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生命主義、生命論について

29愚鈍凡夫:2003/11/06(木) 20:09
「静やなぁ〜。」(独り言)
オチャドーゾ(*'-')_旦~・・・ヾ( ̄ー ̄*)サンキューサンキュー
誰もいない隙に・・・・・。(^_^)v

***********************************************
ヴァイシェーシカ学派は、インドを代表する実在論哲学を構築した学派である。

この実在論は多元論的な世界観の上に成立しており、そこに描かれる自然には実在が満ち溢れている。この学派によって「実在」とされるものの種類と数の多さには、「驚くべき」という形容が加えられてもよいであろう。
その「実在の種類と数の驚くべき多さ」は、次のように喩えられるかもしれない。二枚の鏡を互いの像が映り合うように立てる。二枚の鏡にはそれぞれ大きな像から無限に小さな像まで鏡の奥深くへ向かって並んでいるのが見られる。ヴァイシェーシカ学派の「自然」には、これと似たところがある。一個の物体(身体)には多くの部分がある。物体(身体)は実在であり、諸部分(頭、手、足等)もそれぞれ別の実在とされる。さらにそれら諸部分に多くの部分があり、これらもまたそれぞれ異なる実在とされる。この繰り返しは原子に至り、部分への分割が不可能になるまで続く。全体から部分へ、さらに部分の部分へ原子に至るまで分解され、それぞれがすべて独自性をもった実在とされる。
しかも、ヴァイシェーシカが実在と認めるのは、原子と原子からなる物体だけではない。虚空(空間もしくはエーテル)・時間・方角、アートマン(霊魂)・マナス(思考器官)といった実体や属性、運動、普遍、特殊、さらには内属という関係をも実在とみなす。この学派が描く自然には無数の実在が溢れかえっている。
ヴェーダーンタ学派のシャンカラは、このようなヴァイシェーシカの実在論を多様な表現があるだけで、それに対応する実在があるわけではないと、次のように批判する。

「インドの自然観・はじめに」
http://lapc01.ippan.numazu-ct.ac.jp/c/contents.htm

*********************************************************

細分化された部分を「実在」として捉え、その実在の集合体も「実在」であるとする。そして、それを取り巻く環境それ自体も「実在」である、と言ってるようですね。
しかしそれは、1つ1つを区別するための表現の違いであり、それ以上のものではない。ということでしょうか。

30顕正居士:2003/11/07(金) 12:33
>しかしそれは、1つ1つを区別するための表現の違いであり、それ以上のもの
>ではない。ということでしょうか。

いえ。それらがみな実在であると。

ヴァイシェーシカ(勝論 かつろん)と説一切有部(せついっさいうぶ)は
多元論・実在論であり、ヴェーダーンタと瑜伽中観は一元論・唯名論である
といえるでしょう。言葉に対応した実在があるという考えを進めると実在の
数が増えてゆくのですね。

野沢正信さんの「インド思想史略説」と「ヴァイシェーシカ学派の自然観」
http://lapc01.ippan.numazu-ct.ac.jp/b/bukkyou1.htm
はWEBで読めるわかりやすい(高専の教養科目のため)インド思想史です。

31顕正居士:2003/11/07(金) 13:09
シャンカラの主著『ブラフマ・スートラ注解』の冒頭部分の和訳
http://web.kanazawa-u.ac.jp/~hikaku/shima/BSBh0-4.pdf

ヴェーダーンタの論書がどんなものか、雰囲気がわかります。

32顕正居士:2003/11/07(金) 16:51
印順法師『印度佛教思想史』を評した文の中に「祕密大乘」を要約した簡明な文が
あった。こういう文章は今も漢文とほぼかわらないので、訓読してみた。印順法師
は秘密大乗も時輪乗も如来蔵(仏性)思想の発展であるとする。以下引用と訓読。

「祕密大乘」立本初佛。如來藏説是本有論者,衆生本有如來藏,常恆不變,可説
本初就是佛了。「祕密大乘」依佛的果紱起修,以觀佛為主,所以説法的,觀想的
本尊,都可説是本初佛。本初佛發展到頂峰的,是時輪法門。「時輪」以為:本初佛
是一切的本源,是本初的大我。超越一切而能出生一切,主宰一切。本初佛思想是如
來藏説,發展為:約衆生説,是衆生自我;約世間説,是萬化的本源,宇宙的實體;
約宗教的理想説,是最高的創造者,時輪思想達到了頂峰,也是印渡「祕密大乘」的
末後一著。

「祕密大乘」は本初佛を立つ。如來藏説は是れ本有の論なりとは、衆生本有の
如來藏は、常恆不變なり、本初は就ち是れ佛なりと説(い)ふ可し。「祕密大乘」
は佛の果紱に依りて修を起し、佛を觀ずるを以て主と為す、ゆゑに説法の、觀想の
本尊は、都て是れ本初佛なりと説ふ可し。本初佛の發展の頂峰に到れるは、是れ
時輪法門なり。「時輪」とはおもへらく:本初佛は是れ一切の本源、是れ本初の
大我なり。一切を超越して能く一切を出生し、一切を主宰す。本初佛思想とは
是れ如來藏説、発展はおもはく:衆生に約して説(い)へば、是れ衆生の自我なり;
世間に約して説へば、是れ萬化の本源、宇宙の實體なり;宗教の理想に約して
説へば、是れ最高の創造者なり、時輪思想の頂峰に達到せる、也(ま)た是れ
印渡「祕密大乘」の末後の一著なり。

http://www.tt034.org.tw/newrain/MAGAZINE/magaz20.htm 今は繋がらない

33顕正居士:2003/11/07(金) 20:22
それでは いよいよ 円教(般若仏教)の修道観 >>17 から続き

摩訶止觀圓頓章に
「圓頓とは初めより實相を縁ず、境に造(いた)るに即ち中、眞實ならざること無し。
縁を法界に繋け、念を法界に一しうす。一色一香中道に非ざること無し。己界及び
佛界、衆生界も亦然り。陰入皆如にして、苦の捨つ可き無く、無明塵勞即ち是菩提。
集の斷ず可き無く、邊邪皆中正なり。道として修す可き無く、生死即ち涅槃。滅と
して證す可き無し。苦無く集なし。故に世間無し。道無く滅無し。故に出世間無し。
純一實相にして實相の外、更に別の法無し。法性寂然なるを止と名づけ、寂にして
常に照すを觀と名づく。初後を言ふと雖も、二無く別無し。是を名圓頓止觀と名づく」
とあり、このあとに
「當知身土 一念三千 故成道時 稱此本理 一身一念 遍於法界」をとなえる。
http://www.biwa.ne.jp/~namu007/txt/txd/008.htm

集(煩悩)は苦の原因である。道(修道)によって煩悩を断じ、苦の止滅へ至る。
苦集滅道の四諦は存在しない、煩悩がそのまま菩提、生死(輪廻)そのまま涅槃。
したがって円教(般若仏教)の修道には前後次第はなく、慧学による頓悟成仏しか
あり得ない。むしろ、苦集滅道ありと考えてしまうことが円教における煩悩という
べきで、中でも習慣的、情緒的の(思惑)は退治しにくい。そこで阿弥陀仏を頼み、
毘廬舎那仏と同体と観じ、煩悩菩提、生死涅槃の心境にいたろうと、宗教化する。
「戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧に又堪えざれば信を以て慧に代ふ、
信の一字を詮と為す」(四信五品鈔)と、信仰化も起こる。
http://www.hokekyoji.com/sisingohonsyou.htm
「信を以て慧に代」えるのだから、信仰(法華仏教)の内容が円教(般若仏教)で
あるような心得や環境において従果向因の修道となるので、無内容や別の内容では
称名、唱題、坐禅、本尊等に意義はなく、何かの邪教に転落していくだろうと思う。

34愚鈍凡夫:2003/11/07(金) 20:26

顕正居士さん、御教示有り難うございます。
インド思想も視野に入れて研鑚に励みたいと思います。

35顕正居士:2003/11/07(金) 21:38
「池田教ってどんな宗教? 」の>>88 Leoさん から開始された話題についての
わたしの暫定的な結論は。

1-日本の既成仏教、新興宗教ともに宣教に生命主義的レトリックを用いており、
それは創価学会の特色ではない。「根源の法」と「宇宙のリズム」を強調するが、
これも創価学会だけの特徴ではない。
2-生命主義、生命論はシェリングの同一哲学、ヘッケルの唯物哲学、ベルクソン
の生の飛躍、T・シャルダンの臨界点、ニューエイジのホーリズムなどが混じった
思潮であり、科学の発達と東洋思想の影響のもと、欧米で発生し、持続している
近代大衆思想である。
3-如来蔵(タターガタ・ガルバ)は「在纏位の法身」(煩悩の中の仏)であり、
本初仏(宇宙の根源である菩薩)である。不完全から完全に進化するイメージを
有する生命主義と重なる。生命主義による大乗仏教宣布のレトリック、あるいは
アナロジーはこの点では適切といえる。
4-如来蔵思想は初期仏教に胚胎し、如来蔵経典として発達し、大乗涅槃経では
「仏性」(ブッダ・ダートゥあるいはブッダ・ゴートラ)と換言された。中国
では涅槃経の悉有仏性、常楽我浄、仏寿永遠が法華経にすでにあると、天台宗
は教相判釈した。天台大師の滅後に伝来した密教経典の摂属は問題になった。
5-密教が如来蔵経典、涅槃経の発達であれば、密教の原理が顕教にありとする
日蓮の教相判釈はいってい適切であった。
6-ヴェーダーンタ哲学と比較する対象は、大乗仏教の中観哲学であり、如来蔵
思想に対応するのはむしろバクティ信仰である。ブラフマンは不完全な性質を
有さないから、生命主義からするレトリックは応用しにくい。
7-ヴェーダーンタ哲学と中観哲学とは事実上、ほぼ同一であると考える人もおり、
いっぽう形式上の違いを重視する人もいる。

36Leo:2003/11/08(土) 01:06
顕正居士さん、こんばんは。ご教示ありがとうございます。

特に、
「ヴェーダーンタ哲学と比較する対象は、大乗仏教の中観哲学」
「ヴェーダーンタ哲学と中観哲学とは事実上、ほぼ同一であると考える人もおり」
のところがひっかかる(今までの自分の少々の知識・理解と異なる)ので調べてみようと
思っております。

37Leo:2003/11/08(土) 13:06
他の疑問です。

「1-日本の既成仏教、新興宗教ともに宣教に生命主義的レトリックを用いており、
それは創価学会の特色ではない。「根源の法」と「宇宙のリズム」を強調するが、
これも創価学会だけの特徴ではない。
2-生命主義、生命論はシェリングの同一哲学、ヘッケルの唯物哲学、ベルクソン
の生の飛躍、T・シャルダンの臨界点、ニューエイジのホーリズムなどが混じった
思潮であり、科学の発達と東洋思想の影響のもと、欧米で発生し、持続している
近代大衆思想である。」
によれば、創価学会と他の既成仏教、新興宗教は類似点があったり、思想の流入が
あったと思われます(特に学会は西洋思想をしばしば引用(例 聖教新聞))。

であるのに、学会メンバーに見られる「学会は唯一正しい宗教」の観念(例
本掲示板での学会メンバーの書き込み)はなぜ生じる(あるいは払拭されない※)ので
しょうか。

※ SGI憲章では、
「7.SGIは仏法の《寛容の精神を根本》に、《他の宗教を尊重》して、《人類の
基本的問題》に ついて《対話》し、その《解決》のために《協力》していく。」
とうたわれているのに、国内では闘争が好まれる(国内では闘争の指導を
している(例 聖教新聞))。

(例をすぐに引用できないですが)宗教によっては、それぞれの宗教は同じ道の
別のあらわれだと見なす考えがあります。

「XXは唯一正しい宗教」は創価学会だけの特徴ではないということで結論付けられる
でしょうか。

38ジャンノレン:2003/11/08(土) 14:01
ここまで興味深く拝見させて頂いております、いま論議の標題、生命主義はルーツとして大正時代の時代的
なキーワードのような気がします。大正期日蓮主義の勃興と共に起こった思想運動と言うよりもトレンド的
な言葉でなかったのかなと思っております。民権的な風潮と個人、社会的自我の自覚が合わさったような背
景を考えると顕正さんがお示しの宮沢賢治等も範疇にはいり、大時代発想と個人の結びつきを前提に民衆解
放運動的な匂いがあります。言うまでもなくた大衆運動は西洋的自由思想を背景とするところでもあり、東
洋・西洋の混在は否めないだろうと思います。ところで、途中に置いて

>本初佛思想とは 是れ如來藏説、発展はおもはく:衆生に約して説(い)へば、是れ衆生の自我なり;
>世間に約して説へば、是れ萬化の本源、宇宙の實體なり;宗教の理想に約して 説へば、是れ最高の創造
>者なり
この観点はなにやら、一神教の創造主や哲学の流溢というような思想を思い起こすのですがこうなると、仏
教の非我説(無我説)は依他起性ではなく実体の関係性というように思われます。仏教の思想史的な流れは
印度と中国を一緒にすることはできませんが、比較対抗的に思想が練られたと見るべきなのでしょうか?
それとも、顕正さんが仰せのように段階的に未完から完成という流れなのでしょうか?一切有部に説く分解
論は実体的我を否定せんが為に分類的に分解したと言う説もあります。(角川/仏教の思想・上山春平氏)

全体の生命主義の流れに沿っていないかも知れませんが、23で示された
>しかし個体の連続とは記憶の連続であり、記憶の連続のないところに業感の縁起は成り立たない。横の因
果で十分である。個体の業感縁起とは社会的の生命に目覚めない者への方便の教と考えられないか?

方便として釈尊が過去世を説いたりという経典もありますが、概ね生命の(自我の連続)輪廻転生には無記の
部類で実際的には瞬間の起滅の連続、個体の連続観は心と心の作用の心相続が為す錯覚ではないか?故に五陰
が分散したときには、十八界もなく表層意識も心相続を失うと考えていました。縦の因果も六因四縁五果の範
疇をでるものではないかと思いますが、如何でしょうか?すこし、生命論そのもののテーマからは外れますが
より命題を明確にする意味でも、対比考証の範囲かと思います。

39顕正居士:2003/11/08(土) 15:11
>>37 Leoさん。これは有意義なご質問とおもいます。
日本では既成宗教も新興宗教もおしなべて「おおいなるいのち」。仏神融合した
土壌に「生命主義」が近代的アレンジとしてよく合うのでしょう。創価学会の
「功徳と罰」も「おかげとたたり」。吉相で亡くなれば成仏。信仰や教義はよそ
と変わらない。変わらないのだから、日本では今は宗派が喧嘩しない。

まず、思いつくのは創価学会では近代的アレンジと土台の教義が融和していない。
喧嘩体質は日蓮正宗の教義から来るという考え。しかし創価学会出身の坊さんや
信者が来るまでは、こちらもそんなにおかしかったわけじゃない、個性的の意味
の「カルト」(カルトアイドルなどと使う)であっても、非常識とは無縁だった
と、坊さん、檀徒から反論が出そう。日蓮宗では「他門が他宗みたいなもの」と
いわれ、「身延謗法」、「富山堕獄」などと昔はやっていた。その中でも富士派
は「他山が他宗みたいなもの」、「要山謗法」、「石山堕獄」。今の立正大学は
こういう宗風を反省した学系から出来た。しかし「俺はやっぱ折伏だな」という
田中智学居士が出現、この人は江戸モードの大教養人で、姉崎正治や高山樗牛も
仲良くなる、一番弟子の山川智応居士がまた真面目な学者で、国柱会は面白い所
だ、き**いか知らんが、学問も常識もある、となった。しかし学問や常識がある
範囲だから社会に大きな影響を与えても、会員は最盛期で三千名を越えなかった。
創価学会は国柱会の大衆版だとわたしはおもう。教義もアレンジも国柱会。けれど
牧口氏に「大善生活実験証明」というオリジナルの発想があった。牧口氏の時代は
大衆版開発研究所みたいなもので、やはり会員は最盛期で三千名を越えなかった。
戸田氏は遂に大衆版を開発した。「御戒壇様」が「幸福製造機」に変じた。軍隊
を模倣した組織は人数が増えても統制がとれる、「一切を侵略的に実行せよ」
(智学居士)には、戦略を解さない下部組織の独自行動を抑制する必要がある。

1-教義、アレンジ研究(国柱会)、2-大衆版開発研究(創価教育学会)を経て、
3-大衆版発売(創価学会)に至った。だから、製品の内容として田中智学居士の
日蓮理解、仏教理解の問題、創価学会が販売会社に特化して、ヴァージョンアップ
をはかる研究体制を構築しなかった問題、この辺を考察する必要があるとおもう。

40Leo:2003/11/08(土) 23:08
顕正居士さん、こんばんは。

>個性的の意味の「カルト」(カルトアイドルなどと使う)であっても

現在でも学会は最高指導者や夫妻が(芸能界にたとえるなら)アイドル的存在
(この捉え方は決して誹謗のつもりではありません)になっている傾向があるの
ではないかと思います。

>1-教義、アレンジ研究(国柱会)、2-大衆版開発研究(創価教育学会)を経て、

この部分がひっかかるので、ご教示頂けないでしょうか、よろしくお願いします。

学会の史観では、生命教の発明は戸田氏オリジナルになっていると思います。
(仮に国柱会の教義・アレンジの流入があったとしても示されていないです)
国柱会の教義・アレンジがどのような形(時代、人物)で流入したのでしょうか。

