画はなく、あるのは「法華経」を前にして弟子等に語りかけている画ばかりのようです。
ちなみにこの時代「官僧」がいまだ表向きは仏教の担い手であり、公の意味での仏像造立には幕府はもとより
「勅許」がなければならなかったであろうし、在家においてのものは私的に「彫像」を買い求める感覚で
彫り師に頼んで「お守り(なぐさみ)」として作らせたり、出来合いのものを入手していたように思います。

「本仏」だのなんだのは別としても、新教団設立の気概にあふれる遁世僧の祖師としては、また帰依した人たち
としては、「新たなる教え」である事には違いない訳でしょうから、宗祖の言われる事のひとつひとつ、やられる事のひとつひとつを習って真似るだけで、精一杯だったと思いますし、宗祖は宗祖でそれこそ、東奔西走、
落ち着いて既存の大寺や八幡宮等の官僧たちが執行する旧態依然とした行儀行法に近い事は、
するどころでもなかったのではないでしょうか。

163犀角独歩:2004/10/06(水) 20:11

ROM信徒さん:

161、162はなかなかの名文で読ませるものがありました。概ね仰るところは賛同するところも多々あります。ただし、

> 「五人所破抄」…興尊

という説はいまや石山ですら口にすることはなくなっているでしょう。
蓮師滅を去ること数十年、あるいは100年もあとの文章かも知れません。
その意味において、この説を興師の直説と考えることには慎重であるべきでしょう。
なお、この文中、「継子一旦の寵愛」という文にわたしは引っかかりを感じます。
ご承知の通り、六老のお一人、頂師は富木師が義父であり、また、天才の誉れ高き澄師も同様でした。このお二人は方や中山から、方や延山から北山に身を寄せられわけですね。このお二人がいらっしゃる北山の、それも檀所でこのような謂われ方をするわけはありません。もしこの文が北山で結ばれたものであれば、わたしは澄順方ではなく、代師方でないかと類推するところです。それもかなり時を経てからのことでしょう。故にこれを興師の言とすることには、一言申し上げなければなりません。なお、四菩薩を副えることについては興師が自説とされたのは、どうやら事実であり、これを真似た澄師はそれ故、批判を受け、その後、帰伏したという経緯があるのでしょう。なにより、原書の「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候えども、未だ木像は誰も造り奉らず候」という一節からは興師が非造像家であるとは見えません。

まあ、非像の先入観にとらわれず、資料を読まない限り、蓮興二祖の実像に迫ることは出来ないでしょう。

> 宗祖…東奔西走

はて、いつ蓮師が東西奔放されたのでしょうか。
40歳で伊東、50歳で佐渡に流された流人の身上、そんなことが出来るはずはありません。

> …旧態依然とした行儀行法に近い事

法華一巻を読み自我偈を上げるのは、かなりの時間を要するものであったでしょう。
いまのどこぞの勤行のように早口で唱えていたとは思われません。むしろ声明のように、意味が取れるほどの調子で唱えられていたとしたら、この行儀に要する時間は短いものではなかったでしょう。天台寺院に弟子の大半が寓居していた蓮師が、そもそも、修行を奨励するのが師の勤めです。その師が、その修行を簡略化するようなみっともない真似をなさるわけはなかったでしょう。

以上二点については、首を傾げました。

164空き缶:2004/10/06(水) 20:54

犀角独歩さん、よくよく考えますと重須ではどうだったのでしょう?

保田では板曼荼羅を本尊堂に安置したとしても、重須や大石寺までも同様とは限りませんね。
特に重須では「板曼荼羅」とはあまり聞きません。

ちなみに保田では、もともと「天経堂安置の曼荼羅」が相伝の中に含まれており、御影堂には御影、本尊堂には板曼荼羅、天経堂には紙幅曼荼羅であったと思われます。
いまいちわかりかねますが、現在の保田の客殿が旧本尊堂であったようです。

そうしますと大石寺ではやはり興師筆の譲座本尊なども考慮に入れたほうがよさそうですね。
ちなみに譲座本尊は何時頃から客殿にあるのでしょうか?

165ROM信徒:2004/10/06(水) 21:22
>先入観にとらわれず、資料を読まない限り、蓮興二祖の実像に迫ることは出来ないでしょう。

了解しました。

>蓮師が東西奔放

これは語弊がありました。意味は主に鎌倉洛内及び房総と岩本実相寺あたりまでの範囲において
を言ったものです。龍ノ口までの出来事を見ると忙しそうな感じがするからでした。

>修行を簡略化するようなみっともない真似をなさるわけはなかったでしょう。

そうですね。反省します。

>天台寺院に弟子の大半が寓居していた

この事をよく教えられていないのです。結局入倉中はどうだったんでしょう。

166一字三礼:2004/10/06(水) 22:27
犀角独歩さん

> わたしはこの仏像奉安は甚だ不可であると思うわけです。仏菩薩は「塔中」でなければ、『本尊抄』の記述と合致しないと考えます。

確かに『本尊抄』では、塔がすなわち妙法蓮華経とは書いておりませんね。「塔中」と言うからには、犀角独歩さんが仰るとおり、塔の中に妙法蓮華経が収まっていると読み取れます。本化の四菩薩も塔中に入るか否かは別として、妙法蓮華経の左右に並座する釈迦・多宝も塔中に収まる形とのご主張には賛同いたします。

やはり『本尊抄』の「其の本尊の為体・・」からの記述は、虚空会の儀式の再現を意図して描かれたものでしょう。そう考えますと、「宝塔」とされているのは「多宝仏塔」の事と理解できますので釈迦・多宝が並座しているのは塔中である言えると思います。

> わたしは『本尊抄』にいう妙法蓮華経とは経典そのものを指すのではないのかと考えてきました。つまり、法華経典が安置され、そこに多宝仏が居ます宝塔であり、その座を分かち、法華経典の左右に釈迦・多宝が居並び、四菩薩も納まる形であると考えてきました。

ご指摘の事に関しまして、熟考したことがありませんのでご期待には添えないかとは思いますが一言だけ。
「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏」この場面の考え方ですが。
「昔説かれた古い法華経と関連のある多宝仏」と、「現在法華経を説いている釈迦仏」との間を結び付ける“妙法蓮華経”という事ではないでしょうか。
そうであればこの妙法蓮華経はの性格は、過去に説かれた法華経から現在説いている法華経まで変わらない法華経のエッセンスであり、慣れ親しんだ表現を使えば無始無終、相・絶の二待を超えた絶待妙の妙法蓮華経ではないでしょうか。

私は、妙法蓮華“経”であっても“経”よりも“妙法”に重心がシフトしているように思います。
これは私の浅薄な考えなので、出来ましたら他の諸賢のご意見もお聞かせ願いたいと思います。

167犀角独歩:2004/10/06(水) 23:01

ROM信徒さん:

>> 天台寺院に弟子の大半が寓居
> …入倉中

仰る「入倉」という意味がよくわかりません。一切経の閲覧に蔵に入ったことを仰っているのでしょうか。

蓮師は、ご自身の寺院というものはお持ちではありませんでした。身延入山後も久遠寺とは名ばかりで本当に狭い一宇に住まわれていたわけです。弟子たちと常に一所に居住されておられたわけではありませんでした。
興師ですら、弘安元年に至るまで四十九院の供僧であったわけですね。お弟子の様子には関しては『四十九院申状』『竜泉寺申状』などをお読みになれば、この辺のところはおわかりになるでしょう。

供僧は当然、寺務法要に携わっていたでしょうし、その他、学僧なども準じていたでしょう。極端な話、蓮師はご自身が一宗を立ち上げたという自覚に基づいていたかすら、わたしは疑問を持っています。この人々は当然、天台の修業をされていたわけでしょう。それは換言すれば、蓮師ご自身、天台の修業を日々行われていたからこそ、天台僧が師として仰いだのではないでしょうか。ただし、天台宗と違うのは、そこの唱題という行が添加されたこと、のちに漫荼羅図示授与ということが加わった2点でしょう。この頃には、かなり独自な面も生じていたのかどうか、わたしはこの点にも消極的です。これらの試作は、寧ろ六老方の中でも独り興師が担ったところで、蓮師の修業伸す方に準じて天台を引き継いだ五老方からすれば、奇異に映じた部分もあったのではないかと想像します。

