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生命主義、生命論について

1管理者:2003/10/29(水) 14:30

スレッドテーマの提案が有りましたので、活発な議論が展開されることを期待しまして、新しいスレッドを立ち上げます。提案文は以下のとおりです。

提案文

128 名前: 顕正居士 投稿日: 2003/10/29(水) 07:22

無徳さん。Leoさん。問答迷人さん。

生命主義や生命論は別にスレッドを立てたらどうでしょう。
生命主義とは何かがまず捉えにくいが、それはあらゆるところに普及しているせい
であり、日本の宗教や思想を考えるときに最も重要なキーワードの一つでしょう。

「『生命』で読む日本近代」
http://www.campus.ne.jp/~tktk/f07/f0701/seimei.htm
「宮澤賢治の生命観―大正生命主義における位置」
http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/extract/miyazawa/miyazawa.htm

日蓮系の方の文章をいくつか。

「草木國土 悉皆お陀仏」
http://www.hept.himeji-tech.ac.jp/~okadamk/seppou2000_02_13.htm
「生命の四大属性」
http://plaza15.mbn.or.jp/~hongemyousyuu/sidaizokusei.html
「現代科学から四十五字法体段を考える」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho36/s36_165.htm
「仏教思想史の中の日蓮教学」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho29/s29_111.htm

180常連:2006/08/11(金) 14:19:56
×)構成
○)後世

訂正致します。

藤川一郎さん、

>「事実とは整合しない全くの創作」と言う書き込みは無かったと思います。
上にも記しましたが、主語をご確認下さい。

>人間革命が小説であり所謂“ノンフィクション”とうたって無い以上、
>これはモデルがあろうと無かろうと“フィクション”です。
その主張は納得できません。それではお聞きします。
人間革命はそもそも「フィクション」とうたっておりませんね。
と言う事は、藤川さんの主張だと「ノンフィクション」になってしまうのではありませんか?

また、フィクションの意味を理解されてますか?

[1] 想像によって作り上げられた事柄。虚構。
[2] 作者の想像力によって作り出された物語。作り話。

人革=虚構、作り話と主張するのであれば、それを証明する責務があるかと思います。

>余談ですが個人的な見解を申しますと・・・
これは引用するのも気が引けますが、一応気になる箇所にコメントさせて頂きます。

>戸田さんの発言の音源を医療の専門化に聞いて頂きますと、“一種の精神的な病”
音源は実際の肉声と同等の品質を持っているリソースなのでしょうか?
ご存知でしょうが、音声が何らかのメディアにコンバートされるには、相当な劣化や変質が生じます。
まさか、昔のレコードやテープからおこした音源など使用されてませんでしょうね。
それを基に声質や内容だけで、他人を精神病呼ばわりする方の常識を疑います。

ちなみにこのサイトは伝聞や憶測を嫌い、証拠による証明が必要との理解でいたのですが・・・。

それでは戸田氏が精神病であったとするなら、どのような病理診断をされて断定されたのでしょうか?
また、病名はどのような物だったのでしょうか? 

>人間革命と言う小説に出てくる戸田さんの獄中の悟りなるものがあったとしても、
>このような傾向から出たものとも考えられます。以上。
憶測に該当する部分ではないでしょうか。
「病や薬の影響による悟り」と仰るなら、戸田氏が服用していた薬の種類はご存知なのでしょうね?

本当に祖道への復興を考えられておられるのならば、公共の掲示板と言う性質上、
やはり正確を期すべきであると私は考えます。
一方的なイメージや思いつきを断定口調で語るべきではないと思うのです。

藤川一郎さん、

>「事実とは整合しない全くの創作」と言う書き込みは無かったと思います。
上にも記しましたが、主語をご確認下さい。

>人間革命が小説であり所謂“ノンフィクション”とうたって無い以上、
>これはモデルがあろうと無かろうと“フィクション”です。
人間革命=フィクションと言う主張ですね。

それではお聞きします。

人間革命は「フィクション」とうたっていませんが、
藤川さんの意見だと、うたってないものは「ノンフィクション」になってしまうのではありませんか?

182犀角独歩:2006/08/12(土) 12:54:30

179 常連さん

>…「小説 人間革命」ですから「小説」である事に疑いを持つ人はおりません。

そうですね。仰るとおり、小説は小説です。

>…悟脱が無かったと言う証明がなされてないからです。

“悟脱”は学会の過去の用法では、「悟達」でしょう。
そもそも小説のわけですから、無かった証明などあったものではないでしょう。たかが小説です。

> 悟脱の描写自体が構成の創作であると主張されるのであれば、
「悟脱は無かった」と証拠をもって「論証」する必要があります。

これは逆でしょう。小説であるにも拘わらず、それが事実に基づくことであると主張する側に証明の義務はあります。
ありもしないもの(無)をある(有)と証明できるはずはありません。
無は有ではないからですよ。

たとえば、月に生命がいない証明は、月に生命がいない事実を語れば十分です。同じように戸田さんが悟達していないのは、本人が悟達したと言ったわけではなく、悟達した証拠もないわけですから、それだけで十分です。
また、悟達とは悟りに達するということですから、もし、戸田さんが悟達したというのであれば、戸田さんは仏であることになります。
以上のような論調は過去に既に議論されたことで、つまり、戸田さんの悟達は、イコール、会長本仏論として論議され、創価学会も、この点を否定したではないですか。

創価学会は、戸田さんの獄中の悟達という表現を「一切衆生に仏性があるということを実感したことの、一つの表現」「戸田第2代会長の“獄中の自覚と決意”」(創価学会発行:特別学習会テキスト「教学上の基本問題について」(6・30)P22)と訂正した点を、どうして、隠匿するのでしょうか。

つまり、創価学会が公式発表として、上記のように述べているのにも拘わらず、そのような事実を隠匿したうえで、小説上の記述から、あたかも戸田さんが悟脱?(悟達)をしたかのような論調で語られ、さらに悟達していないというのであれば、それを証明されなければならないとは、語るに落ちるところであると思います。

『人間革命』は、仰るとおり小説であり、小説上の記述を、事実か否かを問うこともナンセンスであり、さらに創価学会が「一つの表現」に過ぎないとしたうえで、悟達を「自覚と決意」と訂正して30年も経った今日、いまだにこのようなことを言い出すとは、よほど、創価学会の内部資料すらも精読していないうえでのことであろうと拝察します。よろしく、過去の資料を渉猟することをお薦めします。

183常連:2006/08/12(土) 15:18:32
①犀角独歩さん、

想像通りのレスをありがとうございます。 笑

>“悟脱”は学会の過去の用法では、「悟達」でしょう。
学会的には「悟達」が適語かもしれませんね。ありがとうございます。

>これは逆でしょう。小説であるにも拘わらず、
>それが事実に基づくことであると主張する側に証明の義務はあります。
相手にそれを求めるならまずはお手本をお見せ願えますか?
そもそも書かれている内容に異を唱えるのであるなら、その貴殿の主張を証明する義務があります。

「無かった証明などあったものではないでしょう。」

この発言からは、当然「悟達」などあるわけが無いと断定されてる訳ですね?
ならばその証明はできますか?きっとできないでしょう。
ならば、「無かった」ではなく、「無かった可能性もある」との表現にされては如何ですか?
頭から決め付けてしまうってのは良くないでしょう。笑

>本人が悟達したと言ったわけではなく、悟達した証拠もない
戸田氏の「悟達」をさしてるのでは?と思わせる文献結構ありますよ。後で記載します。

ところで、思わず噴出してしまったのですが、「悟達」した証拠って何でしょうか?
歴史上、「悟達」に対して証拠(誰にも疑いようが無いもの)を提示した人間(仏)など、
存在した事実はあるのでしょうか? 爆 

>戸田さんが悟達したというのであれば、戸田さんは仏であることになります。
学会の見解を知らない犀角独歩さんではないでしょう。笑 
そもそも学会の教学では皆最初から仏だし・・。
過去レスも見てましたよ。ただ、本覚思想や凡夫本仏論の話は本題から外れますのでスルーします。

>創価学会は、戸田さんの獄中の悟達という表現を「一切衆生に仏性があるということを実感したことの、
>一つの表現」「戸田第2代会長の“獄中の自覚と決意”」(創価学会発行:特別学習会テキスト
>「教学上の基本問題について」(6・30)P22)と訂正した点を、どうして、
>隠匿するのでしょうか。
大石ノ寺辺りからクレームでも入ったのではないでしょうかね? 私にはわかりません。
ちなみに、「隠遁」したと表現されてますが、隠遁したとは思えませんがね。
その証拠に池田氏の「法華経の智慧」に、獄中悟達の意義を説明してます。

「一言で言えば、戸田先生の悟達は、創価学会こそ日蓮大聖人の仏法の継承者であることを
明らかにした、記念すべき瞬間です。」

「隠遁」どころか、声を大にして「悟達」が存在していたことを宣言してますよ。

184常連:2006/08/12(土) 15:46:14
>それを証明されなければならないとは、語るに落ちるところであると思います。
あはははっ!決め付けはおよしなさいって・・・。

私が一貫して申しているのは、「●●に書いてあるのは偽者」と断定するなら、
その根拠や証拠を出して論ずるべきである!と言っているのですよ。
推測で悪口だけなんていう姿勢は愚の骨頂でしょう。
犀角独歩さんが一番嫌う姿勢だったのではなかったのでしょうか?