>3-大衆版発売(創価学会)に至った。だから、製品の内容として田中智学居士の
>日蓮理解、仏教理解の問題、創価学会が販売会社に特化して、ヴァージョンアップ
>をはかる研究体制を構築しなかった問題、この辺を考察する必要があるとおもう。

「田中智学居士の日蓮理解、仏教理解の問題」
「創価学会が販売会社に特化して、ヴァージョンアップをはかる研究体制を
 構築しなかった問題」
ここが批判ポイントということですね。前者は先ず国柱会と学会の関連性の確認
が必要と思います。後者はそういう問題を私も持ちます。

まず江戸時代のように体制維持(内乱を恐れて)のために発明を禁ずるというところが
あると思います。

学術部や経学部、東洋哲学研究所のようなグループや機関が一部にはあるにはありますが、
すべての会員は会社にたとえると営業に徹するところであり、組織運営的にはトップダウン
で動くところだと思います。で、営業(実践)に不向きな人間(二乗人間)は不要という
ことになっています。

41顕正居士:2003/11/09(日) 15:16
>>38 ジャンノレンさん。

>>32は 『新雨月刊』第二十期 「佛法的流變・『印度佛教思想史』再介紹」 顯如
新雨道場へは今も繋がらないがキャッシュがgoogleにあります。
また印順法師の『印度佛教思想史』そのものがWEBに在ります。
http://www.hku.hk/buddhist/yinshun/31/yinshun31-00.html
カーラチャクラ(時輪)は最後のタントラであり、チベットに伝承されています。
http://www.tibethouse.jp/culture/kalachakra.html
カーラチャクラ灌頂の体験記
http://webclub.kcom.ne.jp/ma/yfukuda/ishihama/kalacakra.html
>印度と中国を一緒にすることはできませんが、比較対抗的に思想が練られたと
>見るべきなのでしょうか?
仏教は印度でも中国でも日本でも常に他教に対抗して思想が練られたと考えます。
仏教に限らないでしょうが。後期インド大乗仏教は哲学的には後期中観(瑜伽中観)
であり、宗教的にはタントラです。対抗して思想が発達する中にも哲学的と宗教的と
両方面があります。時輪タントラはインドにおける一神教の高潮への対抗の要素が
ありそうですが、詳しいことはわかりません。チベット仏教では信仰の対象は実在する
ものではないことが、常に戒められます。
○無我輪廻
「アビダルマ哲学によれば、われわれの存在は刹那毎に生滅をくりかえす心の連続
(心相続)である。唯識派は心相続の背後にはたらくアラヤ識(阿頼耶識)を立てた。
アラヤ識は、表面に現れる心の連続の深層にあって、その流れに影響をあたえる
過去の業の潜在的な形成力を「たくわえる場所(貯蔵庫)」(alaya)である。
これは瞑想の中で発見された深層の意識であるが、教理の整合性をたもつ上で重要な
役割を果たした。すなわち、無我説と業の因果応報説の調和という難問がこれによって
解決された」
http://lapc01.ippan.numazu-ct.ac.jp/b/yuisiki.htm
シャーティデーヴァ(寂天 650-700年頃)は『入菩薩行論』で、灯火の炎が別の灯火
に移されても同じ灯火である、といいまた1 念には後念あり、2 臨終の念は念である、
3 故に臨終の念には後念あり、と論じています。
アラヤ識を立てないアビダルマ哲学(有部)の場合には、不可視の微細身が粗大の身
と別にあり、これが中有身であって、経験感受することは生前と変わらないが、他者の
目には見えない、次の母胎に入るまでこの状態で彷徨うとします。この信仰は中国、
日本にも継続し49日追善の根拠になった。遺文では『十王讃歎鈔』(偽書?)に詳しい。

42犀角独歩:2003/11/09(日) 17:06

顕正居士さん:

横レスでご質問申し上げるご無礼の段、お許しください。

> アラヤ識(阿頼耶識)過去の業の潜在的な形成力を
> 「たくわえる場所(貯蔵庫)(alaya)

とのご説明を読み、わたしが直ちに想起したのは、アカシック・レコードのことでした。これは業の貯蔵というより、知識の貯蔵ということになろうかと思いますが、阿頼耶識などインド思想の影響は考えられるものでしょうか。
ご教示をいただければ有り難く存じます。

43顕正居士:2003/11/09(日) 17:32
>>40 Leoさん。
>国柱会の教義・アレンジがどのような形(時代、人物)で流入したのでしょうか。

近代日蓮主義を概観した書には、戸頃重基『近代社会と日蓮主義』評論社があります。
近年、大谷栄一『近代日本の日蓮主義運動』法蔵館が刊行されたがこちらは未読です。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/ssst/docs/2001/gist-2-0.html
上の最新の大著には何か新発見があるかも知れないから、その点ご容赦を!

近代日蓮主義には3つの系統があるが、果たした役割が違い、3つの主義ではない。
1-充洽園〜立正大学(日輝・日薩) 国学、西洋文献学の手法により、正確な遺文を
編纂し、日蓮思想を仏教史の中に位置付けることを目指す。
2-本多日生 近代哲学を摂取し、教学を近代化し、日蓮門下統一を目指す。
3-田中智学 江戸時代の在家折伏主義を継承し、近代思想の打破を目指す。
田中智学は折伏主義、事戒壇主義、攘夷主義に立ち、政治、経済、文化あらゆる方面
に日蓮主義を宣布し、日蓮主義を国教とし、ひいては全世界を征服せよと説いた。
コラーンか剣かは緩い、法華経は剣なりといえ(趣意)。なぜならすでに出でた思想、
いまある思想、今後出づべき思想の一切を統一するのは日蓮主義であり、すでに統一
している以上、われらに求められるのは勇敢に邪教徒を征伐することのみ(趣意)。
田中智学の思想は 『日蓮主義教学大観』に詳しい。
国柱会には新興宗教を開く意志はなく、日蓮主義の啓蒙に終始し、そのかわりに影響は
日蓮宗諸派の全僧俗に及んだ。日淳、三谷、牧口らに智学の思想は空気のようなもの
であったろう。事壇主義が伝統の大石寺においてはまして。すなわち、国柱会の教義や
アレンジはオープンソースであり、普及商品化が創価学会であって、直接の人的関係は
無かったと想像します。

44ジャンノレン:2003/11/09(日) 18:06
顕正さま、詳説とサイト案内ありがとうございます。

>仏教は印度でも中国でも日本でも常に他教に対抗して思想が練られたと考えます。 仏教に限らないでしょうが。
後期インド大乗仏教は哲学的には後期中観(瑜伽中観) であり、宗教的にはタントラです。対抗して思想が発達
する中にも哲学的と宗教的と 両方面があります。時輪タントラはインドにおける一神教の高潮への対抗の要素が
ありそうですが、詳しいことはわかりません。

中国では偽経として有名な「老子化胡經」があります。これは、老子が西域印度へ出掛けて、幾多の胡国を教化し
たことを書いたといわれるもので、西晋の恵帝の頃に、道士の王浮(王符?)という人がの偽作に関わったとされ
ている。王浮が作った由来は明治期の仏教学者桑原隲藏氏は「東漢の末から三國時代にかけて、一方では佛教が漸
く民間に流通するし、又一方では道教が次第に組織される に従い、始めて道佛の衝突が起り、両晉・南北朝・隋・
唐時代は申すに及ばず、宋・元時代までかけて、絶えずこの両教は衝突 した。」と衝突の経由を語られている。

中国で既に道教が蔓延支持を得た階級はどちらかと云えば宰相など官僚の支持を集めたに対し、仏教は比較的民間
に流布 していたとあります。桑原氏は「佛教が支那に將來されたのは、普通に東漢の明帝の永平十年(西暦六七)
の頃と認められ、『漢法本内傳』(唐の智昇の『續集古今佛道論衡』引く所による)によると、その後ち間もなく
永平の十四年に、五嶽の同士等佛教の弘布を憤り、道士の重なる者六百九十人上表して佛僧と術を角せんことを願
ひ出た。」と研究成果を書かれている。

この威力を競うのに法術をもってと云うところが時代相応の決し方で面白い。大聖人も極楽寺と対するのに祈雨の
効験をもってと競られたこともこういった故事に習われたのか、興味深い。以下、道教が仏典を著した釈迦を貶め
る ために老子が印度に下り、釈迦を教えたとされる経典を捏造するなど、なかなか謀略的な仕業です。恐らく国
王の認可を得て中 国の国威に関する事柄として仏教を見ていた節が大いに考えられる。そして遂に先人争いは仏教
徒をして釈迦出世の時期を操作する桑原氏は「或は西周の初とし、或は殷の時代とし、或は夏の末などと主張いた
す。これが釋迦出世の年代に関する異説を多くした原 因の一つである。勿論印度本國でも、釋迦出世の年代に関す
る異説は隨分あつた。併しその多数、殊にその出世年代をより古代に置く説は、中国で捏造されたもので、その目
的は道教対抗のために存するのである。」 仏教徒として捏造とは情けない話だが恐らく弾圧破却にはこれしか、方
法論が取 れなかった時代であったようです。その後、仏教徒は老子を菩薩位に処した経典『老子大権菩薩経』を偽
作し、更に孔子もそ の弟子も聖人という聖人を全て中国の聖賢を経典中の菩薩の化身として顕し吸収を計った。
これが我が国での仏教と神道の習合の際の本地垂迹の説の雛形教訓の元となり、日本に於いては聖徳太子等の尽力
も得て、さほど摩擦を起こすことなく定着した遠因であろうと同氏は見解を出されている。詳細は「桑原隲藏全集
第一巻」岩波書店 1968(昭和43)年2月13日初版発行 初出:「芸文」第一年巻第九号 1910(明治43)年12月
で確認下さい。

>シャーティデーヴァ(寂天 650-700年頃)は『入菩薩行論』で、灯火の炎が別の灯火 に移されても同じ灯火
>である・・また1 念には後念あり、2:臨終の念は念である、3 故に臨終の念には後念あり、と論じています。
これは有名な例えですね、十二因縁を考えれば、肉体実我が相続と言うよりも心相続の延長と考えられるのですが、
業という考えの発展ということでしょうか?

>アラヤ識を立てないアビダルマ哲学(有部)の場合には、不可視の微細身が粗大の身と別にあり、これが中有身
>・・経験感受することは生前と変わらないが、他者の目には見えない、次の母胎に入るまでこの状態で彷徨・・
孔子は祭祀の祭礼者であったという説があります。その頃の風俗では王が死して一年は即位を考慮するという慣例が
有ったそうです。儒教は元が生死の祭礼を司るものからの発展であるとの説もあります。葬儀という概念は儒教から
の転入という考察があり、そう言う意味でも仏教の土着風俗の吸収は「老子化胡經」を見るまでもなく盛んです。

話は飛びますが、仏教が形骸化することなく発展してきたのは、こういった教理優先でない柔軟性があったと考えて
います。そう言う意味では時代相応の生命主義とかニューサイエンスとかをドンドン吸収していけば良いのではない
かな、とも思うのです、拙考ですが・・。

45顕正居士:2003/11/10(月) 10:22
>>42 独歩さん。

>阿頼耶識などインド思想の影響は考えられるものでしょうか。

Akasha ChronicleあるいはAkashic Record

Akasha(アーカーシャ)は「虚空」と訳し、「空間」(space)、「天空」(ether )を意味します。
Akashaに宇宙の出来事が記録されるという考えは、少くともインドに普通にあったもの
ではなく、おそらくマダム・ブラヴァッキーかカーネル・オルコットの思いつきでしょう。
http://www.blavatsky.net/
神智学ではAkashaを「第五元素」(第一質料 プリマ・マテリア)と同一視する。西洋語の
’ether ’にはそういう意味がある。で、実際には’alaya’(阿頼耶識)から思いついたと
いうのは、わたしもありそうなことに思います。

46顕正居士:2003/11/10(月) 11:21
>>40 Leoさん。
>学会の史観では、生命教の発明は戸田氏オリジナルになっていると思います。

「生命の四大属性」(山川智応)
http://plaza15.mbn.or.jp/~hongemyousyuu/sidaizokusei.html
を見ただけでも、「生命教」はとっくに出来上がっていたと思える。
戸田城聖氏は「やはり! 生命だ!」と悟ったのでしょう。体験とは「わかった!」という
ことですから。また戸田氏の「生命だ!」は日蓮主義=生命教、牧口主義=価値教と
相対し、日蓮主義=生命教をとる意味だったのでないでしょうか。

国柱会の「日蓮主義」は「主義」であって、「教団」を宣布するものではなく、「日蓮宗」
を宣布するものでもなかった。しかし戸田氏は「日蓮主義」と「日蓮正宗」を同一視し、
「御戒壇様」を「幸福製造機」に変じた。だから、もう「主義」ではなくなってしまった。
「教団」自体を宣布するのはマルチ商法と同じで、教義もアレンジも営業トークに過ぎな
くなるからである。ただ、創価学会を「日蓮正宗の教義を宣布する団体」と考えれば、
いちおう製造会社はたてわけられており、製品の改良は日蓮正宗の責任にはなる。
だが信者の急増に僧侶の養成が追いつかないから、葬儀の実行だけでも困難になる。

47犀角独歩:2003/11/10(月) 13:21

45 顕正居士さん:

ご教示有り難うございます。

> わたしもありそうなことに思います

心強いお言葉でした。

48Leo:2003/11/11(火) 01:17
顕正居士さん。レスありがとうございます。

>>35
>「ヴェーダーンタ哲学と比較する対象は、大乗仏教の中観哲学」
これは中観哲学は大乗仏教の中心思想ということでよろしいでしょうか。

>「ヴェーダーンタ哲学と中観哲学とは事実上、ほぼ同一であると考える人もおり」
「考える人もおり」ですが、基体説 v.s. 反基体説という捉え方ができるように思うのですが...

>>43
>国柱会には新興宗教を開く意志はなく、日蓮主義の啓蒙に終始し、そのかわりに影響は
>日蓮宗諸派の全僧俗に及んだ。日淳、三谷、牧口らに智学の思想は空気のようなもの
>であったろう。事壇主義が伝統の大石寺においてはまして。すなわち、国柱会の教義や
>アレンジはオープンソースであり、普及商品化が創価学会であって、直接の人的関係は
>無かったと想像します。

「国柱会の教義やアレンジは「オープンソース」」であるならば、
 ・作者のソースコードの完全性
 ・個人やグループに対する差別の禁止
 ・使用する分野に対する差別の禁止
 ・特定製品でのみ有効なライセンスの禁止
 ・他のソフトウェアに干渉するライセンスの禁止
などの基準を満たしている必要があるように思うのですが...

>>46
>「教団」自体を宣布するのはマルチ商法と同じで、教義もアレンジも営業トークに過ぎな

やはり、そこが大きな問題点ですね。

>くなるからである。ただ、創価学会を「日蓮正宗の教義を宣布する団体」と考えれば、
>いちおう製造会社はたてわけられており、製品の改良は日蓮正宗の責任にはなる。

苦情はあっち(今では別会社の正宗)に言ってくれ、こっちは売っているだけだ、
ということになりますね(今でも)。

>だが信者の急増に僧侶の養成が追いつかないから、葬儀の実行だけでも困難になる。

そう言う意味では友人葬は合理的(僧侶の養成がいらない)なのかもしれません。
学会墓苑もあり、葬式仏教の機能完備ということなのですね。

49顕正居士:2003/11/11(火) 07:31
>>48 Leoさん。

>これは中観哲学は大乗仏教の中心思想ということでよろしいでしょうか
中心思想というより中心哲学(central philosophy)でしょう。大乗仏教の思想はほかに
唯識、如来蔵、タントラなど豊富ですから。
>基体説 v.s. 反基体説という捉え方ができるように思うのですが
西田の「基体」は主語になることがない。たしかに「空」は主語にはならない。対して、
「アートマン」は述語にならない。もし単に「拠り所」の意味なら、「空」も「アートマン」も
「拠り所」です。
>「オープンソース」であるならば
「営業トーク」なわけです。「幸福製造機」、「功徳と罰」の営業実体以外は製品説明が
国柱会の借用になったのは、『本化聖典大辞林』や山川智応の遺文講義録から書籍
を作ったせいでもあるでしょう。
>苦情はあっち(今では別会社の正宗)に言ってくれ、こっちは売っているだけだ、
>ということになりますね(今でも)。
「国立戒壇」、「登山」、「葬儀」、「四箇格言」、いろいろ。製造欠陥はあっちだから、
苦情をいおう(悪の糾弾をしよう)ですから、まさに「今でも」ですね。

50顕正居士:2003/11/11(火) 08:23
>>37 Leoさん。ところで本題はこれでした。

>学会メンバーに見られる「学会は唯一正しい宗教」の観念(…)はなぜ生じる(あるいは
>払拭されない※)のでしょうか。

1 日蓮宗および富士派には内ゲバの伝統が存在する。
2 国柱会の折伏主義、事壇主義、攘夷主義を継承した。
二点は大石寺系教団全部に当てはまる。1は近代教育の普及に伴い克服されるはず
である。2はファンダメンタリズムではあるが、党派の抗争を生じる思想ではなかった。

