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悟りを科学する

12雖念:2004/07/21(水) 23:49
犀角独歩さん:(その1)

いわゆる神秘体験その他は必ずといってよいほど、死後の永続性・再生(今で言う生まれ変わり)と親和性を持つのはなぜなのか

遠野物語で語られる内容は、神秘体験ではありますが異界での生を扱ったもので、「死後の永続性・再生」とは、少し違うような気がします。また、井上亮のカメルーンの呪術医に関する報告(井上亮:呪術医へのイニシエーション過程ー臨床心理学的考察pp37-83 、サイケデリックスと文化、春秋社、2002)でも、異界の精霊は出現しますが、「死後の永続性・再生」は、登場しません。
神秘体験には、その土地の背景文化の影響が大きいといわれていますが、さらに語り部の背景集団の性格も無視できないと思います。日本で神秘体験を記した書物というと、今昔物語や日本霊異記などが最初に思い出されますが、いずれも仏教を宣揚し、仏を信ずることの功徳をうたうことが大きな目的であったはずです。
神秘体験の語り手が、もっぱら宗教の側の人間であったため、といっては言いすぎでしょうか?

> 「変性意識」を宗教的な極地と見るか・精神異常と見るか、これは実に面白いテーマですね。宗教体験は必ず教理の正当性の証明の如く扱われますが、わたしはこの二つは不可分であると思えません。単に関連づけられた別のものであると考えます。

変性意識は薬物以外にも、瞑想法、呼吸法、舞踊などの技法、さらに疲労困憊、絶食、激痛、単調なリズムなどさまざまな方法で、到達できるとされているので、教理の正当性どころか、宗教と必然的な関係もない。と、いうところでしょうか?

>、いっぽう『聖書』圏で言われる「パン菓子」、これはマナのことでしょうか。これは何であるとお考えになりますか。

マナと聖餐のパン、それぞれがベニテングダケもしくはその話の名残であるとして、ハインリックの筆は踊ります。

****************  引用開始 *****************
神の山に辿り着く前に、この放浪者一行はマナの奇蹟を体験する。この「マナ」なるものが何を表わしているのかは百家争鳴であるが、それは確かに茸に類似している。ただしこの場合、茸と言っても直接ベニテングタケではないが、おそらくかつてはベニテングタケの物語であったものの名残であろう。マナは茸と同様、一夜にして出現する。


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