>創価学会の内部資料すらも精読していないうえでのことであろうと拝察します。
・・・はぁ。学会憎けりゃ○○まで憎いって感じを受けてしまいますが? 遠目

以前のレスで、

「戸田氏の資料を上げ、当初、このような“事実”があったことが記されていなかった点を論証」

「獄中の悟達」に関する文書は結構存在してるようですね。

戸田城聖著『人間革命』
「仏とは生命なんだ!生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。
いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!」

戸田城聖獄中書簡『昭和十九年二月八日に夫人に宛てた手紙』
「一月十日ニ非常ナ霊感ニ打タレ、ソレカラ非常ニ丈夫ニナリ肥リ、暖カクナリ、
心身ノ『タンレン』ニナリマシタ。立派ナ身体ト心トヲ持ッテ帰リマス」

戸田城聖獄中書簡『昭和二十年九月の妹の主人宛の書簡』
 「K雄さん、城聖は(城外改め)三日の夜拘置所を出所しました。思えば、三年以来、
恩師牧口先生のお伴をして、法華経の難に連らなり、独房に修業すること、
言語に絶する苦労を経てまいりました。おかげをもちまして、身『法華経を読む』という境涯を
体験し、仏教典の深奥をさぐり遂に仏を見、法を知り、現代科学と日蓮聖者の発見せる法の奥義とが相一致し、
日本を救い、東洋を救う一大秘策を体得いたしました。」

戸田城聖監修・教学部編纂『折伏教典』
「唱題の数が二百万遍になんなんとする時に、私は非常に不思議なことにつき当り、
未だかつて、はかり知り得なかつた境地が眼前に展開した。喜びに打ち震えつつ、
一人独房の中に立つて、三世十方の仏・菩薩・一切の衆生に向つて、かく叫んだのである。
遅るること五年にして惑わず先き立つこと五年にして天命を知りたり、と。
かかる体験から私は今、法華経の生命観に立つて、生命の本質について述べたいと思うのである。」

以上の事からもわかるとおり、戸田氏が「悟達は合った」と明確に述べてます。
少なくとも、『小説 人間革命』で、初めて創作された物語ではない事だけは確かでしょう。

185犀角独歩:2006/08/13(日) 08:16:18

常連さん

あなたは、

> …そもそも書かれている内容に異を唱えるのであるなら、その貴殿の主張を証明する義務があります。

何に異を唱えているわけでしょうか。
小説の記述は小説であり、たかだか小説であると言っているわけです。

> この発言からは、当然「悟達」などあるわけが無いと断定されてる訳ですね?

いや、これはわたしが断定したのではなく、創価学会がそのように公式に発表したと言っているわけです。

> …「無かった可能性もある」との表現にされては如何ですか?
頭から決め付けてしまうってのは良くないでしょう。笑

これも上述の同様の答えになりますが、創価学会がそのように訂正したわけですから、では、創価学会にそのように訊いたら如何ですか。

> …歴史上、「悟達」に対して証拠(誰にも疑いようが無いもの)を提示した人間(仏)など、
存在した事実はあるのでしょうか? 爆

別段、笑だ、爆だと付す必要はありません。
そんな人はいないでしょうね。
ですから、となれば、戸田さんが悟達したとも言えないわけでしょう。

>学会の見解を知らない犀角独歩さんではないでしょう。笑

ですから、笑う必要などありませんよ。
学会の教学に関しては、50年来見てきたことですから、よく存じ上げております。

> そもそも学会の教学では皆最初から仏だし・・。

そうですか。どこにそのようなことが書いてあるんですか。
また、もともと、仏であれば、悟達など、必要ないのではないでしょうか。
> 大石ノ寺辺りからクレームでも入ったのではないでしょうかね? 私にはわかりません。

そうでしょうね。ここらへんのことがわからず、知らない故の投稿でしょう。

> その証拠に池田氏の「法華経の智慧」に、獄中悟達の意義を説明してます。

そう。ここなんですよ、ポイントは。
時系列で追いましょう。当初、『人間革命』では、戸田さんが悟達したと記しました。そのあと、それを“獄中の自覚と決意”と訂正しました。ところが、そのあとに出版された『法華経の智慧』では、また、悟達に戻ってしまっているわけです。つまり、いうことがコロコロ変わっているわけです。
このようにコロコロ変わってしまう体質に、問題があるわけです。
わたしは、学生時代に「戸田先生は獄中で悟達したと創価学会で習いました。ところが、その後、「あれが悟達ではなく、自覚と決意なのだ」と創価学会の特別学習会で訂正されるわけです。心中、「何で言うことが変わるんだ?」と思ったのが30年前の話です。ところが、さらに30年経つと、また、池田さんの対談集では、あなたが引用されるような内容になっています。いうことが二転三転するわけです。これは問題でしょう。「佛教は普遍的でなければならない」からです。

186犀角独歩:2006/08/13(日) 08:18:21

―185からつづく―

また「大石ノ寺」からクレームをつけられれば、言うことをコロコロ変えるという体質にもまた問題があるでしょう。

> 池田氏…声を大にして「悟達」が存在していたことを宣言してますよ。

これは、あなたはわたしの質問をすり替えているでしょう。
わたしは「戸田氏自身が記述した虚空会の儀式に連なった体験談を、ここに挙げれば事足ります。お願いいたします。」とあたたに問うたのです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1067405428/176

それにも拘わらず、池田さんの言を持って来ていますね。

> 「●●に書いてあるのは偽者」と断定するなら、
その根拠や証拠を出して論ずるべきである!と言っているのですよ。

ですから、創価学会の公式見解、訂正文の挙げているではないですか。
創価学会は正式に「獄中の自覚と決意」を発表しています。

> 推測で悪口だけなんていう姿勢は愚の骨頂でしょう。

以上のように、正式に創価学会の公式発表を挙げているわけですから、推測でも、悪口でもないでしょう。

> 犀角独歩さんが一番嫌う姿勢だったのではなかったのでしょうか?

ええ、ですから、創価学会の正式発表を挙げています。

> ・・・はぁ。学会憎けりゃ○○まで憎いって感じを受けてしまいますが?
別段、創価学会を憎いなどと思っていませんが、それはあなたの誤解と誤認です。

> 戸田城聖著…思うのである。」…戸田氏が「悟達は合った」と明確に述べてます。

あなたが引用した文章のどこに悟達とありますか。嘘をついてはいけません。体得、体験をした記しているのに過ぎないでしょう。
体得、体験を、どうして、悟達といえますか。

> 『小説 人間革命』で、初めて創作された物語ではない事だけは確か

何が確かですか。ここでもまた、すり替えていますね。
あなたの資料を並べてみればわかります。戸田さんは、体得・体験と記しているのです。それが池田さんの手にかかると「悟達」となっています。
あなたが挙げた資料を見れば、悟達と言い出したのは、池田さんであることこそ、「確か」であると言えますね。

そうではないというのであれば、戸田さん自身が「悟達した」と記した文献資料を挙げればよいわけです。体得・体験を語ったものではなく、「悟達」をです。挙げてください。
まあ、あなたの投稿は歓迎です。投稿されればされるほど、戸田さん自身が「悟達」を口にしていないことが明確になりますから。

187犀角独歩:2006/08/13(日) 09:33:23

一点、補足します。

> 私が一貫して申しているのは、「●●に書いてあるのは偽者」と断定するなら、
その根拠や証拠を出して論ずるべきである!と言っているのですよ。

この点が、ここのところの遣り取り(議論などという代物ではありませんが)の常連さんの主張のようなので、この点を述べておきます。

戸田さんの「獄中の悟達」ということは、小説上の記述である、とわたしは書いているのであって、「『●●に書いてあるのは偽者』と断定」などまったくしておりません。途中から、ロムした方からすると、あたかもわたしが偽物と断定する投稿をしてきたかのような印象を与えることとなりますので、遺憾の意を表することといたします。
わたしはあくまで、戸田さんの「獄中の悟達」は、小説の記述、小説を小説であると言っているのに過ぎません。

次に「根拠と証拠」という点ですが、根拠については、概ね、わたしは二つ挙げております。

(1) 戸田さん本人の「悟達した」という発言(発刊物、レコード)は資料を調査した結果見あたらない、故に戸田さん自身は悟達したとは言っていない。戸田さんの悟達は小説のうえで池田さんの著作とされる『人間革命』で記述された物語なので、これを事実のように扱うことはおかしなことである。

(2) 創価学会は、『人間革命』の「獄中の悟達」を「獄中の自覚と決意」と公式訂正を行っている。

以上のように、明確に根拠を挙げました。

次に「証拠」ということですが、本人悟達とも言っていないことで、小説の記述に過ぎないことに対して、「悟達していない証拠を挙げよ」という挙証要求は、そもそも意味を持たないと、わたしは記しているわけです。

たとえば、『ピーターパン』という物語がありますが、その中に登場するティンカーベルがいないというのであれば、いない証拠を挙げろというようなものです。このようなことはそもそも挙証議論の対象となりません。

つまり、常連さんは小説上の記述に過ぎない物語を、あたかも事実であるとしたうえで、それがないというのであれば証拠を挙げろと言う空理空論を議論にしようとしています。このような挙証は出来酔うはずはありません。なぜならば、それは戸田さん自身も自認しなかった小説上の物語に過ぎないからです。常連さんは、現実と空想、実際と小説の区別がつかない状態にあるとお見受けします。しかし、このような常連さんの信念は、創価学会が小説の記述を恰も事実のように指導してきた過去の経緯によるものであり、同情の余地はあります。また、記したとおり、創価学会は、曾て、戸田さんは悟達したといい、その後、それを自覚と決意と訂正したものの、近日になって、また、悟達と言い出すという一貫性のなさ、小説を恰も事実のように指導する、会組織の体質は、大いに問題視されてしかるべきことであると指摘せざるを得ません。「嘘を100遍繰り返せば本当になる」というのが、本当に池田さんの言葉であるかどうか知りませんが、嘘は100遍繰り返しても嘘です。小説は、どんなにまことしやかに語られたとしても小説です。

今回の、ひきこもりさんも含めた遣り取りは、小説を恰も事実のように語る、また、自分たちの“解釈”をあたかも日蓮その人の“教義”のように語り、会員を煽動する会の運営の在り方も大いに関連することであり、そのような集団と指導者の在り方はまた、当掲示板であつかってきた、日蓮本仏論、彫刻信仰とも大いに関連するものである点は看過できません。

188常連:2006/08/14(月) 15:47:20
独歩さん、

>何に異を唱えているわけでしょうか。
>小説の記述は小説であり、たかだか小説であると言っているわけです。
あれれ?独歩さんの主張は「悟達は無かった」との主張ではなかったのですか?
ところが小説には「悟達はあった」と書かれてるのですから、
記載されている内容に異を唱えていると申したのです。ご理解いただけますか?

>創価学会がそのように公式に発表したと言っているわけです。
それでは貴方の主張は学会の見解通りと言うスタンスなのですか?違うでしょう。
はっきり申してください。貴方は「悟達は無かった」との主張ではないですか?