戸田は「御戒壇様」を教義の象徴ではなく、マナ(呪力)の集中した実体、「幸福製造機」
であるとし、牧口の「大善生活実験証明」を結びつけて、「功徳と罰」の宣教を行った。
彼の手法は高度成長期の社会によく合って、短期に創価学会を急成長させた。彼は数
の力でもって政治、経済、文化を制し、「王仏冥合」を実現、山川智応のいう「第三文明」
を建設しようとした。方規は田中智学が政党の結成まで一切を示していた。朝鮮戦争に
よって日本は未曾有の不安に覆われており、共産政権の樹立を防止することは急務
であった。しかしその宣教の手法は「創価学会は創価学会を拡大する団体」、「創価学会
は創価学会を信仰する団体」というカルトやマルチ商法と同一の仕組みへと転落し得る
ものだった。「学会は唯一正しい宗教」の観念はおそらくこうして生じ、大石寺へも普及
していったと考えます。これは生長の家や立正佼成会が陥らなかった隘路であった。

つまり1、2の理由だけでは「学会は唯一正しい宗教」の観念は生じないが、製品に責任
を持たない販売特化が、マルチ商法と同一の仕掛けに陥り、ついに建前上の製造側との
対立をも招き、「創価学会は創価学会を信仰する団体」に名実ともになったのだとおもう。

51Leo:2003/11/13(木) 00:33
(ご参考までに)
ひょんなことから、顕正居士さんの過去の書き込みを見つけました。
(「生命主義、生命論について」スレに関係する内容かと思います )
下記テキストはキャッシュ上しか残っていないので、保存を兼ね書き込みさせて
いただきたいと思います。顕正居士さん、大変不躾で申し訳ございません。
もし、コメント等ございましたら、よろしくお願い致します。

------------------------------------------------------------------------
タイトル: 批判仏教
投稿者 : 顕正居士
登録時間:1999年10月26日18時15分
本文:
最近のcolinさんlibraさんの対話が興味深い。わたしは仏教学を専攻しました
が専門家にはなりませんでした。仏教の勉強はほとんど学生時代のもので、
最新の研究に疎いばかりか基礎的な知識も次第に忘れました。インターネット
に接続して「るつぼ」日蓮の部屋を発見、やがて投稿もし、昔に学んだ事柄を
思い出して来たのです。仏教には矛盾するような学説でも方便として認める
という独特のシステムがあり、これと空性の理解に関して重要な論書が漢字圏
に伝わらず、さらにディベートしない日本社会の特色から、仏教は「Aも非Aも
」成り立つという非論理に化し、葬式仏教以外では骨董になりつつある。
宗派を問わず、仏教系のHPを見たら、「宇宙は大いなる生命であり〜」みたいな
ことしかない。曹洞から出た松本、袴谷両氏の批判仏教がたいへん流行して
いるのを知って読んで見ると、「宇宙は大いなる生命であり〜」は如来蔵思想が
劣化したものであるらしい。宇宙(界、ダートウ)から三宝も出生する教義が
如来蔵だと云う。「宝性論」を見るとたしかにそれらしいことが書いてある。
仏教の値打ちは宇宙を不完全のものとし、ひとの努力によって文明を建設する
のを鼓舞する面と、近代哲学に類似した発想を早くに行った面である。ならば
なんと「反―仏教」がいつも勢力を占めて来たことか。道元や日蓮に今日学ぶ
事柄は仏教と自称する大多数の「反―仏教」を批判する姿勢、その一点と思う。
------------------------------------------------------------------------

52顕正居士:2003/11/13(木) 09:46
>>51 名前: Leoさん

いわゆる「場所の哲学」は自我の覚醒が不十分である日本社会を、仏教の無我説を借りて
補強して来たとわたしはおもう。
「絶対矛盾的自己同一」 西田幾多郎
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html
ただし批判仏教が「「仏性」や「場所」は現象としての事物の「基体」や「本質」に当たるのだ
と言い張っている」のは西田哲学と違います。
「場所としての仏性」 やすいゆたか
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/ch2/u2/t5.html
また如来藏思想は初期仏教より発展し来たったものである。
「如來藏之研究」 印順法師
http://www.hku.hk/buddhist/yinshun/34/yinshun34-00.html
当時批判仏教が流行しており、わたしもおおいに興味をもったのですが、その後、彼らの
言論は矛盾に満ちたものであることがわかりました。まず「基体」という語を理解していない。
過去の文でわたしが「仏教と自称する大多数の「反―仏教」」というのは、今日の教団や
宣教のことで、歴史上の仏教を指してはいません。

「批判仏教の背景の批判的考察」 J・ハバード
http://www.nanzan-u.ac.jp/SHUBUNKEN/jp/Shuppanbutsu/Shoho_to_burechin/pdf/S9-Hubbard.pdf
「「批判佛教」駁議 釋恆清」
http://ccbs.ntu.edu.tw/FULLTEXT/JR-MISC/misc99885.htm

53顕正居士:2003/11/13(木) 16:29
J・ハバードさんも釈恒清さんも「町田事件」にはじまる「批判仏教」の社会的背景を説明
している。京都学派の哲学が仏教の無我説を用いて、自我覚醒の不十分な日本社会を
肯定し停滞させる役割をはたしたことはわたしもおおいに賛成する。京都学派の哲学が
如来蔵思想の一発展である臨済禅の体験、解釈と結びついており、それは曹洞宗にも
流入しているだろう。しかし京都学派、臨済禅、禅、老荘、如来蔵、何もかもごっちゃにし、
思想と教団などの社会現象を混同した上、自我の覚醒でなく無我を唱え、しかも出発点
から「基体」の語義を誤解している。ほとんど「折伏経典」などの思いつきに近いとおもう。

「それではいったい、何をもって仏教というのか?「批判だけが仏教である」と、
袴谷氏はその著書の中で彼らしい攻撃的姿勢で唱えている。-J・ハバードさん

袴谷と松本両氏の説だけが仏教であると最初から定義してあるのだから仕方がない。
釈恒清さんは社会的背景に加え、仏教学から詳しく批判している。結論の一部だけを
下に引用し、和訳した。↓。

54顕正居士:2003/11/13(木) 16:30
批判佛教的第二個錯誤是它陷入自家所批判的獨斷主義,而且忽略它自己極為肯定的
縁起思想。袴谷和松本將如來藏思想全盤判為「偽佛教」,而「批判佛教」才是真佛教,
如此專斷(authoritarian)的詮釋,Bernard Faure稱它為「知的恐怖主義」(intellectual
terrorism)[97]。殊不知「偽佛教」也好「真佛教」也好,都在縁起法中呈現。就如Peter
Gregory所説,「在詮釋的脈絡之外,任何教義皆不能顯現其真義,就像在能思考的心之
外無觀念可言。」

批判佛教の第二の誤りは自らが批判する独断主義に陥り、自らが肯定する縁起思想を
忽せにすることだ。袴谷と松本は如来蔵思想の全般が「偽仏教」であり、「批判仏教」だけ
が真仏教だとする。このような独断的解釈はBernard Faureのいう「知的恐怖主義」である。
「偽仏教」であれ、「真仏教」であれ、すべて縁起する現象としてあらわれる。だからPeter
Gregoryはいう、「コンテキストを離れた解釈は、どんな教義の意義もあらわさない、思考を
離れた観念がないのと同じだ」と。

批判佛教將社會的苦難、不義和政治意識型態歸罪於「場所佛教」,果真如此的話,
未受「場所佛教」影響的西方社會,就不應有那些苦難,可是事實不然。可見批判佛教
過於獨斷,而沒有注意佛性思想如何被利用成為社會或政治的意識型態。該被譴責的
應該是那些擅用者,而不是佛性思想。

批判仏教は社会的苦難、不正義及び政治意識(の停滞)を「場所仏教」のせいだという。
ならば「場所仏教」の影響を受けていない西洋社会に此等はないはずだ。批判仏教は
独断に過ぎ、仏性思想がどのように社会的或は政治的意識の(停滞)に悪用されるかに
注意しない。責められるべきはその悪用者であって、仏性思想ではない。

55Leo:2003/11/14(金) 03:28
>>52-54 顕正居士さん、ご教示ありがとうございます。過去腑に落ちなかった点がだんだんわかって
参りました。

批判仏教は批判仏教への反批判的議論を盛んにしたという点で有効であったのではないかと
思います。同様にLibraさんもすでに批判仏教への反批判を行っていました...
・「如来蔵思想批判」の批判的検討 (Libraさん)
http://page.freett.com/Libra0000/ronbun01.html
「2.「仏性修現論」は論理的に成立する
3.「不二」は「如来蔵思想」ではない
4.中国仏教にも中観思想は存在した」

私も以前誤解したのですが、Libraさんは「仏教の中の何は仏教でない」類いの信仰の宣布あるいは
勧誘をしたい(正当化主義)のではなく、逆に批判を求めている(たとえば、
「「如来蔵思想批判」の批判的検討」批判など)のだと思います。

私はまだ特定される批判を見出してないですが、「「如来蔵思想批判」の批判的検討」では
「日蓮の思想を「天台教学である三因仏性論に基づく正統的な本覚思想」」※という点が
ひっかかっています。
※日蓮聖人は他の要素も多く、このように言い切ることが出来るのかということ。

また、中観哲学が大乗仏教の中心哲学(Libraさんもそれを認めていると思います)とすると、
それは現在でも生命論・生命主義と対立する(あるいは創価仏法は大乗仏教の中心哲学ではない)
ものと思われますが、いかがでしょうか。

56Leo:2003/11/14(金) 03:37
自己レスです(念のため...)。 >>55 は特にLibraさんを擁護するものではないです。
(Libraさんの主張を批判的に検討することが有効かもしれないということです)

57顕正居士:2003/11/14(金) 13:26
Leoさんの今のご興味はどの辺が中心でしょうか?

「創価学会はどのくらい仏教と関係があるか?」でしょうか?
「××は××を信仰する教団」(××は教団名を代入)になっているところ、つまりカルトは
どれをとっても構造がほぼ同じで、教義は関係がないとわたしにはおもえます。マルチ商法
の擬似商品が洗剤であろうが、化粧品であろうが関係がないように。それらの教団に存在
する擬似信仰の解明に役立つのは社会学の知識で、仏教学は役に立たないでしょう。

「創価学会はどうでもよいが仏教に興味がある」でしょうか?
今、日本では葬式仏教とカルトしかないに近い状態です。しかし仏教学は世界一の水準
です。仏教学者の著書に仏教を求める方が増加しています。仏教学は広大な分野です。
幾十年学んでも一知半解にすら到達しないでしょう。したがって幾冊かの概説書を読んで
何か分かった気になってはいけません。何百年も教科書に使われている古典、八宗綱要
や天台四教儀は完全な虎の巻があり、それらを読むのが早道です。仏教漢文を読む基礎
になります。漢訳の仏教にはインド仏教の素晴らしいところが失われているといえばそうで
しょう。インド仏教を学ぶにはとにかくサンスクリット語です。中観を学ぶにはチベット語が
必要です。中観は大乗仏教の中心哲学ですが、要するに不可知論を主張する認識論で
あって、これからどんな教義も出て来るわけではありません。

サンスクリット語を学ぶのが一番はやみちであるかも知れません。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~kondotak/entrance.html

58顕正居士:2003/11/14(金) 21:21
上の文章は誤解されるかも知れないので。

実際は中観の学習をしないと仏教について何ひとつ確固とした見解が持てないでしょう。
中観を学習するのは第一なのですが、中観は実在論を批判する哲学なので、インドの
さまざまな学派の見解を知らなければなりません。サンスクリット語の学習が先決です。
http://www7.ocn.ne.jp/~sanskrit/
サンスクリット初歩とインド哲学の概観が済んだら佐倉さんのように中論を読みましょう。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/index.html
その後はもうチベット仏教の世界です。

ツォンカパにおける縁起と空の存在論
http://tibet.que.ne.jp/archive/khyad_chos_main.html
ゲルク派僧院のカリキュラム
http://www.mmba.jp/gomang/gomang_04_03.html

中観と唯識    長尾雅人 岩波書店 昭53
西蔵仏教研究 長尾雅人 岩波書店 昭49
は入手しておくとよいでしょう。

59Leo:2003/11/15(土) 00:21
顕正居士さん、こんばんは。

>Leoさんの今のご興味はどの辺が中心でしょうか?
>「創価学会はどのくらい仏教と関係があるか?」でしょうか?
>「××は××を信仰する教団」(××は教団名を代入)になっているところ、つまりカルトは
>どれをとっても構造がほぼ同じで、教義は関係がないとわたしにはおもえます。
>「創価学会はどうでもよいが仏教に興味がある」でしょうか?

私の経験では学会活動はほぼ折伏(拡大闘争)と法戦(選挙運動)の反復であり、幹部の指導を受けても
結局「仏教は実践(学会活動(折伏)せよ)」という指導しか得られませんでしたので、学会に「仏教とは何か」
を求めるのは筋違いであるに違いありません。ただ、「学会とはなんだったのだろう」という疑問は残っており
(この掲示板の皆さんのお話しで疑問が解消されつつあります)、「どうでもよい」とまではなっていないです。
しかし、「仏教に興味がある」にかなり重みがあります(加えて哲学・思想全般にも興味があります)。

>実際は中観の学習をしないと仏教について何ひとつ確固とした見解が持てないでしょう。
>中観を学習するのは第一なのですが、中観は実在論を批判する哲学なので、インドの
>さまざまな学派の見解を知らなければなりません。サンスクリット語の学習が先決です。

なるほど、それで顕正居士さんははじめにインド哲学の入門書(中村元『インド思想史』は最近入手できました)
を勧められていて、また、今回のご紹介のようにチベット仏教まで範疇にはいっているのですね。私は従来中心哲学
だけ集中して勉強すればよいと誤解していたのと、それに元来基礎がないですから、今回のお勧めの書籍も読んで
みようと思います。ご紹介ありがとうございます。サンスクリット語の学習の件は少し驚きましたが、たとえば科学・技術
の分野で英語が必要であることに類似するものでしょうか...

60顕正居士:2003/11/16(日) 09:07
>>59 Leoさん。

>学会活動はほぼ折伏(拡大闘争)と法戦(選挙運動)の反復であり、幹部の指導を受け
>ても結局「仏教は実践(学会活動(折伏)せよ)」という指導しか得られませんでした

創価学会は営業目標をすでに会員数から得票数にシフトさせているようにみえますが。

「マルチ商法は、販売組織の加入者に新たに別の者を勧誘すれば利益が得られるとして
勧誘させて、組織を拡大する商法です」
http://www.kokusen.go.jp/mame/data/mame03_c14.html
の「マルチ商法」を「カルト」、「販売組織」を「教団」に変えると、
「カルトは、教団の加入者に新たに別の者を勧誘すれば利益(りやく)が得られるとして
勧誘させて、組織を拡大する商法です」になります。

「マルチ商法」、「カルト」は商品、宗教サービスの市場で競争するのではなく、「営業」だけ
で循環することを目指す。だから営業員以外は要らない。事務職員は必要だが、単純な人
がよい。あとは交際費でメディア対策をする。「商品開発」なんて誤解する人は困るのです。
「マルチ商法」、「カルト」には「擬似教義」があります。それは1-余計なことを考えさせない、
2-営業に専念させるために絞られ、3-対抗会社(教団)を誹謗する、4-そのために陰謀論
を構築し、5-最終決戦(ハルマゲドン)をとなえます。「仏法と申すは勝負」など古典の句を
文脈と無関係に引用するが、それは聖書でも日蓮でも親鸞でも都合良ければ何でもよい。

「カルト」が「破壊的カルト」の意味になり、応用し「宗教カルト」、「啓発カルト」、「経済カルト」
などといいますが、むしろ「マルチ商法」を基礎語にし、「宗教マルチ」、「啓発マルチ」などと
捉えたほうが、これらの現象の本質に迫れるのではないかと最近は考えています。

61顕正居士:2003/11/16(日) 10:06
>サンスクリット語の学習の件は少し驚きましたが、たとえば科学・技術の分野で英語が
>必要であることに類似するものでしょうか...

日本人は漢字と仮名を両方使っていましたから、明治時代に漢字仮名混じり文を発明して
高等教育まで日本語でおこなえるようになりました。しかしあらゆる教科書は英語を知って
いる前提で書かれています。使われる術語の原英語や重要な短文を示されて、それを我々
は理解できます。英文学の書籍ですと、ギリシャ語、ラテン語とその短文が出て来ますから
これらの初等程度の知識を求められます。仏教学の書籍ですと、サンスクリット語は知って
いる前提でパーリ語、チベット語も勉強中ていどの約束でやさしいものでも書かれています。
ですから使われる術語の原サンスクリットや重要な短文を示されて、さっぱり分からないの
ではその本を理解できません。だからサンスクリット語の初等の知識が先決になります。

62Leo:2003/11/16(日) 12:16
>>60-61 顕正居士さん。

>創価学会は営業目標をすでに会員数から得票数にシフトさせているようにみえますが。
確かに、数年前「一千万の戦い(実質上得票数1000万票)」という目標が掲げられました。
(私は最近全く組織活動をしてないです...)

>「商品開発」なんて誤解する人は困るのです。
それで「商品開発」なんて誤解する人は「二乗」「観念論(者)」「我見」となるのですね。

>「マルチ商法」、「カルト」は商品、宗教サービスの市場で競争するのではなく、「営業」だけ
>で循環することを目指す。
考えさせられますね。意識的(故意)にせよ無意識的(過失)にせよ、「サービス」の向上がなく、
「マルチ」と同じ状態になっているのであれば、当然そのような認識が必要と思います。
それに無意識的(過失)だからといって容認されるものでもありませんし...

>「仏法と申すは勝負」など古典の句を文脈と無関係に引用するが、それは聖書でも日蓮でも
>親鸞でも都合良ければ何でもよい。
古典のみならずガンジーでもキングでもナポレオンでもベートーベンでもホセ・リサールでも
サッコ・バンゼッティでも「都合良ければ」何でもよいと...