ただ、蓮師は三つの法門を主張されながら、題目と本尊については、よく宣べたものの、ついに戒壇義は語らず終いでした。この点を「志半ば」とわたしが記したことに日蓮本仏論者から反論もありましたが、わたしは蓮師は戒壇義を語ることなく没したと考えます。故に、蓮師が生きておわせば、どのように法門をその後、展開されて行かれたか、それを真剣に考えたのが興師であったのでしょう。試作の場は、まさに重須檀所であったとわたしは考えます。ここに天才・寂仙澄師を得た故に、天台に章安があった如く、興師の試作を、次々と具象化せしめていったのではないのかと、わたしは想像しています。けれど、澄師は寂してしまいます。そのあとを継いだ順師は、しかし、どうであったのでしょうか。この時期には、それでも檀所は安定期に入っていた、けれど、北山の地を引き継ぐ縁故者・代師と法義を継ぐ順師とにひずみが生じていったのではないのかと思えます。
この事情は、『富士一跡門徒存知事』と『五人所破抄』のズレに垣間見ることができるのではないのかとわたしは思っています。両書は同じ興師を仰ぎながら、そこに論じられるところに異見が生じているからです。いずれにしても、重須檀所こそ、ROM信徒さんが162に記されたような種々の試みが次々と行われていった場所だったのではないでしょうか。ここに蓮師在世にはなかった祖師崇拝に基づく御影信仰も発生したのでしょうし、蓮師には闡明に読み取れない漫荼羅を本尊とし安置する様式も発生していったのではないでしょうか。非像もやがて喧しく言われるようになり、興師在世かその後かわかりませんが、ともかく漫荼羅正意論は定着もしていったのでしょう。事檀義も、ここで濫觴を見るのだと思います。

以上、雑駁な記述です。碩学諸師のご叱正を仰ぐものです。

168問答迷人:2004/10/07(木) 06:59

犀角独歩さん

>法華経典が安置され、そこに多宝仏が居ます宝塔

虚空会の段階で、妙法蓮華経という経典が存在していた、という記述は、少なくとも、法華経二十八品にはなかったと思います。何しろ、如是我聞ですから。この点は、蓮祖も良く認識されておられたと思いますので、虚空会の有様を述べられる時に、塔中に法華経典が安置されていた、という構成を取られるとは、僕には考えにくいです。

やはり、妙法蓮華経という経典の法体としての妙法蓮華経であると思います。

169犀角独歩:2004/10/07(木) 07:37

164 空き缶さん:

> 保田…本尊堂には板曼荼羅

板漫荼羅なんですか。紙幅の大本尊ではなくてですか。

> 保田の客殿が旧本尊堂であった

そうですか。これは勉強になりました。

> 譲座本尊は何時頃から客殿にある

資料手放しで恐縮ですが、あの漫荼羅を板に模刻したのは精師で、それを客殿に安置したのではなかったでしょうか。記憶違いかもしれませんが。

170犀角独歩:2004/10/07(木) 08:57

一字三礼さん、お考え有り難く拝読いたしました。

妙法蓮華経の就き、問答名人さんのお問いかけにも関連しますので、以下、記させていただきます。


問答名人さん、

> 虚空会の段階で、妙法蓮華経という経典が存在していた、という記述は、少なくとも、法華経二十八品にはなかった

そう仰ると思いました。
ところがさにあらずです。『見宝塔品』の次に来る『提婆達多品』に「無量劫中 求法華経(吾過去無量劫の中に於て法華経を求めし)」という一節があります。この部分の梵本直訳は以下のようになっています。(より正確に記述すれば、梵本では『提婆達多品』は『見宝塔品』の後半部でありこの二品は一品です)

「かつて余は測ることも数えることもできないほどの劫の昔に、疲れ倦むことなく、『正しい教えの白蓮』という‘経典’を探し求めた」(中P204)

これは、たぶん梵本法華経全体に亘るコンセプトだと思いますが、この創作者たちは法華経典は自分たちが作ったものではない、「測ることも数えることもできないほどの劫の昔」から存在していたのだ、それを自分たちは探し求めてここに呈示しているだけだ、経典はもとより存在していたのだと紙背に籠めています。

現教学に泥んだ固定観念からすれば、妙法蓮華経は法である、このように思いがちですが、少なくとも梵本法華経では法華経と言えば経典であることはお定まりであり、それは要するに聖典信仰という当時世界を席巻していった思想潮流に裏打ちされたものであったのだろうと思えます。印度に登場した釈尊は、かつて計り知れない過去に法華経典によって成仏した物語を再説し現在の法華経典を紡いだのであって、ですから「如是我聞」であることはもちろんのことです。けれど、過去の法華経典もいまの法華経典もそこに差別を置かないのがまた法華経典の在り方でもあります。

もちろん、蓮師は、漢訳妙法華に拠っています。蓮師はまた、一念三千の珠は妙法蓮華経の漢字五文字に裏まれたというコンセプトでもあるでしょう。故に『本尊抄』にいう「塔中妙法蓮華経」は経典か・文字か・法か、これは実に興味深いテーマです。過去数百年の蓮師門下はこれを(南無)妙法蓮華経の五字と見て一塔に刻み、二尊四士を左右に置き、いま一字三礼さんはこれを法と見られた、問答さんは五字の見解でいらっしゃいますか。この点を是非ご教示いただきたく存じます。

わたしは蓮師在世の奉安様式を釈尊一体仏・註法華経と見なす故に経典の可能性を考えているわけです。ただし、確定ではなく思案中です。故に皆さんのご意見を賜りたいと考えている次第です。

> 塔中に法華経典が安置

たしかに多宝塔は多宝如来の舎利を安置する塔です。ですから、そこに法華経典があったとは経から見えません。けれど、蓮師は『本尊抄』に「塔中妙法蓮華経」という一節を書き添えています。これが天台宗より踏襲されたものであるのか・蓮師独自のものであるのかわたしは不勉強でわかりません。しかし少なくとも、法華経で説かれる塔は法華経典安置の塔を標榜していることは明らかではないでしょうか。塔に舎利を置かず法華経典を置くことを促すのが法華経の最たる特徴であることは今さら経証を一々に挙げるまでもないことです。

以下、わたしの態度です。法華経を読む限り、経典、舎利、塔、仏像絵像を崇拝は、読み取れます。しかし、経題が法理であるなどという考えはまったく見られません。たぶん、わたしは天台の五重玄にしてもそれは五字の意義付け説明であって、それをいまのような法理の如く扱う姿勢はないように思えます。ところが日本近代において生命主義の席巻は、妙法蓮華経が生命であり、理法であるかのような錯覚を生じせしめて現在に至っています。ここにいたって、妙法蓮華経は宇宙生命を貫徹する根本法理である、その正体であるかの如く扱われます。わたし達が、知らず影響を受けるこのような法華経の読み方には真っ向から反対するものです。

171犀角独歩:2004/10/07(木) 10:29

問答名人さん、上述のことに関連しますが、「法体」とは何を意味するのでしょうか。
「体」という教学は、実に興味深いところですね。法華教学であれば、やはり什が改竄して九如是と持ち込んだ為体にその端を発すると思います。(いま、資料文献が見つかりませんが、坂本師は什は該当部分を九如是として訳出した旨を直弟子が書き残している文献を紹介しています。これを十如是としたのは南岳か、天台か、ご教示をどなたか垂れていただければ幸甚です)

しかし該当部は『法華論』に「何等法 云何法 何似法 何相法 何体法」と訳することが至当であって、十如是(実際は九如是)という什の訳はまったくの暴挙と云うしかないとわたしには思えます。もちろん、五何法と十如是については、坂本師は『法華玄賛第三之本』『法華玄義第二上』『法華義疏巻三』等を参考にするよう促していますが、いまはその余裕はありません。

まあ、そのような什の訳出の問題は、いちおう、置きます。妙法華でいう「体」とは、十如是の規模から見れば、概観できる相・内面の性をもつ体、すなわち三如是(相性体)の体にほかならないと思います。しかし、什の漢訳の時点で体が直ちに妙法蓮華経を指した意図はないように思えます。問答さんが仰る法体とは、妙法蓮華経という経題の漢訳五字を、直ちに法体と見なされているようにお見受けしますが、そのような意味でしょうか。さらに質問を許されれば、「法体としての妙法蓮華経」とは何でしょうか。

172問答迷人:2004/10/07(木) 11:23

「法体としての妙法蓮華経」とは、十如実相と久遠実成であると言う認識です。

経題の漢訳五字については、蓮祖が「妙法蓮華経の五字に具足」ととかれる所です。十如実相も久遠実成も、妙法等の五字に収まる、という意味では、「法体としての妙法蓮華経」=「経題の漢訳五字」と考えております。