あると書いてある文に対して、無いというのであれば、証拠を提示すべきと
申しているだけでっせ。汗

>創価学会がそのように訂正したわけですから、では、
>創価学会にそのように訊いたら如何ですか。
いえ、文をそのまま読めば、「訂正」、「隠匿」と言う貴方の表現に疑問を感じます。
ちなみに、独歩さんの言う学会の見解は以下の通りです。

「一切衆生に仏性があるということを実感したことの、一つの表現」

この「実感」の部分を受け手がどう取るかによって、意味合いが変わって来ますよ。

― 実感 ―

[1] 実際に物事に直面したとき受ける感じ。
[2] 実際に感じている心底からの感情。

この「実感」を、戸田氏の「人間革命」に記述される不可思議な体験と重ねて考えてみると、
「実感したことの一つの表現」には、学会が言う所の「悟達」を前提にしてるのは明らかでしょう。

もう一度引用します。

戸田城聖著『人間革命』(獄中での不思議な体験のシーンより)
「仏とは生命なんだ!生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。
いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!」

つまり、「(悟達によって)実感したことの一つの表現」

このように読めば、現在の学会関連の書籍に記載されている通り、
戸田氏は独房において「悟達」を得たと言う主張は何ら編纂を遂げているとは思えませんな。

189常連:2006/08/14(月) 16:18:09
>そんな人はいないでしょうね。
>ですから、となれば、戸田さんが悟達したとも言えないわけでしょう。
そうです。その表現なら問題ないんです。

ただ、それを言ってしまえば『釈尊』ですら「悟達」したとも言えないわけですがね・・・汗

本来の私の主張に戻ります。
私がずっと申しているのは一点です。
文献(今回は小説)に記載されている内容に異を唱えるのであれば、
誰人にも納得できうる証拠を出すべきと申しているのです。
それが出せずに、一方的な決め付けを連呼するだけでは決して事の真贋をはかれないでしょう。

何事も証拠です。証拠がないのであれば、

「私はこの様に思っている」、「人革にはこのように記載されているが事実と異なるかも知れない」

との表現にすべきです。

ですので、「戸田さんが悟達したとも言えないわけでしょう」との言い方は好感を覚えます。

>そうですか。どこにそのようなことが書いてあるんですか。
>また、もともと、仏であれば、悟達など、必要ないのではないでしょうか。
「私の釈尊感」、「法華経の智慧」、「大白蓮華」、「私の仏教感」参照。枚挙に暇がないでっせ。
あ、教義の編纂云々、凡夫本仏論はスレの内容とは性質が異なりますので書きませんぜ。

>つまり、いうことがコロコロ変わっているわけです。
教義的な編纂はスレの内容とは性質が異なりますので書きませんぜ。

ただ当時の状況ですが、大多数の学会員は当然「悟達はあった」と思っているようです。
また、現在の公式見解でも明確に「悟達はあった」としています。「隠匿」はなされてません。

>「佛教は普遍的でなければならない」からです。
そんな佛教って実際に存在してると思いますか?まあ、スレのの内容とは性質が異なる話ですね。

>偽物と断定する投稿をしてきたかのような印象を与えることとなりますので、
>遺憾の意を表することといたします。

下記の内容から、記載内容に異を唱えておられるのかと感じてました。

>『人間革命』という小説が、事実だと思いこんでいるのでしょうね。これは物語(創作)ですよ。
(「悟達」の部分)事実だと思っているのでは?と聞いて、これは創作だと主張されていませんか?

>無かった証明などあったものではないでしょう。
(「悟達」の部分)無かったと明言されているのではないですか?

>ありもしないもの(無)をある(有)と証明できるはずはありません。
(「悟達」の部分)ありもしないものと断定されているのではないですか?

そもそも、「私は創作だと思っている」と言う程度の表現なら問題提起しません。

ご理解頂ければ幸甚です。

190犀角独歩:2006/08/14(月) 17:33:07

189 常連さん

>…『釈尊』ですら「悟達」したとも言えないわけ

この点は、要するに悟達という言葉の解釈に基づくのでしょうね。
何が釈尊の真説か、という点が明確に出来限り、正確に論じることは出来ないでしょう。ただ、はっきりと言えることは、創価学会でいうような悟達を釈尊が得た証拠はもちろんないでしょう。

> 文献(今回は小説)に記載されている内容に異を唱えるのであれば、
誰人にも納得できうる証拠を出すべきと申しているのです。

これは当然のことでしょう。しかし、たかだか小説には、こんな挙証は馴染まないと言っているわけです。小説は小説です。また、戸田さんの文献のなかにも、「悟達」とはまったく記されていないわけですから、悟達の証拠はないわけです。なかなか、わかったことを記されるではないですか。

> …一方的な決め付けを連呼するだけでは決して事の真贋をはかれないでしょう。

誰が一方的に連呼しているのでしょうか。池田さんですか。たしかに池田さんが、戸田さんが悟達したと一方的に連呼したところで、殊の真贋は諮れないでしょうね。モチーフにした戸田さんの資料では体得、体験としか言っていないわけですから、とても悟達が真であるとは思えないわけです。

> 何事も証拠です

そうですね。ですから、戸田さんが悟達した証拠もなく、悟達したと言い切ってしまう池田さんは、あなたの言うように批判されて然るべきですね。


> …表現にすべきです。

そうは思いません。悟達した証拠がないうえ、証拠がないことから小説に記述されたことである以上、悟達というのは、体得、体験に基づく、自覚と決意であったという判断は実に至当であると考えます。
寧ろ、反対に証拠もないのに、悟達した言い切ってしまう池田さんの姿勢は、あなたの論法から言えば、実に問題があることがわかります。

ですので、「戸田さんが悟達したとも言えないわけでしょう」との言い方は好感を覚えます。

>…「私の釈尊感」、「法華経の智慧」、「大白蓮華」、「私の仏教感」参照。枚挙に暇がないでっせ。

どうぞ、具体的に挙げてください。
他のロムの方も参考になるでしょう。

> ただ当時の状況ですが、大多数の学会員は当然「悟達はあった」と思っているようです。

そうですよ。ですから、それを「自覚と決意」と言い換えたとき、前言が覆されたわけでしょう。

191犀角独歩:2006/08/14(月) 17:33:42

―190からつづく―

> 現在の公式見解でも明確に「悟達はあった」

具体的に挙げてください。

> 「隠匿」はなされてません。

話をすり替えていけません。隠匿しているのは、獄中の悟達を「獄中の自覚と決意」と訂正した特別学習会の内容です。あなたも「わからない」というほどですから、隠匿されているのではないですか。何故、あなたは、この点を避けてレスをしているのでしょうか。

>「佛教は普遍的でなければならない」からです。
> そんな佛教って実際に存在してると思いますか?まあ、スレのの内容とは性質が異なる話ですね。

はて、わたしが「」で括ったのは、創価学会の言い分ではありませんでしたか。

>『人間革命』…(「悟達」の部分)事実だと思っているのでは?と聞いて、これは創作だと主張されていませんか?

たしかにそのとおりです。戸田さんの文献で、その事実が確認できず、池田さんの発言とされる文献でしか、それが確認できなければ、当然、そのように結論せざるを得ません。

>そもそも、「私は創作だと思っている」と言う程度の表現なら問題提起しません。

小説は小説です。さらに戸田さんが悟達したと自ら示す文献がない以上、創作と言うほかありません。
あなたに対して、戸田さんが自ら「悟達した」と宣言する文献証拠の提示を求めていますが、結局、あなたは、その点を答えることが出来ません。つまり、そのこと自体が、「獄中の悟達」が創作であることを物語っています。故に創価学会も、その点を突かれて、「獄中の自覚と決意」と訂正したのでしょう。

> ご理解頂ければ幸甚です。

以上、内容、あなたこそ、ご理解いただき、何度となく、促しているとおり、戸田さんの文献証拠を挙げてください。挙げられないのであれば、よろしく創作であることを、ご理解ください。

わたしからすれば、戸田さん自身が自ら「悟達した」とする文献が、あなたが提示できない段階で、この議論は畢わったものと思います。
この証拠を出さず、同一内容を繰り返し投稿することは、規約にある

「4 無意味な多重投稿・反復投稿を禁止します。同じ文章の連続投稿、或いは、文章は同一でなくとも内容的に同じことを繰り返し投稿された場合は削除致します。なお、根拠を示せないとか、すでに論理が破綻しているとかにもかかわらず、臆面もなく投稿し続けられた場合は、無意味な多重投稿・反復投稿とみなし、削除致します。」

に該当すると思います。

お手数ですが、管理者さんにはおかせられては、挙証に係る促しをいただき、その証拠を示されない場合は、斯かるべきジャッジをお願い申し上げるものです。

192常連:2006/08/14(月) 19:43:11
独歩さん、

>この点は、要するに悟達という言葉の解釈に基づくのでしょうね。
解釈の意味では無く、有無の話です。下記は同様の使い方です。

戸田氏に「悟達」があった証拠は無い。あった証拠も無い。
釈 尊に「悟達」があった証拠は無い。あった証拠も無い。

内容では無く有無を論じたまでです。

>たしかに池田さんが、戸田さんが悟達したと一方的に連呼
これこそ「解釈」の違いではないでしょうか?

戸田氏自身が下記を述べているのです。それを池田氏の言葉で言えば、
「悟達」と表現されているのですが、それを問題視するか否かの話でしょう。
(ここではじめて解釈の定義になるのでは?)