>仏教学の書籍ですと、サンスクリット語は知っている前提でパーリ語、チベット語も勉強中ていどの
>約束でやさしいものでも書かれています。ですから使われる術語の原サンスクリットや重要な短文を示されて、
>さっぱり分からないのではその本を理解できません。だからサンスクリット語の初等の知識が先決になります。
ご教示ありがとうございます。
インターネット検索して手頃なサンスクリット語入門書の候補をいくつか見つけることができました...

>>58 >中観と唯識    長尾雅人 岩波書店 昭53
>西蔵仏教研究 長尾雅人 岩波書店 昭49
こちらは絶版でしたので古書ですね...

63Leo:2003/11/16(日) 12:23
>>62 自己レスです。
>「マルチ」と同じ状態になっているのであれば

これは「「マルチ商法」、「カルト」と同じ状態になっているのであれば」ですね。

64無徳:2003/11/22(土) 18:15
長文につき二度に分けて投稿します。

昨日は<お勧めスレッド>に里見岸雄氏の『吼えろ日蓮』なる本を紹介しましたが、

 だんだんと読み進むにつれ驚きました、創価学会では戸田二代会長による獄中の
悟達とする<仏とは生命の表現なんだ!>とする、日蓮仏法イコール生命論的解釈
が創価学会独自のものであるかのように喧伝されていますが、

 創価学会に先行すること遥か以前において里見岸雄氏が、この『吼えろ日蓮』に
て<本仏とは生命の事>であるとして、明らかに大正生命主義の影響を色濃く反映
したと思われる日蓮仏法の生命論的な解釈を展開しています。

参考までにその一部を記してみます。

第一に
久遠とか久遠の元初とか、無始無終とかいふ言葉によつて形容された本沸とは何だ。
本佛といふ特別に豪い有難い個体的実在者を空想してゐる人々に久遠の本佛の説明が
出来るか。それは出来ない事はあるまいが、今曰の確実なる科学的智識を有する人々
を首肯せしめ得る丈けの説明が出来るか。何人でも首肯し得る説明が出来るか。それ
は到底不可能であらう。
本佛を個体的に、或は過境的に想定して、かヽるものゝ存在を証明しようとするの
が、既に全く兒戯に類する仕事だからである。無始無終、久遠の古から本覚の三身如
来ましますといふ事は、吾等の悟性認識の到達し得る限りでは、無始とか本有とか曰
ふほかない所謂久遠の元初から実在していた生命といふ意味の外、とれない。

第二は
本有無作の三身といふ三身はまづこの場合分析の要がないか、無作といふのは何だ、
いろはず、つくろはずが、もとのまゝの豪い有難い大人格的実在といふものが果して
どこにある。
そんなものがこの宇宙間にあるといふならば、日蓮主義者はキリスト教の神を嘲笑
するのはむしろ身の程知らずだ、すでに久遠の本佛とは生命なりといふ事がわかれば、
この無作もおのづから明瞭にならざるを得ない。無作とは自然といふことである。
自然に興へられたる実在で、人間の思考の加減などによつて、存在してみたり消滅
してみたりする様な幽霊観念と異つて科学的実証の下に認識され得る実在だ。

それだから第三に
草にも木にも成り、十界宛然いかなる鳥獣にもなる佛即ち生命なのである。
本佛といふ特別実在があつて、ある時は草になり、叉或時は木にもなり、忽ち鼠にも
なれぱ象に、もなリ、人間にもなるといふならぱ、それは甲賀流の忍術使ひだ。天地
間にそんな馬鹿々々しい手供だましの様な本佛などがあり得る道理がないではないか。
本佛とは生命体系なりと看破してこそ、それが草にならうと、木にならうと、すこし
も不思議がなくなるのである。
いろはず、つくろはす、もとのまゝといふ久遠実成の生命が本佛だと解されなけれ
ば、本佛思想などはくだらぬ印度的神秘思想、非科学的時代の空想的智識として一顧
の価値すらなくなつてしまふの外ないではないか。
吾人が、先きに注意を喚起しておいて本因妙と無始無終思想との一見矛盾せるが
如き思想も、この生命本佛論からのみ、よく合理的に解決され得るのである。

としています。

続きます

65無徳:2003/11/22(土) 18:22
続きです

私自身は仏法の生命論的解釈には疑問を感じていますが、
北沢憲昭氏が「岸田劉生と大正アヴァンギャルド」の中で次のように大正生命主義
を解説していますので参考までに記して置きます。

1、生命主義は、誰にでも実感できる「生命」を、存在の根源的、普遍原理とする。
  実感と観念が直接結びつく傾向があげられ, 実感の観念化と観念の実感化が、
  自覚されないまま起こりやすい。
  具体的には、個別性と普遍性、個と全体、瞬間と永遠が一挙に結びつけられる
  傾向をもち、極めて観念的な理想主義をうみやすい反面、実感信仰とでもいう
  べき半知性的な傾向も生む。
  また、「生命」が超越的な原理とされると、「神」や「宇宙」「万物」などの
  あらゆる観念、あらゆる実感を容れる器となる。

2、生命主義は、勇気と決断と運動を促し、強い実行力を生む。
  存在の「いま、ここ」から出発することは、実践的な思想の原則であり、生命
  主義のもつ実践的な可能性を示している。
3、実感に根拠を置く限り、存在の「いま、ここ」の状況が変化すれば、その発現
  の方向は直にも反転したり、水準を変えたりする 。
4、生命主義は、要素還元主義をとらず、全体主義に(ホーリズム)に向かう
  ここに、宇宙の生命、民族の生命、家族の生命など、集団と結び付いた観念が
  発生すると、それが第一原理となり、全体主義(トータリズム)に変質する可
  能性が開ける。
5、生命主義の欠陥は生命主義の内部においてしか解決されない。

としています。

私自身は仏法は生命論的解釈よりも「心的現象論」とするほうが妥当であろうと考
えています。
 もちろん心的現象を支えているのは、あくまで生命でありますが生命そのものは
非常にベーシックなもので、生物学的にみれば生誕・エネルギー摂取・排泄・外部
情報摂取生殖・死という繰り返しを行っている下部構造的なもので、人間は外部情
報摂取の所で他の生物より上部構造的とも言える、高度な心的領域を有する存在と
いえましょう。

66無徳:2003/11/22(土) 18:27
訂正__(誤)外部情報摂取生殖 → (正)外部情報摂取・生殖

67顕正居士:2003/11/23(日) 09:36
>>64 無徳さん。

>>39で「創価学会は国柱会の大衆版だとわたしはおもう」といいました。創価学会の対外的
教義は国柱会のコピーです。新規の要素はありません。対内的教義は「利益ばなし」です。
こちらは仏立宗から。「日扇さん」http://travel.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1002020518/l50
里見岸雄さんは田中智学の子息で法学者。智学居士のとなえた「国体」の学を発達させた。

○仏教の生命主義的解釈-ショ氏、木村泰賢から今

仏教は「無始の無明」を宇宙開展の原理とする。ショーペンハウアーはそれを「盲目の意志」
といった。では「涅槃すなわち純粋な観照」はあり得るのか?仏教もショ氏もそれがあると
いう。「生きんとする意志」の完全な滅却。しかし三世両重の十二因縁の中で生への意志を
「完全」に滅却できようか。聖龍樹は煩悩と菩提はまったく同じ、生死と涅槃もまったく同じと
いって、「涅槃」を否定した。不二一元論(Advaita)によれば宇宙は幻影であって、意識とは
「存在-意識-歓喜」なるアートマンである。なぜ宇宙があり、意識があるか、について形式が
仏教と不二一元論は反対である。

1-龍樹の詭弁を解釈すれば、「空性においてあまれるもの」がある。その不可知の「X」は
「物質」と解釈する*のがカント氏出世の後、妥当だろう。「心」と解釈するのは妥当でない。
2-「意識」を「生命」に還元することはできない。意識は先験的、絶対的の形式であるから。
*-「経量中観派」は外界の実在を主張した。

「インドにおける自己論の構造」
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/jiko.html

68アネモネ:2003/12/26(金) 12:22
どこのスレッドに投稿すべきか迷うましたが…今日の読売新聞の一面トップ記事を見て驚きました。
自民党の調査会作業部会がまとめた臓器移植法改正案が、次期国会で提出されるとのこと。
改正のポイントの大きな柱は、現行法では移植の臓器提供に限って脳死を「死」としているのに対し、改正素案では、この限定をはずしてすべての脳死を死とみなすことになっているそうです。
これを受けて、現在では本人の生前の意思と遺族の同意が得られなければ脳死を死として移植することができなかったのが、遺族の同意のみでも移植ができるものとなり、また逆に脳死による移植を拒否したい人は、生前にその意思を書面に記しておかない限り、臓器が取り出されてしまうことも有り得るようです。
さらに、小児は脳の回復力が強いこともあって、現行法では15歳未満の提供は規制していたわけですが、この度の自民党改正案では15歳の年齢制限を完全に廃して、小児移植への道を大きく切り開こうとしています。

うーん…。私は1997年に臓器移植法が審議されていたときから、この脳死を人の死とすることには抵抗がありました。本当に死んでいるのでしょうか。
私の記憶では、仏教界の大半が脳死を人の死とみなす上での臓器移植には反対していたと思います。日蓮正宗は、公式見解を出していなかったですね。ある本山のご僧侶の話では、宗門内で賛成派と反対派で議論がふたつに割れているとの話でした。ただし話を聞く限りにおいては、どうも、「脳死を人の死とみなすべきか」という論点にしぼられたところでの議論がなされていないような印象も受けました。
ちなみに、創価学会は脳死を人の死とすることには賛成の見解を出していたようでしたね。論文も発表していたように思います。恐らく今回も与党の立場で、自民党の改正案には賛成するのでしょうか。

たぶん菩薩行における布施行とみなして、移植行為を善行と考えるものでしょうけれども、しかし、もしも脳死が人の死ではないとするならば、そこにメスを入れる医者の行為は、厳密には殺人行為と考えられるものではないかと、私はやはりこの問題には慎重意見です。
また脳死を人の死とみなすことは、脳障害者への人権問題にも関わることでもあるという解釈意見もありますね。

69心者雖念不直相鴨:2003/12/27(土) 03:33
>68 アネモネさん:

>私の記憶では、仏教界の大半が脳死を人の死とみなす上での臓器移植には反対していたと思います。
>ちなみに、創価学会は脳死を人の死とすることには賛成の見解を出していたようでしたね。論文も発表していたように思います。恐らく今回も与党の立場で、自民党の改正案には賛成するのでしょうか。

一例を挙げれば、臓器移植法案に関しては、龍谷大学の大峯顕氏が、「教行信証」の「往相回向」「即得往生」「還相回向」を引いて反対意見を表明し、真宗大谷派も伝統仏教教団の中では珍しく、「脳死臓器移植」第一号実施の際に、教団の代表者(宗務総長)名で、教団としての公式見解を表明しました。それに対して、創価学会や宗門からは、御書や経論を引いての公的な発言は見られませんでした。
当時、創価学会生命倫理研究会(座長=森田修平ドクター部長)のまとめた見解の要旨は「脳死状態を「人の死」として認めることに反対する理由はない。ただし、脳死を人間生命の完全な「死」として認めるには、より深い考察と議論・厳密な判定が要請される。」といった、御書や仏典から遊離した、お粗末なものでした。
http://www.let.ryukoku.ac.jp/~takeda/zoki.htm#創価学会

>もしも脳死が人の死ではないとするならば、そこにメスを入れる医者の行為は、厳密には殺人行為と考えられるものではないかと、私はやはりこの問題には慎重意見です。

「色心不二」をいうのなら、脳死と人の死を分けることは教義上不可能だと思います。
脳は死んでいても、臓器は生きている。移植される以外の臓器も当然生きているわけです。移植される以外の臓器を殺してしまっていいものか?「臓器殺」です。

>また脳死を人の死とみなすことは、脳障害者への人権問題にも関わることでもあるという解釈意見もありますね。

脳がなくても、家族の意識の中では一人の人間です。先天性に脳が欠損している「無脳症」のお母さんの手記です。
http://www6.plala.or.jp/emichin/byouki.html
http://shopbead.infoseek.livedoor.net/nana1.html
脳がなければ人でないというのならば、この子達は生まれる前から人ではないことになります。優れた人工臓器の開発も進んでいます。移植が進まないことへの苛立ちはわかりますが、文化の違いを無視して、移植担当者や希望者のために、結論を急いでいるような気がします。

70石のだるま:2004/04/05(月) 18:51
みなさんはじめまして ・・・人間の法則・・・
仏のいう法則とは何かを整理してみたいと思いますが

第一の法則  人(仏)はいつか必ず死ぬ時がくる。

<補足説明> 逆に言うと死んだ者はいつか必ず生まれるということでもある。どんな時代に生まれ、どんな環境に生まれるかは分からないが、仏といえども寿命が存在することに違いはない。

第二の法則  寿命には個人差があり、時代によっても集団としての平均寿命の差と違いがある。

<補足説明> 生活スタイルによっては、この平均は延びるだけでなく縮むこともあり得る。どんなに暴飲暴食をしてもいいということではない。特に人間苦があると縮む傾向が強いということでもある。戦争などはその際たるものであろう。生きる上で人間苦は大敵である。故に人間苦は滅ぼす責任が生まれる。害虫を退治するように特に仏にはその責任が生まれるし望まれる。人であっても仏であっても、その寿命の長短はいつの時代にあっても存在する。比較するとどうであったのかという違いでしかない。

第三の法則  120年限界説は存在しない。

<補足説明> ここでは120年という数字を使ったが、常識として人間が120年という数字を頭に描いているから使ったまでで、150年であっても200年であっても限界説としては存在しないということである。強いて言うなら“尽未来際”としての可能性があるということである。時代と共に生き、歴史と共に生きるのが人間の本来あるべき姿と理想であるということになり、宇宙時代とはそんな時代でもある。そのために無限の時間と空間があり、それを生かしきるか否かということになる。

すでに書いてあることだが、仏というのはスーパーマンではない。外見は普通の人間である。故にいつでも死ぬ可能性は持っている。言葉としての完全なる不老不死ではない。ただいたずらに死を恐れる必要はないとは言える。また人間(仏)にはいたずらに人を死に追いやらないだけの責任と義務が生まれ、それを守らねばならないし守る必要が生まれる。人(仏)は人(仏)を殺さないという法律や道徳でもある。権力者といえども例外はない。
人が死の危険にある時には、あらゆる手段を講じても守らねばならない。それは言われなくても守るべき仏としての義務と責任である。人と仏の違い、それは寿命の違いでしか認識することはできない。悟りの世界に特別な霊能力などは必要ないものであり、普通の認識能力と継続への力さえあれば充分に悟りは可能である。馬鹿は死なねば治らないと巷の言葉にはあるが、確かにそういうことも言えるのかもしれない。仏に成れない人間は早く老いて早く死ぬ運命にある(かもしれない)ということである。嘘を語るのは仏であったのか、人間であったのか、僧侶であったのか、学者であったのか、はたして誰なのか?

71石のだるま:2004/04/07(水) 08:11
・・・御書より・・・解説してくれる人がいれば幸いです。
P153 断苦の法を求めず、・・・       蓮盛抄
P203 法華経の不死の良薬をなめて・・・   開目抄
P231 今若し菩提心を発さずんば、当に汝が命を断つべし・・・                   開目抄

P241 「此の法華経は、最もこれ難信難解なり、随自意の故に」・・・        如来滅後五五百歳観心本尊抄
P241 但仏界計り現じ難し・・・       同じ
P255 此の書は、難多く答少し、未聞の事なれば、人耳目を驚動す可きか・・・          観心本尊抄送状

P321 今度、命をおしむならば、いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母・師匠をも・すくい奉るべき・・・報恩抄
P325 仙薬は命をのべ凡薬は病をいやせども命をのべず。・・
P440 謗法の者と成り法に依って阿鼻地獄に堕する者は大地の微塵よりも多く、法に依って生死を離れる者は爪上の土よりも少なし、恐るべし恐るべし、・・・     教機時国抄

P502 代は義農の世となりて今生には不祥の災難を払い、長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を、各各御覧ぜよ現世安穏の証文・・・            如説修行抄
P657 分別功徳品に云わく「願わくば我未来に於いて長寿を以て衆生を度せん」・・「浅きは易し深きは難し・・・浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり・・」・・ 釈迦一代五字継図

P714 秘とは厳しきなり三千羅列なり是より外に不思議これ無し・・・                  御義口伝
P801 此の品は甚深の秘品なり息災延命の品なり・御義口伝

P831 迷いの衆生なければ説くべき法もなし・・・貧人とは日本国の一切衆生なり、・・所詮妙とは不死の薬なり、・・・
P944 「治し難きを能く治す 所以に妙と称す」・・・法華経題目抄
・・・2へ・・・

72石のだるま:2004/04/08(木) 10:25
・・・御書(大石寺版)より 2・・・
P955 人の心は禽獣に同じく主師親を知らず・・・命限り有り惜しむべからず・・・        富木入道殿御返事

P956 世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし牛馬なお身を惜む況や人身をや・・・佐渡御書

P956 世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨つる事難し 故に仏になる人もなかるべし。・・・強敵を伏して始て力士を知る、・・・佐渡御書

P975 いかでか病も失せ寿ものびざるべきと強盛にをぼしめし・・・               富木尼御前御返事
P981 「疑を生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」

P985 不軽菩薩は更増寿命ととかれて・・・ 可延定業書
P986 命と申す物は一身第一の珍宝なり 一日なりともこれを延ぶるならば千万両の金にもすぎたり、・・・短命なれば草よりもかろし、・・・              可延定業書

P1074 三千世界に満つる珍宝なれども命に替わる事はなし
P1124 法華経の功力を思いやり候へば、不老不死目前にあり、ただ嘆く所は露命ばかりなり天助け給えと強盛に申し候・・
P1190 我等凡夫のつたなさは経論に有る事も遠き事はおそるる心なし、・・・             聖人御難事

P1357 其れに付いても・・・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、たしかに後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就すべきなり。                   祈祷経送状

P1447 深くして底を得難しとは、法華経は唯仏与仏の境涯にして、等覚以下は極むることなきが故なり、・・・
P1479 仏と申せし人はこれには似るべきもなき、いみじきくすしなり、この仏不死の薬をとかせ給えり・・・
P1480 これらは、あまりに病重き故に 我身にも覚えず人も知らぬ病なり・・・         妙心尼御前御返事

73平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/08(水) 19:19
犀角独歩さん。
これです。これが私の生命観です。私はこの一生を賭けてもこの謎を解明したいと思っています。
          ↓
206 :Nanashi_et_al. :04/09/03 15:57
>>1
>死んだらどうなるだろうか?