173空き缶:2004/10/07(木) 11:30

犀角独歩さん、大本尊は郷師の遺命によって、広宣流布の時に本堂に安置することになっています。

したがって、今まで一度も安置されたことは無いはずです。

先にも記しましたが、当時本尊堂に安置されたのは、弘安二年の伝蓮師曼荼羅の模刻本尊だと思われます。

174愚鈍凡夫:2004/10/07(木) 11:35

蓮祖は、法華経を説く教主釈尊を擬似的に再現して、それを本尊としようとしていたのではないでしょうか。小生は、蓮祖漫荼羅を本尊としたのは、実は蓮祖ではなく、弟子や信者たちではなかったのかと思います。
当初蓮祖は、漫荼羅を自身の本尊構想を示すために描いたのではないでしょうか。それをいつしか信者たちが常の信仰心を向ける対象として欲し、本尊化していったのではないかと思います。また聖滅後、蓮祖漫荼羅は本尊構想を図顕した唯一の存在であったのではないでしょうか。それで、自然に本尊として広く受けられていったということではないかと思います。

「草木之上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益也」(「観心本尊抄」 昭定P703)

「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」(「木絵二像開眼之事」 学会版P469)

とありますが、これは法華経を説く教主釈尊の姿を擬似的に再現して、それを「本尊」とせよとの指南とも受け取れると思います。

そして、

「此の時、地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(「観心本尊抄」 昭定P720)

最終的に壮大な虚空会を再現した「一閻浮提第一の本尊」を国家プロジェクトとして、建立しなさいという遺告であろうかと思います。

175愚鈍凡夫:2004/10/07(木) 11:42

>>174:は、ただの妄想かも知れませんが。 (^▽^;)
こういった考えも成り立つのではないかと言うことで。 m(_ _)m

176空き缶:2004/10/07(木) 11:55

愚鈍凡夫さん、こんにちは。

「此の時、地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」の前に「今の自界叛逆、西海侵逼の二難を指すなり」とありまして、この二難がおこった時に「此の時、地涌千界出現して・・」となるわけですが、この当時「西海侵逼」はまだおこっていません。

西海侵逼は、文永11年10月に一応「蒙古襲来」という形で実現します。
それをうけて顕されたのが「万年救護本尊」(文永11年12月日)であるとするのが、高橋麦洲氏などのかねてよりの「万年救護本尊」正統論者の意見なんです。

177愚鈍凡夫:2004/10/07(木) 12:04

空き缶さん、どうも。

生意気ですが、「自界叛逆・他国侵逼」の二難、存じております。
小生が言わんとしているのは、残る二難は切っ掛けにすぎず、最終的に国家プロジェクトとしての「一閻浮提第一の本尊」建立が蓮祖の主眼であったように思います。

178空き缶:2004/10/07(木) 12:15

そういえば、高橋麦洲氏よりも松本勝弥氏の方が先でしたね。(笑い)

179愚鈍凡夫:2004/10/07(木) 12:36

空き缶さん、どうも。
小生が、「自界叛逆・他国侵逼」の二難が切っ掛けにすぎないと判断したのは、「報恩抄」の次の文証があるからです。

「末法のために仏留め置き給う迦葉阿難等馬鳴竜樹等天台伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだひろまらず一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり」(「報恩抄」 学会版P328)

また、

「然れば当世の愚者は仏には釈迦牟尼仏を本尊と定めぬれば自然に不孝の罪脱がれ法華経を信じぬれば不慮に謗法の科を脱れたり」(「善無畏抄」 学会版P1235)

「其の外小菴には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎ねこぼちて仏像経巻を諸人にふまするのみならず糞泥にふみ入れ日蓮が懐中に法華経を入れまいらせて候いしをとりいだして頭をさんざんに打ちさいなむ」(「神国王御書」 学会版P1525)

とあります。
どうも、蓮祖在世には、釈迦牟尼仏(釈尊)と法華経のセットが蓮祖の理想であったように思うのです。

ただ、「本尊問答抄(未決)」の下記の文証との整合性の問題がありますが。

「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(「本尊問答抄」 学会版P365)

反面、同御書に次のような文証もあります。

「答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、例せば儒家には三皇五帝を用いて本尊とするが如く仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし」(「本尊問答抄」 学会版P366)

しかし蓮祖が、ご自身の曼陀羅を信者が本尊とすることに抵抗があったとは思いません。
下記の「此の御本尊」とは蓮祖漫荼羅を指していると思いますが、蓮祖曼陀羅はご自身の本尊観を形として顕したものであるから、本尊としてもかまわないとのご配慮ではなかったかと思います。

「日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために此の御本尊をわたし奉るならば十羅刹定めて偏頗の法師とをぼしめされなん」(「新尼御前御返事」 学会版P907)

180犀角独歩:2004/10/07(木) 17:03

問答名人さん:

> 法体としての妙法蓮華経…十如実相

となりますと、百界千如三千という妙楽がいう一念三千ではないわけでしょうか。
これでは草木成仏の意義も具わらないことになりませんでしょうか。

> 久遠実成

これは釈尊の五百塵点成道を意味するところですが、これがなぜ法体の妙法蓮経なのでしょうか。

181もう一人の通りすがり:2004/10/07(木) 17:13
横からすみません。
問答迷人さん、十如を読めば、妙法蓮華経とおんなじということですか

182ROM信徒:2004/10/07(木) 17:29
とり急ぎです。

>『四十九院申状』『竜泉寺申状』
再読いたします。

>仰る「入倉」という意味
すみません。「入唐」などと同じで「鎌倉に入られている」という意味です。
造語ではありませんが、失礼しました。

昭師については天台籍のままでしたので、独歩さんのお話しは、咀嚼の度合いも
スムースです。ともあれ、僕なりにあたってみます。良い課題です。

ではまた。早々。

183問答迷人:2004/10/07(木) 17:59

あっ、表現が悪かったです。

蓮祖のお言葉を借りれば「此に予愚見をもって前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、其の相違多しといえども、先づ世間の学者もゆるし、我が身にもさもやとうちをぼうる事は二乗作仏(さぶつ)・久遠実成(くおんじつじょう)なるべし。」(開目抄)です。

「二乗作仏」と「久遠実成」に訂正いたします。

184一字三礼:2004/10/07(木) 21:13
横レス失礼します。
犀角独歩さん

> 該当部は『法華論』に「何等法 云何法 何似法 何相法 何体法」と訳することが至当であって、十如是(実際は九如是)という什の訳はまったくの暴挙と云うしかないとわたしには思えます。

経典訳者が原典にかなりの意訳を加えた事は承知しております。
しかし、「添品妙法蓮華経」の序でシャナクッタとダルマギッタがこう記しております。

「竺法護訳と羅什訳とをつぶさに検討すると原典が同一ではないことがわかる。竺法護訳は、多羅樹の葉(インド所伝版)に書かれた写本に基づいており、羅什訳は亀慈国(西域クチャ国所伝)の写本に基づくものである。」(意訳)

現時点では、正法華のテキストしか発見されておりませんが、法華経には、元来、伝播の経緯で複数のテキストは存在していたことを指摘しております。
妙法華の十如是が、正法華の五何法を改竄したものであるかどうかは、両方のテキストを比較しなければわからないことではないでしょうか。

185空き缶:2004/10/07(木) 23:06

犀角独歩さんや愚鈍凡夫さんの卓越した見識の前に、私の執着はいとも簡単にやられてしまいましたね。

私も宗祖は「本門の題目」のみ残し、「本門の戒壇」と「本門の本尊」は後世の課題としたようにも感じます。

話しは変わりますが、犀角独歩さん、私は「原殿書」も「存知抄」や「所破抄」と同様に、興尊の著作と考えるのには慎重です。
もとより興師の直筆は御座いませんが、写本の「原殿書」には、たった一箇所ですが、宗祖を「大聖人」と呼称した個所があります。これが単なる写し間違えかもしれないわけですが、直筆が残る興師遺文の中には「大聖人」という呼称は見つかりません。
「大聖人」の呼称がみられるのは、興師の直筆が無く、ほぼ偽書といわれている「神天上勘文」などの続編関連に出てくる呼称だと思います。
その意味では、「原殿書」よりも他の消息文に現れる、御影に対する興師の姿勢や、「本尊分与帳」に込められた、曼荼羅本尊への興師の思いが私には優先されます。

186犀角独歩:2004/10/08(金) 03:25

問答名人さん、では法体というのは二乗作仏、久遠実成ということでしょうか。


一字三礼さん、ご指摘有り難うございます。
手元に梵本直訳は岩本師のものしかありませんので、五何法に該当すると思われる部分を転載しますと

「それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかなるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質を持っているのか」

となっております。これを五何法と比較すると

何等法 ― 現象が何であり
云何法 ― どのようなものであり
何似法 ― いかなるものに似ており
何相法 ― いかなる特徴があり
何体法 ― いかなる本質を持っているのか

となり、ほぼ一致している如くです。五何法は『正法華経』ではなく、『法華論』ではなかったでしょうか。『正法華経』で該当部分と思われる箇所は「從何所來諸法自然 分別法貎衆相根本知法自然」でしょうか。たしかに違うテキストに拠っているように思えます。ただ、『法華論』と『正しい教えの白蓮』はよく一致しておりますね。