つまり、下記の戸田氏自身の文を「悟達」と取るか、「自覚」、「決意」と取るかは解釈です。
下記の文は当然「悟達」と表現されても問題ないのではないかと思ってますが・・・。

『獄中書簡』
「K雄さん、城聖(城外改め)三日の夜拘置所を出所しました。思えば、
三年以来、恩師牧口先生のお伴をして、法華経の難に連らなり、独房に修業すること、
言語に絶する苦労を経てまいりました。おかげをもちまして、身『法華経を読む』という境涯を体験し、
仏教典の深奥をさぐり遂に仏を見、法を知り、現代科学と日蓮聖者の発見せる法の奥義とが相一致し、
日本を救い、東洋を救う一代秘策を体得いたしました。」

●身で法華経を読む境涯を体得。仏を見た。法を知った。化学と日蓮の発見した奥義とが一致した。
⇒(真偽の程は別にして)、これを「悟達」と表現する事に抵抗を感じるのですか?
⇒これを「決意」と解釈する方が違和感を感じまっせ。

また、池田氏が吹聴してると仰ってますがね、戸田氏自身が「人間革命」の中で当時の様子を書いてる。
池田氏がその状況を「悟達」と表現しているが、池田氏の「人間革命」ではじめて創作された訳ではない。

193常連:2006/08/14(月) 19:43:39
『人間革命』(戸田氏著)
「彼はただ仏の実体を汲取ろうとして思索に入り、応身の説は略分かるような気がしたが、
無量義経で説かれている法身、報身の説は、いくら思索を重ねても頷けない。
思索を打切って題目を唱えだした声が独房に響き渡り、それが消えると、彼は死物狂いの思索に入っている。
『仏とは生命なんだ!』
巌さんが机の前で叫んだ時、凍った海底のように、寒さを湛えてシン! 
となっていた部屋に、強く両手を打ち合わせた音がぱあん! と響いた。
『仏とは、生命の表現なんだ! 外にあるものではなく、自分の命にあるものだ! いや、外にもある! 
それは宇宙生命の一実体なんだ!』
巌さんは独り叫びつづける。紅い血が頬に躍っており、眼鏡の底の眼が妖しいまでに輝いている。
『仏とは生命なんだ!』
巌さんは椅子を立って大きく呼吸をした。」(中略)

「巌さんはこの大衆の中の一人であって、永遠の昔の法華経の会座に連なっているのであり、
大聖人が三大秘法抄で仰せられている、『此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに
教主大覚世尊より口決相承せしなり……』というお言葉が、彼の胸へ彫り込まれてでもいたように、この時、
ありありと浮出してきた。 これは、嘘ではない! 自分は、今、ここにいるんだ! 彼は叫ぼうとした時、
独房の椅子の上に坐っており、朝日は清らかに輝いていた。 巌さんは一瞬茫然となったが、
歓喜の波がひたひたと寄せてきて、全身は揉まれ、痺れるような喜びが胸へ衝上げてきて、
両眼から涙が溢れだし、袂を探ってハンカチを取出して、眼鏡を外して押さえても、
堰を切ったように涙が湧いてとめどがなく、彼は肩を震わせて泣きつづけた。しばらくして、
巌さんは椅子を立って題目を高々と唱えだした。
 『南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……』
題目を唱え終わった刹那、彼の胸の内に叫び声が起こった。
(おお! おれは地涌の菩薩ぞ! 日蓮大聖人が口決相承を受けられた場所に、光栄にも立会ったのだぞ!)
巌さんは眼鏡の底の眼を大きく見開き、歓喜に戦く胸を抱き締めて独房の中を歩き廻っていたが、やがて机へ帰って、
法華経を開き、従地涌出品を読みなおし、寿量品を読み、嘱累品を読みなおした。 (ほう!)
彼は眼鏡の内で幾度となく瞬いたが、今、眼の前に見る法華経は、昨日まで汗を絞っても解けなかった難解の法華経なのに、
手の内に玉を見るように易々と読め、的確に意味が汲取れる。それは遠い昔に教わった法華経が憶い出されてきたような、
不思議さを覚えながらも感謝の想いで胸がいっぱいになった。
(よし! ぼくの一生は決まった! この尊い法華経を流布して、生涯を終わるのだ)」

194常連:2006/08/14(月) 19:44:09
●確かに、戸田氏の生前の文章には「悟達」と言う感じ二文字は残ってません。でも、意味としては合う気がしますな。
要は、この不可思議な戸田氏の体験を持って、「悟達」と表現するのが適当か否かって事ですな。
ま、これは読者の判断に委ねられるという所でいいんじゃないですかね?

>どうぞ、具体的に挙げてください。
>他のロムの方も参考になるでしょう。
今度にしましょうぜ。長文は疲れるし。本題とは外れるし・・・。

>具体的に挙げてください。
知らないわけではないでしょうね。
創価ネットから。
http://www.sokagakkai.or.jp/cgi-bin/Seikyou/print.cgi?key=0060_1037600269.html&template=template_imode_view&directory=/sokanet/Seikyo/Shinkaiin/05/

>あなたは、この点を避けてレスをしているのでしょうか。
勘違いされては困りますね。私にとって「悟達」の真偽はどうでもいいのです。
反論するなら証拠を出すべきと主張しているだけです。
そもそも証拠も無いのにあれは創作だとか言うのは愚の骨頂と申しています。

ちなみにその学習会ですが、いつ、どこで、誰が講師をしたのでしょうか?
その講師がそのように説明をされたのでしょうか?「悟達は無かった!」と明言されたのですかね?
大石ノ寺との問題はここには記しませんが、表現は変わったとしても、
学会員が「悟達は無かった!」と主張するなんてとても信じられません。

>はて、わたしが「」で括ったのは、創価学会の言い分ではありませんでしたか。
あれ?そうなのですか?失礼致しましたん。

>たしかにそのとおりです。(略)それが確認できなければ、当然、そのように結論せざるを得ません。
あらら・・・下記の発言とは大いに矛盾してるようですがね・・・

>戸田さんの「獄中の悟達」ということは、小説上の記述である、とわたしは書いているのであって、
>「『●●に書いてあるのは偽者』と断定」などまったくしておりません。途中から、ロムした方からすると、
>あたかもわたしが偽物と断定する投稿をしてきたかのような印象を与えることとなりますので、
>遺憾の意を表することといたします。
「まったくしておりません」は嘘だったのですか?
「あたかも私が偽者と断定する投稿をしてきたかのような」とありますが、そう結論されたのは貴方!

>連さんは小説上の記述に過ぎない物語を、あたかも事実であるとしたうえで、
>それがないというのであれば証拠を挙げろと言う空理空論を議論にしようとしています。
イエイエ。何度も言っているように決め付けは止めましょう。

私の主張をもう一度(疲れますが)申し上げます。

1.「悟達」の有無に関する真偽の程はわかりません。(悟達は事実であるとは言ってませんね?)
2.しかしながら戸田氏の文には「悟達」と表現しても問題ない文が存在します。(多数)
3.何らかの論(表記)を否定するなら決め付けではなく、証拠を出すべきだと申してます。
4.表現を「●●は事実と相違する可能性がある」とするのであれば問題はないのです。
  (頭ごなしに決め付けるのは問題だと言っているのです)

それだけですよ!それだけ!
もう一度言いますよ。「何かを否定するなら、頭ごなしでなく証拠を出して否定してね」と言ってるのです。

195独学徒:2006/08/14(月) 19:56:24

横レスにて失礼したします。

特別学習会のテキストは、以下に全文出ています。

http://norimaki.faithweb.com/shiryou.htm

なお、このテキストは、私も原本を所持していますので、HP冨士教学研究会のメールアドレスより、お問い合わせいただければ、何らかのお役に立てるかと存じます。

196独学徒:2006/08/14(月) 19:58:36

また打ち間違えました。
失礼しました。

誤⇒横レスにて失礼したします。
正⇒横レスにて失礼致します。

197常連:2006/08/14(月) 19:59:32
>常連さんは、現実と空想、実際と小説の区別がつかない状態にあるとお見受けします。
おいおい!これは大分失礼な表現だぞ。私の何をしってるのかな?
精神病者扱いですか?困ったお人だ。個人の名誉毀損に抵触する内容かと思いますがね・・。

>同情の余地はあります。
おいおい・・・・ 汗

>「嘘を100遍繰り返せば本当になる」というのが、本当に池田さんの言葉であるかどうか知りません
そう、そう。^^ こう言う表現が大事なのです。少しは分かってくれたのでしょうかね?

本当かどうか分からないのに憶測、伝聞だけで断定してしまうのは公共の掲示板故に問題だと感じてます。

>戸田さんの文献証拠を挙げてください
え? 随分あげたつもりですがね。貴方の意見に異を唱える人間の主張ですから、
提示した証拠に納得しがたい事情は分かりますがね・・・。
でもね、戸田氏の文章を見ると「悟達」を顕しているでしょう?
あれを池田氏がそう解釈するのは自然と思うのですけどね・・・。

ちなみに私は、貴方が提示した資料は納得出来ません・・・。
明確に学会が「悟達は無かった」とは読み取れない類の物だからです。
フェアにいきましょう。私はいくつかの証拠を提示しましたね?(貴方が納得する云々は別にして)
貴方の論を明確に立証して下さい。

>斯かるべきジャッジをお願い申し上げるものです。
今度は管理人さんですか?
ちょっと厳しい口調で申しますよ。

貴方子供じゃないんでしょう?

はじめに小説がありました。その内容からディベートがはじまりましたね。
で、貴方は、「自分は事実ではない等とは言っていない」と私に言われた。
にもかかわらず今度は「事実でないと結論する」と意見が編纂する。
証拠を出している私のレスには納得が出来ないと一蹴して、
自分は私を納得させる証拠を提示しない。
おまけに他人を精神病呼ばわりして、今度は管理人さんに判断を委ねる?

そんな子供の様な姿勢、やり方は勘弁してください。今までの功績が無きまっせ。

198常連:2006/08/14(月) 20:07:05
独学徒さん、ありがとうございます。

199犀角独歩:2006/08/14(月) 20:07:07

常連さん

詳しいレスは、後にしますが、

> 貴方子供じゃないんでしょう?