無になる。しかし永久に無の状態が続くのではない。我々は無から現在の有の状態
になったのだ。精子と卵子という微少細胞だったあなたは、受精卵の胚ができた時
に有となったのだ。死は生まれる前の無に戻ることだ。あなたが無になってもあ
なたを生み出した人類という種は断絶していない。川に浮かぶ泡ができて消えても、
川が存在する限りまた泡を生み出す可能性は残されているのだ。

死は一個体の消滅であるが、その個体を生み出した人類という種が存続している限り、
再生の可能性は残されているのだ。

宇宙もビッグバン以前は無であったが、時間も空間もない真空の無の中にエネルギー
が生じ、ビッグバンを引き起こしたのだ。宇宙はいずれ無に戻る。それはビッグバン
以前の状態に戻ることなのだ。無から有が生じたのならば、再び無から有が生じる可
能性は残されているのだ。

だから自殺したら永久の無意識の安楽が自分に来ると考えるのは早計である。

なお文章の一部は雖念さんの御指摘があったために書き変えてあります。

74雖念:2004/09/08(水) 20:49
>「つぶやきスレッド2」981 平和そうかさん:

>私なりの持論ですが、人の生命は現世1回ではなく連続すると思います。また人は人に犬は犬に、鳥は鳥に、魚は魚に、蜘蛛は蜘蛛に再生すると思っています。
単純な生物の場合は、わかりやすいのですが、ゾウリムシなどの単細胞生物ではどうでしょうか? ウイルスなどの結晶と、生物の中間体のような生物は?また、プリオンのような核酸のない存在は?また、酵母や細菌などのような微生物では? こうした、比較的典型的な例について、簡明に説明できるような生命論を期待しています。

> それは生まれたばかりの渡り鳥が自分の故郷に返っていく不思議、産卵後親鮭の死と産卵に際して鮭が自分が生まれた川に帰っていく不思議、蜘蛛が親から教えられないのに、親と同じように糸を張る不思議などから、推測されると思います。
鳥の渡りや、鮭の遡上に関しては地磁気のや川の水のにおいが、関与しているのではと考えられています。DNAの設計図に基づき遂行される、孵化、成長などの一連の展開を「生命は現世1回ではなく連続すると思います」と、表現するのは、かなり無理があるのではありませんか?
クモには営巣に限らず、餌捕獲行動などに関しても興味深い話題がたくさんあります。興味があったら、お読みください。
http://www.ne.jp/asahi/jumpingspider/studycenter/tokyoseminar.htm
   自然科学は、どの分野も学べば学ぶほど不思議さが増えてきます。この掲示板で、いろいろな方との対話を通じて、ご自分の生命観をどんどんbrush up されるとよいと思います

75愚鈍凡夫:2004/09/08(水) 21:27

平和そうかさんの考えでは、現在認知されているビックバン以前にビックバンが有り、遙か遠い昔から同じサイクルを繰り返しているという考え方は排除されますか。

それと、たかが1%の遺伝子の違いでしかないヒトとチンパンジーは、何故違う道を歩んだのでしょうか(ヒトとチンパンジーの進化の違いはなんだと思われますか)。ひょっとして、ヒトとチンパンジーはもともと違う種であると思われますか?
違う視点から見れば、今の生物は総て進化の過程にあるのかも知れません。そうすると、我々の常識を越えた新しい生物が生まれたとき、それはどのような解釈になるのでしょうか。
また、こういった問題には遺伝子と本能といった関係が問われると思うのですが、その辺の考えをご教示下さいませんか。

76平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/09(木) 06:24
お早うございます。今し方唱題したあと、雖念さんと、愚鈍凡夫さんの御返事を読み
ました。今日1日を私達の生命科学の勉強と生と死の問題の省察の大いなる前進の日
としていきましょう。
まず雖念さんの御返事にお答えします。有名なドイツの生物学者エルンスト・ヘッケル
の『生命の不可思議』という著作があります。その中に「原生生物の死」について「厳
密に言へば、細胞が二箇の娘細胞に分かれると、個体的生命は破壊されるのである」と
いう記述があります。具体的に言えば一個のアメーバが二つに分裂すると、基となった
アメーバは死に永久にこの世から消えうせるという意味なのです。私はここにある宗教
思想が背後にあると思いました。神が生命を創造し、創造された生命は最後の審判を受
けて消滅するというキリスト教という宗教の存在です。ゾウリムシは脳が有りませんが、
一細胞全体が脳の働きを為しています。私は分裂する時に基となった細胞は死ぬのでは
なく、その感覚はいずれかの娘細胞に移行すると思います。プラナリア(ナミウズムシ)
は頭の部分を縦に切断すると双頭のプラナリアになります。双頭のプラナリアの個体は
死んではいません。ですから基のプラナリアの感覚は左右いずれかのプラナリアに移行
しているはずです。私は生命とは感覚を有するものに限定され、感覚を有さないものは
生命からは外すものであると思っています。自分を自分と感じることができるゾウリム
シは生命ですが、そうではないプリオンやウィルスは生命とは考えるものではないと思
います。

77平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/09(木) 06:35
>鳥の渡りや、鮭の遡上に関しては地磁気のや川の水のにおいが、関与しているのではと考えられています。DNAの設計図に基づき遂行される、
>孵化、成長などの一連の展開を「生命は現世1回ではなく連続すると思います」と、表現するのは、かなり無理があるのではありませんか?

現代西欧科学の系統を受け継ぐ科学者は地磁気や川の匂い、また太陽コンパスなどを鳥の渡りや鮭の遡上の理由と考えているようですが、遺伝
的に記憶に収められていると考える学者もいます。私は後者の学者の考えを支持する者です。
親鮭が産卵と受精卵ができる時に死ぬのは、親鮭の感覚が多数の受精卵に移行するためではないか、また昆虫が産卵直後に死ぬのも同様ではな
いかと私は考えます。

78平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/09(木) 07:50
愚鈍凡夫さん。
>平和そうかさんの考えでは、現在認知されているビックバン以前にビックバンが有り、遙か遠い昔から
>同じサイクルを繰り返しているという考え方は排除されますか。

排除しません。愚鈍凡夫さんの御意見はスティーボン・ホーキング博士の宇宙観だと思います。宇宙に
存在するダークマターが一定量より多い場合には、約50億年後にこの宇宙は収縮し始め、いわゆるビ
ッグクランチを起こし、ブラックホールどうしがぶつかり合って宇宙は消滅し、死を迎えます。しかし
それは永久の宇宙の終わりではなく、再びビッグバンが起こり宇宙は蘇るのです。」私達人間が死んで
も再び再生するようにです。私はこの理論が正しいことを望んでいます。

>それと、たかが1%の遺伝子の違いでしかないヒトとチンパンジーは、何故違う道を歩んだのでしょうか
>(ヒトとチンパンジーの進化の違いはなんだと思われますか)。ひょっとして、ヒトとチンパンジーはも
>ともと違う種であると思われますか?

ヒトとチンパンジーが分かれたのは新生代第三紀、中新世の頃と推定されています。
この時突然変異が起きたのですね。遺伝子は少しの違いでも生物間に大変な違いをも
たらすと思います。我々人類と分かれたドリオピテクス達はあの当時は我々と大した
差はなかったものが、長い時間の間にこのような差ができてしまったのですね。チン
パンジーの祖先が辿った繁殖の過程もこのような差をもたらした原因であると思いま
す。ヒトとチンパンジーは新生代第三紀漸新世以前には同じ仲間であったと思います。

現代も人類は同じような進化を行っています。白人と黒人と黄色人種の間にもかなりの
身体の差が出てきています。この差は新生代第四紀、洪積世第二氷河期と第三氷河期の
間の間氷期に起きたと推定されています。現在の進化が続くと超新人類が出現すること
も考えられますが、その時には新人類が旧人類を滅ぼしたときのような殺戮がまた行わ
れると思います。

>我々の常識を越えた新しい生物が生まれたとき、それはどのような解釈になるのでしょうか。
>また、こういった問題には遺伝子と本能といった関係が問われると思うのですが、その辺の考えをご教
>示下さいませんか。

これはかなり難しい問題ですね(笑)。最上段の御質問に対する答えは書きました。白人のゲルマン民
族だけが人間であり、劣等人種は絶滅させるべきだと主張し実行に移そうとしたドイツのナチスのよう
な存在が、黒人や黄色人種などを絶滅させるようなことが将来、超新人類が出現した時に起こるかも知
れません。
遺伝子と本能の問題は、重要だと思います。現代科学を発達させたのは白人であり、有色人種は自然科学
の基など何一つ作ってはいません。日本人は猿真似ばかりしかできません。嫌なことなのですが、実際に
最も優れた遺伝子と本能を持っているのは白人なのかも知れませんね。このパソコンもインターネットも
みんなアメリカ人が発明したものであり、日本人が発明したのはフロッピーディスクぐらいなんですからね。

79平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/09(木) 08:23
モンテーニュの『エセー』の第Ⅰ巻第20章には「われわれの道筋のむかうところは死だ。
それはわれわれのどうしても目ざさなければいかない対象なのだ。もしそれがわれわれをお
びえさせるのならば、おののくことなしに一歩前へ出ることがどうしてできるだろうか。一
般の人間の対処法はそれを考えないことだ。しかし、獣にも似たどのような愚かしさから、
それほどの鈍感な盲目状態が出てくるのか。こういう人間には驢馬の尻尾のほうに手綱をつ
けてやらなければならない」と書かれています。この言葉は現代人に対する警鐘であると私
は思います。死から目を背け、目先の利益や楽しみに心を奪われたり、仕事に熱中すること
により死を忘れてようとしている現代人に対する警鐘と思います。

より深く広い、科学的な議論の展開をお待ちしております。

80犀角独歩:2004/09/09(木) 09:46

いま平和そうかさんが呈示されたテーマで、わたしはまざまざと思い出したのは故カール・セーガン師のことでした。NEWSWEEK '97.4.9 号に『検証 紙が存在する証拠を追い続けた科学者』と題する特集が載りました。セーガン師死後1年目のことです。故にこのテーマは「死後、自分という生命体は存続するのか」と換言できようかと思います。

全米教会評議会のジョーン・ブラウン・キャンベル師との対話が紹介されています。以下、抜粋します。

―― あるときセーガンはキャンベル師に、「賢いあなたが、なぜ神を信じる?」と尋ねている。
 キャンベル師は驚いて問い返したという。誰も見たことのないブラックホールの存在を、いとも簡単に信じてしまえるほどの「賢いあなたが、どうして神を信じられないのですか?」。
 だが、セーガンとて、最初から紙を否定してやろうと意気込んでいたわけではない。こんな手紙が残っている。「全知全能で慈悲深い神に見守られているという考え方は、最初は居心地よかった。だが [信仰を支える] 証拠が言い伝えでしかないことに気づいたとき、疑いが生じた。……しかし、もししそれを見つけるのはわたしの義務だと思う」…
「科学に後見するたびに、彼の期待は打ちひしがれたの」と言うのは、仕事上のパートナーでもあった夫人のアン・ドルーヤンだ…
 1995年の著書『悪魔に憑かれた世界』では、宇宙人に誘惑された人の話や黒魔術など、アメリカ社会にはびこる迷信から科学を擁護する論陣を張った。そして慎重に言葉を選びながらも、信仰の根拠とされるものも迷信と大差がないのではないのか、と問いかける。
 こうした飽くなき「証拠主義」に宗教界は防衛一方だった。だが、ある日、キャンベル師の投げかけた一つの問いで形勢は逆転したのかもしれない。「あなたは愛を信じますか?」と師は尋ねた
「もちろん、と彼は答えました。奥さんを心から愛していましたからね。そこで私(キャンベル)は言ったのです。『愛の存在は立証できますか?』。
最初はできるとと言い張っていた彼もやがて折れ、信仰と同様に愛も証明不能だけれど、存在しないとは言えないと認めたんです」
 それでもセーガンは、信仰の組織化としての宗教を認めなかった。そして神が「全知全能」で「慈愛」に満ちているなら、なぜ祈る必要があるのか、と主張した。祈らなければ神は信者の病気に気づかず、信者を救ってくれないのか。そんな神が全能と言えるのか……。…
 セーガンは最後まで「神が存在する証拠にこだわり続けた。「死の床でも帰依しなかった」と(夫人の)ドルーヤンは言う。「神にすがらず、死後の世界にも期待せず、私たち二人が二度と会えないことも、ちゃんと認めていました」
 神を信じたいとは思わなかったのだろうか、と未亡人に聞いてみた。返ってきたのは明快な答え。
「信じたいと思ってなかった。ただ、知りたかっただけ」(P52/ジェリー・アドラー記)――

81犀角独歩:2004/09/09(木) 12:43

上述、80の投稿の文中、「紙」は、もちろん、「神」です。
失礼しました。

82雖念:2004/09/09(木) 15:51
過去ログをざっと読み返しましたが、(そもそも、あまり意味がないためか)自然科学的な意味合いにおける、生命の定義に関する議論はありませんでした。そこで、以下ご参考までに。
 
生物の定義に関しては、ウィキペディアに簡明な定義があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/������

また、生命の定義に関しては、「生物」と「無生物」の境界をどこに設けるかが議論の基点となっているようですが、以下の見解はその模範解答と言ってよいと思います。

*******************************  引用開始   ********************
したがって、これが「生命とは何か」という問いの答えである。 つまり――
「生きている」ということは、我々が生物であると見なすいくつかの特徴を備えていること、 特定のシグナルを発していることを意味するに過ぎず、「生命」とは脳が特徴を認識する、 その認識それ自体のことである。死はその特徴が失われてゆく一連の過程のことである。
「生きている」と見なすからこそ、我々はそれを「生物」と呼ぶ。
「生物」であると見なすからこそ、我々はそれを「生きている」と言う。
これが我々の認識する「生命現象」の正体であり、どれほどに生物の構造が明らかにされよう ともこの同語反復は変わりえない。
http://www.h3.dion.ne.jp/~west.xyz/page073.html
*******************************  引用終了   ********************

83雖念:2004/09/09(木) 15:56
>82 正誤訂正です

誤:生物の定義に関しては、ウィキペディアに簡明な定義があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/・滉)・br>

正:生物の定義に関しては、ウィキペディアに簡明な定義があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/������

84平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/09(木) 18:44
犀角独歩さん、雖念さん、愚鈍凡夫さん。
私は生命を以下のように考えます。仏教の原型はバラモン教であり、その哲学はウパニシャッド
哲学です。その生命観は梵我一如、つまり我即宇宙、宇宙即我の原理であると思います。
私達は神経節を持った動物全てを含め、現在瞬間に意識感覚を有して存在しているのであると思
います。私はこの宇宙は一であり、一の存在の意識感覚の分離状態に於いて、自分を自分と感じ
ているのではないかと思います。極端なことを言えばこの世の中は自分一人しかいない。自分一
人の宇宙が無数の神経節を持つ、下等生物はアメーバからヒトまで、いや他の銀河に存在する可
能性を持つ異星人達に意識感覚を分離している状態が、現在の私達の状態ではないかと思うので
す。問題は死を介して自分がどのような感覚器官を有する生命体に意識感覚を宿すか否かという
ことであると思うのです。

他のサイトでも私の生命観を話して来ましたが、なかなか理解してくれる人がいませんでした。
キリスト教生命観やその亜流の実存主義哲学が、生命科学の進歩を歪めた罪は重いと私は思います。

85平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/09(木) 19:01
生命は本質は一であるが故に、それは分離融合しつつ進化発展してきたものと思います。
愚鈍凡夫さんがチンパンジーの例を挙げられましたが、私達は35億年前にこの「地球」
と主観的に名前を付けられた惑星に誕生した原始細胞であったはずです。その原始細胞は
分裂を繰り返し、あるものは下等生物のままに留まり、あるものは高等生物に進化してい
ったものと思います。もしかしたら私達は5億年前にはクラゲのような腔腸動物であった
のかも知れませんよ。

死んでは再生し、また死んでは再生して現在に至っているのではないですか。問題は人や
動物の死を介した時の感覚の分離と融合のことが仏法で説明されていない点にあると思い
ます。今現在の自分と感じられる自分は、一なる宇宙の感覚を有する生命体の「所在位置」
であると私は考えています。