なお、訳出に就き、まったくご指摘のとおりですが、什の九如是の成句はたしか他にモチーフがあり、それを当て嵌めたことを坂本師が指摘しておりませんでしたでしょうか。いま、資料文献が見当たりません。見つけ次第、また記させていただきます。なお、上述の岩本師の訳出は「 Saddharmapundarika.Ed.by H.Kern & B.Nanjio,St.-Petersbourg 1908-1912 」に拠ったとのことです。九如に該当する部分以外では、妙法華と大部は一致しておりますから、(ほぼ)同一のテキストによるものと思われますが、如何でしょうか。


空き缶さん、ご指摘のところ、尤もであると思います。
一つ参考にお聞かせください。もし興師が身延にあのまま住まわれ、釈迦一体像がそのままであったとしても、漫荼羅本尊のほうを重視されたとお考えになりますか。

187問答迷人:2004/10/08(金) 05:54

>問答迷人さん、では法体というのは二乗作仏、久遠実成ということでしょうか。

同じく開目抄に『華厳乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成(くおんじつじょう)を説きかくさせ給へり。此等の経々に二つの失(とが)あり。一には「行布(ぎょうふ)を存するが故に仍(なお)未だ権を開せず」と、迹門の一念三千をかくせり。二には「始成(しじょう)を言ふが故に曾(かつ)て未だ迹を発せず」と、本門の久遠をかくせり。此等の二つの大法は一代の鋼骨(こうこつ)、一切経の心髄なり。迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失(とが)一つを脱(のが)れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)せざれば、まこと(実)の一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波の上に浮かべるにに(似)たり。本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前(にぜん)迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門十界の因果をとき顕はす。此即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。」と有ります。妙法蓮華経の教えとは、二乗作仏・久遠実成であり、法体とは一念三千である、と示されていると思います。

188犀角独歩:2004/10/08(金) 09:28

問答さん、ちょっと整理します。ここのところの遣り取りは、そもそも、わたしの『本尊抄』の「塔中妙法蓮華経』とは法華経典を指すのではないのかという仮定の呈示に端を発しています。それに対して、

> 妙法蓮華経という経典の法体としての妙法蓮華経
> 「法体としての妙法蓮華経」=「経題の漢訳五字」
> 妙法蓮華経の教えとは、二乗作仏・久遠実成であり、法体とは一念三千

というのが問答さんのお応えでした。
これは要するに法華経典に説かれている教えは二乗作仏・久遠実成。
法体は一念三千=(漢訳五字の)妙法蓮華経ということでしょうか。

たしかに『開目抄』では爾前二種の科を挙げ、法華がそれを解消していることは挙げています。けれど、それが法華経の教えのすべてということではないでしょう。あくまで、爾前二種をクリアしていることを陳べているに過ぎません。たとえば、二乗作仏ばかりではなく、説大乗経 名妙法蓮華 名無量義 教菩薩法 仏所護念などといい、二乗作仏ばかりではなく、教菩薩法という側面もあります。また先から引用している『提婆達品』では悪人提婆、変性男子ではあるけれど女人成仏を説く一幕もあります。つまり二乗作仏に止まりません。

また、一念三千の前提である十如(この訳が不可であることはいまは置きます)は諸法実相(この訳も不可と思いますが)を指すのであって、法‘体’ではなく実‘相’となっています。本門にいたり久遠実成が証されることによって(天台教学に添えば)、挙げてくださった蓮師の言のとおり「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はりて、真の十界互具・百界千如・一念三千」となるのでしょう。しかし、これが法体でしょうか。

問答さんは「虚空会の段階…妙法蓮華経…経典が存在…記述…法華経二十八品にはなかった…如是我聞…虚空会の有様…塔中に法華経典が安置…考えにくい」、このように記されましたね。これは先の記述を併せ考えれば、「塔中妙法蓮華経」とは漢字五字の妙法蓮華経(=一念三千)であるということを仰るわけでしょう。

では、お尋ねしますが、虚空会はそもそも印度での出来事を如是我聞し経典にしたということですね。ここではシャキャムニは中国語を喋っていたのでしょうか。(蓮師の歴史認識では)西暦前1000年の印度でインド人である釈尊が仏法を説いたのでしょう。それにも関わらず、妙法蓮華経の漢字五字をどうして、宝塔内に置くなどと言うことができるのでしょうか。また、それが一念三千であるというのであれば、塔中にそれをどのように置くことができるのでしょうか。

これは漢訳仏典を絶対に扱った中国人天台の過ちに嵌った即断ではないでしょうか。論理的にまったく破綻しているとわたしには思えますが、この点は如何でしょうか。

189問答迷人:2004/10/08(金) 12:24

>妙法蓮華経の漢字五字をどうして、宝塔内に置くなどと言うことができるのでしょうか。また、それが一念三千であるというのであれば、塔中にそれをどのように置くことができるのでしょうか。

蓮師は、釈尊の在世に経巻が存在していなかった事は、経典結集について遺文の随所に触れられている事からも、良くご存知で有ったと考えます。その意味から「塔中妙法蓮華経」の妙法蓮華経は経巻とは考えにくいと思います。

また、当然のことながら、法華経の経文に「塔中妙法蓮華経」等と説かれている訳では有りません。この表現は、あくまでも蓮師が本尊抄に独自に説かれるところです。蓮師は妙法蓮華経の漢字五字を中尊とし釈迦・多宝を脇士とする、蓮師独自の観心本尊を示しておられるのだと思います。

190犀角独歩:2004/10/08(金) 12:35

問答さん:

> 蓮師…釈尊の在世に経巻が存在していなかった…「塔中妙法蓮華経」の妙法蓮華経は経巻とは考えにくい

経巻は確かに存在していなかったでしょう。けれど、同じように漢字五字の妙法蓮華経も存在していませんでした。その意味においては、全く同様です。

> 「塔中妙法蓮華経」…蓮師が本尊抄に独自に説かれる

そのとおりです。

> 蓮師は妙法蓮華経の漢字五字を中尊とし釈迦・多宝を脇士…観心本尊

これは違いますでしょう。該当の『本尊抄』は「妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩…迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士…未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の“仏像”出現せしむべきか」です。
ここでは脇士は四菩薩であって釈迦・多宝でありません。また、ここで言われる観心本尊は文が示すとおり、寿量釈尊の仏像であることは明白です。

191問答迷人:2004/10/08(金) 14:45

>ここでは脇士は四菩薩であって釈迦・多宝でありません。

すでに独歩さんとは、幾度か議論させていただいた箇所ですね。報恩抄には「答へて云はく、一つには日本乃至一閻浮提(えんぶだい)一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂(いわゆる)宝塔の内の釈迦・多宝、外(そのほか)の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士(きょうじ)となるべし」とあります。この文の「脇士となるべし」が、釈迦多宝以下を指すのか、それとも、上行等の四菩薩だけに掛かるのか、という問題です。

この点に付いては、曼荼羅を拝する時、「中尊が南無妙法蓮華経、釈迦多宝が脇士」というのが、僕の偽らざる第一印象なのです。ここで再度議論しても平行線かも知れませんが、この報恩抄の一節をどう解釈すべきか、承りたく存じます。

192犀角独歩:2004/10/08(金) 16:25

> 191

なるほど、この点は確かに過去に議論をしておりました。
初老の呆けとも思えませんが、失念しておりました。

原文でいたしましょう。

「塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩」
「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・竝びに上行等の四菩薩脇士となるべし」

この文を問答さんは同一視されておられますが『本尊抄』52歳、『報恩抄』55歳という3年の時間差は、蓮師法門という蕾が一挙に開花する時期に当たる故にその変遷は一日千秋の相違があるように思えます。ではこの3年の差異はどこに見られるか。最も端的には戒壇義の有無でした。また『本尊抄』の該当部分は「仏像」の係るものであるのに対して、『報恩抄』は「正法」に係るものである差異もあります。

しかし、用語の使用において共通している点があることもたしか話し合いましたでしょうか。「釈迦」「釈尊」の使い分けです。同一の仏である釈迦と釈尊がここでは二重に登場しています。問答さんはさらに中尊・妙法蓮華経五字までも、ここに加えられるという主張を紙背にされておるわけですね。

また、主張は『本尊抄』の該当箇所の一般的な訓読に異議を唱えるものとなっておられます。先ずこの点がしっかりしませんと、食い違いが生じることになりますでしょう。問答さんは、上述の漢文はどのように記されたものとお考えなのでしょうか。訓読をお示しいただけませんでしょうか。

