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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について
249
:
犀角独歩
:2004/07/08(木) 15:12
> 248
まったく同感ですね。
何度も繰り返し書いてきましたが、少なくとも蓮師は自分の御筆漫荼羅が複製されるなんて、考えもしなかったでしょうね。
ちょっと、頭を捻って考えてみるとわかるんです。例えば寺院から受け取った漫荼羅、旧くなった時の準備に、先に写真に撮っておいて、安置してあるものが煤けてきたら新しいのにしようとか、あるいは「御法主上人が成就本尊を書いてくれたから、これをコピーしてみんなに配ろう」とは考えないわけでしょうね。ところが蓮師御筆漫荼羅だとこれを平気でやってきた。いったい、この感覚の差は何だろうと思うわけです。
また、蓮師漫荼羅は亀姫授与などで知られるとおり、護本尊の意義があるわけですね。
寺院仏閣で貰ってきた御守、これをコピーしてみんなに配ろう、こうも考えないでしょうね。オリジナルとコピーに対する感性は、こんなところにあるわけですよね。
だから、先に挙げた重須文献の精神はわたしは頷けます。
書かれた相貌が蓮師と書いたものと同じだとか、その文字を使ったとか、そんなことではなく、それを図示したときの師の内心、授与する相手を思った心が大切なんだと思うわけですよ。仮に点を筆先から紙に落としたものであっても、それを真心込めて自分のために書いてくださったという師資に通じ合う心、ここにポイントがありますよね。
なんだ文字象形が持つ神秘的な呪力ばかりに目が行ってしまうと、そんな心が失せてしまうと思えますね。
わたしはこんな人情が通じ合うところで、文献主義がどうのと言う気はありません。
転んだ子どもの膝を撫でて「チチンプイプイ、痛いの飛んでけぇ」と言うに、そのおまじないの根拠を求めるより先に、親心がわかるからです。
だからこそ、日蓮の名を騙り、その漫荼羅を書写して商いする食法餓鬼には正面から目くじらを立てるわけです。しかし、これも選挙じゃありませんが、「何であんなとうに投票するんだ」というのと同じ、それに追従する迷信者がそれを支えるわけです。個人でやるのはけっこうですが、束になれば社会的迷惑であるのは政教一致と同じですね。それもどこぞの巨大集団は7兆円、山のほうでも1兆円も資産を集めた、それもこれも贋作を本物と偽ってとなると、その責任を闡明にしないわけにはいかないと思うわけです。
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