86犀角独歩:2004/09/09(木) 19:21

平和そうかさん、わたしはあなたとまるで言い合う気はありませんが、

> 仏教の原型はバラモン教であり、その哲学はウパニシャッド
> 哲学です。その生命観は梵我一如、つまり我即宇宙、宇宙即我の原理

これは大いなる勘違いです。
シャキャムニの教えは無我思想なのであって、バラモン教・ウパニッシャド哲学の有我論とは一線を画します。ただし、密教はインドの仏教以前の仰るような特質を摂取することによって成立しましたので、真言密教とその影響にある仏教(と言えるかどうかわかりません)は、たしかにそのような特徴を持っているでしょう。なお、仏教・密教を通じて、生命観という考え自体は認められません。

これらの点は、当掲示板では、やや語り尽くされたところです。
現時点で、みかんさんがコメントを入れてお出でではないのですが、たぶん、この投稿をご覧になれば、直ちに異論を挟まれるところと思います。

わたしはかなり早期から、日蓮仏教を「生命」語で捌く点に異論を述べてきました。それで Libra さんとも有意義な議論にもなったのです。そしてまた、それらのことを踏まえて、みかんさん、また、その他の皆さんが呈された点に大いに頷くところがありました。過去のログを当たってみてください。

わたしは仏法という現場では、この問題については「無記」を貫きます。
科学としては、先に紹介したカール・セーガン師の在り方に尊敬の念を抱いています。生命発生その他についてはフレッド・ホイル師・チャンドラ・ウイクラマシンゲ師の考えに興味を懐いております。
なお、

> キリスト教生命観やその亜流の実存主義哲学が、生命科学の進歩を歪めた罪は重い

不朽の名著・ホワイト師『科学と宗教の闘争』はこれらの点を的確に論じた良書でしたね。わたしが学生の頃は森島恒雄師が、その非を突く雄として著述・訳文を読みあさったものでした。

ただし、近代、ヨーロッパ哲学は、キリスト教の影響と言うより、イギリスが統治した結果生じたインド学が反映した部分があり、その過ちは一概にキリスト教ばかりのせいとは言えないとわたしは考えますが、如何でしょうか。

87平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/09(木) 20:47
犀角独歩さん。
御返事有難う御座います。エルンスト・ヘッケルやデュ・ボア・レイモンなどのドイツの
生物学者は、やはり聖書の死生観にかなり影響を受けていると思います。
過去の日本人の死生観は必ずしも一回性死生観ではなかったと思います。奈良時代から鎌倉
時代の文学を読みますと、生命の連続性と因果応報について書かれたものもかなりあります
し。まあヘッケルの『生命の不可思議』には彼の生命に対する断見的な考え方が、現れてい
ます。
仏教の原型はバラモン教であり、その基に仏教は発生しました。釈迦の教えや蓮祖の教えと
言うよりも、最も全人類を幸福にする方向を私は考えていきたいと思っています。それは議
論ではなく、科学の立場から為されるものと思います。科学の発展のために仏法の誤りが発
見されてもいいと思います。生命論の私の考え方に対するみかんさんの反論もお待ちしてお
ります。

88愚鈍凡夫:2004/09/09(木) 21:34

おおざっぱに言って、森羅万象の解明、それを利用した価値創造(物質的幸福)、これが科学の役割で、一方、宗教は苦悩の解明と精神的幸福の探求、これが宗教の役割だと考えています。
そういう意味では、根本的に相容れない分野同士かとも思います。

もし、生命が過去世の記憶を残したまま再生するものならば、その記憶が何処に蓄えられているのかを解明する必要があるでしょう。そして、過去の記憶を持つ人たちが、いかなるトリックも介在しない状況で体験談を語るのか、検証する必要があると思います。
個人的な意見ですが、本能とは、種の永続性を保つために、祖先からの豊富な体験の蓄積から導き出された合理的な行動原理であると思っています。
これは馬鹿げた仮説かも知れませんが、ひょっとしたら、本能が記憶に干渉して、過去の記憶なるものを創作するのではないかとの可能性も視野に入れています。

89犀角独歩:2004/09/10(金) 00:19

平和そうかさん:

> 仏教の原型はバラモン教であり、その基に仏教は発生

と2度繰り返して記しておりますが、この根拠は何でしょうか。
言うまでもありませんが、仏教学は科学です。信仰ではありません。
もちろん、議論で決定されることではありません。
仏教の原型がバラモン教であるとは如何なる根拠に拠るのでしょうか。その科学的証拠をお示しください。

また、「科学の立場から為される」と記されながら、「生命論の私の考え」と記しますが、科学的立場というのであれば、実際の再現性のある実験その他の科学的データに基づいてここに証明をなすべきではないでしょうか。科学に私の考えが介在するのは分析に係るような論理説明の場合であって、実験データ・理論に基づかない類推憶測を書き連ねるだけでは科学的姿勢とはならないのではないでしょうか。

90三吉:2004/09/10(金) 06:47
> 仏教の原型はバラモン教であり、その基に仏教は発生

例えば、

「これはとんでもない誤解でして、 ヒンドゥー教がなければ仏教はないと
言ってもいいかもしれないぐらいに、 非常に密接な関係があり、 かつ仏教
の基本になっている。 土壌になっていると申しますか、 そういうくらいに
ヒンドゥー教と仏教というのは関係が深いわけです。 」

「仏教のほうではそれを 「非我説」 あるいは 「無我説」 と主張をした。
ヒンドゥー教やバラモン教のアートマンに対しまして、 永遠に存在す
るかもしれないと思っているようなもの、 それは実はアートマンでは
ないという考え方です。 それがだんだんと無我説へ、 バラモン教やヒ
ンドゥー教と対抗する意味でも、 アートマンというのはないという考
え方に自他ともになっていくわけであります」

というアンチバラモンの傾向も持ちつつ、

「このような業、 輪廻の解脱の思想というのは、 ゴータマ・ブッダがまだ
活躍される前の紀元前五、 六世紀ごろ、 急速に人々の間に広まってまいり
ます。 その後インドで生まれ、 そして育った宗教、 思想には、 業、 輪廻、
解脱の思想という顔が出てまいります。 仏教で扱う業、 輪廻、 解脱という
考え方も、 バラモン教あるいはヒンドゥー教のほうから採用したものであ
ります。」

バラモン教の影響も深い。また、こうも言われています

「また、 仏教は輸出用のヒンドゥー教であるとも言われます。(略)
一つの例は、 ヒンドゥー教の民族性というのはカースト制度などがありま
すけれども、 仏教はカースト制度などに対して批判的で、 それを採用しな
かったわけです。 仏教の場合はカースト制度のないところであればどこへ
でも行くことができるわけです。 そういう意味で輸出用の宗教であるとい
うことができるわけです」

あるいは、仏教からでなく、ヒンドゥー教の視点に立てば

「ヒンドゥー教徒はよく仏教というのはヒンドゥー教の一派であるという
ような言い方をいたします。 そして仏教の開祖であるゴータマ・ブッダは、
ヒンドゥー教の主要な神の一つでありますヴィシュヌ神の第九番目の権化
であるというふうに考えているわけです。 したがってヒンドゥー教の中に
仏教は吸収されてしまっている。 包摂されてしまっている」

http://www.tibs.jp/kougi/maeda/maeda01.html

前田専学さんの講義より

「仏教の原型はバラモン教であり、その基に仏教は発生」との発言は、
「学」的な根拠を踏まえていると私には思われます。

正しいかどうかはともかく、そういう立場・視点は現実にあります。

91犀角独歩:2004/09/10(金) 11:55

三吉さんが呈示くださった点は、特段、異論ありません。

ただ、「バラモン教がヒンドゥー教か」と問われれば、わたしは首を傾げます。平和創価さんの論法を籍りれば「ヒンドゥー教はバラモン教から生まれた」と言うほうが的確であると思えます。(これはもちろん三吉さんへの反論と云うことではなくロムの方々の理解の便宜の補足です)

そもそも「ヒンドゥー教(Hinduism)」という特定の宗教があるわけではなく、ヨーロッパ人がインドの宗教・文化全般を指した呼称で、インドご当地のものではないわけです。ヒンドゥーはインドゥー、つまりインドということですから、インドのお釈迦さんの教説が、その論調から言えばヒンドゥー教(インドで発生した教え)の範疇と云われれば、まあ、そう言えますでしょうか。

平和そうかさんが「仏教の原型はバラモン教」という場合、ここ『生命主義、生命論について』というスレッド・テーマに則って生命の、就中、個我の生死を繰り返す連続性不滅の思想はバラモン教の、取り分け、ウパニッシャド哲学の梵我一如の影響によるという脈絡が看取されましたので、その点は違うだろうとわたしは言ったわけです。

バラモンと云う語はインド語で書けば、brahumanaで、音写で書けば「婆羅門」ですね。一文字で表せば「梵」です。天上のブラフマ神(梵)とその特権支配階級・僧侶バラモン(=ブラフーマン)も梵でしょう。(雑駁ですが)

平和そうかさんは、梵我一如を「宇宙即我」と解していますが、梵とは天上世界のブラフマン神のことです。宇宙ではなく梵天です。地上のバラモン(梵)のアートマン(我)が死後、荼毘に付されて、煙になって天上界に上り、天上のブラフマン神と一体となるところを「梵我一如」と言うわけです。ですから梵(ブラフマン)は神であって、宇宙そのものを指すわけではありませんから、ただちに梵我一如=宇宙即我とする解釈には頷けません。

また、ここで言う我はバラモンに限るのであって、他のカーストは含まれようもありません。さらにウパニッシャド哲学は今でこそ、広く一般に知れ亘っていますが、紀元前6世紀のインド社会では地域が限定された思想であると共に、特権階級バラモンの、秘儀伝授を許された人々以外知るところはなかったのではないでしょうか。クシャトリア出身のシャキャムニがこんなバラモンの特定地域の秘儀伝授を知っていたとは到底わたしには思えません。(ただ、平和そうかさんが考えるような解釈をする学者や、宗教者はいますね、たしかに。池田さんが書いた(とされる)『科学と宗教』『宇宙と生命を語る』なんていうものもそんな論調でした。面白い創作本ではありますが)

ですから、インド思想 ― インド人の教えとしてのヒンドゥー教の、その基となったバラモン教の、取り分け輪廻思想などの影響下にシャキャムニがあったのは当然のこととしても、しかし、梵我一如思想(=宇宙即我)の個・有・我の不滅生死連続性を踏襲して仏教が成立したとは言えないではないのかというのがわたしの問いです。また、目標とするところもまるで違います。バラモン教が神との一体化による永遠性であったのに対して、シャキャムニは、再生(今で言う生まれ変わり)の終焉・智の滅却(完全な無に帰すること)涅槃であったのではないでしょうか。仮に影響があったとしても、我の認識が180度違い、目標もまるで違っています。

なお、バラモン教におけるサンサーラ(輪廻)思想は、インド地域を侵略し、そこの支配者となったアーリア人バラモンの思想ではなく、土着を奪い取った先住民ドラビタ人の土俗信仰であったということを、たしか長尾雅人師が指摘していたと記憶します。それも、当初は「悪い行いをしたものは、死後、豚になる」と言った素朴なものから発展したと言うことでした。

蛇足ながら、「科学の発展のために仏法の誤りが発見されてもいい」というご意見には賛成です。ここでいう仏法とは何を指すのか不明瞭ながら、「されてもいい」という未来形ではないでしょう。過去形であり、現在進行形です。100年も前から、仏法と言われるものの誤りなど指摘され続けてきています。

あと、これは質問に属しますが、平和そうかさんが「科学で」と仰るのは科学の分類である自然科学と人文科学では、前者・自然科学によってということなのでしょうか。これしかし、現段階では先に挙げたセーガン師の葛藤からもわかるとおり、自然科学は、生命発生のメカニズムはおろか、各生命個体の生死の繰り返し・不滅など、何一つ、解を与えるところはないのが現状だとわたしは掌握していますが、この点は間違っていますか。

92雖念:2004/09/10(金) 12:24
>84 平和そうかさん:

> 極端なことを言えばこの世の中は自分一人しかいない。自分一人の宇宙が無数の神経節を持つ、下等生物はアメーバからヒトまで、いや他の銀河に存在する可能性を持つ異星人達に意識感覚を分離している状態が、現在の私達の状態ではないかと思うのです。

82の投稿をよくお読みください。引用したサイトの中に以下の記述があります。

*******************************  引用開始   ********************
学者たちが行っている生物の定義をめぐる論争、それは具体的には、「ウィルス」 「ウィロイド」 「プリオン」などの存在が――生物に該当するか否か――という論争である。これは実質的に は論争と呼べるようなものではなく、ただ単に科学者たちが各々「生命と見なす」「見なさない」 という主観的解釈を言い争っているに過ぎない。それは、ウィルスを生物と見なすならばそれをも包括した生命の定義を成立させる、というきわめて便宜的な線引き、いわば政治的な取り決めを行おうとしているだけのことである。
http://www.h3.dion.ne.jp/~west.xyz/page073.html
*******************************  引用終了   ********************

>他のサイトでも私の生命観を話して来ましたが、なかなか理解してくれる人がいませんでした。

引用文にあるように、「○○を生命とみなす」という主張は単なる主観的な主張に過ぎず、客観的に確認が可能な事象ではありません。82で「(そもそも、(当スレッドでは)あまり意味がないためか)自然科学的な意味合いにおける、生命の定義に関する議論はありませんでした」と、記したのは、そのような考えからです。
当スレッドの過去ログをよくお読みください。過去ログを踏まえた上での発展的な議論ができることを期待しています。

93愚鈍凡夫:2004/09/10(金) 13:00

釈迦牟尼はバラモン僧として出家し、結果的にバラモン教を捨てて、新宗教を広めることになります。これは、一見イエスがユダヤ教を信奉しながら、新しい信仰を説いたことと似ています。但し、イエスがユダヤ教を捨てようとしていたのかどうか疑問が残ります。それは、イエスが信奉していた神がユダヤの神と同一だからです。
この二人に共通するのは、宗教による差別の撤廃であったと思います。裕福な家に生まれた釈迦牟尼と、貧しい、ごく普通のユダヤの家に生まれたイエスが、共に誰でも救われると説いたのは興味深いものがあります。

もしこれから、「サンサーラ」と「カルマ」の科学的解明に本格的に取り組む科学者が出現したら、人々の宗教観も変わっていくのかも知れませんね。何れも現在のところ「信じるや否や」の次元の問題ですから。
現実に、「サンサーラ」は死んでみなくては分からない問題だし、「カルマ」は過去世の記憶がなければ証明できません。そういう意味では、科学の与り知らぬ問題かも知れません。
単純な解釈をすれば、信じる方が幸せなのか、無視する方が幸せなのか。といった問題なのかも知れませんね。

94犀角独歩:2004/09/10(金) 14:25

愚鈍凡夫さん、「釈迦牟尼はバラモン僧として出家」と言えば、そうも言えますかね。自由思想家・シュリマーナ(沙門)として、でしょうか。(まあ、突っ込みじゃありません。沙門だって、僧は僧だし、バラモンのコンセプトに倣ったのは事実でしょうから)

死んだらどうなるのか、自分は存続するのか・無に帰すのか、死にたくない・無に帰したくない、そんな脅迫観念が、このスレッドに底意にあるんでしょうか。

以前、アメリカ映画のテレビ放映を見ていたら、「あなたは死に対する極端な過敏症になっている。治療が必要です」というセリフが流れたんですね。ギョッとしました。「あ」とばかり、目から鱗が落ちる思いがしたもんでした。

松山俊太郎師が『第三文明』で連載していた『法華経と蓮』、いま出版のものはかなり内容が添削されていると聞きますが、そのなかだったか、「インド人は輪廻(サンサーラ)を苦ととらえ、中国人は福音(ふくおん)ととらえた」というようなことが書いてあったと記憶します。あるいは松山師の本ではなかったのかもしれません。

どちらにしても、「毒矢の譬え」は仏伝文学に輝く勝れた物語であるとわたしは思っています。

95平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/10(金) 14:51
犀角独歩さん
「バラモン教のウパニシャッド哲学が仏教に大きい影響を与えている」という説は元
東京教育大学教授、小牧治博士の説です。小牧博士の文章を引用してみます。「ブラ
フマン(梵)とは宇宙的根本原理であり、アートマン(我)とは各個物の本体的原理
である。そして『ウパニシャッド』はブラフマンとアートマンの合一を解く。この合
一を知るときに、人は解脱する。『ウパニシャッド』のなかの「汝はそれなり」、「
我はブラフマンなり」ということばは、この哲学の根本を簡単なことばで述べたもの
として有名である。」私はインド哲学宗教史の専門研究家でなく、ただの大學受験生
ですのでこれ以上詳しいことはご勘弁下さい。
なお釈迦がこの思想を基に教説を説いたかどうかは、不明です。仏教の原始教典の研
究が進むにつれて、パーリ語経典の中に、漢訳された阿含経典よりも成立が後と思わ
れる部分が出てきていますし、ある部分には大乗経典よりもなお後に作成されたと考
えられるふしさえ見えてきています。ですから大乗経典の法華経の本義を語った可能
性も完全には否定はできないと思います。ブラフマンは神で、アートマンは地上のバ
ラモンであり、梵我一如は直ぐには我即宇宙、宇宙即我とは言えないとのご意見を否
定はしませんが、解釈の仕方によれば仏教徒が我即宇宙、宇宙即我と信じて口承に依
って法華経の極意を後世に伝え、法華経が西暦50年、100年、150年の三期に
わたって成立したと考えることも可能ではないかと思います。