193問答迷人:2004/10/08(金) 17:03

犀角独歩さん

>主張は『本尊抄』の該当箇所の一般的な訓読に異議を唱えるものとなっておられます。

そうでしょうか?一般的な訓読を踏襲しているつもりですが・・・。訓読について、以下のように読んでおります。

原文 塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩

訓読 塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩

194犀角独歩:2004/10/08(金) 17:48

問答さん、上述の訓読でどうして、『報恩抄』と同じになるのでしょうか。
これで、なぜ釈迦・多宝が脇士になるのでしょうか。

195問答迷人:2004/10/08(金) 19:37

対応関係を見てみますと、以下のように読めます。


「本門の教主釈尊を本尊と尊とすべし」→「塔中の妙法蓮華経」

「宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・竝びに上行等の四菩薩脇士となるべし」→「左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩」

ここで、『左右に釈迦牟尼仏・多宝仏』の箇所は、妙法蓮華経を中尊とし、その左右に釈迦と多宝を配しているわけですから、中尊とその脇士を意味していると考えています。

196犀角独歩:2004/10/09(土) 10:40

いえいえ、対応関係を申し上げているわけではありません。
文章をそのままに読む話です。

記される如きの「対応関係」は山中師『御本尊集目録』を見ていない人には通用するでしょう。しかしながら、現存御筆漫荼羅を時系列に見るとき、そこに蓮師の思索の足跡をしっかりと看取れば、この考えは捨てざるを得ません。

『本尊抄』述作の文永10年、蓮師漫荼羅は、いまだ図示の日付すら書き込まれない素朴なもので漫荼羅と呼ぶほどの体裁を整えていません。実際、讃文もありませんから、これは漫荼羅と呼んで好いか、わたしは躊躇いがあります。
中央題目に釈迦・多宝、あるいは他の仏菩薩は記されるものの、四菩薩の勧請はありません。
しかしその後、わずか3年の歳月を経、劇的にその図示は飛躍的に変化を遂げられます。『報恩抄』の頃には四菩薩の勧請は見られるようになります。

『本尊抄』述作の段階で漫荼羅に四菩薩を勧請するという考えに至っておられなかったことは現存御筆漫荼羅が雄弁に語っています。しかし、『報恩抄』の段階では四菩薩は勧請されておられます。つまり、『本尊抄』と『報恩抄』の該当文を漫荼羅相貌と見なすとき、この両文が対応していないことは現存する御筆漫荼羅を比較すれば明らかです。

また、問答さんは『本尊抄』の記述を漫荼羅相貌と断定されたうえでお考えになっておられるようですが、何度も記したとおり、該当の文章は「仏像」についてであることは後文で明白であり、この事実は動きません。また、『報恩抄』の記述は教主釈尊を表すものであり、妙法蓮華経五字に就いてではありません。

中央題目を置く漫荼羅と、中央釈尊像を置く仏像とはその意味するところが異なります。

197犀角独歩:2004/10/09(土) 10:56

やや、訂正します。

> 中央題目に釈迦・多宝、あるいは他の仏菩薩は記されるものの、四菩薩の勧請はありません。

> 『本尊抄』述作の文永10年頃と目される漫荼羅は中央題目の左右に釈迦・多宝で、他の仏菩薩が加わるのですら、年を跨ぎ、翌11年を待たなければなりません。まして、四菩薩の勧請はありません。

198問答迷人:2004/10/09(土) 13:51

犀角独歩さん

ご指摘にお答えする前に、一つ確認させてください。

>仏像

蓮師は、この「仏像」語をどのような意味で使っておられるか、それが問題になると思います。独歩さんは、この点、どのようにお考えでしょうか。ちなみに、大辞泉では次のように書かれています。

仏像→「礼拝の対象として製作された仏の彫像・画像。多く彫像をいう。」

この定義で言えば、「仏像」は「彫像」の意味に使われる事が多いが、画像も含むわけですから、曼荼羅は当然含まれるし、文字曼荼羅も仏像に該当すると思いますが、如何お考えでしょうか。

199犀角独歩:2004/10/09(土) 18:28

問答さん、書き出すと対夢中になって駄文で先鋭化し申し訳ありません。

わたしはこの「仏像」は文字通り、釈尊の絵像、彫塑像であると考えています。寛師の如く仏像を漫荼羅であるなどともちろん、思いません。

何度も記しますが、蓮師は終生、釈迦立像一体仏を随身されたのは紛れもない事実です。もし、この仏像が持ち去られることなく、そして、離山することがなければ、興師もまた、仏像を蓮師の舎利・註法華経と共に大切に扱ったでしょう。

蓮師が『本尊抄』を記されたとき、漫荼羅図示の着想より先行して、寿量仏像造立の着想があったと思えます。天台の草木成仏を殊の外取り沙汰されるもそのためであったと考えます。ただし、仏像と漫荼羅は並行し、両立であったと遺文から窺えるとも考えています。

『本尊抄』では、摂受:折伏=僧:王という関係を示されています。この点は動きません。さらに言えば、漫荼羅:仏像=僧(出家):王(在家)ということもまた論じられているのが同抄ではないでしょうか。故に蓮師は終生、漫荼羅を専らにしましたが、在俗信者の仏像造立を賞賛されると共に、為政者の帰伏と寿量仏像を祀る寺院の建立を心待ちし、ついに果たされず、その生涯を終えられたという流れが看取できると考えております。

なお、「塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩」という文章は仰るとおりにしか訓読できませんね。目が惹かれることは釈迦、釈尊の書き分けです。この文は重文ではないでしょうか。

「塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏」「釈尊脇士上行等四菩薩」はそれぞれ独立した意味を持っていませんか。
宝塔品の説相に従った宝塔の中の妙法蓮華経の左右に釈迦・多宝の二仏並座、これが前文の意味するところでしょう。この段階ではしかし、いまだ地涌菩薩は出現しておりません。その説相は涌出品第15を待たなければなりません。しかし地涌菩薩が出現しても、この段階では迹仏の域ですね。

それが久成を示した寿量品第16に至って、後文で言う「釈尊脇士上行等四菩薩」となったとき、本仏の域となります。つまり、この重文は本迹を分けて記されている如くです。これを蓮師は迹門:本門=釈迦:釈尊と使い分けていらっしゃるとわたしは考えます。

ところで、在世の宝塔中に並座した釈迦牟尼仏と久遠の四菩薩を脇士とする釈尊を併せ描くことは困難を極めると思いませんか。

たとえば、問答さんが生まれたばかりのお姿と、いまご家族を伴っているお姿を一つの図像で表現しようとすることは難しいのと同様です。赤ちゃんの親御さんに懐かれた写真と、いまご家族を伴っている写真の2枚を呈示することは容易いでしょう。しかし、一緒に表現しようとするとこれは実に困難なことです。

在世から示せば、宝塔の中、妙法蓮華経の左右に半座を分かたれ、多宝と並ぶ釈迦牟尼仏となりますが、これでは久成の師弟を表すことはできません。寿量本仏の有様を示そうとすれば、涌出・寿量の説相の如く、四菩薩を脇士と置くほかないと蓮師は思索されたのだと思います。しかし、近成と久成、釈迦と釈尊を一つの図像で表現することの困難を蓮師は感じていたのではないでしょうか。つまり、これを表現することができるのは、まさに『本尊抄』の文の如くしかないということであったと思います。この点は『報恩抄』も同様であると考えます。

漫荼羅では、宝塔品で塔中に妙法蓮華経の左右に釈迦・多宝が並座し、さらに進んで涌出品で出現した四菩薩が‘釈尊’の脇士となったことで本門仏を表していく着想があったのであろうと思うのです。

しかし、これを仏像でやるとなるとどうなるのか。蓮師の思惟の詳細は窺えません。ただ、釈尊脇士四菩薩は寿量仏を表す蓮師の着想であったことは遺文から看取できようかと思います。

今回の議論は「塔中妙法蓮華経」は法華経典ではないのかというわたしの仮定に基づきます。この点にわたしが拘るのは、たぶん、蓮師は随身仏と共に註法華経を置かれていたであろうという想像に基づきます。
仏像の御前に法華経を安置すること、実はこれは仏像を本尊と考えれば、古くから現在に至るまで行われてきたことでした。どなたかが記されていたように、宝前に法華経を置くことは慣習化された奉安です。

仏像の御前に法華経を置くことによって、その仏像は実教仏であることを示せますね。しかし、これでは本門寿量仏であることを示すことはできません。その仏像が寿量仏であることを示すのに蓮師がお考えになったことこそ、四菩薩を脇士として副えるということであったとわたしは考えます。しかし、この仏像の造立、それを祀る堂宇の建立は在家の地涌菩薩の使命である故に、蓮師は漫荼羅を図示に止まり、未来に託されたというのがわたしの考えです。