少しは礼儀をわきまえなさい。
非常識にもほどがあります。

管理者さん、この投稿は、度を超えています。
削除を求めます。

200犀角独歩:2006/08/14(月) 20:25:00

常連さん

まさか、あなた、この創価学会発行の小冊子を手にもせず、この遣り取りに参加しているわけではないでしょうね。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/tokubetugakushukaitxt.html

201犀角独歩:2006/08/14(月) 20:42:27

もう一つ、弁明しておかなければいけませんね。

小説は、事実を忠実に記述した文献でもないにも拘わらず、それを同一に扱う常連さんの文章は、「実際と小説の区別がつかない状態」で記されていると指摘しました。

それは何度となく記したとおり、戸田さんの悟達は池田さんの創作であり、戸田さんの文献にも当たれないにも拘わらず、小説を恰も事実にように扱って、挙証を求めたからです。

小説の記述が、事実であるとすれば、まず、戸田さんの実際に記した文献証拠を提示しなければなりません。それを、常連さんがなさない故に小説(創作)と事実と区別がつかないと指摘しました。

ちなみに、戸田さんが、「わたしは悟達した」、また、池田さんが「戸田先生は悟達した」と記したところで、悟達したとは言えません。

例を引けば、麻原が自らを最終解脱者とし、オウム信者がそれを認めたところで、彼が最終解脱者ではないのと、同様です。

ちなみに戸田さんが悟ったという生命の諸相は、どうやら、『折伏教典』の記述の如くのようですが、正直、良識、まとまな精神状態なのかという疑念を懐かざるを得ません。

「即ち地球は『親生命』であり人類、獣類、植物類等々は『この生命』である。
 さらに太陽系という大きな組織が又一つの生命でありこの親生命の中に『子生命』たる、地球、金星、木星、火星、太陽等が混然として、生命活動を続け、『親生命』も『子生命』も各々独自の心法(心の働き)をもって居るのである。
 この関係は更に太陽系を子供とし銀河系が親として居り、銀河系を子とし大宇宙を親としてきわめて高度な何万次元とも知れぬ高次元の生命を構成し、これが宇宙生命の真実の相、即ち実相である。そしてこの高次元世界が其の実たゞ一つももので高次元即単一、単一即高次元である処に生命宇宙の面白さ不可思議性がある」(P52)

創価学会、たぶん、戸田さんは夢でも見ているのでしょうか。
これが悟達した生命論とかいうもので、はて、現代人は、どのように見るか、会員は、少し真面目に考えたほうがよろしいでしょう。

このような資料を知らず、創価学会の過去を語ることは、勉強不足と言うほかありません。もっとも特別学習会に就き、だれが講師などといっているようでは、その知識の度合いもわかろうというものです。

この学習会のあと、池田さんは第3代会長の辞任をせざるを得なかったという歴史すら知らないのでしょう。現代の創価学会の会員操作の実態の実証を見る思いがするものです。

202常連:2006/08/15(火) 01:35:33
>少しは礼儀をわきまえなさい。
>非常識にもほどがあります。
意見を編纂させた貴方の態度、また、知りもしない癖に他人である私を
精神病患者呼ばわりする書き込み。先ずは己自身の態度を省みるべきでしょう。
自分は良くって他人の反論を許せないと言うのでは子供の所作です。

>創価学会発行の小冊子を手にもせず、この遣り取りに参加しているわけではないでしょうね。
後ほど細かい反論はさせて頂きますが、内容は確認してますってば・・汗

>戸田さんの悟達は池田さんの創作であり、戸田さんの文献にも当たれないにも拘わらず、
>小説を恰も事実にように扱って、挙証を求めたからです。
弁明になってませんよ。あの戸田氏の不思議な体験を「悟達」と判断するかどうかの妥当性については、
まだ何ら論じてないではないですか!貴方何を言ってるのですか?
自分の見識だけでそれを常識的判断と断ずる姿勢にはあいた口が塞がりません。

戸田氏の文献は嫌と言う程提示してまっせ・・・汗

そもそも、「事実のように扱って」と言う発想がおかしい。
最初から私は「事の真偽はわからない」と書いてるでしょうが!
ちゃんとレス読んでますか?

同調しろなんて言ってませんが、せめてまともに反論できるよう、
内容は理解してくださいな。苦笑

もう一度言いますよ。事の真偽(悟達の有無)は分かりませんが、
小説『人間革命』にはそれがあったと書かれている。そして、貴方がそれは実際にはなかったとするなら、
きちんと証拠をもって反論すべきだ!適当な憶測、思い込みで判断するべきではない!そう言っているのでっせ。

203常連:2006/08/15(火) 01:35:56
>小説の記述が、事実であるとすれば、まず、戸田さんの実際に記した文献証拠を提示しなければなりません。
だから、該当する証拠をいくつもあげてますが・・・。
貴方がただ納得できないのでしょう? それではお聞きしますが法華経の悟りって何でしょうか?

もう一度戸田氏自身の言葉を要約しまっせ。(これは私の見解では無く、戸田氏の文でっせ)

「身で法華経を読む境涯を体得。仏を見た。法を知った。化学と日蓮の発見した奥義とが一致した。」

これは悟りにはならないのでしょうか?
ここまで言うのであれば正解をお持ちなんでしょう?貴方にお聞きします。
これ以外に法華経を悟る場合、どんな事を覚知すればよろしいのですか?
証拠を挙げて論じてくださいね。

>常連さんがなさない故に小説(創作)と事実と区別がつかないと指摘しました。
んんん?最初から悟りの有無の真偽については触れてません。
一貫していっているのは、論を否定するなら証拠を挙げて批判せよ!です。
貴方の論には証拠が無い。挙げていただいた文では納得がいきません。

そもそも、私に「悟達があった」と言う明確な文献を提示しろとおっしゃる。
そして、私の提示した「意」において「悟達」の証拠を一蹴されるのであれば、
貴方がまず「悟達などなかった」との明確な証拠を提示するべきでしょう?
また、意において、それが無かったと納得するものでもかまいません。

貴方の提示した資料は、文においても意に置いても、到底納得できる代物ではありませんよ!

>戸田さんが、「わたしは悟達した」、また、池田さんが「戸田先生は悟達した」と記したところで、
>悟達したとは言えません。
少なくとも、戸田氏が悟達を得ていたと思っていたのであれば、『人間革命』の記述は貴方が言うように、
池田氏の創作ではなくなってしまいますが、それでもいいのですか?

そもそも、「悟達」したか否かの判断は誰がするのですか?
冒頭にも述べましたが、貴方のこの論調はすべてに通じます。釈尊は悟りを得たのですか?
後世の弟子が悟りを得たと記したところで悟達したとは言えませんね。

>正直、良識、まとまな精神状態なのかという疑念を懐かざるを得ません。
あらら・・・私を精神病患者扱いして、今度は戸田氏が異常というのですか。汗
何の証拠もなしに、断定して反対意見を聞かない貴殿にもそれはいえますなぁ。はぁ。

>だれが講師などといっているようでは、その知識の度合いもわかろうというものです。
あはははは 自分の質問には答えよと迫るくせに、他人の質問にはこたえないのですなぁ。
素晴らしい姿勢だ。

>池田さんは第3代会長の辞任をせざるを得なかったという歴史すら知らないのでしょう。
何でそう決め付けたがるのですか?いつもいつも・・・。不思議でしょうがない。

>現代の創価学会の会員操作の実態の実証を見る思いがするものです。
最後に明かそうと思いましたが、誰が創価学会員なの? 私? 笑

あのね、あえて言うけど何事も決め付けはよくないよ。
知らないのに憶測で物事を言う癖は直したほうがいい! 

次レスは貴方が私の質問に答えてからね。「?」マーク付いているのでわかりますよね?
はぁ、疲れた・・・

204常連:2006/08/15(火) 01:52:17
補足。

>「実際と小説の区別がつかない状態」で記されていると指摘しました。
切り文は辞めてしっかりと書きましょう。

「実際」だけではなくて「現実と空想」の区別も付かない状態と仰いましたよね?
都合の悪い所カットするのはイクナイよ!

私の事を何ら知りもせずに、最初に精神的におかしいかの様な表現をされたのは貴方でしょう?

自分の所作を棚に上げながら、「貴方子供じゃないんでしょう?」との私のレスに対して、
「非常識」、「礼儀を弁えろ」と言う。それってどうなんでしょうかね?
冷静に考えてみてくださいな。恐らくROMしている人たちも口には出さぬまでも思っている事でしょうな。

205犀角独歩:2006/08/15(火) 04:25:52

常連さん

> 精神病患者呼ばわりする書き込み

あなたは、常にこのように事実を枉げて、人を非難しますが、わたしがいつあなたを精神患者呼ばわりしましたか。何処にそう書き込みましたか。

> 先ずは己自身の態度を省みるべきでしょう。

これは、そのまま、あなたにお返ししましょう。

> 自分は良くって他人の反論を許せないと言うのでは子供の所作です。

まだ、このような無礼な言い方を繰り返しますか。礼儀をわきまえなさい。さらに言葉をすり替えています。
わたしは反論を許さないなどとしていません。
人を子ども呼ばわりする無礼に抗議しているのでしょう。

>…内容は確認してますってば・・汗

どうぞ。事実に基づくの議論です。

>弁明になってませんよ。あの戸田氏の不思議な体験を「悟達」と判断するかどうかの妥当性については、まだ何ら論じてないではないですか!貴方何を言ってるのですか?

何の弁明ですか。悟達というのは、悟りに達するということです。
仏陀とは、目覚めた人、悟った人という意味です。戸田さんが仏になっていないので、悟達はしていないと記しています。

> 自分の見識だけでそれを常識的判断と断ずる姿勢…

わたしの見識ではないでしょう。あなたが、これから内容を確認する創価学会の見解です。

> 戸田氏の文献は嫌と言う程提示してまっせ・・・汗

まったく、嘆息を禁じえません。「〜まっせ」などという言葉遣いは、真面目に議論をしようとする態度とは思えませんね。

あなたが挙げた文献は、悟達の証拠にはなっていないでしょう。

> 「事の真偽はわからない」と書いてるでしょうが!

わからない? それでは、自語相違でしょう。上に戸田さんの悟達の文献は嫌というほど、提示したのは、では、いったい、なんですか。事の真偽がわからない証拠を挙げたというわけですか。悟達の証拠を挙げたといったのではないでしょうか。

> せめてまともに反論できるよう

まともに答えています。それを、単にあなたが認めないだけでしょう。

> …適当な憶測、思い込みで判断するべきではない!そう言っているのでっせ。

そのとおりでしょう。わたしは、そのようなことをした覚えはありません。
戸田さんは、人間であり、仏になったわけではありません。それは適当な憶測ではないでしょう。悟達した、仏になったというのであれば、では、その証拠を挙げればよいだけです。
繰り返し記していますが、小説の記述ですよ。
小説として書かれたものを事実とは扱わないのは、当然のことでしょう。

> 小説の記述が、事実(戸田さんの悟達)だから、該当する証拠をいくつもあげてますが・・・。

繰り返します。悟達の証拠にはなっていません。
また、あなたが挙げた文献が悟達の証拠であるというのであれば「最初から私は「事の真偽はわからない」と書いてるでしょうが!」というあなた自身の言葉と矛盾するでしょう。

> 法華経の悟りって何でしょうか?