>平和そうかさんが「科学で」と仰るのは科学の分類である自然科学と人文科学では、
>前者・自然科学によってということなのでしょうか。これしかし、現段階では先に挙
>げたセーガン師の葛藤からもわかるとおり、自然科学は、生命発生のメカニズムはお
>ろか、各生命個体の生死の繰り返し・不滅など、何一つ、解を与えるところはないの
>が現状だとわたしは掌握していますが、この点は間違っていますか。

間違っていません。犀角独歩さんの仰る通りです。現代の生命科学(生物物理学、生物
化学)では全くそのような研究は為されていません。現代生命科学はバイオタクノロジ
ーなどの実用化学、応用化学のみを追い求め、最も重大な人(動物も含む)の死後の状
態や、生まれる前の状態については全く研究していません。辛くもアメリカのバージニ
ア大學医学部超心理学研究室で研究されているにすぎません。

私は人や動物の死後の再生は脳の記憶層の解明に因って、証明される可能性があると思っ
ています。それはDNA以外の未知の遺伝子の発見と研究に因って為されるのではないか
と思います。また生物学の分野では下等生物、先に挙げたプラナリアの頭部切断後の基と
なった個体の感覚の移行の研究や、原生動物の細胞分裂前後の感覚の移行の研究に因って
も解明される可能性があると思います。私は以前は後者の研究方法が早道だと考えていま
したが、現在は前者の研究方法の方が早道のように思っています。

参考文献:『前世を記憶する子どもたち』イアン・スティーブンソン著 笠原敏雄訳 日本
      教文社
     『虫の知らせの科学』イアン・スティーブンソン著 叢文社
     『日本庶民生活史料集成』第16巻 三一書房 「勝五郎再生記聞」文政6年
     (1823年)平田篤胤著

96愚鈍凡夫:2004/09/10(金) 15:38

犀角独歩さん、レス有り難うございます。
証明不可能なものに固執して思い悩むよりも、現在必要なことに冷静に目を向ける精神的安定感が重要なんでしょう。願わくは、優れた科学者の思索の原点に、慈愛に満ちた宗教があってほしいと思います。

参考資料

無記
http://www2.tky.3web.ne.jp/~kuuki/hp/sisei/ronkou/data/z16.html

毒矢の譬え
http://www2.tky.3web.ne.jp/~kuuki/hp/sisei/ronkou/data/z17.html

97犀角独歩:2004/09/10(金) 16:35

平和そうかさん:

残念ながら、95の投稿はまるで説明になっていません。

> …小牧治

この引用部分が、ウパニッシャド哲学の仏教への影響ですか。
単に同哲学を説明しているだけではないでしょうか。説明としては何も違っていませんが、これとシャキャムニの教説を結ぶ引用とはなっていませんね。
切り文と見えます。

> 釈迦が…不明

そのとおりでしょう。立証できませんでしょうね。

> 大乗経典の法華経の本義を語った可能性も完全には否定はできない

そんなことはないでしょう。『法華経』の成立は紀元前100年から、後150年であり、釈尊を経だつこと400年余り。釈尊の教説とは何の関係もない後世の創作です。成立地はアフガニスタンでしたか。
つまり、完全に否定されるところでしょう。

> …仏教徒が我即宇宙、宇宙即我と信じて口承…成立

こんなことはまったく不可能でしょう。何ら証明されることもなく、ただ我即宇宙と法華経をつなげたいという恣意的発想に過ぎません。却下せざるを得ません。抑も、法華経のどこに宇宙即我という思想があるのでしょうか。漢訳・妙法蓮華経でけっこうですから、該当部分を呈示してください。

残念ながら、平和そうかさんの梵我一如=宇宙即我=釈尊=法華経という考えは、ご本人の希望的憶測の域を出ないと結論せざるを得ません。

まあ、科学的可能性として、追究をなさっていくことはけっこうなことであろうとは思います。この点については、引き続き、ご投稿を期待します。

98犀角独歩:2004/09/10(金) 16:36

愚鈍凡夫さん、適切な語彙説明ページのご紹介、有り難うございました

99平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/10(金) 17:43
犀角独歩さん
まだ私は勉強不足でした。法華経には「我即宇宙、宇宙即我」などとはどこにも書かれて
いませんね。また蓮祖の御書にもそのような記述はないと思います。また蓮祖は御書で「
霊山浄土でお会いしましょう」とお手紙の最後に書かれていますね。蓮祖も死後にこの娑
婆世界に再生することを信じていなかったのでしょうか?

100& </b><font color=#FF0000>(fEkpAFto)</font><b>:2004/09/10(金) 18:11

横レス失礼します。平和そうかさん、
蓮祖が言っているから事実であると鵜呑みにするのではなく、科学的な検証が可能かどうかの視点に立つのが科学的立場を尊重する人のスタンスだと思いますよ。
浄土信仰は、ある意味では死の恐怖の呪縛から解放する役目もあると思います。残された時間を大切に使おう。意義のあるものにしようといった、前向きの姿勢に人を導く効果があると思います。
まして、蓮祖の弟子檀那ならば、靈山淨土で蓮祖と再び逢い、師弟の絆を深くすることができると思うだけで、死の恐怖から解放されるのではないでしょうか。

101愚鈍凡夫:2004/09/10(金) 18:13

名前の欄が文字化けしてしまいました。
100は愚鈍凡夫です。悪しからず。m(_ _)m

102平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/10(金) 19:04
愚鈍凡夫さん。御返事有難う御座いました。
愚鈍凡夫さんは、この死生観についてどうお考えですか?梵我一如と我即宇宙の問題は
さておき、私達の死……これは科学の役割であると思います。

私は世界史と日本史を選択科目にしようと思っています。倫理をやると余分な時間を割
くことになりますので。「バラモン教と現代仏教に至る過程と、バラモン教が現代の新
宗教に与えた影響を述べよ」と言ったら、もう仏教学科のある大学院の入試問題になっ
てしまいますよね。

愚鈍凡夫さん有難う御座いました!犀角独歩さんとも対等に議論することができるように
努力します。

独歩さんの指摘は鋭かったです!愚鈍凡夫さんは犀角独歩さんと前からかなり議論されて
いますね。雖念さんもかなり理科学的知識もある方のようですから、私も数学や理科の勉
強過程で、机の右端に置いてあるB5版のノートパソコンを見ながら議論を拝見しようと
思います。

103愚鈍凡夫:2004/09/10(金) 21:48

う〜ん? あれれっ

> 愚鈍凡夫さんは、この死生観についてどうお考えですか? 梵我一如と我即宇宙の問題はさておき、私達の死……これは科学の役割であると思います。

どの死生観を指すの分かりませんが、死生観は哲学や宗教の次元の問題で、生物としての生死は主に医科学的な問題ではないでしょうか。
生物学的に生命の誕生と死を定義づけることと、生死に価値観を見いだし、意義づけることは次元の違う問題だと思います。

104大勇者:2004/09/10(金) 22:07
はじめまして
いままでみなさんのレスを読ませていただくだけで満足でしたが、勇気を出して書き込む事にしました。
文章力乏しい為読みにくいと思いますが、宜しくお願い致します。
自己紹介スレには後ほど書かせていただきたいと思います。

さて数日前ですが教育番組で、現代の日本の小学生(高学年)の8割程度は「生まれ変わり(人間に)」を信じていると答えている
とのアンケート結果があるとの事でした。もっともこの番組の趣旨は子供たちの自殺や殺人事件の背景を考察するものでした。
つまり生まれ変わりを信じているために人の命を軽んじてるのだとの論調のようでした。
テレビゲームのリセット感覚からのものでしょうか?

自分の子供に(5年)に訊ねたところ、「信じている。」との事でした。

そういえば自分自身も子供の頃は「生まれ変わり」を単純に信じていたような気がします。
もちろん現在も信仰として輪廻を信じているわけですが、やはり少年時代との感覚とは違うような気がします。
いつのまに忘れてしまったのでしょう?

つぶやきでした。・・・

105犀角独歩:2004/09/11(土) 09:50

大勇者さん、はじめまして。

> 教育番組…日本の小学生(高学年)の8割…「生まれ変わり(人間に)」を信じている…自殺や殺人事件の背景を考察するものでした

興味深いご投稿です。また、番組作りのコンセプトが輪廻と犯罪(殺人)・自殺と関連づけている点が注意が牽かれました。

もう、ずいぶん前のことになるのですが、『ぼくの地球を守って』という漫画がベストセラーになったことがありました。輪廻転生を素材にしたストーリーでした。このなかで、月面基地に一人残った青年が自分が死ぬのを待つというシーンがありました。自殺を考えながらしないわけです。その理由は自殺をすると転生できなくなるからだというコンセプトでした。わたしはこの輪廻と自殺の定義付けにいたく感心させられたものでした。「輪廻を信じる人たちの自殺抑制理論になるな…」とボンヤリ考えていたことを思い出します。

しかし、かつての日本社会、殊に武士道では自殺は美徳でした。「HARAKIRI」「KAMKAZE」は諸外国が日本人の特徴ととらえてきたところでしょう。この精神風土は昭和20年の敗戦以降大きく変化が生じたのは事実です。けれど、現在でも自殺は深刻な問題であり、交通事故死者数が自殺者数を上回ってから久しい経過があります。殺人事件も深刻な社会問題であり続けています。

前置きが長くなりましたが、ご呈示の番組では生まれ変わり(輪廻)と殺人・自殺をどのような関係で取り上げていたのでしょうか。もう少しご説明願えませんでしょうか。

なお、わたしも大勇者さんと同じく、若いときのほうがより強く輪廻を信じていました。お互い何故なんでしょうね。

106& </b><font color=#FF0000>(KzhVYiO2)</font><b>:2004/09/11(土) 10:37

大勇者さん、始めまして。
しかし何ですね、小生も時々思うのですが、もし人生がリセットできたらいいですよね。何度でも少年時代に戻れれば。と思うことがあります。
でも、そうなると経験値が異常に高い、恐ろしくひねたガキが世の中溢れかえることになったりして。想像すると恐いものがありますね。 (^◇^;)
例えば、頭が犀角独歩さんで、体が小学生だったら、「名探偵コナン」どころの話しじゃないですよね。
想像しただけで、眠れなくなりそう。

107愚鈍凡夫:2004/09/11(土) 10:40
済みません。また文字化けしてしまいました。

「いわんでもわかっとるわい!!こんことレスすんのんお前だけや!!」(by 内野席)

愚鈍凡夫でした。m(_ _;)m ゴメン!!

108犀角独歩:2004/09/11(土) 11:10

&さん、はじめまして。ご挨拶、遅れました。

> 100

ご投稿、賛同します。

蓮師が晩年にいたり、霊山浄土を語るようになっていった晩年の変化は人間味がありますね。

名前は記せませんが、唯物論者である弁護士の知人がいます。
その人がしんみり語っていたことですが、「死んだら、先に死んだ人とみんな会えると信じている」酒の席でしたが、その方の主義信条を知っているだけに味わいのある言葉でした。

> 106

わたしも若い時に戻りたいと思うことがあります。
しかし、いまの状態ではなく、何も知らない真っ白な状況に、ですね(笑)
蓮師も、石山も、創価学会も知らないゼロの状態から、歩んだ人生をやり直したい…、そんな夢想をすることはあります。
そうすれば、こんな頑固おやじではならなかったかも知れません(笑)

109愚鈍凡夫:2004/09/11(土) 18:42

文字化けじゃなくってブラウザの問題でした(2種類のタブ・ブラウザを使ってるものですから)。

犀角独歩さん、

>&さん、はじめまして。ご挨拶、遅れました。

もう〜(牛か?お前は)。ジョークの言えない真面目な小生をからかわないで下さい(どこが?!)。

ロボット工学の最先端を行く科学者のヒーローが「鉄腕アトム」だったりすると、急に親近感を持つのは、同じ時代を共有してきたという連帯意識なんでしょうかね。
ふと、少年時代のあの不可能は可能になると純粋に信じられた、ときめいていた時代に戻りたいような気もします。

110大勇者:2004/09/12(日) 00:32
犀角独歩様
すみません。新聞のテレビ欄やNHKのホームページなどを検索しましたが番組名などの
情報を探せませんでした。
自分の記憶でしか紹介できません。 残念です。
番組は11歳少女の殺人事件にてその後の自供といいますか供述(表現が適切でないと思
いますが)にて「人は死んでもまた生まれる」と話しているとの事から始まり
ある一般家庭をモニターとして映し、母親が小学生の娘(4年生程度)に「人は死んだら
どうなる?」少女「また生まれる」とのやりとり。
母親はこの返答にややショックを受ける。「そのような事を教えた事はないのに」
ドキュメントタッチで進行する内容と記憶しています。

私は自分の子が生まれ変わりを信じてるとの答えには嬉しさを感じましたけれど、一般的
には違うのかも知れません。

さて私としては、輪廻転生を理論科学が証明する時がいつか来るかも知れないと期待したいですが、まだまだ先の事と思います。
やはり哲学や仏教の分野に答えを探して行きたいと思いますので教えて頂きたいのですが、
日蓮教学において、前生、先生などをどう捉えればよいのでしょうか?
輪廻生死とは示すものが違うのでしょうか?
輪廻転生という表現そのものは御書には無い様ですが。

111犀角独歩:2004/09/13(月) 01:02

110 大勇者さん:

> 日蓮教学…前生、先生…
> 輪廻生死とは示すものが違うのでしょうか?
> 輪廻転生という表現そのものは御書には無い様ですが。

「輪廻」の用法は多数見られますが、たしかに「輪廻転生」では見当たりませんね。
ただ『守護国家論』に「仏蔵経に云はく『…阿鼻地獄より他方の大地獄の中に転生す』」という記述が見られます。晩年前の蓮師の輪廻生死か、先生(せんじょう)、あるいは輪廻、転生観は特に日本仏教のそれを背景にしたもので大きく差異はないと思えます。

蓮師は久遠五百塵点劫成道釈尊の初発心の弟子、地涌菩薩の眷属としての自覚ですね。
晩年死後は霊山浄土観で三仏現貌に見(まみ)えるといい、「娑婆世界説法教化」の此土有縁深厚という三妙合論とは違う浄土観を示したようにも見えます。

わたしが蓮師の記述で一番、不思議に思うのは娑婆世界が法華経流布の有縁の地であり、輪廻観に立てば、来世もまた、この地に生まれ、広宣流布を自らするとどこかに書き残してもよいと思えるのに、それがないことです。日蓮としては一度、出世し、死後は霊山浄土の釈尊の許に行くと言えば、寿量品の三妙合論と齟齬を来すのではないのかと、わたしには思えます。

まあ、この点には碩学の皆さんは異論を挟まれるかも知れません。

112犀角独歩:2004/09/13(月) 11:48

111で大勇者さんに回答いただいた御礼を述べ忘れました。
有り難うございました。

113大勇者:2004/09/14(火) 00:33
犀角独歩様
ご丁寧なご返事ありがとうございます。

・宗教と科学について−ニューエイジ批判を通しての一考察−(現宗研)
ttp://www.genshu.gr.jp/DPJ/booklet/001/001_07.htmより
***********引用開始**********
というのは今昔物語や法華験記にみられる日本における転生思想は、その後の浄土教による往生思想や、沙婆即寂光・草木国土悉皆成仏を説く本覚思想や、常世の国という日本固有の浄土観念によって、隅に追いやられていたと考えられるからです。もちろん因果応報と業の観念は根強くありますが、カルマによる輪廻転生は、「死ねば皆ホトケになる」という通念が広まる中で忘れ去られていたといえるでしょう。現代にいたってもニューエイジや新新宗教に見られるように、「カルマと転生の思想」が新鮮に受けとられるのは、この思想が日本近代において再び輸入された近代思想であるからにほかなりません。
*************引用終了*****************
上記引用と私の疑問とはやや違うのですが引用させていただきました。

まずひとつめは、別々の意味であるはずの熟語がひとつに併せられる事によって別の概念の熟語として使用されて通念化してしまう事です。
「輪廻」と「転生」
「因果」と「応報」(報復・処罰のスレにも機会があったら提起してみたいと思いますが)
既出の「梵我」と「一如」などもこれにあたるのではないかと思います。
そしてこの理由から、引用文にもあるように「輪廻転生」は実は近代思想なのではないか?という疑問です。これがふたつめです。
もし「輪廻転生」という概念が近代の自然発生的思想であるならば日蓮仏法の中に答えを探していく作業は無意味であるかもしれません。(自然発生した由来を倫理科学的に考察していくのは別の意味で意義あるかもしれませんが)つまり現代において使用される「輪廻転生」という概念と仏法が説く「生命」の概念とは別ものであろうと予測される訳です。
以上の二つの理由から私は「輪廻転生」というキーワードは日蓮仏法における生命論から外して考察していくのが妥当であると考えました。

そこで、次に「如来」の「如」を、生命を顕すキーワードとして考えていきたいと思いますが、的外れでしょうか?