200問答迷人:2004/10/09(土) 21:18

犀角独歩さん

少しくどいので申し訳ないですが、再度確認させていただきたいと存じます。

>釈尊の絵像、彫塑像であると考えています

本尊抄の次上の文からの文脈を見てみますと、「此等の仏をば正像に造り画(えが)けども未(いま)だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。」となっていますので、この「仏像」は「彫像」と「画像」の両方を視野に入れられたものであると思われます。


>寛師の如く仏像を漫荼羅であるなどともちろん、思いません。

この点は、異論があります。曼陀羅は仏の姿を描いた画像とはなぜ言えないのでしようか。

>仏像と漫荼羅は並行し、両立であったと遺文から窺えるとも考えています。

そうでなくて、蓮師の言われる仏像は「彫像と曼陀羅が並行し、両立であった」と遺文から窺えるのではないでしょうか。

201犀角独歩:2004/10/09(土) 22:24

問答名人さん:

>「仏像」は「彫像」と「画像」の両方を視野に入れられた

当然ではないでしょうか。

> 曼陀羅は仏の姿を描いた画像とはなぜ言えないのでしようか。

字は画では有りません。文字です。
逆にお尋ねするしかありません。漫荼羅がなぜ仏像なのですか。

>> 仏像と漫荼羅は並行し、両立
> 彫像と曼陀羅が並行し、両立

いえ、仏像でしょう。わたしは仏像と漫荼羅は別と考えますので、彫像・画像との平行であるとは考えません。

202問答迷人:2004/10/10(日) 08:15

犀角独歩さん

>字は画では有りません。文字です。

蓮師がなぜ文字を使って曼荼羅を描かれたか、そこには蓮師の何らかの意図が有るはずです。本来の真言の大曼荼羅はご承知の通り、絵曼荼羅です。ところが、文字をもつて描かれた曼荼羅を「大曼荼羅」と呼んでおられます。

蓮師が文字に対するお考えを端的に書かれている遺文、御衣並単衣御書を引用してみます。

「衣かたびら(帷子)は一なれども、法華経にまいらせさせ給ひぬれば、法華経の文字は六万九千三百八十四字、一字は一仏なり。此の仏は再生敗種(さいしょうはいしゅ)を心符とし、顕本遠寿(おんじゅ)を其の寿(いのち)とし、常住仏性を咽喉(のんど)とし、一乗妙行を眼目(げんもく)とせる仏なり。「応化は真仏に非ず」と申して、三十二相八十種好の仏よりも、法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給ひ候へ。」(平成版御書908頁)

ここに示された蓮師の視点に立って文字曼荼羅を捉えれば、「本門の教主釈尊を文字を以って描いた仏画」という事になると思います。

203犀角独歩:2004/10/10(日) 11:02

問答さん:

> 蓮師の視点…文字曼荼羅…本門の教主釈尊を文字を以って描いた仏画

これは明らかに拡大解釈、牽強付会ではありませんか。
引用される所では『法華経』の文字を「仏」であると拝されているのであって、仏像であると仰っておりません。このような拡大解釈が成り立つのであれば、蓮師も引用される『金剛[金*卑]』の

「一草一木一礫一塵。各一佛性各一因果具足縁了(一草一木一礫一塵各一仏性各一因果あり縁了を具足す)」

というのは、問答さんの論法で言えば、塵一つでも仏像と言うことになってしまうでしょう。それともそのような主張ですか。

真跡で見る蓮師の「仏像」の語法は以下のとおりです。一切、木像・絵像を指していることは明らかです。

「仏像の形・仏塔の形を造作」災難対治抄,正元2年(1260)2月39歳
「仏像を崇(あが)め経巻を専(もっぱ)らにす」
「一朝の山川(さんせん)を廻(めぐ)りて崇(あが)むる所の仏像」立正安国論,文応元年7月16日(1260)39歳
「木画(もくえ)の仏像・堂塔(どうとう)等をやき、かの仏像等の寄進の所をうばいとり」顕謗法抄,弘長2年(1262)41歳
「堂塔を斫倒(しゃくとう)し仏像を毀破(きは)し」行敏訴状御会通,文永8年(1271)7月50歳
「山門の堂塔・仏像・経巻数千万をやきはらはせ給ふ」祈祷抄,文永9年(1272)51歳
「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」如来滅後五五百歳始観心本尊抄,文永10年(1273)4月25日52歳
「仏像の前に安置し七日七夜深誠を翹企(ぎょうき)し祈請(きしょう)を勤修(ごんしゅ)す」撰時抄,建治元年(1275)6月10日54歳
「諸像皆無魂無眼(むこんむげん)の者となりぬ。結句は天魔入り替はって檀那をほろぼす仏像となりぬ」清澄寺大衆中,建治2年(1276)1月11日55歳
「百済国の聖明王より仏像経等始めて日本国に送る」一代五時鷄図,建治2年(1275)55歳
「敬って仏像・経教・法師を捧(ささ)げて使ひに附して貢献(こうけん)す」神国王御書,弘安元年(1278)歳
「小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎(は)ねこぼ(毀)ちて、仏像・経巻を諸人にふ(踏)まする」神国王御書,弘安元年(1278)歳

204犀角独歩:2004/10/10(日) 11:32

―203からつづく―

蓮師漫荼羅が画像であるというご主張に百歩、譲った場合、では、蓮師はなぜ『本尊抄』の該当部分は「画(絵)像」としなかったのでしょうか。蓮師の真跡では仏像・画像を明らかに書き分けております。もし、該当部分が「画像」となっていれば、まだしも「仏像」であることは動かない事実です。

また蓮師は、絵の具(草)=画像、木材(木)=木像の両面を併せて、草木成仏を主張されるのであって、故に画像のみでは草ばかりで木の成仏義を欠くことになる点は看過できません。つまり、仮に漫荼羅が画像であったとしても、他に木像を造立しない限り、草木に亘る天台に言う草木成仏義を成就しないのです。

「絵像木像にあらわして本尊と仰ぐべし」開目抄上,文永9年(1272)2月51歳
「出仏身血  木画像等」一代五時図,文永8年(1271)50歳
「賢者等は画像(えぞう)にかき奉り、木像にもつくりたてまつらざるらめ」新尼御前御返事,文永12年(1275)2月16日54歳
「かヽる仏なれば木像・画(え)像にうつし奉るに、優填(うでん)大王の木像は歩みをなし、摩騰(まとう)の画像は一切経を説き給ふ」法蓮抄,建治元年(1275)4月54歳
「画像(えぞう)・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし」
「ゑのぐ(絵具)は草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す」四条金吾釈迦仏供養事,建治2年(1275)7月15日55歳
「画像(えぞう)木像の開眼(かいげん)の仏事」報恩抄,建治2年(1275)7月21日55歳
「仏を或は木像、或は画像等にあがめ給ふ」神国王御書,弘安元年(1278)歳
「画像の釈尊を書き奉りし」日眼女釈迦仏供養事,弘安2年(1279)2月2日58歳
「寺々の仏は皆或は画像、或は木像」諌暁八幡抄,弘安3年(1280)12月59歳

205問答迷人:2004/10/10(日) 11:37

犀角独歩さん

>これは明らかに拡大解釈、牽強付会ではありませんか。

そう仰ると思っておりました。もう少しお付き合いください。

そもそも、真言の曼荼羅とは、仏画ではなかったでしょうか。蓮師が文字に認めた御本尊を以って、曼荼羅と呼ばれること自体、独歩さんのお言葉をお借りすれば、「拡大解釈、牽強付会」という事になりませんでしょうか。文字で認めた本尊を「曼荼羅」と呼ばれる以上、蓮師は文字本尊を仏画と認識されていた証拠であると思います。如何お考えでしょうか。

206犀角独歩:2004/10/10(日) 12:56

問答さん、わたしは石山の教学解釈には常に二つの過ちがついて回り、その影響を自分も受けてきたと自覚し、その解消に努めてきたのです。一つは真偽分類を欠くという資料の取り扱いの杜撰さ、もう一つは時系列感の欠如と言うことです。先の問題は当板では厳正な真跡主義、資料を取り扱う方々の真摯な姿勢でよく解消されてきたところです。しかし後者の問題はまだ残っているように思えます。

問答さんは、蓮師が「曼荼羅と呼ばれる」と即断されていらっしゃいますが、『本尊抄』述作の時点で漫荼羅と呼ばれた物的証拠は何等残っておりません。わたしはこの「仏像」と記述された時点で蓮師にはご自身が書したもの(図示という認識もなかったでしょう)を漫荼羅であるという認識はなかったであろうと考えています。もちろん、その数箇年で図示漫荼羅の自覚はしっかりと固まったでしょう。