小説の記述と、どのような関係で質問されているわけでしょうか。。

> …戸田氏自身の言葉を要約

はて。事の真相はわからなかったのではないですか。
いつから、戸田さんは悟ったことになったのですか。

206犀角独歩:2006/08/15(火) 04:26:38

―205からつづく―

> 「身で法華経を読む境涯を体得。仏を見た。法を知った。化学と日蓮の発見した奥義とが一致した。」

そもそも、この要約が正確であると言えませんが、法華経の身読、見仏、知法は、個人が感じた体験・体得であって、別段、悟りとは言えないでしょう。「(法華経の)極意に達した」というならば、いざ、知らず、悟ったことにはなりません。

そもそも、化学(ばけがく)と日蓮の発見した奥義が一致したとは、何の話ですか?

> これは悟りにはならないのでしょうか?

ならないでしょう。

> これ以外に法華経を悟る場合、どんな事を覚知すればよろしいのですか?
そもそも、法華経を悟るとは何でしょうか。その言い回しの意味がわかりません。

第一、あなたは、戸田さんが悟ったかどうか、事の真偽はわかないのではなかったのですか。それが、何故、上述したことが「法華経を悟る」話になってしまうわけでしょうか。

> 証拠を挙げて論じてくださいね。

何の証拠を挙げるのですか。

> んんん?最初から悟りの有無の真偽については触れてません。

あなたは、戸田さんが悟った証拠を挙げたといい、悟ったとしているでしょう。ところが、悟りの真偽に触れていないともいう。どちらなんでしょうか。矛盾した二つの考えを交互に出しながら、発せられる質問は、意味がわかりません。

> 一貫していっているのは、論を否定するなら証拠を挙げて批判せよ!

論を否定する? 論を否定しているのではなく、小説の記述は小説であると言っているだけでしょう。また、その小説のモチーフになった戸田さんの獄中体験記でも悟達とは記していないわけです。

> 貴方の論には証拠が無い。挙げていただいた文では納得がいきません。

これはそのまま、小説『人間革命』の「獄中の悟達」の記述に当てはまることです。戸田さんが悟達した証拠がない、あなたが挙げた文章は、あなた自身が言うように「事の真相のわからない」ものです。だから、戸田さんは悟達など納得がいかないというのは、わたしの言い分です。
そもそも、わたしは「論」を論じているわけでもなく、小説の記述は小説であると言っているのみです。

> …私の提示した「意」において「悟達」の証拠を一蹴

あなたの言うことは、一々に矛盾しています。あなたは事の真相はわからないという立場でしょう。ところが、意においては、悟達の証拠を出した=戸田さんは悟達した証拠を出したとします。真相がわからないと、悟達した証拠は相互成立しないでしょう。矛盾しています。

> …「悟達などなかった」との明確な証拠を提示するべきでしょう?

悟達がない証拠? では、あなたは、わたしが悟達していない証拠を示せますか。やってみせてください。

> 意において、それが無かったと納得するものでもかまいません。

戸田さんは獄中で仏になったわけではありません。
日蓮本仏という見解すれば、「仏は日蓮大聖人お一人」ということでしょう。新たに悟りに達する存在は、この教義は認めないでしょう。
その日蓮本仏論者である戸田さんが「御本仏日蓮大聖人に牢獄で、法華経を身読させていただいた、不可思議な体験をさせていただい」という仏に感謝する一念を持つことがあったとして、自らが仏になったことを意味する「悟達」など思うわけもないでしょう。ただ、身読を通じて、法華経に記されていることがわかったという思い(これを極意というのであれば、まだ、わかります)があったであろうし、200万遍の唱題の結果なのか、極度の栄養失調等に起因する幻覚なのか、それこそ、それはわかりませんが、ともかく、戸田さんは不可思議な体験を感じたということはあったのであろうと思えます。しかし、戸田さん自体が、それを「悟達」と言ったわけではありません。つまり、戸田さんの悟達は、小説の創作の範囲であると判断できることです。これを決め付けであるとする、あなたが詰問は、意味がわかりません。

207犀角独歩:2006/08/15(火) 04:27:20

―206からつづく―

> 貴方の提示した資料は、文においても意に置いても、到底納得できる代物ではありませんよ!

何に対していっているのでしょうか。「特別学習会」テキストですか。
創価学会が聖教新聞紙上で発表し、さらに小冊子にまとめて、各地域で特別学習会を開催した公式見解のことですか。
むしろ、わたしが提示する資料は、あなたが挙げるような戸田さんの文献資料です。それが到底納得できないと言うことでしょうか。
わたしは、当時の、大石寺が質したことは、あまりにも当然のことであったと思います。納得がいくところです。また、「これから読む」資料を、読みもしないうちに、納得がいかないとしてしまうあなたの在り方は、如何なものでしょうか。

>> 戸田さんが、「わたしは悟達した」、また、池田さんが「戸田先生は悟達した」と記したところで、悟達したとは言えません。
> 少なくとも、戸田氏が悟達を得ていたと思っていたのであれば、『人間革命』の記述は貴方が言うように、池田氏の創作ではなくなってしまいますが、それでもいいのですか?

わたしは、そのような意味で、以上の文章を記したわけではありません。
戸田さんが悟達したなどと豪語したとすれば、それは、オウム真理教の麻原が、自身を「最終解脱者」と言った愚と同じだ、池田さんが戸田さんが悟ったと思い込んでいるとすれば、オウムの信者が麻原を最終解脱者と思う愚と同じだという意味です。そのような愚を戸田さんが犯したとは思えないという意味です。

> そもそも、「悟達」したか否かの判断は誰がするのですか?

誰がするのですか。
小説『人間革命』では、池田さんがそう判断したことになりますね。

> 釈尊は悟りを得たのですか?

先にも同様の質問をされ、答えました。
人間革命で言うような悟りは得ていないでしょう。

> 後世の弟子が悟りを得たと記したところで悟達したとは言えませんね。

そうですね。ですから、戸田さんの弟子=池田さんが「悟達」したと記したところで悟達したとはいえません。

>… 今度は戸田氏が異常というのですか。汗

ちゃんと読んでください。そんなことは、一つも記していませんよ。

> 断定して反対意見を聞かない貴殿にもそれはいえますなぁ。

これは、誤読したうえで、わたしを「異常」呼ばわりしています。

>> だれが講師などといっているようでは、その知識の度合いもわかろうというものです。
> あはははは 自分の質問には答えよと迫るくせに、他人の質問にはこたえないのですなぁ。

『特別学習会』テキストを手にした人であれば、当然、知っている内容だから、そう記したまでです。
こんなことまで記さなければならないのは面倒ですが、では、教えて差し上げましょう。昭和52年度路線、宗創第一次紛争に関わる重大事であり、「獄中の悟達」を論じるなら、知っていてしかるべき内容です。こんなことまで記さなければならないのでしょうか。まず、資料と歴史事実を確認したという共通認識が議論だと思いますが。

あなたは、特別学習会だから、講師がいたという前提で、質問を投げかけている、そもそも、これ自体が思い込みのわけです。
『特別学習会』とは、創価学会の一連の教学上の基本問題について、その修正と謝罪を聖教新聞紙上で公式発表し、さらにその内容を徹底するために、各地域で特別学習会を開催するための文献資料として、創価学会が頒布した小冊子の呼称です。ですから、全国各地で、座談会を開催する単位の拠点責任者が、この解説に当たったわけですから、講師といえる存在はなかったというのが答えです。つまり、質問が「特別学習会であれば、講師がいたはずだ」という誤認から発せられたものであるので、「知識の度合いがわかる」と記したのです。わかりますか。わたしは、当時、その創価学会の修正を、まず、『聖教新聞』紙上で読み、さらに会合に呼び出されたうえで、この『特別学習会』という小冊子を手渡され、解説され、さらに、その説明を自分の後輩にもしたという経緯があります。

208犀角独歩:2006/08/15(火) 04:27:54

―207からつづく―

>> 池田さんは第3代会長の辞任をせざるを得なかったという歴史すら知らないのでしょう。
> 何でそう決め付けたがるのですか?いつもいつも・・・。不思議でしょうがない。

「講師がいた」などという見当はずれな難癖をつけるようでは、池田さんの辞任にいたる場面に居合わせたわけではないとしか、かんじられないからですよ。
しかし、決め付けているのは、実際、あなたのほうでしょう。

>現代の創価学会の会員操作の実態の実証を見る思いがするものです。
最後に明かそうと思いましたが、誰が創価学会員なの? 私? 笑

では、言い換えましょう。同様の見解を感じます。

>「実際」だけではなくて「現実と空想」の区別も付かない状態と仰いましたよね?

書きました。創作である小説の事実証拠を求める態度に、そう記したわけです。

> 私の事を何ら知りもせず

はて、では、あなたは、わたしのことを知ったうえで、記しているのですか。どこかでお会いしたことがある方ですか。

> 最初に精神的におかしいかの様な表現をされたのは貴方でしょう?