114大勇者:2004/09/14(火) 00:45
愚鈍凡夫さん &さん ごあいさつ遅れて申し訳ありませんでした。
是非ともよろしくお願い致します。

115犀角独歩:2004/09/14(火) 01:35

113 大勇者さん:(当板は「さん」付けの決まりですので、お気軽にそのようになさってください)

たいへんに示唆に富んだご指摘ですね。

いま、「輪廻転生」「因果応報」で、天台電子辞典、真跡遺文、御書全集、富士宗学要集を検索してみましたが、たしかにどれもヒットしませんでした。
澁澤師の論文は参考になるところ大ですね。『大正生命主義』の指摘もこの中にありましたっけ。上杉師と共に、わたしが尊敬しているお一人です。

> 「如来」の「如」を、生命を顕すキーワードとして考えていきたい

これはせっかく、澁澤師の論文をお読みになりながら意外なことを。
たしかに的外れではないでしょうか。
如来は如去の対語でした。この「如」は現代語に直せば、「このように」ていどの意味しか持ち合わせていません。また、何度も繰り返してわたしは書いてきたのですが、仏教は生命など説いていません。近代の「生命」語の流行以降、この言葉を用いて意味が宛われたのに過ぎません。大正以降のことです。

116愚鈍凡夫:2004/09/14(火) 19:28

以下のHP、兎に角笑えます。 (^O^)

「輪廻転生(1)」哲学的な何か、あと科学とか
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/rinne.html

「輪廻転生(2)」哲学的な何か、あと科学とか
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/rinne2.html

「輪廻転生(3)」哲学的な何か、あと科学とか
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/rinne3.html

117平和そうか </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>:2004/09/14(火) 19:52
>>116
今日死刑になったあの人はどこに行くのでしょう。あの人を死刑にしても死んだ子供達は
返っては来ません。
あの2012年5月21日の金環日食も、2035年の皆既日食も見ることができず死ん
だ子供達は可哀相ですね。
愚鈍凡夫さん。私は宇宙や天文学に憧れていた少年でした。だからあのサイトの紹介には
本当に感謝しています。

でも今日のあの人の死刑執行の報道には驚きました。愚鈍凡夫さんは死刑にはどのように
お考えですか?私は即事廃止論者です。頭脳優秀な方々が多いこの掲示板で私が発言するのは
恐縮しますが、今日の1人の死は人ごととは思えなかったので投稿します。

118愚鈍凡夫:2004/09/14(火) 21:14

宅間守死刑囚の命が何処へ行ったという以前に、
宅間守死刑囚は、死刑判決を受けた者は死ぬ権利があるといった刑法の裏解釈を利用して、国家をコケにしたんだと思います。
彼にとって児童殺害は死刑判決を勝ち取る(?)ための手段にすぎず、実態は、自分の存在を世間に知らしめることと、自分の我が儘を通させない世間に復讐すること、最高権力者である国家をコケにすることであったように思います。一言で言えば、最高に目立って死にたかった。そこにしか、自分の存在意義を示すことが出来なかったと言うことではないでしょうか。

119大勇者:2004/09/15(水) 00:11
犀角独歩さん
ご指摘ありがとうございます。
御義口伝の「如去の二字は生死の二法なり」から何かしらきっかけが掴めるかと思いまして・・・
仏教が生命を説いてないとしても、我々現代人は「生命」という不確定の概念を思考の中に定着さており忘却することは出来ません。
又、信仰、教学に於いてもこの不確かな「生命」論との合理性、整合性を求めていく事になるわけです。
私は創価学会員であることは自己紹介スレに書かせていただきました。
日蓮正宗創価学会時代からすでに「生命論」と「信心」は切り離せないものになっています。

120大勇者:2004/09/15(水) 00:13
仏教哲学大辞典第四巻(昭和43年初版発行)より
生命論95P(5)仏教哲学における生命論
(1)法報応の三身
(2)色身不二
(3)一念三千の法門
1の法報応の三身より抜粋引用します。
**********引用開始***********
つぎにこの生命の把握に立脚して、永遠の生命を論じていく。われわれの肉体は子供のときより老人にいたるまで、ある傾向にしたがって変化する。その原理と同じようにわれわれの今日の肉体と精神が永遠に変化しつつ実在する事が、法報応の三身常住で無始無終の生命観である。われわれの生命は永遠であるとすれば、この世で死んでまた次の世で生命の活動がなければならない。しからばいかなる状態において生命が来世に連続するのであろうか。われわれが死ねば、肉体の処分にかかわらず、その生命は大宇宙の生命へ溶け込むのであって、宇宙は一個の偉大な生命体である。この大宇宙の生命体へ溶け込んだ生命は、どこにもありようがない。大宇宙の生命それ自体である。これを空というのである。空とは存在するといえば、その存在を確かめることができない。存在しないとすれば、存在として現われてくるという実体をさしているのである。「ある」「ない」という二つの概念以外の概念である。ゆえに縁ふれて五十年、百年、または一年後にふたたびこの娑婆世界に、まえの生命の連続として出現してくるのである。さてその生まれ出た肉体は、過去の生存、過去の死の状態をとおして連続してきた生命をもととして宇宙の物質をもって構成されてくる。時間的差異はあったとしても生命が連続である以上肉体も、精神も、運命も、過去世の連続であるといえるのである。生命が過去世の傾向をおびて世に出現したとすれば、その傾向に対応して宇宙より物質を集めて肉体を形成する。ゆえに過去世の連続とみなす以外にないのである。このように現在生存するわれらは死という条件によって大宇宙の生命へと溶け込み、空の状態において業を感じつつ変化して、なんらかの機縁によって、また生命体として発現する。このように死しては生まれ、生まれては死し、永遠に連続するのが生命である。この法報応の三身常住こそ仏法の骨髄であり、難信難解の問題なのである。だが科学がより発達すればするほどかならず仏法の正しさを証明していくであろう。
*************引用終了************
長くなって申し訳ありません。
結局は梵仏論、又は「梵我即宇宙」などの域を出た生命観ではないと思うのです。
ビックバン・ビッククランチにしても・・・当人から見れば「死んだら無になる」と大差ないように思えます。
日蓮仏法にはこれらを超越した何かを感じるのですが・・・
みなさんのご投稿を期待します。

121釜利谷:2004/09/15(水) 00:14
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/1670/030600.htm
に日本での死刑執行の手順が綴られていますので、参照してみて下さい。

死刑の在り方を信仰者として、冷静に考える事が出来ます。

122犀角独歩:2004/09/16(木) 13:00

大勇者さん:

当板の特徴は、組織の打ち出しを鵜呑みにしないで厳正な資料で、その根拠を精査し、その是非を問うことで一貫してきました。ですから、

> 創価学会員……「生命論」と「信心」は切り離せない

生命論が事実であれば、たしかにその信心は正しく、継続すべきものでしょうが、間違っていれば、修正することが必要です。もし、必要がないのであれば、ここの板は大勇者さんにとって、何の役にも立たない‘お題目’でしょう。

組織から与えられ、当然のように信念体系の基礎に据えていることが、実はどうなのか、真剣に考えることで、存在の意義があるとわたしは思っています。その意味で大勇者さんが現役創価学会員であるという所属は議論の相手をするわたしにとって何の意味も持ちません。創価学会の代理者である方とわたしは議論しているのではなく、個人の尊厳に基づく大勇者さんというHNを持つ方とわたしは議論しています。35年、学会にいたわたしに、知りすぎている学会教学の説明は不用です。

120の、こんなことを、かつてわたしも信じていました。思わず吹き出してしまうようなこの珍説は、創価学会員を騙せても、真面目に天台已来の法華教学をやって来た人間にはコミック、あるいはノベル以上の意味は持ちません。(妄想の類とすら思えます。また、辞典とは名ばかりで何の解説にもなっていません)。この絶望的な珍説の過失については、概ね当板の過去ログをお読みになれば、多く発見することができるでしょう。

この文章は、日本に本来ある霊魂の意味を法華教学の法報応の三身・色身不二・一念三千で潤色し説明し直しただけのものと映じます。

三身論の祖を誰に置くかはなかなか困難な問題でしょうが、それぞれ独自に発展した仏身論(法身・報身・応身)を三即一と束ねて一身にしたのが天台教学の結論でしょう。これはまた、釈尊・阿弥陀・大日の統合論としての意味を持った側面もありました。法華釈尊・一仏へ統合を意図したものではないでしょうか。言うまでもなく、この説の原文で文句(記)などを読めば、まるで生命とは関係ありません。この点は唯識との統合化と(わたしは考える)五陰説、また十二因縁の「色」と「心」の統合化を図った色心不二も同轍であり、これまた、生命を言うものではなく、言葉の示すとおり、心を言うものでした。妙楽説である三千不可思議境の実在的説明と映じる一念三千もまた、心の説明であって、生命の説明ではありません。故に「説己心中所行法門(己の心の中に行ずる(=業(行為)と思えます)法門)というのであって、生命ではなく「心」を説いたものでした。

原文を読むことのない創価学会員は「仏教は生命を説いた」、「ああ、そうなのか」と納得してしまうでしょうが、経(法華経)釈(天台)を真面目に学んだ人が見れば、ただ言葉を盗んで、生命の説明に宛てた実におかしな解釈と映ずるわけです。

ただ、そう言うわたしも20年ばかりは、そんな日蓮正宗創価学会の珍説を鵜呑みにしていたわけですから、偉そうなことは言えません。しかし、事実を知ったとき、わたした事実に正直である道を選びました。それはいきおい、日蓮正宗創価学会からの卒業を意味するところとなりました。

なお、蛇足ながら、申し上げれば、間違った信念体系でも、生き甲斐、活力(創価学会で言う生命力)、人生を切り開く積極性は生じるという事実も看過できません。正しい教えだけが歓喜と生命力を与えるというデマゴギーは真実を直視する目を濁らせるものです。

123犀角独歩:2004/09/16(木) 13:02

121 釜利谷さん、はじめまして。

たいへんに参考になるページのご紹介、有り難うございました。
このテーマは当スレッドより、『報復・処罰という暴力をどう考えるか?』スレッドに適していると思いますが、如何でしょうか。

124愚鈍凡夫:2004/09/16(木) 23:32

>われわれが死ねば、肉体の処分にかかわらず、その生命は大宇宙の生命へ溶け込むのであって、宇宙は一個の偉大な生命体である。

これって、生命は「肉体」よりも「霊魂」に比重が置かれているって言っているようにも読みとれますね。
まるで、宇宙は「霊魂」で満ちているって言ってるようです。それでは、個人としての意思は、宇宙に溶け込んでどうなるのでしょう。

>ゆえに縁ふれて五十年、百年、または一年後にふたたびこの娑婆世界に、まえの生命の連続として出現してくるのである。さてその生まれ出た肉体は、過去の生存、過去の死の状態をとおして連続してきた生命をもととして宇宙の物質をもって構成されてくる。時間的差異はあったとしても生命が連続である以上肉体も、精神も、運命も、過去世の連続であるといえるのである。

宇宙に溶け込んだ生命は、どのようにして抽出され、前の生命に戻れるのでしょうか。また、「生命が連続である」とは如何なる裏付けによるものでしょうか。過去世の連続であるとの証拠は、何処にあるのでしょうか。所詮、「信じるや否や」の問題に過ぎないのではないですか。

> その傾向に対応して宇宙より物質を集めて肉体を形成する。

誰が宇宙から物質を集めてきて肉体を造形するのでしょうか? ( ̄〜 ̄;) ウーン
こんな事が、科学で証明できるのだろうか? う〜ん、いくら何でも信じられん。「信じる者」も救われん気がする。 (-"-;A ...アセアセ

125大勇者:2004/09/17(金) 01:28
犀角独歩さん、愚鈍凡夫さん
ご丁寧なご返事本当にありがとうございます。
(120)は批判を受ける事は予想していましたが、あえて引用させていただきました。
「絶望的な珍説」とまで言われるとは思っていいませんでしたので、やはりショックです。
今後時間かかると思いますが自分の信仰に対しての修正を行っていかなければと思いました。
また私は学会の教義をどのような意味合いにしろ、紹介する事が投稿の目的ではありませんし関連組織を批判する意図もございません。

実は個人的に私は、信心の初めに(120)のような生命論が最初にあり、教学はむしろこの「珍説」の根拠を探す為、正当化するために行ってきたようなものでした。(結局行き詰ってしまったわけですが)
行き詰った理由としては、明確な根拠が探せない事と、例え(120)が正しいとしても死後を考えた時にあまり意味を成さないと思ったからなのです。生命=大宇宙であるならば死んだら煙になって空に溶け込んでいくということと大差ないと思えるからです。
人生とはなにか?
ひとは死んだらどうなるのか?
何の為に生きてなぜ死んでゆくのか?
何の為に生まれてきたのか?
これらの答えを探す為に私は信仰に向かったとも言えるのですから。
ただ、これは私だけでなく、現代の特に若年層の思想の風潮とも言えるのではないだろうかとも思います。
「信仰」と「生命」を切り離せないのは学会だけの問題ではないと思うのです。

現代では小学生でさえ氾濫する「生命」という表現を常に耳にしています。よってなんらかの概念が既に形成されていると思われます。成長して行くに連れ、揚揚な思想に触れる度に「生命」との概念との整合性または修正を行っていく事になるわけです。
つまり現代では「生命」を語らずして「宗教」とはなりえないのではないかとさえ思えます。
私自身は、「生命論」とは仏教典のなかからの「生命という概念」の抽出作業と思っていましたから・・・
日蓮祖は「死への達観」を超えた何かを感得していたと信じたいのです。

ところで、犀角独歩さんの解釈する五陰仮和合、五陰和合について興味があります。既出ならばレス番を是非、紹介ください。

126愚鈍凡夫:2004/09/17(金) 05:55

皆さん、お早うございます。
五陰(五蘊)について、経典には次のように記されています。

「觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。(観自在菩薩。深き般若波羅蜜多を行じし時。五蘊は皆空なりと照見す。一切の苦厄を度ふ。舍利子よ。色は空に異ならず。空は色に異ならず。色は即ち是れ空。空は即ち是れ色。受想行識も亦復た是の如し。)」(般若波羅蜜多心經)

ご参考までに。

127犀角独歩:2004/09/17(金) 09:27

愚鈍凡夫さん、有り難うございます。
「五蘊」説は『般若心経』の般若思想というフォローでしょうか。
それはそうなんだと思うのですが、その前提に「識」概念の展開があったのではないのか、それが前提で同経が成立したという時系列があると思っていますので、その前ふりを「唯識」を直接、書いたわけです。識はまるで、日本の「霊」のようで、学会で言えば「生命」のように取り扱われているように思えます。しかし、『般若心経』ではさらに五蘊も「空」とするわけですから、ステップアップしているわけですね。この空とする五蘊を「仮和合」で衆生というのが、‘食えない’と思うのがわたしです。まあ、こんなことを書くと、また「浅薄」と酷評されるのでしょうか(笑)

128犀角独歩:2004/09/17(金) 14:03

大勇者さん:

> 私は、信心の初め…生命論が最初…教学…正当化

まさにこの時系列が創価学会教学の成立過程と事情を同じくしていると思います。つまり、大勇者さんは、ご自身の選択と思いながら、実は学会の教学成立過程を追体験‘させられた’のであろうとわたしは想像します。

> 人生とはなにか?
> ひとは死んだらどうなるのか?
> 何の為に生きてなぜ死んでゆくのか?
> 何の為に生まれてきたのか?

四門遊出として知られるシャキャムニの故事も類型の疑問から始まったのだと思います。しかし、その結論は人生の諸相を苦として認識して、その滅却に無余涅槃を選んだところで決定的に違っていました。

> 「信仰」と「生命」を切り離せないのは学会だけの問題ではない
> 現代では小学生でさえ氾濫する「生命」という表現を常に耳にしています

けれど、一般で言う生命と学会出言う生命は決定的に違います。

せいめい 【生命】
(1)生物を、無生物ではなく生物として存在させる本源。生命を物質の一形態として発生的にとらえる機械論的考え方と、これを実体として見る生気論的考え方とが伝統的に対立する。いのち。
(2)ある分野で活動していく上での原動力。活動の根源となるもの。また、その活動期間。
「政治―」「選手―」
(3)物事の存在を支える一番大切なもの。いのち。
「信用は銀行の―だ」
(三省堂提供「大辞林 第二版」)

シャキャムニと同轍の疑問から出発しながら、それも同じ仏教を採りながら、なぜ180度逆のアプローチになったのか、ここが重要です。この理由を、もう一度、熟考してみてください。それが「生命」という「象徴の病」の治療には是非とも必要な処方箋になります。

> つまり現代では「生命」を語らずして「宗教」とはなりえない

失礼ながら、これは井中からみた宗教観ではないでしょうか。
以上のように、なぜご自身が考えるのか…。たぶん、大勇者さんはご自身でそう考えてきたと思っていらっしゃるでしょうが、それは社会的影響力を過小評価している心理的結果であると思います。たぶん、創価学会という‘社会’にいなければ、いまのようにはお考えにならなかったでしょう。
直裁に申し上げれば、「生命」語に泥んだ結果です。わたしもそうでした。
しかし、実際の資料に中れば「生命」という言葉はまことに珍妙です。少し時代を下れば、霊となり、もっと戻れば、念となり心となります。さらに戻れば常楽我浄の我となり、三諦となり、空となり、識となって、無我と辿り着くでしょう。
今でも、心を語るところに宗教はあり、神仏を語るところに宗教はあります。

> …五陰仮和合、五陰和合

前者は知りますが、後者の用法は知りません。
いまは時間がなく資料手放しで記し恐縮で、好い加減なことを書くと顕正居士さん、三吉さんからお叱りを受けるところ、その節はご叱正をいただければ幸甚なのですが、瑜伽唯識の識と中観の空を天台を押さえて彼の所説を構築していると思います。
「五陰仮和合」と成句としたのは誰であるのか、わたしは知りませんが、その釈の典拠は『法華文句』でしょう。三世間としての釈は、『摩訶止観』でしょう。わたしはこの語彙の説明で目から鱗が落ちる思いをなしたのは、あまりに中途半端で、あまり役に立ちませんが、石田次男さんの『現代諸学と仏法』でした。この点を投稿したことはあります。まあ、いまから読めば雑駁ですが。

過去ログ『六巻抄について』110に投稿しています。
http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/rokkansyo.htm


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