わたしが問題にしているのは、『本尊抄』述作段階「仏像」に係る蓮師の考えです。つまり、該当文書を日蓮学者の多くは漫荼羅図の如くと陳べますが、しかし、文永10年のこの時点ではまだその考えには至っていない以上、寿量仏を仏像として表すことを意識されていたと考えるほかないと繰り返し申し上げているのです。その証拠にこの当時の書は中央題目に釈迦・多宝、不動愛染に日蓮花押という素朴な様式にしか至っていないからです。是一

では、その後、蓮師は漫荼羅を仏画とお考えになっていたかという点にも触れます。実はわたしはこの点についても懐疑的です。たしかに故高木豊師は蓮師の図示をして「字像」漫荼羅と評したことは夙に有名なところです。わたしも見事な表現であると敬服もいたします。けれど、桐谷師がたしか指摘された点であったと思いますが、大幅の漫荼羅を蓮師は説法の説明に懸けて供していたと言います。もちろん、「亀姫護」と知られる守護本尊としての図示はありますから、祈祷法具としての一面はもちろんあったのでしょう。

けれど、わたしはそもそも「未曾有之大漫荼羅」と自讃されるところは、仏画というより、仏国土図画、それも蓮師当時日本の理想仏国土の表象につき、言われるところではないのかと思うわけです。是二

あと2点付言させていただきます。

脇士の件ですが、わたしはあくまで久成釈尊の脇士は四菩薩に限ると考えます。その故は、たとえば、『法華取要抄』に「華厳経の十方台上の毘盧遮那・大日経・金剛頂経(こんごうちょうきょう)の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり」とあり、図示はされないものの、多宝如来に別個の脇士を従えていることを蓮師は主張されるからです。

もう一つ。「塔中法華経」が漢字五字か・経典かという問題です。上述にも関連しますが、『曾谷入道許御書』に「不空三蔵の天竺に還り渡って真言を捨てヽ漢土に来臨し、天台の戒壇を建立して両界の中央の本尊に法華経を置きし等是なり」という記述が見られます。ここでいう法華経は、まちがいなく経典であると存じます。

207問答迷人:2004/10/10(日) 14:21

犀角独歩さん

>仮に漫荼羅が画像であったとしても、他に木像を造立しない限り、草木に亘る天台に言う草木成仏義を成就しないのです。

この点は、仰る通りであると思います。ただ、その事は、逆の意味も含みます。木像のみで画像を描かない場合は、これまた、草木成仏義を成就しないわけです。蓮師は仏像として、木像と画像の両方を視野に入れ、伽藍形式における木像群本尊と、紙幅曼荼羅形式の画像本尊の両者をお考えであったと思います。それは、独歩さんが203に「木画(もくえ)の仏像」と示された一節が物語っていると思います。


>蓮師はなぜ『本尊抄』の該当部分は「画(絵)像」としなかったのでしょうか。

これは同じ事ですね、画像に限定しては、草木成仏義を成就しないからだと思います。だから、木像と画像の両方の意義を込めて「仏像」とされたと思います。

>わたしはこの「仏像」と記述された時点で蓮師にはご自身が書したもの(図示という認識もなかったでしょう)を漫荼羅であるという認識はなかったであろうと考えています。

これは違うのではないでしようか。もし「木像」「彫像」と書かれたのなら、仰る通りですが、「仏像」は「木像」「彫像」「画像」を包括した言葉です。画像を視野に入れておられたからこそ「仏像」とされたのだと思います。しかも、既に、その段階で、簡潔ながらも、「大曼荼羅」という賛文は無くとも、文字曼荼羅を書かれていたことは確かなのですから。

>仏画というより、仏国土図画、それも蓮師当時日本の理想仏国土の表象につき、言われるところではないのかと思う

これについては、あの、新尼御前御返事に「此の五字の大曼荼羅(まんだら)を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶(たす)け万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱(のが)るべしと仏記しをかせ給ひぬ。」と説かれているわけですから、独歩さんの仰る「仏国土図画仏画」として書かれたという点は否定するものでは有りませんが、受持・信仰する対象とされていた事は明らかであると思います。

脇士の件、これは考えておりませんでした。仰る通りであろうかと存じます。また、戒壇院に法華経を安置した事例については、了解ですが、もし本尊抄の記述がこの事例を踏襲したとすれば、「両界の中央の本尊に法華経を置きし」ですから、釈迦・多宝が本尊ではなく、「法華経」が本尊という事になりますが、この点、如何でしょうか。

「時系列感の欠如」という問題については、石山は日蓮本仏論に立っていますから、蓮師の思想が時系列で変化して行ったことは、恐らく認めたくないからでしようね。僕自身、時系列感は確かに欠如していると思います。今後、良く気をつけたいと存じます。

208犀角独歩:2004/10/10(日) 14:56

問答名人さん:

> 蓮師…木像群本尊…紙幅曼荼羅形式の画像本尊の両者をお考え

これはそのとおりでしょう。そしてこのことを考えるに当たり、実際的な問題として無産階級である僧侶は仏像・伽藍の建立は在家、もしくは為政者に委ねるのは成り行きであり、そのことを『本尊抄』を解読するに当たり、視野に入れなければならないとわたしは思うわけです。
ただし、何度も繰り返しますが、『本尊抄』述作当時、蓮師にはまだ漫荼羅という着想に至っていなかったであろうというのがわたしが申し上げていることです。もし、この文永10年の時点で、字像漫荼羅の着想があったというのであれば、その証拠を挙げなければなりません。しかし、遺る真跡、題目書は、それを指示しません。

> 木像と画像の両方の意義を込めて「仏像」

繰り返しますが、これは真跡における用法と一致しません。蓮師は両方の意義を籠めて仏像という表現はされていません。

>> …「仏像」…漫荼羅であるという認識はなかった
> …「仏像」は「木像」「彫像」「画像」を包括した言葉

一般の用法としては、そうかも知れませんが、203に挙げたとおり蓮師は包括して使われていません。

以上は問答さんは、仏像という語が木像・絵像を包括して蓮師が使っているという固定観念から導き出されるところでしょうが、もし、そのように主張されるのであれば、「仏像」語が仰るように、木像・画像・漫荼羅に亘ることを示す真跡を挙げる必要があるでしょう。

> 「大曼荼羅」という賛文は無くとも、文字曼荼羅を書かれていた

ですから、これが逆時に歴史を読んでいると思える点なのです。
中央題目・釈迦多宝を書けば漫荼羅であるというのは、それは図示が漫荼羅であるという固定観念に基づくことでしょう。
当初は漫荼羅という着想はなかったが、後に生じたということです。
その証拠に当初のそれには「漫荼羅」という讃文がありません。図示していくうちに漫荼羅という着想が浮かんだと見るのが時系列に添ったものの考え方です。まさか明星池に映った自分が大漫荼羅であったから、その時点から蓮師は知っていたなどと言う伝説を信じてお出でではないでしょう。ここは時系列に添って、その時期に真跡と御筆漫荼羅から考証していくのが学的態度ではありませんか。

> 新尼御前御返事に「此の五字の大曼荼羅(まんだら)を身に帯…

御筆漫荼羅をよくよく見ると折り目痕が残っているものがいくつかあります。つまりこれは折り畳んで袋に入れて、文字通り見に帯けていたということです。同消息の文は要は、この漫荼羅が護本尊であることを意味するものでしょう。

> 「両界の中央の本尊に法華経を置きし」ですから、釈迦・多宝が本尊ではなく、「法華経」が本尊という事になりますが、この点、如何でしょうか。

このようにお考えになりますか。
ここで置かれる『法華経』は意ということではないでしょうか。
「仏作って魂入れず」という言葉がありますが、仏像の魂は経典であるとしたのではないでしょうか。これは仏像の御前に法華経を置くのも胎内に経巻・経文を入れるのも同様の意味合いではないでしょうか。ですから、法華経は本尊ではなく、本尊の意(たましい)ということであろうかと存じます。

209問答迷人:2004/10/10(日) 15:30

犀角独歩さん

>仏像という語が木像・絵像を包括して蓮師が使っているという固定観念

これは、本尊抄の文によって、そう考えているのです。200レスにおいて既に述べた事です。繰り返しになりますが、本尊抄の次上の文からの文脈を見てみますと、

「此等の仏をば正像に造り画(えが)けども未(いま)だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。」となっています。

ここで、「造り」とは「木像、或いは彫像」「画(えが)けども」とは「画像」を指している事は明白でしょう。ここは正法、像法のありさまを述べられている箇所です。しかしながらこの事は、末法にも掛かってきますから、末法出現の仏像にも、同じく木像(或いは彫像)と画像の両方の意味が含まれてきます。もし、木像のみを意味するのであれば、「仏像」ではなく「木像」と表現されていなければなりません。「仏像」を、木像・絵像を包括して蓮師が使っているのは明らかだと思います。