小説『人間革命』は小説でしょう。その内容が創作であるというのであれば、事実証拠を出せというおかしなことを言い出したので、小説と現実が区別されていないと指摘せざるを得なかったという経緯です。

> …冷静に考えてみてください

どうぞ、まず、あなたがそうなさってください。
悟達したかどうか「事の真相はわからない」はずのあたなは、戸田さんが自ら悟達した証拠を提示したと言いますが、それが本当に悟達の証拠になっていますか。戸田さんは自身の悟達など口にしていません。しかし、『人間革命』という小説にはそれが載ります。どの段階で「悟達」が言われ始めたかは自明なことであるので、故に「教学上の基本問題」という公式発表を創価学会がせざるを得なかった、論じるというのであれば、資料に基づき、時系列を追い、冷静に判断していく必要があります。まして、学術研究論文のように事実証拠をいちいちに挙げながら論証する文章とは違う、小説の記述を「小説である」と記したことに対して、批判するのであれば、証拠を挙げて論じろということが、あなたがいうような冷静に考えることかどうか、まさに冷静になって考えてみることです。

209通りすがり:2006/08/15(火) 14:12:43
どっちもどっち。犀角独歩さんの過去の言を借りれば「目糞鼻糞を笑う」の部類ですか。ただ言葉使いが悪いですよね、常連さん。別にちゃらけた感じで記する必要はないのでは?まあそこまでまともに書き込むほどの内容ではない、と言う意図があるなら別なのですが。学会の方?かどうかわかりませんが、学会の方ならば、まともな反論だと思いますよ。

210通りすがり:2006/08/15(火) 17:59:19
ただ不思議なのが戸田さんが悟達したとかしないとか、何を目くじら立てるのか。別段、してようがしてまいが本人にしかわからない境地の問題に他人が、しかも故人に全く関係ない所で・・。世間一般って言うのは、そういう所を失笑するものです。

211独学徒:2006/08/16(水) 19:16:48

再び横レスにて失礼致します。

戸田師の「悟達」といわれるものは、私も創作ではないかと思います。
確実な資料は所持しておりませんが、戸田師は牧口師とともに、国柱会系の勉強会に出席したいたという話を聞きます。
田中智学師の子息の一人、里見岸雄師は、昭和4年11月5日発行の著作「日蓮は甦る」の中で、「かくして、本仏ということは、これを機械的自然観に約せば一切の生命体系であり、これを法則的理念に約せば生命現象の本質的法則の表現としての妙法蓮華経であり、これを目的的人格観に約せば吾等の意識的把握とそれの化他的実践であり、そしてこれを道徳的宗教観に約する時は、釈迦牟尼仏であり又日蓮聖人であるいう事になる。」と述べられており、戦後の創価学会教学とよく似ています。
私は戸田師の思想は、国立戒壇論といい、仏=生命との概念といい、国柱会系統の思想に多分に影響を受けていると考えます。
獄中での「悟達」といわれるものも、こうした国柱会系の思想に疎かった、当時の庶民層には新鮮で、かつ神秘的に受け止めやすかったのではないかと思います。

つまり戸田師は「悟達」したのではなく、国柱会系の思想をどこかで摂取し、戦後国柱会系の思想に疎かった庶民に対して、獄中で自覚に至ったものという内容で語っていったのではないか、それが学会では、「悟達」として現在に受け継がれたのではないかと愚考するものです。

212犀角独歩:2006/08/16(水) 19:31:51

210に通りすがりさんが不思議に思うと言うことは、それは創価学会の過去の経緯を知らないからでしょう。世間一般は、そんな創価学会に失笑してきたのでしょう。

また、209にどっちもどっちなどと記しておられますが、創価学会が創作固執する戸田さんの「獄中の悟達」を考え直したよい機会であったと、わたしは思っています。

創価学会のなかにおいて、小説に過ぎない『人間革命』が、いつしか現実として扱われていくというメカニズムは、実に興味深い側面があります。また、日蓮を信奉するはずの創価学会が、その原点を、小説が現実視されるようになった「獄中の悟達」に置くことは、殊日蓮門下一般にとって異色を放っています。すなわち、日蓮を信奉する集団と個人において、原点といわれるものは、建長5年4月28日なのであって、それ以外にはあり得ないからです。

昨年は、小樽問答50周年ということで、日蓮宗、創価学会、ともにこの点が話題になりました。ここで、日蓮宗、また、創価学会以外での視点は、小樽問答という一種の集団暴力が「学会勝利の歴史」であると作り替えられていったメカニズムに注目しました。
わたし自身、小樽問答について、論及をしましたが、ここで創価学会という集団が事実を、如何に自分たちに都合のよい形に変造していくのかという体質に改めて驚かされたのでした。

この典型が、実は小説『人間革命』であるわけです。しかも、まことに都合よく創作された小説は、小説であるにも拘わらず、いつしか、会内において、恰も現実のように取り扱われ、会と会員にとっては、現実そのものとなっていったメカニズムがそこに見られます。いわば、その典型が、「獄中の悟達」であったのでしょう。

また、この「獄中の悟達」という記述は、日蓮本仏下では、由々しき大問題に発展していったのが、第一次宗創紛争でした。その結果、創価学会は、大石寺に対して、教学の基本問題として、「悟達」を過去の発言を公式に修正謝罪することになりました。そして、創価学会第3代会長、法華講総講頭を、池田さんは自辞任させられるハメにまで発展していったわけです。

その後、石山と学会は和解しますが、やはり、再燃し、終に分裂するに至ったのが第2次紛争です。ここで重要な点は、先にも記してきたとおり、池田さんを辞任にまで追い込んだ「獄中の悟達」は、公式に「獄中の自覚と決意」と修正謝罪されたのにも拘わらず、分離独立(石山からすれば破門)後、いったんは公式修正謝罪した教学上の諸問題、殊に「獄中の悟達」を復活させていったという点です。

以上のような点からすれば、「獄中の悟達」という一点に、富士門流信徒が、大いに目くじらを立てることは当然のことです。

なお、「目くそ鼻くそを笑う」という格言をたしかにわたしは過去に使用しましたが、それは個人を指したものではありません。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/1213

しかし、あなたが、もし常連さんとわたしを指してのことであれば、当掲示板【禁止事項】の

「2「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止します」

に該当すると判断します。故に、この投稿の撤回と謝罪を求めます。

214犀角独歩:2006/08/16(水) 19:40:32

独学徒さん、こんばんは。
ちょうど、投稿したところで、ご投稿を拝読しました。
たいへんに、参考になりました。有り難うございます。

今回の件で、わたしは改めて、この「悟達」という言葉を調べてみたのです。
そこで、今さらながら驚いたことは、「悟達」という単語は、真蹟遺文、写本遺文、疑偽書を引っくるめて、ただの一度もその使用がないことでした。富士宗学要集でも載りません。さらに天台電子聖典を検索しましたが、このなかでも、この使用はありません。つまり、日蓮天台法華圏では使用されない語でした。ただし、電子仏典協会で見ると『法華伝記』に「故其譯經以悟達為先。得佛遺記之高位在三賢。」などといった記述は見られました。

いったい、『人間革命』の作者は悟達という言葉を引っ張ってきたのか。近代で「悟達」という言葉を聞けば、直ちに想起されるのは『マルクスの悟達』でしょうか。この初出は、昭和6年『文藝春秋』でした。

戸田さんが生命という言葉で日蓮教学を解説したことは、田中智学の影響であるとともに非常に奇異なことでしたが、池田さんが、この悟達という言葉をもって、物語を創作していったことも、この語彙の使用が、この門下にとって、極めて特異なことであった点を、申し添えたいと思います。

215独学徒:2006/08/16(水) 21:07:06

犀角独歩さん、今晩は。

日蓮正宗関連HPリンク集の中に、創価学会の会則がありますが、この会則の前文でも「悟達」という用語が使われていますので、現在では「悟達」は学会公式のものであることがわかります。
まさにこの「悟達」という表現を使うのに、最も邪魔な存在が宗門であったのだと思います。

なんだか「そういうことだったのか」との思いがわいてきます。

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_29.htm

216顕正居士:2006/08/17(木) 03:54:56
戸田城聖の創価学会再建の活動の源に獄中の霊感があったことは彼の文章からは明らかです。
「一月十日ニ非常ナ霊感ニ打タレ、ソレカラ非常ニ丈夫ニナリ肥リ、暖カクナリ、心身ノ『タンレン』
ニナリマシタ。立派ナ身体ト心トヲ持ッテ帰リマス」(昭和十九年二月八日・夫人宛書簡)
この霊感のことは妙悟空・『人間革命』にも描かれています。
したがって故篠原善太郎などによる創作ではありません。ただし「非常ナ霊感」の範囲であり、
神秘体験に分類されるほどの特異なものではなかったのでしょう。

http://www.heianbooks.jp/zenbun/gyouan/019.html

217独学徒:2006/08/17(木) 09:55:45

顕正居士さん、こんにちは。

>「一月十日ニ非常ナ霊感ニ打タレ、ソレカラ非常ニ丈夫ニナリ肥リ、暖カクナリ、心身ノ『タンレン』
ニナリマシタ。立派ナ身体ト心トヲ持ッテ帰リマス」(昭和十九年二月八日・夫人宛書簡)

この獄中書簡は、写真公開かなにかされているのでしょうか?
少なくとも「戸田城聖」という豪華版の写真集には、獄中書簡が2通写真掲載されていますが、どちらにもそのような記述は見えません。
この写真集が出た当時が、第1次宗創紛争の渦中だったからでしょうか?