弘長二年の顕謗法抄には「木画(もくえ)の仏像・堂塔(どうとう)等をやき、かの仏像等の寄進の所をうばいとり」とあります。

また、建治二年の清澄寺大衆中にも「日本国の木画(もくえ)の諸像皆無魂無眼(むこんむげん)の者となりぬ。結句は天魔入り替はって檀那をほろぼす仏像となりぬ。」とあります。

これらからも、仏像という語を、木像・絵像を包括したものとして蓮師が使っているのは明らかであると思います。

210問答迷人:2004/10/10(日) 16:06

>206
この当時の書は中央題目に釈迦・多宝、不動愛染に日蓮花押という素朴な様式にしか至っていないからです

これは事実と違っています。本尊抄述作直後の文永10年6月の字像本尊(本尊集№11)には、既に、後の曼荼羅とさして違わない様式で、しかも、大曼荼羅という語句は見られないものの、賛文が書かれています。しかも、翌年の文永十一年の字像本尊(本尊集№13)には、「大曼荼羅」と認められています。

文永十一年の「大曼荼羅」との表現は、身延入山直後からですから、佐前、佐後という思想展開、或いは、三度目の国諌が受け入れられず、伽藍形式の木像本尊を造立する望みが絶たれた事と密接に関連が有る様に思われます。

211犀角独歩:2004/10/10(日) 17:05

問答名人さん:

> ここで、「造り」とは「木像、或いは彫像」「画(えが)けども」…

該当の文書は「此等仏造画」ですよ。此等仏とは、寿量仏以前の仏を指しています。なぜ、この述語がそのあとの寿量仏に係るわけがありますか。

> 木画(もくえ)の仏像…木画
> 仏像という語を、木像・絵像

包括しておりませんでしょう。木画と書き分けていらっしゃります。

> …文永10年6月の字像本尊(本尊集№11)

これは問答さんはネットの画像でご覧になっているので勘違いされるも無理はありません。「文永十 年」と空間が空いておりますね。ここには「一」が入ります。書籍『御本尊集目録』を見ればわかりますが、「文永十一年太才甲戌六月日」です。『冨士年表』などで確認されればおわかりになれますが、文永11年は「太才甲戌」、10年は「太才葵酉」です。
ですから、10年の段階ではこのような形式はないということです。

> 文永十一年の「大曼荼羅」との表現は、身延入山直後からですから、佐前、佐後という思想展開、或いは、三度目の国諌が受け入れられず、伽藍形式の木像本尊を造立する望みが絶たれた事と密接に関連が有る様に思われます。

これはなかなか興味が惹かれる着想です。その根拠をお示しください。

212犀角独歩:2004/10/10(日) 17:37

○第11号について

この「本尊」は御筆漫荼羅ではないと見るのが一般です。

蓮師は、定形の楮紙を何枚かに継ぎ、その表面を木槌で叩いたものを図示にはお使いになりました。ところがこの「本尊」は絹本です。また、「天目受与」とあり、通常の「授与」と異なっています。これは第120号も同じです。この点に就き、山中師は「他筆」とするのが至当であると言います。
また、常師直授と伝わる「天目‘模’ノ御本尊…謀筆」との見解を紹介されています。

213犀角独歩:2004/10/10(日) 17:44

212の文章、やや誤解を招く部分がありました。第120号のほうは「受与」とありながらも御筆というのが一般です。

214問答迷人:2004/10/10(日) 17:50

犀角独歩さん

>該当の文書は「此等仏造画」ですよ。此等仏とは、寿量仏以前の仏を指しています。なぜ、この述語がそのあとの寿量仏に係るわけがありますか。

という事は、寿量仏以前の仏については、「造り」とは「木像、或いは彫像」「画(えが)けども」とは「画像」を指している事については、異論が無いと言う理解でよろしいでしょうか。もし、そうで有るならば、寿量仏以前の仏も、寿量の仏も、仏であるという点では、同じであるわけですから、寿量仏の仏像にも「木像」と「画像」があると考えるのが話の流れではありませんか。

弘長二年の顕謗法抄の「木画(もくえ)の仏像」との表現は、木画と書き分けながら、それらをさらに「仏像」語で括っていることを指摘しています。「仏像」と言った時、「木像」と「画像」を含んでいるのは明らかでは有りませんか。僕の言っている意味がどうして御理解戴けないのでしょうか。不思議です。

>その根拠をお示しください。

根拠とて特にありませんが、状況的に、三度国を諌めても用いられなかった訳ですから、壮大な伽藍の建設は、少なくとも蓮師存命中にはありえないであろう事は、強気の蓮師もさすがに認めざるを得なかったでしょう。つまり、壮大な構想の木像或いは彫像群を擁する伽藍を建設するという蓮師の構想は、この段階で潰えたと思われます。そうすると、観心本尊抄において表明した、本尊出現の予言は外れた事になってしまいます。ここに、にわかに、曼荼羅形式による画像本尊がクローズアップされ、蓮師は、字像本尊としての「大曼荼羅」を書き始めたと考えれるのではないか、という事です。

215れん:2004/10/10(日) 18:16
横レス失礼します。犀角独歩さんと問答名人さんの貴重なご投稿の最中に水をさすようですが…。参考までに記しますと、身延曽存の文永十年七月の所謂佐渡始顕の曼陀羅には「文永八年太歳辛未九月十二日蒙御勘遠流佐渡国同十年太歳癶+天酉七月八日図之、此法花経大曼陀羅佛滅後二千二百二十余年一閻浮提之内未曾有之日蓮始図之、如来現在猶多怨嫉況滅度後、法花経弘通之故有留難事佛語不虚也」とあります。この身延曽存の佐渡始顕の大曼陀羅が蓮師真筆だったなら観心本尊抄執筆後まもなく文永十年七月の時点ですでに蓮師には「大曼陀羅」図顕の意識が明確にあったと思われるのですが。どうでしょうか?横レス大変失礼しました。

216犀角独歩:2004/10/10(日) 18:39

れんさん、此が御筆である可能性はかなり低いのではないでしょうか。『御本尊集目録』を瞥見しても、文永10年は日付記載すらまだ初めていらっしゃらいないとお見受けするからです。
第一、蓮師は当初漫荼羅を「図」と言わず「書」とされておられませんでしたか。
いくえにも納得のいかないところです。

217犀角独歩:2004/10/10(日) 18:47

> 214

いえ、問答さん、違います。
画像は字像漫荼羅という点に異議を唱えているのです。
仏像=画像=字像漫荼羅という論法に異議を唱えているのです。

問答さんも記されていますが、大伽藍であるのに、では画像でしょうか。やはり、正式な木像を仏像とされるでしょう。その意味からもここは仏像だという意味です。

さらに問答さんの主張は木像=画像=字像漫荼羅であるいうわけです。
そうなるといちばん、相違は中央題目が、釈尊像となることでしょう。ここで問答さんが主張されることは題目=釈尊という等式です。ここに異議ありとわたしは申し上げるわけです。
すなわち、仏像と漫荼羅は元来、諸尊配置はもとより、その意義は異なるということです。

問答さんは仏像=画像=字像漫荼羅という主張、
わたしは(仏像=画像)≠漫荼羅という違いです。

『本尊抄』に戻ります。
蓮師の仏と脇士の関係を以下のように示されます。

小乗釈尊――――――――――――迦葉・阿難脇士
権大乗・涅槃・法華経迹門等釈尊―文殊・普賢等脇士
寿量仏―――――――――――――四菩薩

この前提で問答さんは、仏像とは字像漫荼羅であるとこう主張されるわけですね。
また、仏像は木造・画像の両方である。木造と画像=漫荼羅である、こういう主張なのでしょう。

また、問答さんは木像・画像=漫荼羅は同一内容が記される、こういう主張をされたいのでしょうか。わたしは木像と画像は同一内容を表すけれど、漫荼羅は別であるという見解です。

その前提で問答さんは『本尊抄』でいう「仏像」とは画像であり、すなわち字像漫荼羅であると、こう仰るわけでしょう。そして、該当の文書は字像漫荼羅の相貌であると仰るわけでしょうか。しかし、よく該当文書をご覧ください。

「塔中妙法蓮華経/左右釈迦牟尼仏・多宝仏/釈尊脇士上行等四菩薩/文殊・弥勒等四菩薩眷属/迹化他方の大小の諸菩薩万民/十方諸仏」とあり、十界勧請と表されるにも拘わらず、ここでは仏菩薩に限ります。仮に万民を入れたところで、仏・菩薩・人のみであって七界を欠きます。四大天王、三光天子もなく、当初から見られる愛染不動もここには記されません。なぜ、これで漫荼羅相貌と同一と言えましょうか。まして、この当時の書は、こうともなっておりません。もっと言えば、これはたぶん、仏像の配置を表すものでもないでしょう。仏像の配置は寿量仏に四菩薩ということではないでしょうか。


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