218犀角独歩:2006/08/17(木) 10:27:17

独学徒さん

横レス失礼いたします。
顕正居士さんからご回答があるやも知れませんが、ご引用は、戸田城聖著『若き日の手記・獄中記』(青娥書房/昭和45年11月15日第1刷)に…わたしの手許にあるのは昭和46年1月13日第5刷ですが…、以下のようにしっかりと載っています。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/toda_19440208.html

ちなみに、この書の冒頭には『戸田城聖先生のこと』として、池田さんの名で文が載ります。すなわち、池田創価学会としての公式文書としてみてよいものでしょうね。

同書は、島田裕巳師との対話を通じて、三学無縁さんが貸与くださった資料でした。
ブログでも紹介しました。その頃、まだ、わたしは「悟達」の可否について、決しきれていませんでした。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/18083354.html

顕正居士さんの戸田さんの「霊感」は神秘体験とも言えない程度というご見解は参考になりました。

219犀角独歩:2006/08/17(木) 10:31:13

補足ながら、独学徒さん

同書、もしコピーでよろしければ、差し上げます。
必要でしたら、メールで送付先をご連絡ください。
ご自宅の住所ではなく、郵便局留でご指定で差し支えありません。

220サイサイ:2006/08/17(木) 18:45:25
すいません。口を挟みます。
常連さんの書き込み、創価学会員の”沖浦”という方ではないでしょうか?
いくら情報があろうとも、彼なら認めません。

証拠を求めれば、必ず、証拠を。
質問をすれば、質問を。

日蓮正宗系の法華講の掲示板等で、同じような書き込みをされているので・・・
一度、御覧になって下さい。

http://6801.teacup.com/kane/bbs?OF=0&BD=2&CH=5

221常連:2006/08/18(金) 12:12:25
遅レスで失礼します。話題が拡大してしまって大変なので要点を絞って説明・反論致します。

①まずは頂いたレスに対する回答から

>わたしがいつあなたを精神患者呼ばわりしましたか。

「常連さんは、現実と空想、実際と小説の区別がつかない状態にあるとお見受けします。」

●上記の書き込み箇所です。
 精神病と対比される「神経症」の特徴として『現実認識能力(現実吟味能力)が障害されておらず、
 現実と空想の混乱を起こすことがない』というものがあります。
 これは病態水準の深刻度を測るために重要な特徴ですが、
 「現実と空想の区別がつかない」ものは精神病とみなされます。

 現実と空想の区別がつく状態=正常、若しくは神経症となり、
 現実と空想の区別がつかない状態=精神病となります。

222常連:2006/08/18(金) 12:13:10
②話題が拡散してるので交通整理します。

あなたの論調ですが、最初は所詮小説の話であり、内容に異を唱えてるわけでは無いとおっしゃいました。

>何に異を唱えているわけでしょうか。
>小説の記述は小説であり、たかだか小説であると言っているわけです。

ところが最近のご主張では「悟達」など無かったとおっしゃる。(断定)

>戸田さんが仏になっていないので、悟達はしていない

その根拠として「特別学習会」テキストをご提示頂きました。
ここまではいいですね?

次に私の主張を述べます。

まず大事なのは「悟達」の有無について「特別学習会」テキストではどの様に記載されているかです。
あなたの主張の通り、「悟達は無かった」との証拠とはなりません。

『テキストより引用』
>戸田第二代会長の悟達を「従果向因」と表現したのは、法華経から大聖人の仏法に入ったのではなく、
>日蓮大聖人の御書にのっとり大御本尊への唱題の行を持続されて、
>法華経を読みきられたとの意であります。

「悟達」はあった物として記してあります。
更に、独歩さんが引用された箇所を記載します。

> 戸田第二代会長の、いわゆる“獄中の悟達”については、
>どこまでも大聖人の仏法を古今の教えのなかで最高のものであるということを悟り、
>大聖人の南無妙法蓮華経を広宣流布していくべき使命の自覚に立たれたということであります。
>すなわち南無妙法蓮華経の大慈大悲に包まれた境涯に感涙したという意味でありました。
>それが日蓮大聖人の御内証と同じであるとか、
>大聖人の仏法とは違う仏法を創造したと受けとめてはならないことです。

悟った内容はともかくとして、文中にも「悟り」と言うことは認められてますね。

ここで戸田師の獄中書簡と対比してみましょう。

「身『法華経を読む』という境涯を体験し、仏教典の深奥をさぐり遂に仏を見、
法を知り、現代科学と日蓮聖者の発見せる法の奥義とが相一致し、
日本を救い、東洋を救う一代秘策を体得いたしました。」

どう読んでも相反するようには読み取れませんし、経を身読し、経典の深奥を探って仏を見、
法自体を知り、科学と法の奥義が一致して国を救う秘策を体得したと言っている訳ですから、
これは「悟達」と言う表現・解釈は妥当かと思われます。

ただ、これを単なる体験と言われるのであれば、それは解釈の違いですから問題はありません。
では、正しい「悟達」の定義とは何なんでしょう?これでは物足りない何かがあるんでしょうか?
まあ、次にいきます。

223常連:2006/08/18(金) 12:13:37
>学会の原点が戸田第二代会長の悟達にあるということを、さまざまに表現しました。
>たとえば、そこから「生命の暖流が流れはじめた」とか「仏法を現代に蘇生させた」とかいいましたが、
>いずれも学会の広布弘教の起点を意味したものであります。
>この意味をより正確にいえば、戸田第二代会長の獄中の自覚と決意が戦後の折伏活動の起点となったということです。

ここでも「悟達」の有無を否定してはいません。「正確にいえば(略)自覚」と記載されてますが、
「自覚」には悟りを開く意も含まれてます。

『大辞泉』
じ‐かく【自覚】
1 自分の置かれている位置・状態、また、自分の価値・能力などをはっきり知ること。
 「―が足りない」「体力の衰えを―する」
2 仏語。自ら迷いを断って悟りを開くこと。覚他(かくた)。

>戸田第二代会長の悟達の意味を「己心の久遠の仏としての生命を覚知した」と解釈したことについては、
>これは妙法に対する題目の力によって、我が胸中に力強く仏界が湧現することを表現しようとしたものでありますが、
>十分その意を尽くしていないので、そうした言葉は使わないようにします。

ここでも「悟達」の有無を否定した意にとれません。

私が独歩さんの提示した証拠で納得いかない理由はお分かりになりましたか?



③もう一度私の主張をまとめます。

私は、実際に「悟達」があったかどうかはわかりません。
ただし、文献(小説)にはそう記載されています。
また、戸田師の分にも内容においては「悟達」と表現しても支障のない文章が存在してます。

私にとって、「悟達」があったかなかったかなどはどうでもいいのです。

ただし、公共の掲示板と言う性質上、証拠もないのに断定口調で判断すべきではないと申しています。
何も証拠がないにもかかわらず一方的に断定するのは愚の骨頂であると申しております。

ちなみに独歩さんの唯一の根拠としている資料ですが、悟達はなかったと言う明確な記載はありません。
それならば「悟達はなかったのではないか?」と言う表現にすべきではないでしょうか。
私が指摘してるのは徹頭徹尾「表現」です!

>創価学会員の”沖浦”という方ではないでしょうか?
これは独歩さんへのレスではありません。 沖浦って誰でっか?

224常連:2006/08/18(金) 16:33:35
×)戸田師の分にも
○)戸田氏の文にも

訂正します。

225犀角独歩:2006/08/18(金) 22:56:21

常連さん

応答する前に一つ、質問させてください。

(1)「断定はよくない」というわけですが、では、「悟達した」という断定は、よいのでしょうか。

(2) 悟達があったと思われるではなく、戸田さんが「悟達した」とする文献の提示はどうなさいましたか。

(3) 「「悟達はなかったのではないか?」と言う表現にすべきではないでしょうか」ということですが、あなたは学会員ではないそうですが、その非学会員であるあなたからして、その論法からすると、「獄中の悟達」というより、「悟達はあったのはないか?」とした表現のほうがよいことになりますね。それにもかかわらず、創価学会は悟達はあったと断定しています。この決めつけ、断定を、あなたは批判しますか。

(4) 「文献(小説)にはそう記載されています」ということですが、小説に記されていることは事実の証拠とするのは何故でしょうか。

上記、質問とは別事ですが、わたしは、あなたを精神病呼ばわりする意図はまったくありません。「空想と現実の区別がつかない」状態は、何も精神病でなくても、社会一般でもよくあったことでしょう。たとえば、中世では、太陽は地球の周りを回っていると信じられていました。「神様が人間を中心に万物を創造したから、地球(平らな板のような大地とも考えられていた)が中心である」と空想されていましたが、それは現実ではありませんでした。このように考えている人々はしかし、別段、精神障害であったわけではありません。
精神病の定義は、一般的には以下のようなものがあります。わたしは、そのような通年に従って考えますので、あなたのような論法で精神病を定義したわけではありません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85

正確に回答するために必要ですので、では、まず、上記4つの質問にお答えください。

226犀角独歩:2006/08/18(金) 22:57:52

【225の訂正】

誤)通年
正)通念

227無徳:2006/08/19(土) 00:24:11
常連さん横レス失礼します。

 以前はこの掲示板でいろいろな論議に参加させて頂いた者です。わけありで
しばらく遠ざかっていましたが、常連さんのご意見に気になる点がありました
ので、久しぶりに書き込ませていただきます。

>戸田師の分にも内容においては「悟達」と表現しても支障のない文章が存在
 してます。

と常連さんは述べられておりますが、戸田城聖氏のいわゆる「獄中の悟達」が、

<仏とは、生命の表現なのだ! 外にあるものではなく、自分の命にあるもの
だ! いや、外にもある! それは宇宙生命の一実体なんだ!>

とされていますが、戸田氏のこの文章が常連さんにとって<内容においては
「悟達」と表現しても支障のない文章>とされることには大きな疑問を感じ
ます。

 なぜかならば、悟達と言われる語彙にはいろいろな解釈があるとされますが、
仏法上では仏の悟りの内実と同位に達することを意味する語彙ではないでしょ
うか、その仏の悟りの内実とは「縁起」と「空」さらには「諸行無常」「諸法
無我」「涅槃寂静」の三法印に「一切皆苦」を加えた四法印であることに異論
のある方はあまりおられないと思われます。
 
 「縁起」と「空」は現代思想的に言えば、あらゆる存在が関係的であり無実
体であると解されています。インド応誕の釈尊もアートマンやブラフマンと言
った、バラモン的な実体存在理解を徹底的に批判否定されて悟りに到達したと
されていることは常連さんもよくご存知のことと推察いたします。

 であるならば、戸田氏の<仏とは宇宙生命の一実体なのだ>と言う自覚(悟
達)は、仏法的な理解に反したものといわざるを得ません。つまり釈尊の悟達
とは似て非なるものと思われます。

 常連さんにとって戸田氏の言われる<仏とは宇宙生命の一実体なのだ>とは
如何なる事と理解されますでしょうか? お答え願えれば幸いです。

228犀角独歩:2006/08/19(土) 07:09:59

【225の訂正】

誤)「悟達はあったのはないか?」とした表現のほうがよいことになりますね
正)「悟達はあったのではないか?」とした表現のほうがよいことになりますね

229ひきこもり:2006/08/19(土) 15:20:51
>>227
問題は私達が生まれる前はなんであったか、死んだあとはどうなるのかと言う点です。

無徳さんはかなり前から、独歩さんと論争されていますが、信心の自分の体験が無ければ
駄目です。私はあります!ですから言っているのです。生命論は体験無くしては分からないのです。


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